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日記。

曾孫とsodagreen

2011年10月23日 | Weblog
 あれは2003のことだったと記憶しています。

 何度目かの台湾に旅行に行ったとき、僕は台湾の音楽にも興味があり、
ちょうどロックフェスみたいなたくさんのバンドがでるイベントが台北であるので様子を見に行きました。



帰国の時間の都合でイベントが始まる前の準備をしている所しか見れなかったんですが、
その時にとあるブースに並んでいるCDを手に取って眺めていると、
これは僕たちのバンドなんだよと気さくに話しかけてくれた若者たちがいました。

「きみたちのバンド名は?」とか、たどたどしく日本語と北京語と英語で
「僕は日本人ですが先祖が台湾で暮らしていたことがあります、台湾の人はみんな音楽が上手だし歌もうまいね」と話すと、
うちとけて、台湾の原住民の血をメンバーの何人かは受け継いでいるので、音楽が好きなのはそのおかげかもしれないと話してくれました。


帰りにCDを買おうと思ったら、
あいにく台湾ドルを帰りの飛行場までの切符代しか残していなくて、日本円しかなかった。

日本円だけど換算して「1000円でいい?」と交渉すると、「OK喜んで」と言って笑って売ってくれた。

そのうち日本にも来てね、と言ってその場を後にしました。
彼らの歌はすばらしい。楽しいし、CDを聞いてすぐに好きになりました。

今思えばCDにサインをしてもらえばよかったね。





僕と曾孫とsodagreen

2011年10月23日 | Weblog
 あれは2003のことだったと記憶していますが何度目かの台湾に旅行に行ったとき、僕は台湾の音楽にも興味があり、ちょうどロックフェスみたいなたくさんのバンドがでるイベントの様子を見に行きました。
帰国の時間の都合でイベントが始まる前の準備をしている所しか見れなかったんですが、その時にとあるブースに並んでいるCDを手に取って眺めていると、これは僕たちのバンドなんだよと気さくに話しかけてくれた若者たちがいました。

きみたちのバンド名は?とかたどたどしく日本語と北京語と英語で「僕は日本人ですが先祖が台湾で暮らしていたことがあります、台湾の人はみんな音楽が上手だし歌もうまいね」と話すと、
うちとけて台湾の昔の話や、台湾の原住民の血をメンバーの何人かは受け継いでいることや音楽が好きなのはそのおかげかもしれないと話してくれました。
帰りにCDを買おうと思ったら、あいにく台湾ドルを帰りの飛行場までの切符代しか残していなくて日本円しかなかった。
日本円だけど換算して「1000円でいい?」と交渉すると、「OK喜んで」と言って笑って売ってくれた。
そのうち日本にも来てね、と言ってその場を後にしました。

今思えばCDにサインをしてもらえばよかったね。





郡山福島にて思った事;片岡巖の生涯

2011年09月22日 | Weblog
九月十二日に郡山市音路にある、片岡巌の墓参に、はじめは一人で行くはずだったんですが、母とレンタカーに乗って行きました。
墓地の正式な名前は中原、東原墓地というそうです。ここは土佐藩(四国)からの開墾の移民の墓地です。なぜ、ここに片岡巌のお墓があるのかというと、妻、和子(にぎこ)つまり僕のひいばあちゃんの家の出身の墓がここに有ったからでしょう。
片岡巌の墓石の裏には妻和子にぎこによる略歴が記されています。
全文は以下の通りです。

第一代
従七位勲七等         片岡巌
白河阿部藩士片岡直寛の
三男 父兄に従い棚倉開墾に
移住す 長じて仙台歩兵第四聯隊に
入営 台湾守備隊に編入 渡台後 憲兵となる転じて法院通譯となり台北或いは台南の地で勤む 此聞 台湾風俗誌
外数種を著述す 大正十三年高等官七等
に叙せられ高等法院通譯に補せられしも病気の故を以って退官 後ち 司法代書を業として晩年は失明をするに及びては口述に以って 改訂 民事訴訟法台湾実例書式を変集将に出版せんとするや病重く終に昭和五年二月七日台北市に於いて五十五歳を以って永眠す。

昭和七年八月 片岡和子 建立
出生東白河郡の塙だということが
こないだ楊承淑教授から送って頂いた台湾総督府類纂の資料で分かりました。
今回白河市役所に途中寄り道したんですが、残念ながら塙は役場が違うようで
なにも手掛かりは得られませんでした。
しかしながら、前々から考えていた片岡巌の生まれた頃が幕末戊辰戦争の時期と十年と変わらず重なることや、新撰組沖田総司が白河阿部藩の出身で有る事がわかりました。

郡山の街は大きな街ですが、明治になってから拓けた当時の新興都市です。
また、棚倉は塙から北に数十キロ、と大変近く、
周辺に行けばなにか台湾へ行く前の学歴などがわかるかと思います。ただ準備と時間が必要です。

また台湾風俗誌を当時の日本人警察官がみんな読んでくれていたら、片岡巌の死後一年以内におこった霧社事件はなかったかも知れません。片岡巌も大変悲しんだでしょう。
霧社事件の事を扱った映画、今月上映のセデックパレ早く観たいです。
すごく興味あります。
また日本の戊辰戦争についても歴史の教科書で習う事ではなく自分達の歴史として同じ目線で見る事が必要で有ると考えます。少なくとも片岡巌は相対的に台湾をすごく観ていたと思います。

片岡巖関係の家系

2011年08月26日 | Weblog


【片岡巖 家系図】 
 さて、片岡家と森永家が台湾から船で日本に帰った日時が残念ながらまだわかりません。

母の記憶では1945年 昭和20年だそうですが、今度もっと調べてみます母の姉が知ってるかもしれません。
(1946年になってから帰ってきた人もいるそうです。)

【住所、年月日】
 以前郡山の市役所で調べた片岡巖関係の戸籍謄本をみてますと、娘や息子の出生時の届出の時に住んでいた住所など色々わかってくる事が有ります。


まずは、ぼくの母 森永勲枝(のりえ)が生まれたのは、1944、8/10 台南州東石郡朴子街朴子364番地です。

3つ年上の姉は1941、1/17 台南州嘉義市西門町4丁目62番地で出生と有りますから、森永信一、薫夫妻は、嘉義市に住んでいたんですね。でも、片岡巖は1930に亡くなっていますね。

 森永薫(かおる)つまり、ぼくの祖母、片岡巌の三女は、1915、9/1台南市馬兵衛街811番地で出生。

ぼくの祖父、森永信一は1908、9/29 台北廳大和蚋堡台北城内新北門街3丁目1番戸
 
 片岡直寛の三男、片岡巖は昭和年 1930年、2/7 台南州台南市大宮(室?)町 3丁目30番地に於いて死亡と有ります。(しかし、郡山市の墓石には台北にて没すると書かれている。)

 福島県出身の片岡家関係は、その他に
片岡巌の最初の妻、高萩 初瀬(はつせ)1911、9/13に3年の結婚生活の後23才の若さで台南病院で死亡と有ります。
その時片岡巖は35才ですね。僕の今とおなじどしです。

 その初瀬さんとの子供は、
長女の繁(しげ)1909、2/13 新竹廳地方法院官舎に於いて出生。
長男 武(たけし)1910、6/18 台北書院街6丁目34番地に於いて出生。

残念ながらこの二人はぼくの母に聞く所によると、武は二十二才、繁は三才と、若くに亡くなっているようで、戸籍にも詳しく書かれていません。

その後、1912、4/15 同じく福島出身の池添和子(にぎこ)と再婚。
台南馬兵衛街818番地に暮らす。
二人の間には、
勇(いさお)1912、8/15~11/3
操(みさお)1914、1/5~10/8
とても短い命ですね。

他にも台湾風俗誌の奥付けには 台南市竹園1丁目6番地と著者の住所かと思われる番地が書かれています。

【片岡巖の兄弟】
 長兄の準太郎(じゅんたろう)の息子たち成美(なるみ)、寛(かん?ひろし?)、謙三(けんぞう)、

 巖は三男とありますが、二男は何故か戸籍に書かれていません。きっと若くして亡くなっているのでしょう。

 四男の克己(かつみ)1923年、4/13 新化都善化社善化262番地に於いて死亡。
克巳の娘、麗子(れいこ)と敏子(としこ)が台中廳東堡彰化街土名東門231番地-1彰化公学校官舎にて出生とあるので、学校の教師だったかもしれないですね。(←その後克己さんが彰化の國中で準訓導として務めていた事が判明しました。2012・4・20 彰化國中に行き、当時使っていた机や教科書などを見せてもらいました。
息子 公(ただし)も台南州新化都湾裡街250番地に於いて出生とあります。)

 
 五男の直四郎(なおしろう)も台湾で生活していたかもしれないです。

片岡巌と森永信光

2011年08月22日 | Weblog
片岡巌が本を作成する際に使った資料は残念ながら、
今現在の我が家には残されてませんが、
日本には、片岡巌のお墓が有ります。片岡巌が1930に台湾で亡くなった後、
前述の福島県の郡山に墓碑を曾祖母の和子が建てました。

片岡巌の娘、ぼくの祖母の薫(かおる)は(1915~1983)
東石郡郡守、森永信光の長男、信一(のぶかず)(1908~1998)と(1940)結婚
台湾基隆港から日本に戻った時、まずは森永家の福井の実家に戻りましたが、震災もありすぐに片岡和子の実家、福島県の郡山に戻る。
森永信一は小学校の教師として生活を送る。
その時の生徒の中に俳優の西田敏行がいます!彼の芝居経験の最初はこの時の学芸会での浦島太郎の役ではないか?(と
は祖父信一談)

台南にて生まれた二女の、勲枝(のりえ)(1944~)が僕の母です。

森永信光は福井中学卒業後、茗荷谷の台湾協会の一期生、
台湾総督府、土木課、外事課を経て
東石郡、郡守として勤務する傍ら朴雅吟社を設立で、楊爾材さんらと漢詩などを詠み、楽しいひと時をすごしたようです。
また、当時長男信一の同級生だった、安藤百福を図書館司書として推薦する。

森永信光は日本に帰国してからは福井にいたが、空襲、震災があり、神戸の三男光雄のところに、晩年は長男信一がいた福島郡山に来たので母が小学六年の時に亡くなるまで一緒に住んでいた。

台湾語研究会と朴雅吟社の事はつい最近知りましたが、
森永信光と片岡巌とは生前、何かしらの繋がりがあったのでは
ないかと思います。
この事についてはどのように調べてゆけば良いかこれから考えます。
 


祖父母の生きていた頃にもっと話しを聞いておけば良かったと残念に思います。
しかしながら、片岡巌の本のように後世に残された本もあるので誰かのためになればと感じます。

予定。台湾に11/23~27行きたいと思います。

2011年08月17日 | Weblog

片岡巌の生涯 墓標より

2011年08月07日 | 台湾ー郡山
明治九年西暦1876年一月二十六日、
白河藩の藩士の三男として生まれる。
父と共に棚倉開墾事業に従事。
陸軍仙台第四歩兵隊に入隊
台湾の地に渡る。
憲兵として台南に
のちに総督府法院の通訳
退職後、台湾みやげ話と台湾風俗誌を出版
晩年は目を患い、口述にて
台湾人向けの法廷訴訟簡略書式を作成するを試みるも、
志半ば享年五十五才
昭和五年、西暦1930年、二月六日台北にて没する。

第1章 台湾人の出産第6節から第10節

2009年10月07日 | 台湾風俗誌
第6節 産婆 a midwife.

産婆は「拾囝婆」(キヲキアポオ)または「収生婆」(シウシポオ)と云う、技術なく、免状なく、僅かに経験あるもの之をなす、但し近来台湾各地の医院に於いて助産婦(士人婦女)を養成しあるを以て将来大に区別あるを見るべし

第7節 胞衣(えな)the placenta ((胎盤などの総称)).

胞衣は瓶に収める紅紙を以て密封し庭隅または宅前の畑中に埋む、若し火の為焼くる(野焼きなど)ことあらば其の兒必ず火の為に死すと云ひ又初産の臍帶を保存し置き他日成長の後他人と訴訟するに際し之を帯び行けば大膽となり必ず訴訟に勝つと云ふ

第8節 難産 a difficult delivery.
難産なるに遭えば家人外に出で槌にて地を打つときは胎児乍ち生ると云ふ、
又、天公祖(チエヌコンソオ)に「求苦、求難」(キウク、キウナン)と称する祈りをなし、尚ほ出生せざるときは胎の祟りなりとし道士を請ひ「催生」(ツイシエン)と称する祈祷をなす

第9節 俯伏(うつぶせ)産 
小児出産の際うつ伏せし出でたるものは親及び親族に祟りなすと云ふ(明治四十一年台南南梓仙溪里二重溪庄陳水連の妻張氏糟なるものうつ伏せ産をなしたるを以て大いに之を恐れ嬰児を壓殺し罪人となりたることあり)

第10節 死産 a stillbirth.
胎児死産なる時または産後直ちに死したるときは死児を水中に棄つ、若し水中に棄てざれば鬼(クイ・怪物)と化し祟りをなすのみならず将来子を孕まずと云う

第五節 臨産 childbirth

2009年09月14日 | 台湾風俗誌
第5節  臨産
臨産に至れば産婆(只産に経験の在る婆)及び近隣の婦女二三人産婦の両肩及び腰邊を扶翼し、産婆は仔が出つるのを待って手を以て之を接受し臍帯を断ちて布に包む、一面傍らの人産婦を介抱し床上を清め産婦を被(ポエ)・(布団)に靠(もた)らしむ、此の時四壁風の入るを防ぎ、力めて安静を保たしむ、産婦は逆上其の他眩暈に陥り易きを以て酢を焼き之を嗅がしむること一日数囘す、また未だ食物を取らざる幼児卽乳児の溺(いばり)に熱酒を混じて飲ましむ、之を精神を興奮せしめ血暈等に罹らしめざる為の予防なり、之を安胎薬(アヌタイイオ)と云ふ、又人参を用ふるものあり


第4節 臨月 the last month of pregnancy

2009年09月06日 | 台湾風俗誌
第4節 臨月
臨月に近づけば産婦の房中は介抱の婦人のみ出入りし他人の往来を避くるものとす、但し下流の婦人は旦に田野に出で、夕べに家に歸えるを常にするを以て以上の禁を守ることなし

本島婦人の子女を産するに二様あり、一は眠床(ビヌツン)に於いてし、一は床下に於いてす、中流以下は多く床下に於いてなすものなり、床上に於いてなす者は先ず床上に草蓙(ござ)を舗き更に破れたる衣褲を重ね上に油紙を布きてなす、床外(シャウグワイ)に於いてするものは床外に枯草又は藁を布き産褥となし傍らに「子桶キアタン」と稱する桶を置き臨産の時床より下り産褥に移りて産し汚物は此桶の内に收む
臨月に當り突然腹痛起り、いは止み、或は起り、―二日及至四五日にして胎水来り腹痛止まざるものあり、之を弄産(ラヌサウ)と云ふ、又臨産の一箇月前突然腹痛起りて未だ出産せず、之を試月(チイゴエ)と云ふ如此き時は土人は十三味(サプサアビイ)又は成化湯(シェンホアタン)と稱する安産の藥を用ふ


第3節 男子系統主義 succession in the male line.

2009年08月31日 | 台湾風俗誌
第3節 男子系統主義
何れの國の人と雖も出生を慶び、子孫を愛し、其増殖繁栄を希ふは人類の通常なり、特に支那(原文ママ)人種に於いて其甚だ深きものあり、その亜流たる台灣人に於いて亦異なる所なし、之れ古来より宗祧継承(ソウテウケイショウ)及び祭祀(サイジ)の制度を重んじたるに起因すべきも亦原則としては系統主義にして其系統に非ざるものはその宗祧を祭を得ず且つ男系主義にして宗を承け祭を継ぐものは必ず男子なり又嫡長主義にして長を尊び幼之に次ぐ直系主義にして父の後を襲ふものは子、この後を襲ふものは孫ならざるべからずと云ふに起因するものなるべし、然して婦女懐胎するときは常に孕婦の身體を安静にし精神に異常の感動を与え身體に過度の労を与ふるが如きを戒む、昔は儒教の教義より胎教と称し、古人の教育を重んじ、胎内に在るときより已に其端を開く教育、即ち擧止端正(きょしたんせい)にその見聞する所悉く禮(レイ)に合しむる等の事ありしも今の台湾に於いては見る能わざる事なり

第1集

2009年08月28日 | 台湾風俗誌
台湾風俗誌第1集

第1章 台湾人の出産
第1節 病囝(ビイキア)
夫人の懐胎の始めを病囝と称す、これ内地の「つわり」なり、病囝婦人の身体生理状態は内地婦人の「つわり」と異なる所なく、唾液は頻(しき)りに出て酸味を欲し時々頭痛あり、又悪寒嘔吐を催し心気万時に懶き(ものうき)など皆同じ。

第2節 迷信
病囝より臨月に至るまでの間衛生上の注意として別に記すべきことなし、只迷信的注意二三あり、胎児は胎なる神の支配を受け居るものなれば若し此の怒りに触れるる時は胎児を奪われると云う、此の胎は姙婦の居住する家屋内に在りて或る時は箱、ある時は桶、籠等何れの處に居るや一定せず、若し不知の間に妊婦之れに触るる時は胎怒りて妊婦を病ましむ、此の時妊婦は道士と称する祈祷者を呼び来たり「安胎」と称する祈祷をなす。道士は病囝者(妊婦の枕邊)にて鉦笛を鳴らし数時間読経し後ち符(ふ)と称する呪文書きたるものを床柱或いは門柱に貼布し、尚ほ呪文を唱へつ、湯又は水を飲ましめ、之を以て胎去り、胎児安全を得たるものとなす風あり、又「換斗(オアタウ)」という語あり、
已(すで)に懐胎せる胎児を祈祷の結果女子又は男子に変胎せしむるものなりといふ、その法先ず「青瞑(セエメエ)」と称する盲目の祈祷者又は道士に請ひ、米桝に根のある芙蓉花を植え祈祷者とともに神廟に持ち行き、牲醴香燭を供へ、道士神前にて読経し、婦人はその傍らに香を焚き紙を焼き(銭紙と称するもの)三跪九拝し心中に換斗(オアタウ)(變胎)を祈り、数時にして家に帰る、其れより三日間室内に於いて祈祷を継続し、後芙蓉花を庭前に植え以て變胎し終わりたるものなりと云う、此の時詣づる廟は臨水婦人廟(リムツイフジンビオ)又は「註生娘娘[ツウシイニウニウ」の廟にしてこれ等の神は胎児を授くるの神なりと云う、妊婦室内に於いて物品を縛するときは手足湾曲せる俗に茗荷児(ミョウガジ)なるものを生ず、又剪刀を以て鋏む時は無耳児(ムジジ)生じ、錐又は針にて物を貫けば盲目児(モウモクジ)物を焼けば(ショウランジ)、傀儡戯を見れば無骨児(ムコツジ)牛を牽く縄を跨ぐときは十二箇月にして児生まれ、喪家の演出したる芝居を看れば不吉なりと云う、又夜間外出すれば黒虎神に觸れ必ず凶あり、盂蘭盆会の時妊婦の腰桶を庭前に露出するときは普度公(ポオトオコン)の怒りに觸れ凶あり、死人の棺に觸るれば児夭折すると云う(その他迷信の部参照)

(うーん、これは家事をやらせない為の知恵かもしれないね。)

とうとう もくじが終わった

2009年06月29日 | Weblog
 これから本文のほうに行きます。

原文を生かしつつどのようにまとめていったらいいか、

悩みながらまたゆっくり始めたいと思います。


挿絵も取り込んで入れていきたいな!!

台湾風俗誌ふろく ~もくじ~終わりまで

2009年06月29日 | 台湾風俗誌

第2章  台湾の動物

第1節  獣類
赤牛及び水牛
穿山甲
獺だつ
熊、豹
山猪
 貓びょう
石虎
獇仔
鹿、猿、狐、狸

第2節  魚類
鱔魚
鮎逮
鱺魚
鰱魚
虱目
草魚
土龍及海鰻
花跳仔



第3節 鳥類
ペリカン
鍋鶴、くろ鶴、あゐは鶴
ミカド雉
竹鷄
加令
鳥鶖
白頭鵠くぐい
黄鶯
花眉(畫眉)
鳥公
黄鶊
鸇赤はやぶ
五色鳥

第4節 蟲類
毒蛇
水蛇
蟮蟲(シエヌ タン)
白蟻(シロアリ)
土扒仔(トツピヤ)
暗蝉(アム シェン)
加韯(虫編が付く)(カア ソア)
水加韯
木虱(バクサツ)
四脚跳(シイ カア チャウ)
蜜蜂
蜈虹(ギア カン)
ハブ



第3章  台湾鉱物その他
1金
2金、銅、鑛
3砂金
4銅
5水銀
6石炭
7亜炭
8石油
9硫黄
10燐礦
11石炭
12老古石
13文石


台湾風俗誌 もくじ 終わり



台湾風俗誌 附録 第1章台湾の植物

2009年06月26日 | 台湾風俗誌
 
 久しぶりに更新しました。
曾祖父はどう思うのだろうか?
「負けるな。越えてみろ。」
 
                    なんっつて自分勝手に想像。

  台湾風俗誌 附録 もくじ

 第1節  樹類

龍眼樹
檳榔樹

剥布子樹
想思樹
紅棗及棗仔
指甲花
木綿
茉莉花
佳花
黄枝
馬茶花
鳥子仔
拘杷
秀英

佛手柑
油桐
木瓜
香楠
波羅密
牛心梨
麺包果
釋迦頭
山龍眼
茘枝
璉霧
那拔
楊菊
様仔
密柑
柚仔


茄苳
苦棟
菊花木
金龜樹
玉蘭
樹蘭
粿葉樹
柏仔樹
榕樹
蔦菘
茄萣
猩猩木
橄欖
蘋婆
神木


第2節  草蔓類

甘蔗
菁 かぶ
苧蔴
薯榔
荖葉
樹豆
田菁
卑麻
魚籐
鳥面馬草
龍船花
蒜及韮 のびる、にら
虎尾籣
文珠籣
故蝶籣
月來香
蓮蕉花
クロトン
紅竹
埔姜
緑珊瑚
奇藍
草培子
金線蓮
藻玉
サイザルヘンプ
藺草
蕃薯
落花生
大小麥
油葱
風葱
慧苡
接骨杜丹
芙蓉
五猫龍
隨香蔓
山棕
蛇木
椰樹
姜黄
芭蕉
イカタカヅラ
月桃草
金針花
文頭菓
林投
苼 (草冠に生で無くて王)莱 オンライ ー鳳梨ー Pineapple
煙草

芋蓁
蘆竹
鶏屎籐(ケエ サイ チエヌ)
葉下紅(ヒオ エエ アヌ)
莧菜(ヒエヌ サイ)


第3節  竹類

莿竹
梧竹
麻竹
礰竹
長枝竹
鮝殻竹
人面竹
猫仔竹
鳥竹