おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

短歌 日の本の国

2011年06月25日 | 歌稿


日の本の国


01 焦れおり燭光いまだ見えなくて原発の闇日の本乱す

02 夜が過ぎ朝の光はさし来ても晴らせぬ闇はこの国の上

03 無期の闇知りつつ魑魅や魍魎は政治ゲームを飽まず続けて

04 受け継いで受け継がれした道の上不浄の負債次代に渡す
 
05 我が生を受けし伊方も原発の施設は邑を支配してあり

06 一瞬のひかりのために人は生き与えて受けて一期のうちに

07 衣類出し広げて畳みまた収め婦人はなすか一生仕事

08 痴呆症進めど母は思うのか箪笥の番は我が事として

09 時脚は年経るごとに奔り行き畳まれていく年波のうち

10 一葉に人の命は納まれり読経の内に風は過ぎ行く


ついでにツユクサ画像を出します。






歌に見る桜のレクイエム

2011年06月21日 | その他
歌にみる桜のレクイエム

 今年もまた桜の季節になった。
 年々歳々花やぎ似たりで、いつの年も四月になると、桜の花は満開になり、
春の初めの華になる。ただ立ち枯れているとしか見えず、寒空の中で己を
厳しく尖らせている桜の樹は、寒気の和らぎに応えてぼつぼつと固い蕾を
付ける。それは日増しに柔らかさを加えて、頃合を見計らうように次から
次へと花ひらき、ついには一本の樹すべてが花になる。

 当然といえば当然すぎる花の生理であり、自然の摂理なのだが、蕾が現れて
から日を経ずして満開になるまでのプロセスは神秘的としか言えないものだ。
それは、まごうことなく生命体の荘厳な営みの持つ神秘性であり、そこに
すべての生命体が普遍に持つ尊厳がある。ことに桜は、今を盛りと咲き乱れるその
態様が待望の春を象徴しており、それだけで秀麗な一編の風物詩である。
しかも散り始めると一斉に散華する悲哀、間を置かずに萌え出づる若々しい新緑・・・
この一連の桜花の営みを人々は古来より愛でてきて、さまざまな歌を遺している。

 花見という言葉が生まれ、「花」といえば桜か梅の花を指すようになったのは
いつの頃からなのだろう。
 桜は梅や桃と違って日本で自生していた植物であるが、最も古い和歌集である
万葉集には、他の花々にもまして桜の花が多く詠まれているわけではない。
現在のように桜の種類が多くはなく、しかも鑑賞用の花として定着していなかった
のである。
そういう理由があるにしても、花それ自体に比重のある歌は万葉集にはない。
このことは他のどの歌集についてもいえることだが、ことに万葉集は人生の機微を
自由にそして奔放に詠うための効果的な比喩として、花が用いられている場合が多い。
次の二つの歌にも、それは如実にみてとれる。

 たゆら木の 山の尾のへの さくら花
      咲かむ春べは 君をしのばむ  (播磨娘子)

 この花の 一弁のうちに 百くさの
      言ぞこもれる おほろかにすな  (藤原弘嗣)

 いずれにしても、作者の抑えがたい心情の発露を表明するための歌であって、
花自体は作品主体ではない。
このように、万葉成立時代は桜という固有の花も後の世の歌に見るほどの意味を
持たない。
 梅の花と並んで、桜が春に咲く花として広く親しまれるようになったのは
平安時代になってからである。藤原氏の私邸や神泉苑では観桜の宴が続き、歌人は
好んで桜の歌を詠んだ。
しかし嵯峨帝が漢詩文をよくしたこともあって、和歌は表面的には衰亡期をたどる。
最初の勅撰和歌集である古今和歌集の撰進は九百五年になる。実に万葉集の編纂から
百年以上も後の時代のことであり、その発想、表現において万葉集とは大きな
隔たりを見せている。
 古今では満開の桜の花のあでやかさ、瞬時に散り敷くわびしさを日本民族の
一般的な心象として詠み、そこに堪えなき美意識を表徴している。

 久方の 光のぞけき 春の日に
    静心なく 花の散るらむ     (紀 友則)

 春霞 たなびく山の 桜花
   うつろはむとや 色かはりゆく  (よみ人しらず)

 後鳥羽院が中心になって編纂した新古今和歌集は、古今よりほぼ三百年を経ての
ものである。この新古今において、万葉以来の和歌の伝統は一挙に頂点に達した
感がある。それほど芸術的美意識の抽象においても、言語表現における様式においても、
登りつめた豪華さを備えている。以来、新古今を超える和歌集はない。
 新古今には、漂泊の叙情詩人西行の歌が最も多く収録されている。その天賦の才質に
おいて万葉の大伴家持や柿本人麻呂にも匹敵するこの叙情の巨星は、漂泊の境涯の
なかでことに桜の歌を好んで詠んでいる。

 あくがるる こころはさても 山桜
    散りなむのちや 身にかへるべき

 吉野山 桜の枝に 雪散りて
    花おそげなる 年にもあるかな

 新古今よりずっと時代が下がって、封建制の強い形態の社会に移行するにつれて、
伝統的な和歌文芸は事実上、消滅する。歌集としては良寛の「蓮の露」、木下
長嘯子の「挙白集」、加藤千陰の「うけらが花」などがあるが、新古今にみる
和歌文芸運動の充実はすでに望むべきもない。
変わって一時的には連歌がはやり、そして一茶、芭蕉、蕪村などによる俳諧という、
和歌とは似て非なる歌がはやる。

 しきしまの 大和心を 人問わば
     朝日ににおう 山桜花     (本居宣長)

 この歌は江戸期の国学の大家である本居宣長の歌である。山桜花を大和心を
象徴するために利用しょうという強い作為性によって詠まれている。自身の国家思想を
代弁させようという意図による歌である。この歌が端的に示すように、時代により、
あるいは人により、新古今までの和歌の伝統は無視される。そして宗教思想やある
特定の観念を代弁するための引き合いとしても詠まれるようにもなる。美しいもの、
はかないものが常に持つ宿命といえなくもないが、そういう形で詠まれると歌も
桜もとたんに生気を失ったものになる。

たとえば「花は桜木、人は武士」ということばは、桜花のすばらしさ、あるいは
いさぎよさに武士を相対化させたものであり、その基本理念として、「葉隠」のいう
(武士道というは死ぬことと見つけたり)に通底していると解釈できるのだが、
しかし桜が宣長の歌のように観念的な精神主義を託されて詠まれると、むしろ
いやらしいばかりである。
そこには観念化された桜しかなく、桜という固有の生命体の持つ根源的な意味あいや
自然の営みの神秘さ、それらに触れての詠み手の心の動きが少しも浮かび上がって
こないのである。時空を超えて読者に衝迫する、作者のみずみずしい感性が感受
できないのである。

 すべての芸術は時代の波にさらされる。時代の特質による洗礼を受けないものは
ない。芸術は時代性によって陶冶され、その方法や内実の変容を余儀なくされる。
それはこれまでみてきたように和歌にしたところで例外ではない。しかし時代が
芸術におけるどのような変革を要請したとしても、桜花が本来的に持つ華やぎは
年々歳々同質のものである。
桜は変わることなく四月になれば花を付け、そして人々が桜花の見せる「華」の下で、
一春を憩うのもまた同じことである。

 さくら さくら 春の華
  絢爛と咲き誇る春の精・・・。         (九十・六)




勝持寺 02

2011年06月21日 | その他
【勝持寺 02 花の寺幻想】

 桜の盛りの一日に勝持寺を訪ねた。
 勝持寺は京都市西京区大原野にあって、正しくは「小塩山大原院勝持寺」といい、
またの名を「花の寺」ともいう。
同寺が花の寺として洛中に喧伝されたのは、貞治年間に佐々木道誉が観桜の宴を
催してからであるらしい。この、ばさら大名観桜のくだりは太平記に詳しい。
それより以前、源平に代表される武家集団が勢力を強めはじめた平安末期に
『北面の武士、佐藤義清は当寺で出家、剃髪して名を西行と改めた。
西行は一株の桜を植えて愛でていたので、その桜を人々は西行桜といい、
勝持寺を花の寺と呼ぶようになったという。』
         (『』内は勝持寺発行の栞より引用)

 しかし今から八百年も昔のことであり、信用するに足る第一級の資料も残存して
いないらしく、西行は勝持寺で落飾したかどうか、その真相は不明のままで
あるらしい。また、西行手植えの桜は一株だったのか
(西行桜、堂前の左右にあり。「都名所図会」)
と古書にみえる。これもすでに真偽はつまびらかではない。

 ともあれ現在もやはり花の寺で、境内には三百本以上にも及ぶという山桜があり、
花の盛りの頃には全山が花また花のすばらしい景観を見せる。堂前には
「西行桜」の呼称を受け継いだ若い枝垂れ桜もある。
正徳元年(1711)に出版された「山州名跡志」巻の十に
(西行桜、ただし、この樹今は亡し)
とあるので、現在の西行桜は呼称のみを受け継いだ何代目かの西行桜
なのだろう。公式には三代目とのことであるが・・・。

 西行の個人和歌集である「山家集」や八番目の勅撰の新古今和歌集に収録されて
いる歌を読むと、西行は生得的といってよい卓越した感性の持ち主であることが
実感できる。
その歌風はいたずらに技巧に走る事はなく、むしろ芸術的虚構性などを排する位置での、
感情の自然な朗詠である。対象の具有する特殊な態様に触れて、西行その人自身に
生起する情動を極めて直裁に披瀝する傾向の歌風である。次の二つの歌にも、それが
如実に見てとれる。

身をわけて 見ぬこずゑなく つくさばや
  よろずの山の 花の盛りを

ねがはくは 花の下にて 春死なん
     そのきさらぎの 望月のころ

ーそのきさらぎの望月のころーという語句については、釈迦に関する歌としての
解説が必要なのだが、しかし何の知識がなくともスムーズに読める歌である。

 藤原定家は、いみじくも自身を「歌作り」と卑下し、西行に「歌詠み」の尊称を与えたと
いうが、先述の二つの歌だけでもそれは充分にうなずける事である。三十一文字の作品の中に
西行固有の叙情が濃密な展開をみせており、しかも言葉の流れに無駄がない。よどみがない。
乱れがない。

 強くもなく弱くもない春のやわらかな陽射しを浴びて、私は勝持寺の満開の桜花の
ただなかにいた。今を盛りと咲ききっている桜花は、それ自体が確かな生命体として、
むせかえりそうなほどに匂いたっている。あたり一面の世界に、晴れやかで、のどかで、
そして少しばかり淫蕩な気配がみなぎっていて、時間は止まっているようにさえ感じる。
あるいは、爛漫の桜の樹の根方には、夥しい時間の堆積する茫洋とした海が、
ひそかに広がっているのかもしれない。いや、この桜のかもし出す世界その物が、
一つの海であるのかもしれない。もしもそのように知覚するなら、西行に比肩しうる
才質を持たない凡庸な私は、この一春に、桜の世界に酔ったままにひとり静かにこの海に
沈みこんでしまいたいと思う。何ひとつ残すこともせずに・・・・。

 「ああ、桜の樹の下には屍体が埋まっている!『梶井基次郎「桜の樹の下には」』
そのように思わせるほどに、桜の絢爛とした妖しさは人を狂わせる。この狂おしい
ひとときに、

 ほとけには 桜の花を たてまつれ
   我が後の世を 人とぶらはば

私もまた、この歌を詠んだ西行の心境に著しく親しいものを覚えている。

 若年の出家・遁世、歌を詠みながらの漂泊が西行にとっての必然であり、それが当為の
現象であったのなら、それは彼をして時間そのものへの相対、あるいは反逆ではなかったのか?。
自身の肉体さえをも貫いて流れて行く時間の上を漂泊する旅人として、明晰な
意識を持ちながら、同時に狂おしい海の深みにいたのだろう。
 私も四十年という時間に犯されたままに、私だけの海で漂ってはいるのだが、
しかし、ああ・・・。           
               「八十八年四月」

(もう大昔に書いたものです。2011.06.21)
           


勝持寺 (01)

2011年06月21日 | その他
【勝持寺 01】

現在の京都市西京区にあるお寺です。山家集には一度も出てこない
お寺名ですが、西行が剃髪出家したという伝承がありますので、
ここで取り上げます。

勝持寺の創建は詳らかではなく役の小角が680年に天武天皇の勅で
建立したとも言い、また791年に最澄が桓武天皇の勅で草創の事業を
したとも言われています。
足利尊氏の庇護を受けて一時は堂塔49宇を数えたとのことですが、
応仁の乱で焼亡して衰退しました。現在の堂宇は乱後のものです。
京都新聞社1982年発行「京の西山」では境内に300本に及ぶ桜の木が
あると書かれていますが、最近発行の同寺の栞では「100本の桜」と
あります。以前よりも桜の木はかなり少なくなったような印象を
受けます。
現在は桜よりも紅葉がとても素晴らしいです。東福寺などよりは
素晴らしい紅葉だと思いますが、いかんせん境内は東福寺ほどには
広くは無く、紅葉する木も100本ほどのようです。

重文の薬師如来、金剛力士像がありますし、応仁の乱でも被災を
免れた仁王門が静かな、しかし威厳のあるたたずまいを見せます。
鎌倉時代の湛康・慶秀作の仁王像は現在も見ることができます。
927年作という小野道風筆の勅額もありますし、室町時代作の若い
西行像もあります。
裏山には西行を慕ったという歌人の木下長蕭子が草庵を結んでいて、
そこで一生を終えたとも言われています。

西行の剃髪落飾地については確かな資料がなくて推定するしかあり
ません。勝持寺がその地とみなされていますが、鳥羽にあった西行寺
も同様に出家地という伝承があります。他にも二か所は出家地の
可能性がありますから、勝持寺での落飾出家説は確定したものでは
なくて、一つの伝承にすぎません。
謡曲の「小塩」はもちろんのこと、「西行桜」にしてもその舞台を
勝持寺と特定するものではないはずです。特定するだけの材料は
ないものと思います。
室町時代初期の1365年、バサラ大名、佐々木道誉が観桜の饗宴など
もやっていて、京師に勝持寺のことは知れ渡っていましたから、
室町時代に作られた「西行桜」の舞台は勝持寺であったとしても
納得できます。

仁王門の前に京都市の立てた説明の立札があって、そこには本堂前
の西行桜は三代目とあります。それは本当かな?という疑念が私
にはあります。

「新訂都名所図会 2」1786年発行(西行桜、堂前の左右にあり。)
「山州名跡志 巻10」1771年発行(西行桜、ただし、この樹今は亡し)
高浜虚子の句 「地にとどく 西行桜 したしけれ」

高浜虚子(1874~1959)の句は果たして勝持寺の西行桜を詠ったものか
どうか私には確認できませんが、もし勝持寺の西行桜であったとして
もそれは現在の西行桜ではなくて、先代の西行桜なのでしょう。
虚子最晩年のことであれば、西行桜の樹高は1メートル前後の若木の
はずですから、句に詠われた桜でないことは確実です。現在の桜の
枝ぶりは「地に届く」というものではありません。
私が今の西行桜を初めて見たのは40年ほど前、その頃の西行桜は
人の背丈とあまり変わりなかったという記憶があります。
そういうことを考え合わせると、現在の西行桜は呼称を受け継いだ
5代目か6代目の西行桜なのでしょう。いずれにしても今となっては
何代目であるのか確かなことの検証は不可能でしょう。

  (付記)

今回触れた勝持寺は私の18歳頃からのなじみのお寺でした。
18歳当時の私は西行のことも何も知らなかったとも言えますが、
長く現、長岡京市に住んでいたので頻繁に行きました。
勝持寺は現在の拙宅から5キロほどもない距離ということもあって、
昨今は年間に最低でも二度は行っています。
私の記憶に間違いなければ40年ほど前の西行桜は私の背丈と大差ない
ものでした。今は幹も高くなって、「お前もよく伸びたなー」と
時代を共有した同志みたいな感覚を味わいもします。

京都新聞のネットの観光案内サイトや京都検定でも現在の西行桜は
三代目だとしていますが、どうして三代目だと確定したのかその
根拠が分かりません。不明確で検証できない事々を、あのような
サイトが確実であるかのように記述して広めることは、いかがな
ものかという思いが私にはあります。もし間違っている時、はた
してどなたが正せるのでしょうか。間違ったことが定説になって、
その誤りを多くの人が信用するのでしょう。事実として西行桜に
触れたサイトのほとんどが無自覚的に「三代目」として記述して
いると思います。

でもまあ、たかが桜、別に問題にするほどのことでもありません。
ちなみに、江戸時代においては「西行桜」とは法輪寺の少し南に
ある西光院の西行桜のことだったようです。
画像は勝持寺の西行桜と紅葉です。