青少年育成連合会 | 日本の未来を【夢と希望に満ちた国】にする為に日本人の心に訴えたい
子どもは日本国の宝|私たちは【子どもをいじめと虐待、性犯罪から守る】為にあらゆる方法を講じ解決にあたります



 



月の水曜会の集まりで特攻隊戦没者慰霊顕彰会、募集委員会の会員、鈴木千春さんの講演を聞いて、参加した多くの有識者は大感激した。私もその中の一人だが、なかなかしっかりした女性で、話の内容も分かりやすく良く勉強している。



そればかりではない、戦争当時の事を資料館などで、数々の真実を調べる為に、行動している。それと他の団体とも交流を持ちながら、知識を広めていく女性は中々出会った事がない愛国心の魂を持った人。まだ鈴木さんのような勇ましい大和撫子みたいな女性は久しぶりに見た。


      青少年育成連合会NNさん

かつて私の団体にも勇ましい大和撫子がいた。女性の活動家NNさんに、イギリスの有名なメディアから取材があり、その記者からNNさんを日本のジャンヌダルクと称賛された。私も一緒にいたので、その通りそして取材に対し彼女の過激な活動を紹介。それに現在の数々の犯罪によって被害に遭った遺族たちが、立ち上がって作った犯罪被害者の会の先駆者。



また自殺マニュアル本によって多くの若者が自殺した。それに対しNNさんは自殺マニュアル本に対し、出版停止の活動を開始。それによって社会に大きな問題を巻き起こした。この件に関して法務省や検察庁に殴り込みをかける。特に検察庁のS検事はNNさんに対し馬鹿にした言い方をしたので、それを聞いた私はそのS検事に対し、国民に食わしてもらっているお前は、主人の云う事を聞けないのか。一生懸命訴えているNNさんに対し、ひざまずいてワンワンと言って謝れと怒鳴ったら、S検事はすごく興奮していた。

それぐらい言わないと私も気が済まないし、女性だからと言って大和撫子をなめたら我々はいつでも出て行くと云う事だ。それから少年犯罪がますます低年齢化。それに対し少年法改正をNNさんは特に社会に訴え、それに対し福島瑞穂をはじめ数々の弁護士会や左翼陣営は少年法改正反対を訴え始めた東京中心にシンポジウムなどが盛んになり、それに対し我々は抗議活動を開始。その激しさに少年法改正反対運動が表面化しなくなった。
とにかく我々はよく戦ったと思う。それからしばらくして少年法改正反対運動は鳴りを潜めた。それから子どものいじめや自殺問題は九州北海道を除き、遺族とともに戦う事を主に事件のあった現地に出向き、被害者遺族と一緒に学校や教育委員会に対し原因究明とでたらめな教育委員会や学校に対し徹底的に責任追及と対策などを聞いてもすべてにわたって無責任未だ解決策なし。毎年亡くなる子どもの自殺は600人前後。これからは反省するところは反省して活動を強化していく。


      特攻隊員を見送る学童

私も昔からそうですが、この国の為に戦い亡くなった多くの軍人特に若くして特攻隊員で国の為に命を亡くしたにも関わらず、今の国民は利己的で平和ボケ。


        出兵を見送る学童
そればかりではない。小中高生から金の為だったら平気で売春する時代。また多くの男らは、そういう子どもを性の対象とするこの人間性。とにかく子どもを金で買う男に対しては5年以上の懲役刑で刑務所送りにしなければ、ますます子ども社会が崩壊し日本の将来は無い。最後は中国の属国。これで日本は終わりだ。


  特攻隊戦没者慰霊顕彰会 鈴木千春さん

http://www.tokkotai.or.jp/


         特攻観音堂

特攻隊戦没者慰霊顕彰会 
沿革

          靖国神社拝殿
昭和27年05月
元海軍大将 及川古志郎、同 高橋三吉、元陸軍大将 河辺正三、元陸軍中将 菅原道大、元海軍中将 寺岡謹平等の諸氏が発起人となり,特攻平和観音像が造立され、音羽の護国寺で東久邇元宮様のご臨席もと開眼供養を厳粛盛大に挙行、昭和28年世田谷山観音寺に奉遷され、特攻平和観音奉賛会を設立
昭和31年05月 同寺内に華頂宮家遺愛の持念仏堂を移築し、特攻平和観音を遷座し、落慶法要を厳修した。以後毎年秋分の日(9月23日)に、浅草寺一山式衆のもと厳粛盛大に年次法要を実施
昭和57年09月 特攻隊の慰霊顕彰事業を、特攻平和観音の法要の他にも幅広く執り行うことが緊要であるとの意見が出て、竹田恒徳元宮様を新たに会長にお迎えし,会名も特攻隊慰霊顕彰会として全国的な組織に拡大
平成04年05月 竹田恒徳会長がご逝去され、瀬島龍三氏が会長に就任
平成05年11月 財団法人特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会を設立
平成06年03月 全国特攻隊戦没者追悼式を千鳥が淵墓苑で挙行。同日設立総会を九段会館で開催
平成14年12月 基本財産2億5千万円
平成16年04月 山本卓眞氏が会長に就任、瀬島会長(平成19年9月逝去)は名誉会長へ
平成20年04月 事務所を港区虎ノ門第6森ビルから港区芝2丁目のTAビルへ移転
平成23年01月 公益財団法人特攻隊戦没者慰霊顕彰会に移行 


     第26回 特攻隊合同慰霊祭3

靖国神社崇敬奉賛会
勅使参向 

靖国神社崇敬奉賛会は、靖国神社にお祀りされている英霊を奉慰顕彰するとともに、そのみこころを受け継ぎ、健全なる国民道徳の作興と国家社会の安泰に寄与することを目的として、平成10年12月17日に設立されました。
本会では、設立の精神に基づき、公開シンポジウム、英霊慰霊顕彰勉強会を始めとする様々な事業を行っております。
ご遺族、戦友の方々をはじめとする崇敬者各位はもとより、日本の将来を担う壮・青年層の方々から、幅広く本会  設立の趣旨にご賛同いただき、お一人でも多くの方々に、崇敬奉賛会会員としてご奉賛賜りますよう、心よりお願いを申し上げます
英霊にこたえる会
 英霊にこたえる会は国のために尊い命を捧げられた英霊の慰霊・顕彰を行い、首相の靖国神社公式参拝を求める会です。

 






予科練資料館 - 特攻隊員の遺書より
http://www.yokaren.net/modules/tinyd/


 今度攻撃命令を拝して、出撃することになりました。日本男子の本懐これに過ぐることなく、喜びに耐えません。父上様方も聞かれましたら、さぞかしご満足されることでしょう。
 今更言う事はありませんが、一寸の孝行もせず、ただただ二十年の人生を育てて下された父上様、母上様、祖母様方に何とお詫び申し上げてよいか判りません。
 まだ戦争に行ったことがないので不安な点もありますが、弾が命中したら、必ずや敵の空母を撃沈します。
 突然でさぞかし驚かれると思いますが、立派に男子の本懐を全うします。
 出発まで時間がありません。一言、最後の言葉を。
昭和20年4月7日
二飛曹 清水雅春 18才
神風特別攻撃隊第三御盾隊として、沖縄海域にて特攻戦死






 待ちに待った晴れの出陣を、明日に控えました。
 突然でいささかあわてましたが、大いに張り切っておりますので、何とぞご安心下さい。
 生を享けて、ここに二十二年になります。何の恩返しも出来ず誠に申し訳ありません。何とぞお許し下さい。
 国家のために散って征くことを、最大の孝行としてお受け下さい。
 私が戦死したと聞きましたら、赤飯を炊き、黒い着物など着ず、万歳と叫んで喜んで遺骨を迎えてください。
 多分骨はないものと思いますから、体操シャツを一枚送ります。
 これは昭和十七年七月十一日土浦航空隊に天皇陛下が行幸されたときに使用した記念すべき品です。私と思って大切にしてください。
 今となっては別に言い残すことはありません。
 とにかく、命のあるうちは徹底的に頑張り抜く覚悟でおります。必ずや、敵空母の一隻や二隻は沈めてみせるつもりです。
 取り急ぎ乱筆になりました。感無量で何もかけません。これでペンを置きます。
 ずいぶんとお元気で、いつまでも暮らしてください。 小父さん、小母さんたちによろしく。ではご機嫌よう。さようなら。
 母上様
神風特別攻撃隊 第二御盾隊
海軍上等飛行兵曹 小松 武 (高知県)
昭和20年2月21日 硫黄島周辺の艦船攻撃中戦死


 


 戦いは日一日と激しさを加えて参りました。
 父母上様、長い間お世話になりました。私も未だ十九才の若輩で、この大空の決戦に参加できることを、深く喜んでおります。
 私は潔く死んでいきます。
今日の海の色、見事なものです。決してなげいて下さいますな。
 抑々海軍航空に志した時、真っ先に許されそして激励して下さったのは、父母上様ではなかったでしょうか。既に今日あるは覚悟の上でしょう。私も魂のみたてとして、ただただ大空に身を捧げんとして予科練に入り、今日まで猛特訓に毎日を送ってきたのです。今それが報いられ、日本男子として本当に男に花を咲かせるときが来たのです。
 この十九年間、人生五十年に比べれば短いですが、私は実に長く感じました。数々の思出は走馬燈の如く胸中をかけめぐります。
 故郷の兎追いしあの山、小鮒釣りしあの川、皆懐かしい思出ばかりです。
 しかし父母様にお別れするに当たり、もっと孝行がしたかった。そればかりが残念です。随分暴れ者で迷惑をおかけし、今になって後悔しております。
 お身体を大切に、そればかりがお願いです。親に甘えた事、叱られた事、皆懐かしいです。育子、昌子の二人は私の様に母に甘えたり叱られたり出来ないかと思うとかわいそうです。
 いつまでも仲良くお暮らし下さい。私も喜んで大空に散っていきます。
 平常あちこちにご無沙汰ばかりしておりますから、何卒よろしくお知らせ下さい。お願いします。御身大切にごきげんよう。

神風特別攻撃隊 大和隊員
一飛曹 塩田 寛 18才
昭和19年10月26日 レイテ沖にて特攻戦死


特攻へのレクイエム

特別攻撃隊<最後の手紙>

【靖国神社】特攻隊員の遺書【太平洋戦争】

良曲を聴きながら故人の言葉を聞くver特攻隊vol.4

良曲を聴きながら故人の言葉を聞くver特攻隊vol.5



    回天(人間魚雷) - Wikipedia より

回天(かいてん)は、旧日本海軍の特攻兵器の一つで、人が乗り組み操縦できるよう、九三式三型魚雷(通称「酸素魚雷」)を改造した人間魚雷。炸薬量は1.55トンあり、一撃で戦艦でも撃沈できるとされた。的(てき)、〇六(マルロク)との別称もある。

「回天」は、「天を回らし戦局を逆転させる」との意味。必死必殺の救国兵器として考案された。

回天戦の戦没者
終戦までに訓練を受けた回天搭乗員は、海軍兵学校、海軍機関学校、予科練、予備学生など、1,375人であったが、実際に出撃戦死した者は87名(うち発進戦死49名)、訓練中に殉職した者は15名、終戦により自決した者は2名。回天による戦没者は、特攻隊員の他にも整備員などの関係者もあり、それらを含めると145人になった。
 


 


 今日の午後、連合会事務局長が三宅島から東京に帰るまでの様子は、1日1便の空と海の路線のどちらを選ぶかによって、その後の展開は変わった。



いつもなら、昼過ぎに東京発の飛行機が着陸するのだが・・・



数日前から、きれいな海も荒れて白波が目立ち、風もあり空も暗かったので、飛行機は着陸できず、三宅島発の便は欠航となった。



それではと、大型旅客船で東京へ帰る事にしたが、途中まで船は上下左右に揺れていた。扉の窓から外を見ると、波しぶきが何度も上がって、しばらく揺れ続いた。
島の自然との共存共栄と噴火の時の様子や暮らしは、後日改めて書きます。


国旗は日の丸、国歌は君が代
 


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