おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

栄の風

2015年05月24日 | 歌稿

栄の風

                       

雪を抱く山から降りる風寒く信濃栄は春まだ浅し

長い冬閲し桜や水芭蕉卯月終わりに萌えて咲きおり

栄にて積もる年月重ね来た我が血族に訣別悲し

栄村自然の中に伯母は生き日々の刻印しるして終える

四国伊予生を受けおり故郷を離れ栄に終える剛さを

時は行き人の命のはかなさにまだ熱き骨拾う悲しさ

亡き人を栄の風に偲びおり天翔けかけて伊予に向かえと

今はただ笑顔の満ちるかんばせにまたの世家にお逢いしたしと

繋がれる輪廻の糸を解きほぐし君の命に付き添いたしも

庵のある京の都に舞い戻る 栄の風が吹きすぎて行く

 画像は苗場山

 


葵祭り

2015年05月16日 | 京都

葵祭 (15/05/15)

昨日の15日、卓球が終わってから急いで家を出て植物園。

植物園には30分程度しかいなくて、植物園から加茂街道に行き、

葵祭の巡行見物。葵祭は久しぶりでした。

山家集にある加茂及び「加茂祭=葵祭」の記述です。

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 月のすむみおやがはらに霜さえて千鳥とほたつ聲きこゆなり  222ページ
 
 みたらしの流れはいつもかはらぬを末にしなればあさましの世や  224ページ
 
 みたらしにわかなすすぎて宮人のま手にささげとみと開くめる  225ページ

 1 賀茂のかたに、ささきと申す里に冬深く侍りけるに、人々まうで
   来て、山里の戀といふことを  146ページ

   「かけひにも君がつららや結ぶらむ心細くもたえぬなるかな」

 2 そのかみこころざしつかうまつりけるならひに、世をのがれて
   後も、賀茂に参りける、年たかくなりて四国のかた修行しけるに、
   又帰りまゐらぬこともやとて、仁和二年十月十日の夜まゐりて幣
   まゐらせけり。内へもまゐらぬことなれば、たなうの社にとりつぎて
   まゐらせ給へとて、こころざしけるに、木間の月ほのぼのと常よりも
   神さび、あはれにおぼえてよみける  157ページ

  「かしこまるしでに涙のかかるかな又いつかはとおもふ心に」

 3 北まつりの頃、賀茂に参りたりけるに、折うれしくて侍たるる程に、
   使まゐりたり。はし殿につきてへいふしをがまるるまではさること
   にて、舞人のけしきふるまひ、見し世のことともおぼえず、あづま
   遊にことうつ陪従もなかりけり。さこそ末の世ならめ、神いかに見
   給ふらむと、恥しきここちしてよみ侍りける  224ページ

 
  長月の力あわせに勝ちにけりわがかたをかをつよく頼みて  225ページ
                       
  みたらしの流はいつもかはらぬを末にしなればあさましの世や  224ページ
  
  月のすむみおやがはらに霜さえて千鳥とほたつ聲きこゆなり  222ページ
                      

 1 月の夜賀茂にまゐりてよみ侍りける  222ページ

 2 不尋聞子規といふことを、賀茂社にて人々よみけるに  44ページ
                        
   郭公卯月のいみにゐこもるを思ひ知りても來鳴くなるかな

 3 加茂の臨時の祭かへり立の御神楽、土御門内裏にて侍りけるに、
   竹のつぼに雪のふりたりけるを見て  99ページ
 
   うらがへすおみの衣と見ゆるかな竹のうら葉にふれる白雪                    

 4  ふけ行くままに、みたらしのおと神さびてきこえければ  224ページ
                       
 5 御あれの頃、賀茂にまゐりたりけるに、さうじにはばかる戀といふ
   ことを、人々よみけるに  145ページ

   ことづくるみあれのほどをすぐしても猶やう月の心なるべき

 6 同じ社にて、神に祈る戀といふことを、神主どもよみけるに  145ページ
                   
   天くだる神のしるしのありなしをつれなき人の行方にてみむ


 鴨氏と賀茂社
 「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となったのは794年のこと
 です。第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、長岡京に遷都しました。しかし
 長岡京も藤原種継暗殺、早良親王幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したため
 に、わずか10年でおわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
 そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と改め、新京を
 平安京としました。
 ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
 平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社は784年に
 従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の正一位の位階を授けら
 れています。810年には斎院の制度も整い、賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭
 にふさわしい儀式として、形式が整えられました。
 賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。朝廷が騎射
 禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる制度もあって鴨氏の女性が
 「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女になっていたとのことです。
 ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わりして主催する
 ことになったわけです。別の言い方をするなら、大変な人気のある祭りを朝廷が
 乗っ取って、主催することになりました。
 この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。以来、今日
 まで続いています。
 ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。
  
 賀茂の斎院

 810年に賀茂斎院制度が制定されてから、皇室の未婚の内親王を斎王とする
 ことになりました。伊勢神宮の斎宮と区別するために斎王といい、斎王の住む
 住居を斎院といいます。斎王はまた同時に斎院とも呼ばれます。
 普段は紫野にあった斎院御所に住んでいましたが、葵祭の期間には賀茂社の
 斎院に移り住みました。上下社隔年だったとのことです。
 初代斎王は嵯峨天皇の皇女、有智子内親王です。それから約400年間、1212年に
 後鳥羽天皇の皇女、第35代斎王、礼子内親王をもって斎院制度は廃絶しました。
 現在は斎王の代わりの斎王代が葵祭りの主役となっています。1956年(昭和31年)
 からです。
 尚、紫野斎院はどこにあったか今では分かりません。櫟谷七野神社に紫野斎院跡
 の碑がありますが、きちんと検証されて信用に足るもの、ということではない
 ようです。 (以上は私発行のマガジンから抜粋)

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以下、昨日の画像です。下の三枚は上賀茂神社の摂社の太田神社。

そして葵祭りに欠かせないフタバアオイの葉と花です。


   神山や大田の沢のかきつばた深き頼みは色に見ゆらむ  (藤原俊成 「五社百首」)