青少年育成連合会 | 日本の未来を【夢と希望に満ちた国】にする為に日本人の心に訴えたい
子どもは日本国の宝|私たちは【子どもをいじめと虐待、性犯罪から守る】為にあらゆる方法を講じ解決にあたります





困った人を助ける・人の役に立ち優しくする。それだけを目標に生きてきました。と遺書の前文に書いてあった文章。それを遺書として残しいじめ自殺した南菅中学3年の生徒。今でも私は本当に死んでもらいたくない素晴らしい学生をなくしてしまった。しかしいまだ拉致の問題も解決できないでいる。しかしまだまだ油断はしてはいけない。それと我々活動家として、いいものは残し悪いものは皆で片づける。そういう習慣が昔の日本にあった。これから被害者の立場になって考えましょう。これから先の民衆と一緒に遺族の立場になって考えましょう。

 今日は私の人生の中で、女性初の元大阪市助役の大平光代さんの生き方を読み、これほど自分は感激を覚えたことがない
 今の政治家や学校関係者、その他の人たちに是非読んでもらえば、人間どんな苦境の世界に入っていても、死ぬほどの努力をすることによって、新たな人生が開けるのではないかと思いました。
 彼女の中学時代は、信じられない位のいじめに遭ったり、仲のいい親友からの裏切りに遭い、自殺未遂まで起こしてしまう。運よく助かり、その後16歳で暴力団の組長の妻となり22歳で離婚。北新地でクラブのホステス、そこで父の友人との出会い。そして友人が彼女の養父となり、そこから立ち直り猛勉強を始めた。

 それからのプロセスは、これから詳しく書きます。


庫県西宮市生まれ。中学生のときいじめを受け、自殺未遂をするまで追い込まれる。その後非行に走り、16歳のとき暴力団組長の妻となる。
22歳で離婚。大阪・北新地でクラブのホステスをしているとき、父の友人である大平浩三郎と再会する。浩三郎はのちに光代の養父となる。
浩三郎の強い勧めで立ち直る決意をし、猛勉強を開始宅建試験、司法書士試験に合格

画像は近畿大学

その後、近畿大学法学部通信教育課程に入学。同大学3年の29歳のとき、最難関の司法試験に、1年間の猛勉強の末、一度で合格

弁護士として非行少年の更生に努める。

2000年、波乱の半生を描いた自伝『だから、あなたも生きぬいて』(講談社)が200万部を超えるベストセラーになる。

2003年12月、当時大阪市長だった關淳一の要請を受け、女性初の大阪市助役に就任。異例の市役所外部からの人事として話題となる。弁護士活動を一時休止する。
翌年には、大阪市問題が大々的に報道され、市政改革に奔走。
2005年10月17日、關市長の突然の辞任に伴い、大阪市助役を辞任(關は出直し選挙で再選)。
2006年1月6日大阪市法律顧問(法令遵守担当)に就任することが市から発表される。しかし、自民党と公明党の市議会議員たちから反発され、翌7日に就任を辞退。
退任直後、先輩弁護士と出会って3ヶ月後に40歳で再婚。

画像は龍谷大学。2009年に創立370周年を迎えました

2009年4月
龍谷大学客員教授に就任。


2005年10月17日、大阪市長の辞任に伴い大阪市助役を辞任。2006年1月6日大阪市法律顧問に就任することが市から発表される。同時に自民党と公明との市議会議員たちから反発されよく7日に就任を辞退。

結局は自民党と公明党との議員の、あまりにも大平先生が優秀なので、一種の妬みやっかみの世界。この馬鹿達は今も大阪市議をやっているのだろうか。こういう馬鹿達がいるから、ちっとも大阪市は進歩もない。とにかく、こういう市会議員は選挙で選ばないほうがいい。後退があっても進歩がない。出世欲や保身が強い、それだけの人間だと云うことだ。

れに対して大阪府の橋下知事は、素晴らしい知事だと私は尊敬している。私のブログにも何回か出していますけどね。
もし橋下知事と大平先生がコンビで大阪を引っ張って行ったら、最高のコンビで大阪は、ますます日本の注目の的となり、成長するに違いないと私は確信しております。


娘巣だったら出家します

画像は愛娘と大平光代さん

 弁護士で元大阪市助役の大平光代(45)には、ある計画がある。信仰する浄土真宗の僧侶になって苦しむ人を支えることだ

ダウン症に伴う心臓障害のため、生後間もなく手術を受け命を取りとめた娘、悠ちゃんのために、大平さん一家は2年前、都会を離れ離れ里山に移住した。自然の恵みを良薬に育った悠ちゃんは、先月満4歳に。里山での暮らしを綴った「陽だまりの時間」(中央公論新社)の出版を機に、秘めた計画の一端を明らかにした。

「14歳で自殺を図り、幸い助けられましたが、私は一度死んだ人間。生きているのではなく生かされているとずっと思っています」
 仏教に触れ、人は皆、与えられた役割があると悟り、助役在職中も通信教育で学び、得度する資格を得たという。深刻化する児童虐待や自殺の問題が心配
 「育児が今は私の役割ですが、娘が巣立ったら出家して、苦しむ人に寄り添い助ける場を作りたい」。揺るぎない決意が伝わってきた。


自身も中学時代に受けたいじめから自殺を図り、非行に走った。それでも人の痛みは分かっていたと思う。今は、周囲の大人にそれを教える力がないと感じた。子どもの中に自らを律する力を育ててやれないか。そう考えた時、「宗教なら」と思い至った

 同学院に入ることにした直後の2003年12月、大阪市長から「助役として教育改革を」と声がかかる。思いも寄らぬ依頼だったが、引き受けるのに迷いはなかった。「アプローチこそ違え、目的は同じ」。通信教育に切り替えて公務の合間に勉強を続けた。

 この間、私生活は大きく変わった。05年10月に助役を辞任した後、結婚し、娘を授かった。育児に奮闘してますます、子どもへの思いが募るという。「生涯をかけて学び、命の大切さを伝えたい。それが、子どもたちの幸せにつながると信じています」。子育てが一段落するのを待って、修行に臨む。(大阪本社社会部 沢田泰子)


たくさんの勇気と感動がもらえる授業
「大平光代さんの生き方」より

大平光代さんの子どもの頃の写真を提示。

説明1 この女の子は光代さんと言います。両親やおばあちゃんの愛情を受けてすくすく育ちました。小学校では図工と音楽が得意でした。友だちはたくさんいて,楽しく学校に通う,普通の女の子でした。

大平光代さんの極道の妻の頃の写真を提示。

発問1 16歳の大平さんです。お化粧をして大人っぽいですね。16歳で何をしていると思いますか。

挙手をさせ何人かに答えさせる。


なんと暴力団の組長の妻です。背中には入れ墨があります。観音様にへびの図柄が大きく彫られているそうです。 普通の女の子だった光代さんがこんな風に変わってしまったきっかけは,中学校時代にありました。

発問2 中学校で何があったと思いますか。

挙手をさせ答えさせる。

光代さんはいじめにあいました。おはようとあいさつしても誰も返事をしてくれません。クラス全員から無視されたのです。筆箱をまっぷたつに割られました。おばあちゃんからもらった大切なお守りをごみ箱に捨てられました机の上にゴミをまかれました。トイレに入っていると,上からバケツ一杯分ほどの水をかけられました。すさまじいいじめです。中学2年になってクラス替えがありました。そのとき,初めて友だちができました。何でも話せる親友が3人もできたのです。光代さんは嬉しくて嬉しくて,何でも3人に話したり,相談にのってもらったりしました。しかし,その3人は光代さんをだまして,友だちのふりをしていただけでした。光代さんは3人に裏切られ,いたずら電話の犯人にさせられてしまいました。今まで,いじめられ続けてきたことや,親友に裏切られたショックで,光代さんはひどく落ち込みました。


発問3 いじめられ続け,やっとできたと思った親友にも裏切られた大平さんが最悪の状況から抜け出すためにとった行動は何だったと思いますか。
 

さまざまな答えが出る。「相手を殴った」「学校に行かない」「警察にいった」「自殺をはかった」等。

割腹自殺を報じる新聞記事のコピーを提示。

光代さんは,割腹自殺をはかったのです。ナイフでお腹を切って自殺しようとしたのです。書いた遺書には,自分の血でいじめた人の名前を書きました。そうすれば,いじめた人への復讐になると思ったのです。しかし,死ぬことはできませんでした。光代さんは死ねずに苦しんでいるところを,通りかかった人に発見され,救急車で運ばれ,手当を受けました。光代さんは病院に入院した後,また学校に行くことになりました。中学校3年生の4月です。クラスのみんなは,光代さんがいじめを苦に自殺未遂をしたことを知っていながら,温かく迎えた人は誰もいませんでした。それどころか,かげで「あんな死にぞこない,相手にしたないわ」と言われているのを聞きました。「死にぞこない」というのは,「死ぬべきだったのに,生き残ってしまった人」という意味です。それを聞いて,光代さんは「もう,ここには私の居場所はない」と思ったそうです。

説明2 光代さんはそれから,学校には行かずにゲームセンターに出入りするようになりました。暴走族と友だちになり,家にも帰らず不良の友だちの家に泊まるようになります。両親にも暴力をふるうようになりました。そして16歳で暴力団の組長と結婚17歳で,背中に入れ墨をいれます。光代さんは未成年だったので入れ墨をいれるために親のはんこが必要でした。親がはんこを押してくれないので,お父さんを蹴り倒し,自分ではんこを押して,入れ墨をいれたのです。その後,暴力団でもうまくいかず,組長と離婚し,「生きていてもしょうがない」とぐちりながら,お酒を飲んで,荒れた生活を送るようになってしまいました。

ビデオ(NHK『わたしはあきらめない,弁護士 大平光代』)を見る。
自殺未遂の件から,荒れた生活を送っていた様子を大平さん自身が話をしている。暴力団組長と離婚し,スナックで働きはじめたところで止める。

発問4 しかし,あることをきっかけにして,光代さんは人生をやり直そうと決心しました。「あること」とは,一体何だと思いますか。

「光代さんのことを心から思い,心配してくれる人と出会ったこと」です。その方は光代さんのお父さんの友人の大平浩三郎さんです。光代さんが22歳のときに,偶然出会いました。大平さんは光代さんを見て,なんとか立ち直らせたいと思い,何度も会って話をしました。光代さんは初めのうちは心を開かず,「いっつも説教ばかりしやがって・・・」と思っていました。しかし,何回も何回も大平さんが来て,一生懸命話をするので,だんだんと心を開くようになっていきました。そして,大平さんの人生をかえるあることがあったのです。

資料1 を配布。教師が読む。


尾関宗園の銘訓

説明3
 やり直そうと決心した光代さんでしたが,中学生のときに受けたいじめの事がどうしても忘れられなかった。辛かった。過去のうらみをひきずっていた。そう簡単に消え去るものではない。そんなとき,大平さんからアドバイスをもらいました。「だったら復讐したらええやんか。でも方法を間違ったらあかん。」「最大の復讐は,自分が立ち直ることや。」というアドバイスでした。光代さんはいじめられたことの復讐をはたすために,自分が立ち直り,資格を身に付けることにしました。はじめに光代さんは「宅建」という建物の取引をする資格を取ることにしました。勉強は大変でした。


発問5 中学校しか卒業していない,それも中2の途中から学校へ行っていない光代さんは漢字も英語も読めません。勉強を始めるにあたって最初にしたことは何だと思いますか。

最初にしたことは,「漢字の読み方を調べるのに辞書を引いた」です。参考書に何が書いているかわからないので,一つ一つ辞書で調べたんですね。 

発問6 今まで勉強する習慣の全くなかった光代さんが,自分に勉強を強制するためにしたことは何だと思いますか。         

椅子に自分の足をロープでしばった」のです。最高で6時間しばったそうです。もちろんその間はトイレにも行きません。


ビデオ(NHK『わたしはあきらめない,弁護士 大平光代』)の続きを見る。
 大平さんとの出会いから,資格取得のための猛勉強,そして宅建,司法書士,そして最難関の弁護士の試験に合格するまでのストーリー。子どもたちは,光代さんの話やナレーションに聞き入っていた。

説明4 光代さんは試験に1回で合格し,弁護士になりました。弁護士とは,裁判などで訴えられた人の側にたって,弁護をして,応援する法律のプロです。弁護士になるためには,司法試験に合格しなければなりません。この試験は日本で一番難しい試験と言われています。東大や早稲田,慶応といった日本のトップレベルの大学生が受験してもなかなか合格できません。100人受けて,合格できるのは2,3人ぐらいです。漢字が読めなくて辞書を引いていた光代さんが,司法試験に一発で合格し,弁護士になることができたのです。今は主に非行少年に関係する仕事を受けて,立ち直れるように援助をしているそうです。

光代さんは,人生をやり直そうと決心したとき,大平さんからある言葉を贈られました。光代さんはその言葉を大事にし,これまで生きてきたそうです。

資料2 を配布し,読む。

発問7 (   )にはどんな言葉が入ると思いますか。

答えは,「瞬間」です。
 


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