おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

湘南紀行その1

2015年01月11日 | その他

 

湘南紀行 その1 

1月4日から6日まで湘南地方を観光しましたので、

そのレポートです。何度かに分載します。

 1/4(日) 晴れ。

 鎌倉駅→個展会場画廊→寿福寺→英勝寺→浄光明寺→

鶴岡八幡宮→宝戒寺→鎌倉宮→大船のホテル

 朝7時45分、のぞみ京都駅発。正月明け上京のラッシュと重なって

自由席は満席。指定席も取れません。

仕方なく立って乗車していたのですが、ひかり号に乗り換えても

新横浜到着時間に大差はないので豊橋駅で乗り換えて座る。

自由席に座っていたのですが、座席が富士山側ではなくて反対の窓側

だったので、富士山を見るのを断念。

新横浜から大船→鎌倉で下車。11時前。まずまずの天気。

鎌倉駅近くの喫茶店に入ってコーヒーとチーズトースト。軽く千円を超えました。

11時半、知人の個展会場に到着。

作品をざっと見せていただいてから知人家族とともに5人で会食。

とはいえ私は食事したばかりでコーヒーのみ。

 13時頃に会場を辞して一人で鎌倉観光。

○ 寿福寺

 開山は「栄西」。栄西は京都の「建仁寺」の開山でもあり、また茶を

広めた人物で、栂ノ尾の「高山寺」の茶も栄西が明恵に贈ったことで、

広められて、喫茶の習慣にもつながり、一時期は闘茶なども盛んに

行われました。

「栄西」が寺にする以前は源義朝の屋敷。頼義、義家なども住んで

いたようです。義朝は頼朝の父で、平治の乱で尾張の国で斬殺されています。

 さして大きくはない門を入ると、岩を穿った「岩窟」が多くあります。僧侶の修行場として

利用されたのかも知れませんが、墓という面が強いと思います。

何年か前に行った松島の「瑞厳寺」を思い出しました。

 ○ 英勝寺

 もともとは太田道灌の屋敷。それを狸親父家康の側室の「英勝院尼」が

寺としたもの。英勝院尼は太田氏の出自のようです。

小宇なのですが、創建当初はさぞ美しかったはずの大きめの山門が

あります。山門扁額は後水尾帝によるとのこと、運慶の阿弥陀像もある

とのことですから、立派なお寺だったものと思います。

岩を穿っての胎内巡りみたいなものもありました。

短い距離で、そのなかに何体もの仏像が安置されていました。

 この近くに十六夜日記の「阿仏尼」の墓というか供養塔みたいなものが

あるとのことですが、探せませんでした。

 ○ 浄光明寺

 阿仏尼の子である冷泉為相の墓(五輪塔?)ということで行ったのですが、

柵で通行禁止にされていて、良く見ることができませんでした。

いずれにしろ阿仏尼親子は近くで眠っているということになります。

京都でも阿仏尼の墓と伝えられるお寺はありますが、鎌倉で没したものとして、

やはり鎌倉の方が正当な墓ではないかと思います。

 このお寺は足利氏や北条氏のゆかりのお寺です。

ここでも岩を穿った構造物(多くはお墓だと思います)が多くて、

鎌倉という町は岩盤でできた町ではなかろうかと思いました。

 ○ 鶴岡八幡宮

 八幡宮に行く途次に日蓮の「護国寺」などもちらっと見たのですが、

一路八幡宮まで。いやはや、大変な人出でした。

祈祷を受ける人だけが一番上の本宮に上がれるようです。

たくさんの人が並んでいて、時間がかかりますので私は本宮にまで

上るのはパス。丹塗りの楼門は美しく思いました。

ちょうど「出初式」をやっていて、演舞を少し見ました。

白拍子静が「静や静・・・」の舞を踊った「若宮」もちらっと見ただけでした。

境内をひととおり歩いてから「正月ボタン展」を見ました。

「正月ボタン」とあるけれど、「冬ボタン」のことです。

見頃でしたが画像がうまく撮れていません。

 

鶴岡八幡宮はもちろん源頼義が石清水八幡宮を勧請しての創建。

現在地に移築したのは頼朝。

西行がこの八幡宮のどこで頼朝の家臣と逢ったのか場所は不明。

砂金勧進の公的な性質を帯びた二度目の奥州行脚でしたから、

当然に西行と頼朝は逢うことを予定されていたものでしょう。

ただ「東鏡」も正確ではない部分もあるらしくて、銀の猫などの話は

創作・脚色だという話もどこかで読んだ気がします。

 ○ 宝戒寺

 北条氏が滅んだ後に尊氏が北条氏の菩提を弔うために創建。

もともとは北条執権屋敷です。

 ○ 鎌倉宮

 明治天皇の発願により創建された宮です。後醍醐天皇の親王、

大塔の宮「護良(もりなが)親王」を祀ります。

護良親王は仏門に入って天台座主でしたが還俗して、後醍醐帝の

「建武の中興」のために奮戦していました。足利尊氏らと共に「建武の中興」は

なりましたが、後醍醐帝の執った政治は武士層の不満が強くて、

足利幕府樹立までの過程で、親王は捕縛されて鎌倉に護送。

尊氏の弟、直義の意によって斬首されます。

吉野でもゆかりの親王です。享年28歳。

幽閉されていた「土牢」があります。岩を穿った牢です。

どうも鎌倉の場合は「土」という言葉は「岩」と同義みたいに使われたようです。

「東海道名所図会」でも鎌倉の岩は柔らかくて細工がしやすいと書かれています。

 あまり広くはないのですが、一通り見終わったらもう16時過ぎ。

ちょうどバスがあったので鎌倉駅、予約したホテルのある大船駅で

下車して投宿。その2に続きます。

 写真01 鎌倉駅西口ののぼり。なつかしい名前。歴史の迷路の中に

      入り込んだような錯覚。うれしい感覚でした。

 写真02 寿福寺山門

 写真03 英勝寺の立派な山門

 写真04 浄光明寺

 写真05 鶴岡八幡宮本宮

 写真06 鶴岡八幡宮出初式

 写真07 鶴岡八幡宮正月ボタン

 写真08 宝戒寺

 写真09 鎌倉宮

 写真10 護良親王幽閉土牢