葵祭 (15/05/15)
昨日の15日、卓球が終わってから急いで家を出て植物園。
植物園には30分程度しかいなくて、植物園から加茂街道に行き、
葵祭の巡行見物。葵祭は久しぶりでした。
山家集にある加茂及び「加茂祭=葵祭」の記述です。
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月のすむみおやがはらに霜さえて千鳥とほたつ聲きこゆなり 222ページ
みたらしの流れはいつもかはらぬを末にしなればあさましの世や 224ページ
みたらしにわかなすすぎて宮人のま手にささげとみと開くめる 225ページ
1 賀茂のかたに、ささきと申す里に冬深く侍りけるに、人々まうで
来て、山里の戀といふことを 146ページ
「かけひにも君がつららや結ぶらむ心細くもたえぬなるかな」
2 そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世をのがれて
後も、賀茂に参りける、年たかくなりて四国のかた修行しけるに、
又帰りまゐらぬこともやとて、仁和二年十月十日の夜まゐりて幣
まゐらせけり。内へもまゐらぬことなれば、たなうの社にとりつぎて
まゐらせ給へとて、こころざしけるに、木間の月ほのぼのと常よりも
神さび、あはれにおぼえてよみける 157ページ
「かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはとおもふ心に」
3 北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて侍たるる程に、
使まゐりたり。はし殿につきてへいふしをがまるるまではさること
にて、舞人のけしきふるまひ、見し世のことともおぼえず、あづま
遊にことうつ陪従もなかりけり。さこそ末の世ならめ、神いかに見
給ふらむと、恥しきここちしてよみ侍りける 224ページ
長月の力あわせに勝ちにけりわがかたをかをつよく頼みて 225ページ
みたらしの流はいつもかはらぬを末にしなればあさましの世や 224ページ
月のすむみおやがはらに霜さえて千鳥とほたつ聲きこゆなり 222ページ
1 月の夜賀茂にまゐりてよみ侍りける 222ページ
2 不尋聞子規といふことを、賀茂社にて人々よみけるに 44ページ
郭公卯月のいみにゐこもるを思ひ知りても來鳴くなるかな
3 加茂の臨時の祭かへり立の御神楽、土御門内裏にて侍りけるに、
竹のつぼに雪のふりたりけるを見て 99ページ
うらがへすおみの衣と見ゆるかな竹のうら葉にふれる白雪
4 ふけ行くままに、みたらしのおと神さびてきこえければ 224ページ
5 御あれの頃、賀茂にまゐりたりけるに、さうじにはばかる戀といふ
ことを、人々よみけるに 145ページ
ことづくるみあれのほどをすぐしても猶やう月の心なるべき
6 同じ社にて、神に祈る戀といふことを、神主どもよみけるに 145ページ
天くだる神のしるしのありなしをつれなき人の行方にてみむ
鴨氏と賀茂社
「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となったのは794年のこと
です。第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、長岡京に遷都しました。しかし
長岡京も藤原種継暗殺、早良親王幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したため
に、わずか10年でおわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と改め、新京を
平安京としました。
ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社は784年に
従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の正一位の位階を授けら
れています。810年には斎院の制度も整い、賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭
にふさわしい儀式として、形式が整えられました。
賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。朝廷が騎射
禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる制度もあって鴨氏の女性が
「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女になっていたとのことです。
ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わりして主催する
ことになったわけです。別の言い方をするなら、大変な人気のある祭りを朝廷が
乗っ取って、主催することになりました。
この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。以来、今日
まで続いています。
ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。
賀茂の斎院
810年に賀茂斎院制度が制定されてから、皇室の未婚の内親王を斎王とする
ことになりました。伊勢神宮の斎宮と区別するために斎王といい、斎王の住む
住居を斎院といいます。斎王はまた同時に斎院とも呼ばれます。
普段は紫野にあった斎院御所に住んでいましたが、葵祭の期間には賀茂社の
斎院に移り住みました。上下社隔年だったとのことです。
初代斎王は嵯峨天皇の皇女、有智子内親王です。それから約400年間、1212年に
後鳥羽天皇の皇女、第35代斎王、礼子内親王をもって斎院制度は廃絶しました。
現在は斎王の代わりの斎王代が葵祭りの主役となっています。1956年(昭和31年)
からです。
尚、紫野斎院はどこにあったか今では分かりません。櫟谷七野神社に紫野斎院跡
の碑がありますが、きちんと検証されて信用に足るもの、ということではない
ようです。 (以上は私発行のマガジンから抜粋)
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以下、昨日の画像です。下の三枚は上賀茂神社の摂社の太田神社。
そして葵祭りに欠かせないフタバアオイの葉と花です。
神山や大田の沢のかきつばた深き頼みは色に見ゆらむ (藤原俊成 「五社百首」)