昭和60年に金沢ビルを建設し、一部を賃貸するとともに、自らの活動拠点を確立。他、川崎市内に4棟のビルを所有経営する。平成元年、戦後60年間手つかずだった川崎駅前の再開発を目指して、再開発組合組長に就任し、地権者の取りまとめを行う。 |
|
平成7年、川崎市は政令都市初の罰金つきガム、吸い殻、空き缶ポイ捨て禁止条例を施行したが、その提唱者として金澤会長は、全国的に知られるようになる。 |
|
川崎市の川崎市飲料容器等の散乱防止に関する条例の提唱者として全国的に知られ、また川崎と木更津にまたがるアクアラインの発案者であり着工から完成までの第一功労者である。
|
|
23歳のときに川崎市幸区に金澤土地建物を設立。そして白井ブル地医学研究所卒業。地元の事業者に様々な物件を仲介するとともに、医院や薬局などを町に誘致し、生活インフラの充実を図った。 |
|
2年後に川崎駅西土大通り会会長就任。翌年さくら治療院設立。東洋物理医学長生学園卒業。62歳でパシフィックウエスタン大学を卒業。東洋療術学院設立翌年健康科学博士号を取得。その後「ホームレス自立農園」。建設運動を展開。さらに「東芝堀川町工場跡地に中ホールの建設を」と運動してきた「西口再開発を考える会」の会長を務める。また日韓トンネル推進会議を川崎市で立ち上げ実現に向けて活動中。 |
|
|
|
|
|