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randomnote

日記。

台湾みやげ話 片岡巌 10

2011年12月07日 | 台湾みやげ話
10◎台湾人は迷信が深いと云う事ですが如何ですか

そうですその迷信の多いのに驚き入ります仮令(たとえ)ば竹に花が咲けば反乱が作(おこ)る、
䓶桐(しとう)に花が咲いても反乱、濁水渓の水が三日悅(す)めば反乱、何の日の雨が降ったから悪疫流行、龍眼の實(りゅうがんのみ)が沢山生ったから悪疫、五月何日には天が毒水を降らす日だから井戸に蓋をする、又犬が屋根に上がったから火事が出来る、猫の聲が何(どう)、鶏(にわとり)の啼聲がどうと種々沢山の迷信があります。

台湾みやげ話 片岡巌 9

2011年12月06日 | 台湾みやげ話
9◎台湾人が第一に信仰する神仏は何ですか

台湾人の普通の人で何宗にも片寄ざる人は一般に観音菩薩と媽祖と云う神を祀って居ります普通人の正堂の上に据えてあるのは大概右の二つです尤(もっと)も職業に応じて信仰する神を異にして居る事は丁度内地の武術家が八幡大神、船乗りが船玉様や金比羅様、宿屋が童祿神(どうろくじん)芸人が稲荷を祭る様に種々異なった神を信仰するものもあります。

台湾みやげ話 片岡巌 8

2011年12月06日 | 台湾みやげ話
8◎台湾の基督教は如何ですか

基督(キリスト)教は台湾では、最も古い沿革を沿革を有(も)って居ります彼の寛永3年頃(1623年)和蘭(オランダ)人が台湾を占領し居りし時より本国より宣教師を送りて盛んに教化に力(つとめ)たのを初めとして蘇国(スコットランド)長老教会は台南に宏大なる教会堂及び学校、病院等を建て又カナダ長老会は淡水(たんすい)に宏壮なる教会堂を建て尚各所に教会堂を設けて盛んに伝道し信徒も全島山間僻地に至る迄信徒ならざるの地なき程に至って居ります。 
  帝国領台後内地より各派の宣教師が渡来し布教に力(つと)め居るも之れ又内地人間のみの信徒を有する計(ばか)りで外人の布教には及びも付かざる有様であります。(台湾風俗誌に由る)

台湾みやげ話 片岡巌 7

2011年12月06日 | 台湾みやげ話
7◎台湾人は如何なる神仏を祭りますか

台湾人も内地人と同じく日輪や月や星や天地山水風雷火等を祭った神社が(台湾では之を廟と云う)沢山あります、又人の霊魂を祭ったものもあります、人の霊魂を祭ったものでは台南に開山神社があります之は内地の芝居で有名な和唐内(わとうない)というあの内地の長崎で生まれた鄭芝竜の子、鄭成功で人は呼んで国姓爺という人を祭ったのや蕃人の教化の為に犠牲となった呉鳳廟(嘉義郡にあります)や、女子で二十餘歳で神通力を得て上天(しょうてん)して神となったと伝えられる支那福建省湄州(びしゅう)の林愿(りんがん)なるもの女子默娘と云うものを祀った媽祖廟は全島に至る所にあります、又帝国領台後台湾にて薨去(ほうぎょ)せられたる北白川宮殿下も全台鎮護の為各地に社を建てて祀っておりますこの社は台北のが最も荘厳のものであります。
 佛の方は支那福建省皷山湧泉寺(こざん、ゆうせんじ)又は怡山長慶寺(いざん、ちょうけいじ)、浙江普陀山普禅寺(せきこう、ふだじ、ふぜんじ)等から受戒したる僧が台湾に来て一寺の住職となり臨済宗を布教して居ります。又臨済宗の別れで食齋派(しょくさいは)と云うのがあります之は肉食丈(だけ)禁じて他は普通の人と同じく妻帯もし各自家を持って居て朝夕(ちょうせき)佛を拝祀し僧の如く読経焼香して佛に事(つか)えて居る宗旨(しゅうし)であります 其の他道士と云うものがあります之は内地の山伏と僧とを混交した様な読経もすれば祈祷も呪(まじな)いもすると云う宗旨でありますが之れ等の三つの宗旨は何れも葬式その他の冥福を祈る為に法事施餓鬼等に立ち会うのあります。
 右の様な次第で全島至る所に立派な寺が沢山あります領台後は内地より各宗派全部来台し各所に寺を建てて布教して居りますが之等は単に内地人に止(とど)まり未だ台湾人に迄布教するにはなって居ませぬ。

台湾みやげ話 片岡巌 6

2011年12月05日 | 台湾みやげ話
6◎台湾人の先祖は何處から来た人ですか
台湾人といえば前お話した生蕃がこの地の生え抜きの台湾人でしょうがそれは300年ぐらい前の事でオランダ(和蘭)人領台後頃より対岸の支那南部の福建、広東の地方からやってきた支那人が今は重(おも)なる台湾人と称されて居るのであります大正12年の統計台湾現住人口397万6198人で其のうち内地人18万1847人、台湾人367万9371人、生蕃人8万4177人、外国人3万703人であります、外国人には支那籍の人が大部分を占めております。

台湾みやげ話 片岡巌 5

2011年12月05日 | 台湾みやげ話
5◎土匪とは何ですか
土匪と云うのは多数の台湾人が結合して政府の命令に反(そむ)きて政府に反抗する輩(ともがら)を云うので清国政府時代から斯様な不逞の輩が度々政府に反抗してその甚だ敷いのは台湾全島に及んだことが数回有ります、台湾ではこれを反乱と云うて居ります。我が領台当時も全島至る所官兵と土民と一所になり又は百千人と隊を成して我が軍隊又は官衙に反抗しましたその当時は日本人は一夜でも安眠することが出来なかったので有りますが明治31年頃までには各地の土匪は討伐又は降参して平定し、明治35年児玉総督の時代に大匪小匪は悉く討伐され全島全く平定は帰し、爾来人心も安定し産業も勃興し、今日に於いては如何なる山村僻地でも土匪などの影は認められぬ次第であります。

台湾みやげ話 片岡巌 4

2011年12月05日 | 台湾みやげ話
4◎熟蕃(じゅくばん)とはなんですか
熟蕃と云うのは山の麓や比較的険阻でない所に棲んで開けた人と交際をして少しは物の道理が分かって居る蕃人です。詰まり熟蕃とは多少物事の分かって幾分開化した蕃人で生蕃とは山の奥に棲んで文明人と交際せず只同族の人のみと交際して太古の儘で少しも進化しない蕃人です。
詰まり生は「ナマ」熟は「ナレル」と云うより区別したので人種は矢張り同人種であります、それですから生蕃の棲んで居る山を蕃山又は蕃界と云います。この蕃界には普通行政が行き届かぬから其の境に隘勇線(あいゆうせん)と云う界を設けて南部より北部の蕃界に鉄線を張り之に電流を通じて蕃人が矢鱈に出入の出来ぬ様にして十丁、二十丁位隔てて番小屋を設けて巡査や警手や隘勇と云う番人が守備をして居ります此の番人は大層難儀いたして居ります、それで今日では蕃山の上を飛行機で飛び回り獰猛蕃人の居る所へ爆弾を落として威嚇して彼らが暴れぬ様に警戒をして居ります之は大変成績が好いと云います。

台湾みやげ話 片岡巌 3

2011年12月04日 | 台湾みやげ話
◎首をとる訳は如何訳ですか

それはこう云う訳です。前に申した通り台湾は今より300年前我が寛永元年頃までは、台湾全島の主人公は今の生蕃人の先祖であったのでありますが、その頃より(和蘭人)オランダ人や(西班牙人)スペイン人が来て台湾を占領して居りましたがオランダ人はスペイン人を追い払いて後、盛んに蕃人を教化して38カ年ばかり過ぎ、蕃人も悦んでこれに従い其の時分には首狩りの風習は無かったのであります、そうして居るうち、ご存知、鄭成功、日本で云う国姓爺(こくせんや)、俗語で云う和唐内(わとうない)が明朝の家来でありましたが明朝が清朝に亡ぼされてから台湾に来てオランダ人を追い払い故郷よりどしどし移住民を連れて来て屯田兵の様なものを置いて台湾を占領していたのですが、支那人がどしどし渡台したので、だんだん都会の地や肥えたる地は漢人に占領せらるる事となり、だんだん山近く蕃人は押しやられる事になりました。
国姓爺が来て3代目の鄭克塽(ていこくそう)と云う人の時、ちょうど23年目に清国の施琅(しろう)と云う大将に亡ぼされて台湾は全く清国のもの(版圖)となりました。
此の時より以前に数倍の移住者が渡台して来ました。その中には金持ちの人もありましたでしょうが、多くは脛一本で一攫千金的の輩が多かったので、無知蒙昧の蕃人を、或いは騙し、或いは脅してその動産、不動産を強奪し又乙所を奪い丙所を耕せば、丙所を奪い大いに虐待酷遇したので蕃人等は俄かに生活の安定を失い今まで人口は少なくなる所肥えた畑、饒えた田豊富なる猟場漁場が有り余って居ったのに祖先伝来のその地を追われ一年一年山辺の痩悪の僻地に押し込まれ遂に今の山奥へ押し込まれたのであります。
生蕃と云うても難儀する事は嫌いで楽をする事が好きであるから、平地に棲む事が出来れば何もわざわざ山奥を選んで棲む訳は無いのですが、文化の度が違う優越(すぐれ)た勢力のある清人に追われてやむ得ず泣く泣く祖先の開いた所の平地を去って奥山の猿も通わぬ所に住まねばならぬ事になったのであります。こうなってはいかにお人好しの蕃人でも黙って居る訳はない。只勢力は弱い為屈伏して居るのでその心中は恨み骨髄に徹し敵の一分子たる一人にても首を切って祖先の神前に手向けてその霊を慰めんと思い、常に復仇の念去らず、同族以外の人は皆仇敵と思うて首をとることに力(つと)めて居った結果、遂に今日の首狩りの習慣を遺したと云うことであります。

台湾みやげ話 片岡巌 2

2011年12月04日 | 台湾みやげ話
◎生蕃(せいばん)は人の首をとるというが本当ですか
それは真実です。しかし蕃人でも山麓や又人里近い所又は宗教の為教化された所の蕃人は首はとりません。
まだ教化を受けない山奥の者が、多く首をとった者が勇者であると友に誇る為、又は祖先を祭る時、又は春秋の穀祭り等に神前に供える為に能く首狩りに出ます、此の首は老若男女の区別はありませぬ何でも人の首であれば選ばずにとるので、此の風、深山の兇蕃に残って居ります。

台湾みやげ話 片岡巌 1

2011年12月04日 | 台湾みやげ話
◎台湾に生蕃(せいばん)が居ると云うが如何ですか

此の生蕃とは内地で聞きますと台湾には至る所生蕃が居る様に云うて居りますがそう云う訳ではありません。
生蕃と云うのは、ズーッと昔台湾に居った土着の人で人種はマレー人種で初めは台湾の平地に居った野蛮人でありますが、対岸の支那からどしどし支那人が移住して来て蛮人の生業たる農業や漁業等を殆ど壓制(あっせい)的に取り上げて、年々次第次第に山辺に押し込み、今では全く深山の山麓、山腹、山奥に外居らぬ事になって居ります。其の風俗習慣は全く原始的で能く南洋の蕃人の繪を見る事がありますが彼れと少しも異なりませぬ、まあ我が内地の北海道の「アイヌ」族のようなものです。言葉などは全く支那人、外国人または南洋諸島の土人などとは違って居ります。その語系は日本語、朝鮮語の様に棒読みでありまして外国語や支那語の様に翻訳をする時、かえり点を付けて解釈することは要りませぬ。衣物は風呂敷の様なものを一枚片方の肩から脇き下に掛け腰には一寸した布を巻き付けて置くばかりで随分原始的な風であります。併し内地では生蕃が台湾到る所に居る様に考えて居る人がある様ですがそれは間違いで、前に申した様に深山(しんざん)に居るので殆ど原始的の様な有様です。併し今は村落に接した所の蕃人は大いに進化して稀に中学卒業した者も医学校を卒業したものもありますが、之に極僅かのものであります。

台湾みやげ話 もくじ

2011年12月02日 | 台湾みやげ話

台湾みやげ話目次
1◎台湾に生蕃が居ると云うが如何ですか
2◎生蕃は人の首をとるというが本当ですか
3◎首をとる訳は如何訳ですか
4◎熟蕃とはなんですか
5◎土匪とは何ですか
6◎台湾人の先祖は何處から来た人ですか
7◎台湾人は如何なる神仏を祭りますか
8◎台湾の基督教は如何ですか
9◎台湾人が第一に信仰する神仏は何ですか
10◎台湾人は迷信が深いと云う事ですが如何ですか
11◎台湾人の出産は如何ですか
12◎台湾人の結婚は如何ですか
13◎台湾人の葬式は如何ですか
14◎台湾人の住家は如何ですか
15◎台湾人の好む食物は何ですか
16◎台湾で珍しい食物は何ですか
17◎台湾人の正月は如何ですか
18◎台湾人のお祭りは如何ですか
19◎台湾人の娯楽は如何ですか
20◎台湾人の音楽は如何ですか
21◎台湾人の女の纏足とは如何のものですか
22◎台湾人の辮髪とは如何のものですか
23◎台湾人の女の髪は如何ですか
24◎台湾人の衣服は如何ですか
25◎台湾人には両便所が無いと云うがそうですか
26◎台湾人は阿片を吸うと云うが如何ですか
27◎台湾人は人身の売買をする風があると言いますがそうですか
28◎台湾人は妻や妾を質に置くと云うが真実ですか
29◎台湾人の私刑と云うのは何ですか
30◎台湾人の武術は何んなものですか
31◎台湾の芝居は何んなものですか
32◎台湾人の家督相続は如何ですか
33◎台湾人の性質は如何ですか
34◎台湾人の職業に珍しいものはありませぬか
35◎台湾の隘勇線(あいゆうせん)とは何ですか
36◎台湾の魚塭(ぎょうん)とは何ですか
37◎台湾に珍しい動物は居りませぬか
38◎台湾に毒蛇や大蛇は居りませぬか
39◎台湾の名所旧蹟は如何ですか
40◎台湾の人口は何程ありますか
(追記)
41◎台湾は内地から何里ありますか
その地形等は如何ですか
山や川は如何ですか
港や海岸は如何ですか
開墾事業などは如何ですか
鯨や珊瑚が採れるようですが如何ですか

42◎台湾の都市は如何ですか
台北は如何ですか
新竹は如何ですか
台中は如何ですか
台南は如何ですか
高雄は如何ですか
台東は如何ですか
花蓮港は如何ですか
その他の都会は如何ですか

43◎台湾の行政機関は如何ですか
44◎台湾の教育は如何ですか
45◎台湾は交通や通信が便利ですか
46◎台湾の衛生状態は如何ですか
47◎台湾の気候は如何ですか
48◎台湾は米が三度収れると云うがそうですか
49◎台湾の主な産物何はですか
50◎台湾の果物や野菜は如何ですか
51◎台湾に珍しい植物はありませぬか


※各章の番号はひ孫がつけました。

台灣みやげ話 片岡巌 序文

2011年12月02日 | 台湾みやげ話
台灣みやげ話
序文
「台湾みやげ話」は、之を一読して、何人も容易に、台湾特異なる風俗習慣の概念を、知るを得べけむ。しかして此の書の信憑力あるは、著者片岡君の、曾て「台灣風俗誌」の大著を成せるによりて明瞭也。由来台湾特異の人文地文は、之を研究して興味津々たるものあり。況や本島帝国の新領として、今や母国の文化と渾然融合を見んとするをや。此の際台湾の現勢を知るべきは、単に趣味問題たるに止まらず、又た、母国人の常識問題として必要なるべし、片岡君の此の小著は「みやげ話」以外に、又た世を益する所あるべき也、一言以って序文と為す。
大正14年の登高日、淡北草堂に於いて   大遯山人識

自序
台湾に永く居る人で、台湾の事を余り知らぬ為、台湾から帰って、内地の人に台湾はどんな所ですか、と聞かれて台湾は暑い暑いでそれで生蕃が居りまして酷い所ですと云う位ほか話す事が出来ない人が沢山あります。之はその筈です、台湾に来て居らるゝ人は台湾の事情を調べに来たのではなく、国の為や家の為、その他種々の忙はしき用事のある人のみですから、自分の知って居る職務以外の事は知らぬのが当然です、斯様な御方の為御土産話として之を著した次第であります。
此れより詳細の事を知ろうと思し召す御方は私の著した台湾風俗誌(是は台湾日日新報社で発行して居ります)それから台湾事情(是れは台湾総督府発行)をご覧になれば詳しく御分かりになります。大正14年10月  著者識

郡山市にイッテキマシタ

2011年11月30日 | 台湾ー郡山
11・26
郡山は肌寒かったけれど、天気が良くて、時間の流れが少しゆっくりしていた。
お墓参りを済ませたあと、母と母の姉の叔母さんのうちで、かなり長い間、台湾について語り合いました。

叔母の回想>日本に戻ってきたのは、叔母の記憶によると、終戦の少し前に台湾の方に手伝ってもらいながら。5歳の叔母と生まれたばかりの母をおぶって森永夫妻は、京都の舞鶴港についたそうです。トイレが板を二枚渡しただけで、とても便利な怖かった。また、生まれたばかりの母は、風邪をひいて死にそうだったのですが、乗客していた方が薬を分けてくれて、一命をとりとめたそうです。
舞鶴からまず福井に行きます。でも途中で、京都にいた大谷賢逸さんという伯父さんに会いに行ったかもしれない。(とても仲の良い親戚で森永信光の妻みさ代さんの弟。)
この方も花蓮で商売をやっていて、朴子の家で同居していた事もあった。聞くと、叔母さんはこないだ京都にこのひとの息子に会いに言いてきたそうです。息子と言っても、もうお爺さんだけれど。
まだ京都にいるそうです。

その他いろいろいい話がたくさん出来たと思います。


片岡巌の曽孫、台湾にて、原子力発電に反対する呉慶年教授に出会う。

2011年11月20日 | 台湾ー郡山
台湾に11・9から4泊5日で行きました。
大変楽しく密度の濃い旅でした。
詳しくいずれ皆さんに報告できると思いますが、
取り急ぎ台南の成功大学にて夜の不思議な古老との出会いについて皆さんにご報告いたします。
我々が(僕以外に楊先生と助手のライちゃん)、台南についたのは、もう日が暮れた頃、それから岡本先生と会食する事になり、4人で席を囲んで食事が運ばれてきた頃、我々は朝から何も食べていなくて、お腹がペコペコだったのです。しかしふらりと一人の古老が私たちに声をかけてきた時僕の食事の手は止まりました。

壁を挟んだ向かい側の広いスペースでは、物理学研究所の同窓会が行われており、
そこの出席のために訪れたといって、流暢な日本語で、語りかけてくれました。
成功大学は今年80周年で今週は沢山のイベントがある学園祭。今回の記念に私は、物理学の歴史を調べ、また、成功大学の歴史も調べた。それをまとめたものを見せてくれた後、こう言った、物理の中に哲学がなければいけない。哲学の無い物理は空虚である。西田幾多郎の息子は物理学者である。
そして、ぼくは今回の旅での目的を伝えると、台灣風俗誌を手にとり、よく調べてあるとひとしきり感心なさった後、北投の媽祖廟についての項を読み、自分はここの出身である大変懐かしい、、、
私は稀に漢詩を詠む、時に漢詩は写真よりも、如実に詠む者の心を映す。

また研究は太陽発電をしている、、。
、、、僕の今回の旅のノートのはじに、何故か太陽光発電のメモをとっていたので、
時はいまだと思い、質問をいろいろぶつけてみた。
例えば、太陽光発電は10から20パーセントしか実質発電できないんですよね。とか、
その時、古老の眼鏡がキラリと光った様に一瞬見えた。
あなたはいつまで台南にいますか?、、、そうですか明日までなら明日の朝、成功大学に来てください。
福島の方に送る手紙を書いたので渡してください。


、、、何故、我々が台湾の後、福島に行くとわかったのかますます謎は深まるばかりである。

片岡巌は福島に生まれて、そして、1896年の三陸沖地震の時に仙台第2師団から台南に行った。そして台南のこの成功大学の校舎の横の今はキャンパスになっている所に台灣歩兵第2連隊寄宿舎があった。
片岡巌も台湾歩兵隊第2連隊に入隊後、憲兵隊へ編入されます。のちに台南地方法院検察通訳で戻って来たし、なくなったのは台南。
第2師団と言うのは、日本では東北、台湾では台南。

数々の謎の解く鍵を求める為に、以下のその時に頂いた文章をとくと読まれたし。
そして11・26に福島県郡山にいってきます。


武士道精神を以って脱核を推進しよう。
ー2011年「反核燃」青森集会に寄せてー
呉慶年( 台灣環境保護連盟学術委員)

3月11日、強震、津波、原発災害が同時に日本東北地方を席巻してから、一月に満たない今、同じ東北の青森で2011年「4・9反核燃の日」全国市民集会が挙行されるに際し、同じ環太平洋地震帯にあり、同型原発の災害脅威にさらされている台灣から、核燃サイクル政策転換へ向け、たくましく奮闘される皆様にご挨拶申し上げます。
 私はかつて2000年の「反核燃」5000人集会に参加する光栄に浴した者ですが、大会前日の記者会見で7社を超える記者たちが出席、熱心な問答を交わしたのを見て、新世紀の幕開けにメディアと世論が核燃サイクル(核エネルギー発電とその前後の核燃料製造再生、核廃棄物処理を含む)問題や代替エネルギーに対する多大な関心に強い感銘を受けました。
  しかし今回の青森集会は、折しも、3月28日に菅首相が国民に「東日本全壊」の最悪事態可能を警告するような巨大災害の真っ最中とて、特に重大な時代意識があります。当初IARAは福島第一原発事故を第4級と軽く評定したが、3月13日の台湾公共テレビで私は災害発展の重大さを指摘し、必ずスリーマイルの第5級を超えるだろうと発言した折、案の定間もなく第5級を過ぎエスカレートして第6級に。これはチェルノブイリの第7級に次ぐ大事故です。冷却失敗に伴い、炉中及び使用済み燃料棒から出た放射能は、陸海、農作物、水産物および水道水を汚染し、さらに遠く欧米でI-131,Cs-137等が検出され、恐核、反核及至廃核の声浪が全文明世界に広がっています(特にドイツでは1日の内に25万人がデモして既存原発17基の廃炉を要求し、また連邦の重要な一邦で緑の党の首相が選出されました。
  日本もこの千載一遇の不「幸」機に、世界潮流に順応し、一歩大きく踏み出して脱核(原発+核燃)への推進を成功させましょう。将来いつの日か、芭蕉の「奥の細道」を巡って、福島原発厰と六ヶ所核燃処理厰の廃墟を訪れるであろう旅人は、きっと感極まって、東北詩人土井晩翠の作詞、滝廉太郎作曲の「荒城の月」(城を厰に変えて)
今荒厰の夜半の月、変わらぬ光誰がためぞ。
垣にお残るはただかつら、松に歌うはただあらし
天上影は変わらねど、栄枯は移る世の姿。
映さんとてか今もなほ、ああ荒厰の夜半の月。

を唱って憑弔の意を捧げるでしょう。更に平家物語の冒頭詞、

祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり
沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す
奢れる人も久しからず、唯春の夜の夢の如し
猛き者も遂には滅びぬ、偏に風の前の塵に同じ

にしんみり思いを馳せるかもしれません。
  今や半世紀近く続いた日本及び世界の「原子力」時代の開幕は歴史の巨輪に押されて現実になりつつあります。
それには新しい自然エネルギー、特に太陽光発電と風力発電を基礎とする「緑の党」の一刻も早い実現にかかっています。福島核災に発端する世界性「緑革命」の行列に日本は鼓笛隊の役目を果たしてこそ、2050年ころに到来するであろう「グリーン・エネルギー」時代の幕開けに、その幕引きの栄誉を担う事が望まれましょう。 
  テレビで飢寒窮乏の絶境にありながら、なお謙虚に社会秩序を守り、相互扶助して頑張っておられる災民達、津波にさらわれる迄ずっと避難勧告の放送を出し続けた役所の女性職員、放射能に満ちた損傷反応炉建屋に命を賭して入り、修復に従事する壮士隊の姿をみて、彼等彼女等のたくましく凄まじくもうるわしい精神には、感動と敬仰に堪えません。
これこそ「台湾糖業の父」と称された東北生まれの国際人・新渡戸稲造著『武士道』の精神の具現で、皆さんが至難な「脱核」任務完遂の基本保証となるでしょう。
  私どもは、世界の人たちが皆様と手をつなぎ、「私的死を超えて公的生に奉ずる」武士道精神と「人は天に勝てず、人天共生あるのみ」の宇宙観に依り、日本がこの度の悲惨な核の「禍」を速やかに転じて、燦亮たる緑の「福」の「島」になる様、遠く台湾からお祈り致す次第です。

2011年3月29日(スリーマイル原発災害32周年翌日)謹記


最後に拙詩〈哀災民〉〈絶境見凄善〉の二首を捧げ、亡くなった皆様のご冥福と負傷された皆様、被災された皆様の健康及び生活の速やかな御恢復をお祈りいたします。

哀災民
古摩耶人曽予言 ;世界末日在明年。
難道日本出首兆?複因併発巨災変。
九級強震海嘯吞;三炉気爆輻射散。
屋流族離市町滅;炎上雪下煉獄現。
除奢帰素廃原発;血訓是「人不勝天」
桜季末料地浩刧;都知竟「天罰」説
雖経媒体断章誤;「私欲汚垢」須洗潔
災黎冷静顕高序;遺眷悲痛掩低咽
球村隣民陥塗炭;「人溺己溺」感同切
教授不調万元餞;学生送愛千羽鶴折

絶境見凄善
岸辺役所送放報;「津波将襲速退走!」
播員堅守至被捲;嗚呼春萃瞬散冫+周
傷炉建屋放射満;敢入修復壮士倣
臨義滅私助公生;大無勇践武士道
甦国正需此魂魄;核「禍」転成緑「福」島!



次回は郡山にての話と、、片岡巌の台灣風俗誌の続きも。

青年時代の片岡巖

2011年10月28日 | Weblog
片岡巖の渡台前について、
あらたにわかった事をお伝えします。

明治29年1896.6.15に三陸沖大地震が有りました。
M7を超えた地震で、余震もしばらく続いて、
今回の大地震同様にやはり大津波が起きたそうです。
被害は甚大で二万人の死者を出したと伝えられています。
1895~、片岡巖は仙台の第二師団第四連隊に入隊してました。仙台の今は榴岡公園になっている演習場や宿舎も大変な揺れがあったと思います。
そして履歴書には1896.10.28に渡台と記録されてます。

まだ若き片岡巖の21才の頃の心情を鑑みるに、
台湾というまだ見ぬ新天地に夢を抱いたんだと思います。
この事は、
今年の東北を襲った大地震と津波の被害、原発の事故による二次災害に於いても、
途方にくれ悲観するだけでなく、かつて片岡巖がそうだったように若い新しい世代が力強く、羽ばたいてゆくような希望を感じます。

また、1876.1881の二度、郡山に明治天皇の東北巡幸が二度有りました。
1876は、白河塙にでまだ生まれたばかりで無理だとしても、1881は、もう6歳になっていたので、家族兄弟と行列に並んでいたと推測されます。
郡山はその契機を境に町づくり、発展を遂げて行きました。
教育の面でも片岡巖が10年前に産まれていたら、受ける事の出来なかった新しい学問が薩長同盟の明治政府により受ける事ができました。
そして新しい空気を充分に吸い込み、深く呼吸して世界に目を向けて台湾に渡るそのような気概を養ったのだ、と。