おかずブログ

ここでは主に撮影画像を発表します。
近場で撮影した植物などがメインとなります。

初冬の宝ヶ池と植物園

2015年11月26日 | 京都

冬に入ってから天気が良くない。11月24日のこの日も、降雨こそ
ないものの、どんよりとした空模様。節季はすでに「小雪」である。

この日は入会させていただいているカメラ同好会の撮影日。
11月も下旬ともなれば紅葉も終わり近いのだし、風景に関して言えば良い
被写体がないのは仕方がない。
写真は光の量がないと良いものにはならないのに、雲天で光の量も乏しい。
それでも毎年30か所ほどの寺社に紅葉撮影に行く極度の紅葉狂いを
任じている私としては、残り紅葉であれ少しは出会いたいものだと
密かに期するものがあった。

鮮やかな赫の目の覚めるような紅葉はやはりない。無理もない。
それでなくても、今年の紅葉はおしなべてひどいものである。
私が知る限りは、紅葉がこんなにひどい年はかつてない。悲惨なものである。
しかし、冬枯れに向かう前の一時期の季節の発する声みたいなものを聞けたかと思う。
以下は宝ヶ池の画像。

















池にいた鴨の羽ばたきの画像は135ミリの標準レンズでは厳しい。
望遠レンズも三脚も重いので持参しなかったが、まあ仕方がない。
ニシキギの実も宝ヶ池公園で撮影。

思ったよりは早めに解散となったので、一人で植物園に行く。
今年は15回か16回目の植物園。それでも見逃してしまう花たちが多い。











今の季節には五種ほどの桜が咲いている。四季桜・10月桜、寒桜・子福桜・ヒマラヤ桜。
ここでは見られなかったが不断桜もある。つまり桜は春だけのものではないということだ。







初見の「花みょうが」も発見。1センチから2センチほどもある比較的大きな実である。
これで私の「赤い実」のコレクションも増える。



下は「赤い実」サイト。

http://hanahito.web.fc2.com/index.html


最後は植物園の噴水。



植物園もこれから閑散期、端境期を迎えるのだが、もうすぐにスイセンやローバイが
開花する。年内にもう一度行こうかと、もくろんでいる。









疾く奔り

2015年11月25日 | 歌稿


疾く奔り                       

たどりきて冬の立つ日に暦買う来るひととせが我が物になる

手の上の三百六十六日を温めてまだ来ぬ月日わずかに馴れる

見えぬもの暦のうちに現れて望みの渦は生まれて消えて

疾く奔り続く齢に夢見する小雪も近し小さき春に

旅の途次かの人小松なる邑を「しをらしき」まま幻の中

那谷寺の石のきざはし登り降りかいまはせをの気配を探す

石山の石より白くなけれども浪速の風は今おもしろし

義仲の眠る隣に添い寝する一期を終えて風おさまれり

作られし伝説生きる義経は安宅の関で死せず生かされ

関に来て義経見たか漆黒の闇は安宅の海と分かたず







石川県小松市駆け足旅行 02

2015年11月23日 | 思い出

石川県小松市駆け足旅行 02

2015年11月13日(金) 天気 曇り

ホテル→多太神社→JR小松駅→粟津駅→那谷寺→「ゆめのゆ」→加賀温泉駅→京都駅

朝、ホテルを出てから1キロほどの場所にある「多太神社」に向かう。
創建は古く、落ち着いたたたずまいはいかにも由緒のありそうな
感じである。古刹の持つ素朴さがある。
こけおどしのきらびやかさなどとは無縁の、それゆえにあまたの
無辜の歴史をしっかりと懐胎して、これまであり続けてきた社である。

神社関係者数人が境内を掃き清めている。昔なら神官というべき
だろうが、今は何というのだろう。
この社には斉藤別当実盛の兜があるとのことだが宝物殿は未見。
なんでも源義仲が奉納したようである。義仲は一時期、実盛に養育
されていたらしい。

「この所多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往古源氏に
属せし時、義朝公より賜はらせたまふとや。げにも平氏のものにあらず。
目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打ったり。
実盛討死にの後、木曽義仲願状に添えて、この社にこめられはべるよし、
樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。」
                      「(おくのほそ道)から抜粋」

「むざんやな兜の下のきりぎりす」







これで小松駅近いエリアから離れて「那谷寺」に向かう。

小松の駅も電車の本数は少ない。乗客数が少ないので仕方がない。
待ち時間が長い。
小松から隣駅の「粟津駅」まで。駅から那谷寺まではタクシー利用。
市営のバスがあるかとも思って探したが見つからない。

那谷寺は小松の市役所などからは離れているが小松市内。
芭蕉は小松→山中温泉→那谷寺→小松というコースを採っている。つまりは
小松の中心街には二度入ったということだ。

那谷寺は観光寺社でもあり紅葉でも有名らしく、そこそこに人が多い。
石の寺として岩盤や岩窟を本尊としているとのこと。別に十一面千手観音像がある。

「山中や菊はたをらぬ湯の匂ひ」

「石山の石より白し秋の風」

















紅葉はあきらかに盛りを過ぎていた。散り紅葉もたくさんである。でもまだまだ十分に楽しめた。
芭蕉の「石山の・・・」句は、このお寺のものである。

観光寺社だけど流しのタクシーが捕まえられるわけではない。
運よく空車が来ないものかと待ってるうちに「キャンバス」という乗り降り自由のバスが
来たので飛び乗る。
そのバスがたまたま「ゆめのゆ」という所で停車したので、下車して湯に浸かる。
せっかく温泉地に来たのに、入らないまま帰るのもどうかと思い、のんびりと過ごす。風呂代620円。



風呂からでて、来合わせたキャンバスで加賀温泉駅。サンダーバードで京都。
まずまず思い出に残る小旅行である。








石川県小松市 駆け足旅行 01

2015年11月23日 | 思い出

石川県小松市駆け足旅行 01

2015/11/12 天気 晴れ

「奥のほそみち」の芭蕉の足跡をたどって石川県小松市に行く。
初めは11月2・3日の予定だったが、宿と交渉して12・13日に延期する。
まずまず忙しく、2・3日の次は12・13日しか空いていなくて、那谷寺の
紅葉がどうかなーという一抹の不安があったが、変更して正解であった。
紅葉は進んでいたが十分に見られる状態だった。

順を追って時系列に記述する。
サンダーバードで小松駅に降り立ったのは11時半。すぐさま近くの観光案内所。
小松のマップやら芭蕉関係資料を手に入れる。ネットで下調べをしていたが、
案内所には立ち寄ることが必須だと思う。




小松には芭蕉関係史跡が多い。芭蕉が小松にたどり着いたのは「奥のほそみち」の途次、
1689年8月24日のこと。芭蕉46歳の年。歩いての旅は厳しいものだっただろう。

小松には小さな寺社が多いことに驚く。
まずはじめに小松天満宮。マップがありはするがスマホの地図も重宝する。
天満宮には「あかあかと日はつれなくも秋の風」の句碑がある。撮影せず。





天満宮から芦城公園を通って兎橋神社。趣のある公園だ。





兎橋神社と、通りを挟んで隣にある「すはまへ芭蕉公園」
「しをらしき名や小松吹く萩薄」「ぬれて行や人もをかしき雨の萩」





建聖寺・本折日吉神社と行く。日吉神社の鳥居が珍しい。



秋の日は釣瓶落としである。寺社参詣はこれまでにして、いったん小松駅に戻り「安宅の関址」に行く。
勧進帳で有名だが後世に作られたものだし、真実は違うはずだ。
「義経記」も戦記物で脚色が入っていて必ずしも真実であるはすはないが、それでもより
真実に近いものと思う。ともあれ義経がこの辺りを通ったのは1186年末頃のことだろう。
安宅住吉神社などを見てから、近くのレストランで食事。











ここの夕日も撮影したくて、レストランで少しゆっくりする。
夕日撮影はうまくいかなかった。海面から上にかけて幅広の厚く黒い雲がかかっていて、陽はその雲に
隠れてしまうので、これでは無理なのも仕方ない。



タクシーはいなく、仕方なくその場で1時間ほどを電子書籍で小説を読みながら過ごし、バスで
駅前まで。駅からほど近い安宿に投宿する。





初冬の嵐山、嵯峨あたり

2015年11月18日 | 京都


初冬の嵐山・嵯峨あたり

2015/11/15 天気 晴れ

阪急嵐山駅→天龍寺→三秀院→竹林→常寂光寺→落柿舎→清凉寺→大覚寺

15日、天気もまずまずなので嵐山あたりに紅葉の色づき具合を見に行く。
阪急嵐山から渡月橋西詰めに出た時に見た嵐山は「こりゃダメだ」という印象。
でもなぜかカメラではそこそこに色づき出しているのがわかる。
カメラの設定のために色がビビッドに出ているということもある。



渡月橋を渡って天龍寺。中には入らない。拝観はしないで法堂前まで行って
引き返し、参道の紅葉具合を見るが、良くなるにはまだまだ時間がかかりそうだ。

次いで三秀院。小さな堂宇であり紅葉は無理。ウメモドキの実がたくさん
付いている。
三秀院から野宮神社横や竹林の中の道を通って常寂光寺。途中で塀の外から見た
天龍寺の紅葉。こんな紅葉であれば素晴らしい。









常寂光寺。人が比較的多い。紅葉はどういうべきか・・・。散り紅葉もそこそこにあるので盛りに
なっているのかも知れないが、境内の紅葉は美しいのがない。不満が強い。
昨年もそんなに良いとは思えなかったが、昨年よりも今年の方が良くない印象だ。
ひょっとしたらライトアップの光害が紅葉を悪くしているのかも知れないなどと思ったりする。
2センチほどの実がたわわに実っている「ロウヤ柿」が見事だ。









常寂光寺から落柿舎。柿の樹が4本ほどあり実はそれなりに付いている。
それにしても落柿舎の方でも京都検定でも芭蕉が今の地の落柿舎に来たとのことだが、
かなりの疑念がある。芭蕉の「嵯峨日記」にある落柿舎の建っていた所の光景と現在の
落柿舎の位置関係は違うとしか思えない。
つまり芭蕉は落柿舎が移転する前に滞在したものであり、当然に現在地に移転した落柿舎に
来ているはずはないものと思うが・・・。



落柿舎から清凉寺。清凉寺も紅葉はピークを10とすれば2程度で、まだまだである。
きれいに紅葉するのか、それともしないままに落葉するか・・・。
くすんだ、きれいではない紅葉なら見に行くこともないのだが、気がかりではある。
落柿舎から清凉寺に行く途中のカラスウリとマユミ。





清凉寺もそそくさと辞去して大覚寺に向かう。境内の数本が紅葉が進んでいたが、
わざわざ写真に撮るほどのものでもない。500円を出して大沢の池に入って見るも、
ここでもまったく駄目である。もともと紅葉する樹は少ないのだが、10年ほど前に撮影した
紅葉のトンネルの素晴らしさが忘れられずに毎年二度は行っていると思う。

画像は大覚寺に行く前の路傍のフウセントウワタとスズラン。
そして大沢の池方面と10年ほど前の紅葉のトンネル。









大沢の池の水もとても汚い。枯れ蓮の葉もそのまま放置しないで、なんとかしてほしいと思う。
景観が良くないし(みっともない)という感じである。何とか改善を強く願いながらこの項を終える。




下鴨神社と上賀茂神社

2015年11月16日 | 京都

下鴨神社と上賀茂神社

 2015/10/25 (日) 晴れ

下鴨神社→賀茂川沿い→上賀茂神社→植物園 歩数 約28000歩

もう20日以上も前のことであり、旧聞に属することだが記述してみたい。
10/25日、天気も良いことなので、オフ会の下見も兼ねて加茂社に行く。
バスで葵橋西詰め下車、糺の森、河合神社、下鴨神社と歩き、賀茂の河原に出る。
整備されている河原を一時間弱かけて上賀茂神社着。
上賀茂神社は第四日曜日は「上賀茂手作り市」とかで、一部エリアはにぎわっていた。
上賀茂から河原を引き返して北山の植物園。さんざん歩き回ってから、
地下鉄で四条まで。という一日になった。歩数計は28000歩を記録している。

加茂両社は日本有数の古刹である。それだけ長い歴史をたどってきたということだ。
この社に関係する西行の歌も多い。長くなるので歌の詳述は控えたい。

賀茂川と高野川の合流点に糺の森の南側入り口がある。



画像の地点を過ぎて少し歩くと下鴨神社入り口。正しくは「賀茂御祖神社」。
そして「糺の森」。





糺の森の説明です。

  下鴨神社境内にある森です。国指定の史跡となっています。
  面積は12万4千平方メートル。東京ドームの約3倍の規模とのことです。樹齢は
  200年から600年の木が約600本あるそうです。
  それより古い樹木はみられないようです。なぜ古い木がないのか不思議ですが、
  応仁の乱および建武の乱で糺の森が戦場となったため、樹木もほぼ焼失したこと
  が原因のようです。従って、平安時代にいくつかの文学作品にうたわれた糺の
  森の景観と、現在の糺の森の様相は少しは違いがあるでしょう。
  樹木の種類は72%がムクノキ、16%がケヤキ、後の12%をイチイカシ、エノキ
  その他で占めているとのことです。
  糺の森の南は高野川と賀茂川の合流する地点で、糺河原、もしくは河合河原と
  呼ばれていたと記録にあります。この三角州では、室町時代以降は芸能興行の
  一大拠点となり、大変な賑わいをみせていたということです。

糺の森の中にある「河合神社」。







鴨長明について

  鴨長明は平安末期の激動の時代を生きた下鴨神社ゆかりの人です。出生1155年、
  没年1216年といわれています。
 「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず・・・」という人生の
  無常観を格調高い書き出しで著した「方丈記」、説話集の「発心集」、歌集の
 「長明家集」などがあります。
  下鴨神社の河合社の禰宜から昇進して下鴨神社の禰宜となった鴨長継の次男と
  して生まれました。長明19歳頃に長継が死亡してから、とたんに悲運の人生を
  送る事になります。若い長明を支えてくれる人がいなくて、その境涯を自身で
 「みなしご」とさえ記述しています。
  歌は北白川で歌林宛を主宰していた源俊恵に師事していて、長明33歳の時に
  千載和歌集に1首が撰入しています。
  1200年頃から盛んに歌合に出ていますので、歌人として華々しく活躍していた
  事がわかります。後鳥羽院からも身分を超えて厚遇されていました。
  長明50歳頃に河合社の禰宜職につく好機が訪れて、後鳥羽院も推薦するのです
  が、賀茂社の反対のため実現しませんでした。突如、訪れた好機に長明はとても
  喜んでいた事が長明の文章からも分かりますが、結局は実現せず、このことが
  契機となって長明は後鳥羽院の和歌所の寄人の職も投げ出して出家し、大原に
  隠棲します。54歳頃に山科日野の山中に方丈の庵を結んで移り住み、58歳頃に
  方丈記を出しました。その4年後、62歳頃に没しています。
  河合社には方丈記をもとにした、長明が住んでいた方丈が復元されています。
  しかしこの方丈はあまりにも立派すぎる気がします。河合社では鴨長明関係
  資料展も公開されています。

  「石川やせみの小河の清ければ月もながれを尋ねてぞすむ」
                          鴨長明 (新古今集)

河合神社から森の中を進んでいけば下鴨神社の楼門が見えます。





下鴨神社から賀茂川の河川敷に出ます。河原はよく整備されていて市民に親しまれています。



下鴨神社から一時間程度で上賀茂神社到着。







楼門の中に本殿や片岡社、棚尾社があります。





加茂社の説明です。

 1 鴨氏と賀茂社 

鴨氏は奈良県の三輪山を本拠地とする三輪氏と同族と伝えられています。
奈良県の西の葛城古道の道伝いに高鴨神社、鴨都波神社があり、それらは
鴨氏の氏神社といわれていますので、古代鴨氏は、葛城山や金剛山を本拠地
としていたことは確実視されています。
時代が下がって、鴨氏は京都府南山城の加茂町などを経て京都盆地に来た
と伝えられます。その時代は縄文時代のことです。糺の森の旧境内地から
縄文時代の遺蹟も出土していますし、鴨氏系図、下鴨神社社記、日本書紀、
その他の文献からも推定できます。そういう古い時代から鴨氏は京都に住んで
いたということになります。

下鴨神社は正しくは「賀茂御祖神社(かもみおやのじんじゃ)」と言います。
まず賀茂御祖神社が作られました。本殿は東西にあって、ともに国宝です。
西殿の祭神は賀茂建角身命(かもたけつぬみのみこと)、東殿の祭神は賀茂
建角身命の娘である玉依媛命(たまよりひめのみこと)です。
ある時、玉依媛が瀬見の小川で川遊びをしていると、上流から丹塗りの矢が
流れてきたので、持ち帰って寝所に置いていたら玉依姫は妊娠しました。
生まれたのは男児で賀茂別雷命(かものわけいかづちのみこと)といいます。
この賀茂別雷命が上賀茂神社の祭神となっています。

古来、両社を指して「賀茂社」「賀茂下上(かしょう)大神宮」などと呼称
していました。「上賀茂」「下鴨」という言葉で分けられるようになったのは
中世になってからの事だそうです。現在の賀茂御祖神社(通称は下鴨神社)、
賀茂別雷神社(通称は上賀茂神社)と呼ばれるようになったのは明治初年から
です。この年に神社制度が改革されています。
                                   
「山背(やましろ)の国」と呼ばれていたこの地が、都となった
のは794年のことです。第50代の桓武天皇は平城京の旧弊を嫌い、
長岡京に遷都しました。しかし長岡京も藤原種継暗殺、早良親王
幽閉などの暗い事件があり、凶事も多発したために、わずか10年で
おわり、桓武天皇はまたしても遷都したのでした。
そこが千年の王城の地となった平安京です。山背の国を山城の国と
改め、新京を平安京としました。
ここには秦氏や鴨氏が住んでいて、それぞれに氏寺も造っていました。
平安遷都以前から鴨氏と朝廷との結びつきは強いものがあり、賀茂社
は784年に従二位、794年に正二位、807年には伊勢神宮に次ぐ社格の
正一位の位階を授けられています。810年には斎院の制度も整い、
賀茂祭(葵祭)を朝廷が主催する官祭にふさわしい儀式として、
形式が整えられました。
賀茂祭は500年代中ごろから始まり、大変な賑わいの祭りでした。
朝廷が騎射禁止令を出しているほどです。斎院の前身ともいえる
制度もあって鴨氏の女性が「阿礼乎止売=あれおとめ」として巫女
になっていたとのことです。
ところが800年代になって、鴨氏という氏族の祭礼を朝廷が肩代わり
して主催することになったわけです。別の言い方をするなら、大変
な人気のある祭りを朝廷が乗っ取って、主催することになりました。
この賀茂祭も1502年から中絶、復興されたのは1694年のことでした。
以来、今日まで続いています。
ただし、1943年から1952年までは「路頭の儀」は中止されています。

賀茂社の分霊社は日本全国にあります。総数1186社ということです。
これは伏見稲荷大社の約4万社、北野天満宮の天神社の約1万2千社などから
見ると数字的には少ないものです。
しかし、古代から広く日本全国にわたって信仰されてきたことがわかります。
多い順に埼玉県119社、群馬県64社、栃木県59社、宮城県58社、長野県56社と
なっています。

賀茂社は1036年に式年遷宮の制度を命じられました。それからは20年目ごとに
社殿の全てが建てかえられることになりました。ところが戦国時代などの戦乱期
とか神社の経済的理由により、必ずしも規則通りに遷宮が行われたわけでは
ありません。最近では1937年第31回式年遷宮、1973年第32回式年遷宮、1994年
第33回式年遷宮とあります。下鴨神社の殆どの社殿は1628年の建立によるもの
ですから、本殿のみの造替で済ましたようです。その本殿も、現在のものは
1863年の建立ですから、遷宮といっても社殿の建て替えはせず、形式化して
いることが分かります。
上賀茂神社の場合は、もっと簡略化して社殿の修理程度で済ませていたとの
ことです。                                  
(一部、私発行のマガジンから転載)







駿河紀行 04

2015年11月06日 | 思い出


駿河紀行 04

10月13日 久能山・日本平・駿府城址公園 天気 晴れ

朝、ホテルでゆっくりする。久能山下行きのバスが一日に数本しかなく、
タクシーで行くにも4000円ほど。最悪の場合でも清水駅9時57分発の
バスで行けば十分である。次は13時頃に発車するバス。

観光地であるのに、なぜこんなにバス便がないのか、乗って見て理解する。
なんと始発から終点まで私一人の貸切状態。
バスを利用する人がいないから運行してもするだけ赤字なのだし、
これではバス路線があって運行しているだけで御の字。
しかしこのことは自治体にとっても大きな問題をはらんでいる。公共交通の充実は
現実的に不可能だし、また、交通弱者は出歩くなということにもなる。

バスはイチゴの栽培地を通って行くが、確かにこの辺りはイチゴの栽培が
盛んだと子供のころに知った覚えがある。
バスには私一人だったので、これから行く久能山東照宮も随分と人が少ないものと
思っていたが、案に相違して久能山への登り口の駐車場には車が多い。
つまりは公共交通を使わずに自家用車で行く人がほとんどだということだ。

山上の東照宮まで1159段の石段を上るとのこと。登り始める。
途中で駿河湾の写真を撮る。海が青い。初めの画像の対岸は伊豆半島。
二枚目の画像は御前崎方面。







石段の段数は多いが、20分しかかからなくて、きついというほどではない。

登りきった所に東照宮の楼門。唐門、拝殿、本殿と見て回る。















家康が1616年に死亡して一年間はここに葬むられ、その後に日光に改葬されたのだが、
あの狸親父もこのような廟を建てられて、非常に幸運だったと言える。
造りは贅を尽くした権現造り。こんなにきらびやかなものを作る徳川も悪趣味だとは思うが、
建築学上は素晴らしいの一言。しかしまあ、見れば見るほど虚仮脅しである。


     駿河の國久能の山寺にて、月を見てよみける

  涙のみかきくらさるる旅なれやさやかに見よと月はすめども
   (岩波文庫山家集128P羈旅歌・新潮1087番)

ここには600年頃に「久能寺」ができて、時代とともに隆盛を誇っていたのだが、失火により灰塵。
西行がここに来たのも失火以前のことであるし、久能寺の殷賑ぶりを見ているということだ。
武田信玄がこの地に久能城を築いた。その時に久能寺は移転させられている。移転したのは
鉄舟寺のある場所。鉄舟は衰退していた久能寺を再興して、寺名を「鉄舟寺」と改める。

武田氏を滅ぼした家康が久能山も支配して、風光明媚なここを自ら墓所と定めたのである。

久能山と日本平の間にはロープウエイが通じている。片道券を買って日本平に渡る。
遠いが富士山も見える。「赤い靴をはいた女の子」の像もある。














写真を撮れば、日本平自体には特に施設も無いので静岡行きのバスに14時すぐに乗車。
そのまま京都に戻るのもどうかと思い、駿府城址公園に歩いて行く。さすがに広い。












公園から駅に戻り、コーヒーを飲んだり土産物を物色したりしてから新幹線乗車は18時前。
京都の自宅着は20時過ぎ。早いものである。
かくして、短い旅は終わる。記憶に残る良い旅であったと思う。
3日間歩行数は65000歩弱。意外と少ない。






駿河紀行 03

2015年11月05日 | 思い出
駿河紀行 03

 10月12日 由比駅から清水駅まで 天気 晴れ

「東田子の浦駅」でJRに乗車して、下車は「由比駅」。
これから東海道を歩いて清水駅に近いホテルに戻ります。

「由比駅」を出ると、すぐ前が東海道。でも東海道は標識が少ないのか
コースに不安を覚えます。案の定、あとで道を間違えました。
数年前に中山道を「関が原」から彦根を少し超えた「高宮宿」まで歩きましたが、
随所に中山道の標識があって助かりました。それから見たら東海道は、旅人に
不親切のようにも思います。

ともあれ、由井宿では由井正雪の生家である「正雪紺屋」にも行かないで、
進路を西に取り、薩埵峠に向かいます。
薩埵峠は鈴鹿、箱根と並ぶ東海道の難所。でもゆるやかな登りです。
峠を登りきった所に休憩所などが作られていますが、そこまでは難所らしい
難所はありません。海に落ち込む山を無理やりに切り開いて道を通したものでしょう。
平安期にできた「延喜式」では東海道などの道路幅は決められていますが、
道は車がすれ違えないほどの隘路。規則通りの幅の道は作られなかったものでしょう。
山の中のこんな細い道を、よくも軍勢を通したものだと思います。

これまでに勾配を緩くするなどの工事は行われたかも知れません。
でも農業用道路として使われていて一般車道としての役割はありませんから、
道幅を拡幅する必要はなかったものと思います。

画像は由井駅を出た所。薩た峠の登り口。薩埵峠標識。







登りきって休憩所で小休止。眼を南に転じれば駿河湾。青い海。そして海の上の
高速道路。東を見れば東海道の名所を描いた安藤広重の「由井薩埵峠」に近い
光景が広がっています。冠雪量も違いはしますが、良く似ています。
不思議と、この峠を詠みこんだ西行歌はない。









峠から進路を西に取り「興津」の街に向かいます。峠からのこの道が難所らしい道で勾配は急です。
東に向かう時には厳しいものだったでしょう。
小夜の中山の峠から金谷宿に向かう勾配の強さと匹敵します。なるほど・・・と思いました。
坂を下りきって興津川を渡り街に入りましたが順路が分からず、仕方ないのでひたすらに
西方向を目指して歩く。
画像は興津川。



しばらく歩くと「清見寺」にたどり着く。昔、この地に関があった時に建てられたお寺で、
由緒ある古刹中の古刹だ。680年頃の創建である。

「清見が関は、片つ方は海なるに、関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり。
けぶり合ふにやあらむ、清見が関の浪も高くなりぬべし。おもしろきことかぎりなし」
                    (更級日記から抜粋」


 1 清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月
       (岩波文庫山家集秋歌・新潮版・西行上人集・山家心中集・宮河歌合他)

 2 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
       (岩波文庫山家集秋歌・新潮版・続拾遺集・玄玉集)

藤原孝標女ももちろんのこと、西行もこの清見寺を見て東海道を通り過ぎました。
堂々としたお寺のように思います。そのたたずまいに好ましいものを感じました。
なんと、総門の内側にJRの線路が敷かれています。

この清見寺の沖合から西にかけてが月の名所として知られる「清見潟」。
でも現在は埋め立てもされ、構造物ばかりで「潟」とは呼べず、往古の
自然の姿をただ想像するばかりです。清見寺と五百羅漢像。













清見寺から海に出て、さまざまなことを思いながらしばらく海を眺めていました。
下は「清見潟」が広がっていたあたり、最後は清水港です。





この日だけで3万歩近く歩きました。多少の疲れを覚えました。
翌日は久能山。04に続きます。







駿河紀行 02

2015年11月04日 | 思い出

駿河紀行 02 

10月12日 原駅から東田子の浦駅まで 天気 晴れ

朝8時頃にはホテルを出てJRローカル線で清水駅から原駅まで。
電車は比較的すいていて、都会の通勤の光景ではない。
清水駅→原駅は30分ほど。車窓から付近の光景を見ながら電車の到着を待つ。

原駅に着き、駅を出て見上げると富士山が冠雪していて驚く。
昨日の11日は天気が良くなく、でも山頂は雪だったということだ。この秋の初冠雪とのこと。
新鮮である。しかし、カメラを向けても建築物や電線が写って不満である。



駅を出てからしばらくは東海道を歩いていたのだが、地図を見て近いのを確認して
駿河湾の湾岸道路に出る。東海道を歩きたかったので、思いを残すが仕方ない。

風はなく天気も晴れ。気温もちょうど良い。海と空が青い。
この辺りの駿河湾の、ゆるやかな湾曲は優美である。立派な湾岸道路は長く
続いているものと思える。私の眼では遠くまでは見えない。
道路の北側は素晴らしい松林が道路に添うように続いている。
防風林の役目を負っているのだろう。松の幹がおしなべて斜めになって
北の方を向いている。
これだけの規模の松林が今も残っていることは素晴らしい。
歌人の若山牧水なども松林保全の運動に関わっていたとか、何かで読んだ記憶がある。
多くの人たちの尽力によって現在の松林が保たれているのだろう。
道路を歩きながら富士山に向けて盛んにシャッターを切る。









湾岸道路だけで5キロほどを歩いたものと思う。
東田子の浦駅の北側に広がる「浮島が原自然公園」に行くべく、湾岸道路に思いを残しながら
進路を北に採る。JRの線路を超えるための踏切にまで行く道がややこしくて、
少し遠回りをしたりする。

「浮き島ヶ原」は湿地帯として知られている。でも平安歌人たちの詠んだ「浮き島ヶ原」歌は
10首ほどと少ない。その中に西行歌もあるが、歌は情感があまり伝わってこない。

西行の富士の歌と浮き島ヶ原の歌。

01 いつとなき思ひは富士の烟にておきふす床やうき島が原
     (岩波文庫山家集161P恋歌・新潮1307番・西行物語)

02 けぶり立つ富士に思ひのあらそひてよだけき恋をするがへぞ行く
       (岩波文庫山家集153P恋歌・新潮691番・夫木抄)

     あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て

03 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
          (岩波文庫山家集128P羈旅歌・新潮欠番・
     西行上人集・新古今集・拾玉集・自讃歌・西行物語)

ア 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
           (岩波文庫山家集73P秋歌・新潮319番・
                    続拾遺集・玄玉集)

イ 思ひきや富士の高嶺に一夜ねて雲の上なる月を見むとは
                   (源平盛衰記巻八)

ウ 富士みてもふじとやいはむみちのくの岩城の山の雪のあけぼの
                     (諸国里人談)

アイウの三首は西行歌というだけの確証がありません。

ともあれ、沼沢地だった名残を残した「浮き島ヶ原自然公園」として、
付近の人たちに親しまれているようです。構造物をできるだけ排して、
しかし自然の運動のままに放置しているわけではなく、きちんと管理されて
いるように感じました。

富士見の名所らしく浮き島ヶ原からは富士がよく見えました。









公園の植物です。最後の画像は(東田子の浦駅)。









JR原駅から清水のホテルまでは35キロほどあります。写真を撮りもっての、あるいは名所を見ながらでは
長すぎると考え、東田子の浦駅で電車に乗車。残念だけど途中を端折って由比駅下車。
赤人の田子の浦も近くですが当時の田子の浦と現在の田子の浦では位置が違うとの説もあり、
かつ古い時代の情趣などは望むべくもないので断念。了以の開削した富士川も渡りたかったけど、
これも断念。
次の03では由比駅から清水までのレポートです。











駿河紀行 01

2015年11月03日 | 思い出


 駿河紀行 01 
 
 10月11日 静岡県清水区  天気小雨

10月11日から2泊3日で静岡県に出向いてみました。
主の目的は西行歌に詠われた地を実際に歩いてみるということです。
西行は一つの宗派に属して特定のお寺に籠って修行していた僧ではなく、
終生、自由に旅をして過ごした僧であるとも言えます。
必然として各地の地名入り歌が多くあります。私の西行のページ。

http://sanka11.sakura.ne.jp/sankatop.html

私自身は西行の足跡をたどって、かなりの所に行きましたが、
駿河はまだ行っていなくて、いつかはと思っていた地域です。

初めに駿河での西行歌の紹介。

 1 清見潟おきの岩こすしら波に光をかはす秋の夜の月
       (岩波文庫山家集秋歌・新潮版・西行上人集・山家心中集・宮河歌合他)

 2 清見潟月すむ夜半のうき雲は富士の高嶺の烟なりけり
       (岩波文庫山家集秋歌・新潮版・続拾遺集・玄玉集)

 3 同じ月の来寄する浪にゆられ来て三保がさきにもやどるなりけり
       (松屋本山家集)

 4 けぶり立つ富士に思ひのあらそひてよだけき戀をするがへぞ行く
       (岩波文庫山家集恋歌・新潮版・夫木抄)

 5 いつとなき思ひは富士の烟にておきふす床やうき島が原
      (岩波文庫山家集恋歌・新潮版・西行物語)

     駿河の國久能の山寺にて、月を見てよみける

 6 涙のみかきくらさるる旅なれやさやかに見よと月はすめども
      (岩波文庫山家集羈旅歌・新潮版)

     あづまの方へ修行し侍りけるに、富士の山を見て

 7 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
      (岩波文庫山家集羈旅歌・西行上人集・新古今集・拾玉集他)

 8 東路やあひの中山ほどせばみ心のおくの見えばこそあらめ
       (岩波文庫山家集恋歌・新潮版・夫木抄)

このうち、8番歌の「あひの中山」は伊勢とも駿河とも言われていて、
定説がなく、当然に行くことができません。
また3番歌の「三保がさき」もここの三保ではないとする説もあります。
歌自体が西行の詠歌ではなくて伝承歌のような印象も受けます。

この旅行の簡単なメモ書きを紛失していて、記憶に頼らざるを得ないのですが、
すでに1ヶ月近く前のことを思い出しながら記述します。

京都から静岡駅まで新幹線。ローカル線に乗り換えて清水駅に着いたのは昼近く。
天気は良くなくて小雨。少し濡れる程度。駅前からのバスで三保の松原入口まで。
少し歩くと両サイドに松の植えられた「神の道」が続きます。
板敷のその道を歩いて松原まで。画像は「神の道」「羽衣の松」「三保の松原」







この三保地区は砂嘴であり、江戸時代には陸続きではなかったそうです。
西行時代ももちろん舟で渡ったはずです。
伝説の「羽衣の松」も大事に管理されていました。

浜の部分も広くて波打ち際まで歩いてみました。海は駿河湾の海。白砂ではなくて、黒っぽい
砂でしたから鉄分を多く含んでいるはずです。
雲がかかり、雨にけぶっている富士山が見えます。270ミリの最大望遠で撮影。



松原を辞して「神の道」の入り口前にある「御穂神社」拝観。
三保地区を束ねていた神社とのことですが、社殿も古く、いかにも古刹という感じです。

この社には巨大なソテツがありました。福岡の「香椎宮」や京都の「御香宮神社」の
ソテツにも匹敵する大きさだと思いました。





気楽な一人旅でもあるのですが、予約していたホテルへのチェックイン時間のことも
あり、三保の松原以外は多くは行けませんでした。
清水湊の次郎長の生家が残っているということであり、行ってみました。
今の若者は清水次郎長と言っても知らない人が多いでしょう。
私などの世代は多様な娯楽もなかったためか、次郎長の名前はよく聞いたものです。
意外と小さく質素な家でした。100年以上前の話ですし、そんなものでしょう。
小さくて当たり前とも思います。



次郎長生家から歩いたりバスに乗ったりして「鉄舟寺」まで。
時間が遅すぎたためか拝観は無理でした。
このお寺は山岡鉄舟が再興したお寺です。もとは6番歌にある「久能寺」。
だから、かすかにとはいえ西行にもゆかりがあります。
惜しむらくは内部拝観不可だったこと。これは仕方ありません。
外から見ただけですが立派な外観のお寺でした。



かくして一日目は終了。宿にチェックインして、明日に備えて早めに就寝。