あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)
2010年04月16日に掲載した記事の再録
「あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)」として、短歌誌「百合の木(2008・第9号)」に掲載されていた、連作「鳴らぬ一音」の十五首を観賞させていただきました。
○ 遥かなる馬頭青雲その青きたてがみのごときらめけ言葉
作中の「馬頭青雲」は、正確には「馬頭星雲」と記すべきところでありましょうが、作者の貞包雅文さんは、それにある意志を込めて、敢えて「馬頭青雲」と記したものでありましょう。
左様、「馬頭青雲」の「青雲」とは、<青雲の志を抱いて>などと言う時の、あの「青雲」なのであり、そこから「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と言う壮大な下の句の措辞も導き出されるのである。
それはさて置いて、「馬頭星雲」とは、オリオン座にある暗黒星雲の名称であり、地球から約1500光年の距離に在るこの星雲は、馬の頭の形に似ていることからそのように名付けられたのであると聞くが、仏教者としての本作の作者は、ご自身の関係する<馬頭観世音>との関わりからこの星雲に着目し、この星雲の青く輝いている部分を「たてがみ」に見立て、「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と、僧職とは別に自分が携わっている言葉の世界、即ち、短歌という文学形式の益々盛んならんことを祈願したものでありましょう。
だとすれば、この一首は、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に相応しい傑作である。
〔返〕 遥かなる罵倒青雲その禍き意志そのままに燃え行け老残 鳥羽省三
○ ことだまの在す暗き水底に降りゆかんいざ真裸となりて
連作冒頭の作品と比較してみる時、それと対照を為す内容や表現が素晴らしい。
本作の作者は、連作の冒頭で「遥かなる」宇宙の煌きに思いを馳せ、自己の携わる短歌表現の成就を祈願したのであったが、それに続いてこの二首目に於いては、それとは逆に、裸一貫となって「ことだまの在す暗き水底に降りゆかん」と述べ、歌人としての、「ことだま」の漁師としての、ご自身の志と覚悟の程を語って居られるのである。
この一首に接して、私は、『古事記』の<海幸彦伝説>を思い出したが、さて、「ことだま」の漁師・貞包雅文さんの水底探訪の収穫や如何に?
[反歌] 真裸になりて魔羅だし水底の豊玉媛を訪ねて行かむ 鳥羽省三
釣り針を失くして終はる水行の豊玉媛と交はひもせず
○ 夏爛けていよよ煩悩熾盛なりはるか虚空を巡る冥王
2006年8月に行われた<国際天文学連合>の総会で、「冥王星」は1930年以来維持してきた惑星の座から滑り落ち、惑星でない<矮惑星>という位置に退けられてしまった。
著名な天文学者・野尻抱影氏によって日本語で「冥王星」と名付けられたこの天体は、ローマ神話で冥府の王とされる<プルート>に由来するものであって、太陽系の最深部の暗闇に存在することから、いかにも「冥王星」と呼ぶに相応しく、怪しく謎の多い星である。
「冥王星」の見かけ上の等級は14等級以下であるから、これの観測には、口径30cm程度の望遠鏡が必要となると言う。
また、この天体の軌道は、太陽系の他の惑星とは異なって、真円では無く、歪んでいるが故に離心率が大きく、その軌道の一部が海王星よりも太陽の近くに入り込んでいることなどもあって、太陽からの距離を巡って海王星と比較されたり、その大きさを巡って学者の間で論争が交わされるなど、「冥王星」は、惑星の位置に在った頃からいろいろと取り沙汰された、不思議な天体であった。
本作は、その不思議な落第星「冥王星」と、「夏」が「爛け」るにつれて「いよよ」「熾盛」となる作者ご自身の「煩悩」とを取り合わせ、冥府を総べる邪神<プルート>に魅入られたように「煩悩」の多いご自身の精神状態を慨嘆したものでありましょう。
作者・貞包雅文さんは、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に於いて、遠い天体への憧れと共に、<ことだま>としての短歌に賭けるご自身の昂揚した気分を歌ったのであったが、冥王星が惑星の座から滑り落ちた今となっては、そうした昂揚した気分も消え失せ、「煩悩」の塊と成り果ててしまったのでありましょう。
[反歌] 冥界を総べゐる禍きプルートよ汝が剣もて吾を突き刺せ 鳥羽省三
○ 絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ化粧うがごとく夕陽に染まれ
実景としては、夕陽を浴びて身体全体を真っ赤に染めて大空を翔けて行く鳥を詠んだものであろう。
しかし、本作の「鳥」はあくまでも「鳥」であって、雀だとか鴉だとか鳩だとか鷹だとかといった特定の鳥に還元出来るものではない。
その幻の「鳥」に向かって、坊主頭の作中主体は、「絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ」と呼び掛け、更には「化粧うがごとく夕陽に染まれ」と、この天地を総べる王者の如く指令するのは、何よりも、作者ご自身の絶望と歓喜の余りに昂揚した気持ちの表れであり、それは同時に、昨今とみに減退しつつある性欲が齎すコンプレックスの告白なのかも知れません。
しかしながら、如何に幻の「鳥」と言えども、あの鳥たちが「絶望」したり「歓喜」したりする訳など無いではありませんか?
下の句「化粧うがごとく夕陽に染まれ」という表現に接して、私は、往年の春日井建の作品の世界とこの作品の世界とを重ね合わせて、しばし〈薔薇族の世界〉に遊ばせていただきました。
〔返〕 装ひて天地のはざま翔け行けば歓喜の如き夕陽射し来る 鳥羽省三
その「装ひ」たるや、何と驚いたことに、あの坊さんお馴染みの〈法衣袈裟姿〉ならぬ、膝上二十センチのスカートを穿いた女子高生紛いの女装なのであった。
○ 「この星の血の色は青」口角を歪めて叫ぶアストロノーツ
ごく普通のアメリカ人に「血の色は?」と問い掛けると、即座に「青」という答が返って来る確率はかなり高い、という話を耳にしたことがある。
また、今年の時点でアメリカ人の宇宙飛行士の数は既に三百数十名に達し、その後にも、宇宙に旅立とうとして訓練を受けている宇宙飛行士候補生たちが目白押し状態なのだそうだ。
だとすれば、現代のアメリカ社会に於いては、宇宙遊泳中に「地球の色は?」ならぬ「血の色は?」と問われて、「口角を歪めて」「青」と「叫ぶアストロノーツ」が居たとしても、それほど不思議なことでは無いという結論に達する。
本作の趣旨は、「旧ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは『地球は青かった』と言ったが、それに対してアメリカの宇宙飛行士なら、口角を歪めて『この星の血の色は青』と叫ぶだろう」という内容のギャグであり、そのギャグは、単なるギャグのままで終わらず、早晩起こり得ることが充分に予想される終末戦争への危惧を含めた内容の、恐ろしいギャグなのである。
本作の作者・貞包雅文さんは、十五首連作「鳴らぬ一音」の創作に当たって、その一首目から四首目まで、比較的に中身が濃く、メッセージ性の強い作品を並べて来たが、五首目に至って、その緊張を解いて一休息する必要を感じ、このような軽い味の作品を詠んだのでありましょうが、前述の私の解釈に従えば、この一首の内容も決して決して軽いものではありません。
「この星の血の色は青」というセリフの軽さやくだらなさに比べると、そのセリフを口にしたアストロノーツの「口角を歪めて叫ぶ」様子が余りにも大袈裟で滑稽であるが、その滑稽さと軽さこそ、作者が狙いとしたものでありましょう。
「軽さ」の中に込められた「重さ」を、私たち本作の読者は、この作品の鑑賞を通じて、十分に感得すべきでありましょう。
〔返〕 体内を流れる血潮は日捲りの土曜の如き<青>なのである 鳥羽省三
○ 早馬が着きしにあらず弛緩したメールで届くいくさのしらせ
「早馬」は、近世までの重要な通信手段の一つであり、戦国時代などに於いては、その早馬で以って、遠くで行われている「いくさのしらせ」が届けられたことも実際に在ったに違いない。
本作は、そうした「早馬」と、その「早馬」に替わる現代の「早馬」たる「メール」を題材にし、それに、近頃アメリカ人などがその主役となって頻繁に起している戦争の話題なども付け加えて、現代の世相を皮肉ったものである。
「早馬」に較べれば、「メール」という通信手段は遥かに進歩していて、その通信可能な範囲は比較にならないほど広くなり、その担い手も大衆化している。
したがって、戦争好きな現代社会のあちこちで起きている「いくさのしらせ」が、「早馬」ならぬ現代の早馬「メール」で届くことも充分に考えられるし、現に、国家機密として厳重に報道管制が布かれている某国の辺境で頻発している「いくさのしらせ」などは、その「メール」で以って、国家首脳より先に、民間人が入手している事態となっているのである。
そのように考えると、この一首の趣旨は単なるギャグの範囲を越えたものになり、その意味も、直前の作「アストロノーツ」とは、比較にならないほど重くて深いものとして観賞しなければならないものとなる。
作者の貞包雅文さんは、連作中の遊びのため(或いは、繋ぎのため)の作品をたった一首で止めたのである。
連作も五十首や三十首などの大作の場合は、気分転換のための遊び(或いは、繋ぎ)の作品が二首も三首も続くことがあり、中には、連作全体が<遊びに続く遊び>、<繋ぎに続く繋ぎ>といった弛緩した状態で終わってしまう駄作だらけの連作も在る。
だが、本作は、連作と言ってもたった十五首の連作であり、また、本作の作者は、見せ掛けとは裏腹に、本質的には、一首で以って現代社会の世相を鋭く抉るといった内容の作品を得意としている歌人であるので、この作品は、直前の作品に続いてギャグ風の作品に見せ掛けながら、その本質は、非常に重くて深い内容を含んだ作品なのである。
この地球上のあちこちから、「メール」で以って「いくさのしらせ」が行き交いする事態になることが充分に予測される現代である。
某国からのグーグルの撤退は、「メール」という通信手段の敗北を示すものでは無い。
むしろその逆で、現代の早馬「メール」で以って「いくさのしらせ」が異国に届けられたならば、国家転覆の危機をも招きかねないことを警戒した、某国為政者の短慮から起こった緊急的かつ本末転倒的事態を示すものなのである。
〔返〕 情報の重さに耐えぬツイーターは現代社会の痩馬早馬 鳥羽省三
○ いとけなき乙女子わたりゆく橋のかなたにおぼろ菊の紋章
あのお嬢ちゃんの御祖父に当たるお方を国家の象徴として仰がなければならない立場の一人としては、本来は「愛子様」と敬称付きでお呼びしなければならないのでありましょう。
でも、過ぎし年の彼女の通学校での運動会に於けるリレー選手としての彼女のご奮闘振りが余りにも健気で可愛らしいものであったから、私は、彼女のことを「様」付きで呼ぶことは止めにしようと思う。
そして、愛子ちゃん、いや、事の序でに「子」も取って、単に「愛ちゃん」と呼ぶことにしようと思う。
私は、この一首を目にした瞬間、在ろうことか、あの健気な<愛ちゃん>が、通学校での手痛い虐めに遭遇し、一人だけ教室を逃げ出し、守衛さんの手を振り切って校門を潜り抜け、校外に出て、涙を堪えながらとぼとぼと自宅の門前の二重橋を渡って行く様を想像してしまった。
その門には、あの御一家の象徴である「菊の紋章」が刻されているのだが、涙で曇った<愛ちゃん>の目には、それが「おぼろ」にしか見えないのである。
この鈍感な私に、そういった非現実的な想像を許すのは、本作の持っている緊迫した現実感である。
人によっては、本作のテーマを、たちの良くないブラークユーモアと捉える向きもありましょう。
しかし、その<ブラックユーモア>のブラックの度合いが余りにも大きい時には、それを<ブラックユーモア>を越えた、ヒューモア劇の傑作として捉える人も居りましょう。
私は、そうした人の一人なのかも知れないが、作者の向けた鉾の先に在るのは皇室制度なのかどうかは私にも判らない。
〔返〕 卓球とテニスとモーグル我が姉と 君ら「愛ちゃん」いずこにも居て 鳥羽省三
○ 観覧車まわれよまわれモノクロのハリー・ライムが笑ってやがる
詠い出しの「観覧車まわれよまわれ」は、本作の作者ご自身も所属する「塔短歌会」の幹部同人である栗木京子さんの初期の代表作「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」から剽窃したものである。
だが、本作の内容のほぼ全体は、1950年度の<アカデミー賞>及び19490年度の<カンヌ国際映画祭大賞>を受賞した往年の名画『第三の男』に取材している。
作中の「ハリー・ライム」とは、名優オーソン・ウェルズが出演して話題となったこの映画の登場人物であり、映画の題名となった「第三の男」とは、この人物を指すのである。
この人物は、主役・脇役という区別からすると脇役の一人に過ぎないが、この映画の中では、ジョセフ・コットン扮する主役のホリー・マーチンス以上の存在感を示し、映画の題名にもなった主要人物である。
下の句に「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とあるが、彼<ハリー・ライム>は、この映画の中で主人公の<ホリー・マーチンス>に向かって、「スイスの同胞愛、そして五百年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」という名セリフを吐くのであるが、このセリフと「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とを考え合わせる時、その表現の深みが明らかになり、短歌作者としての貞包雅文さんのレベルに驚嘆せざるを得なくなる。
この映画の舞台は、第二次世界大戦後、米英仏ソの四ヶ国による四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーン。
そのウィーンの名物の大観覧車の中で、主人公のホリー・マーチンスは、死んだはずの親友・ハリー・ライムの姿を見かける。
そこで、追いかけるホリーと逃げるハリー。
やがて逃げるハリーは、大戦後のウィーンの貧しさを象徴する地下下水道の中に逃げ込んで行く。
そこで、追いかけるホリーもまた、その地下下水道に入って行く。
地下下水道の中に、逃げる者と追いかける者との靴音が響く。
追いかける者と追いかけられる者は旧友である。
その靴音にかぶさるようにして、アントン・カラスの演奏するツィターの音が物悲しく鳴り響く。
再度言うが、下の句の「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」が宜しい。
「モノクロの」は、単に、この映画が「モノクロ」映画であったことを説明しているのではない。
主人公のホリー・マーチンスにとっては、親友だったはずのハリー・ライムという存在そのものが「モノクロ」なのである。
〔返〕 株の値よあがれよあがれユニクロの柳井正が笑ってやがる 鳥羽省三
○ クラスター爆弾(ボム)が炸裂する朝ぼくらは蝶のはばたきを聞く
主題は「戦争と平和」である。
深読みすれば、その「朝」に「ぼくら」が聞いた「蝶のはばたき」は、「クラスター爆弾が炸裂する」予兆なのかも知れないし、余韻なのかも知れない。
この一首に接して、どこかの国の総理大臣の弟の趣味が「蝶」の蒐集で、その趣味を通じて知り合った「友だちの友だちがアルカイダである」という旧聞を思い出した。
〔返〕 長崎にピカドンが落ちたその刹那 蝉はいつものように鳴いてた 鳥羽省三
広島にピカを落とした飛行士がいつも着ていた擦れた革ジャン 々
○ 赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれば見ゆるわれを焼く火が
「赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれ」た者とは、生きている者である。
その生きている者の目に「われを焼く火」が見えるはずが無いから、この一首は、「赤錆びし物見櫓の鉄塔」という、前時代の象徴のような物を目にした瞬間、その余りの荒涼とした感じに驚いて、「あの赤錆びた物見櫓の鉄塔にのぼれば、この自分を焼く業火が見えるはずだ」と、直感的に感じたのであろう。
〔返〕 赤錆びた火の見櫓に登ったら不知火海の漁り火が見ゆ 鳥羽省三
○ 反戦歌とうに忘れてかき鳴らすギターのついに鳴らぬ一音
「反戦歌」の流行が終末を遂げようとしていた頃の巷には、<カレッジフォーク>と称する、人参や玉葱が腐れて行く時に発する音のような、匂いのような、生ぬるく臭い歌が流行していた。
あの生ぬるく臭い歌どもの伴奏をする時に「かき鳴らすギター」には、「ついに鳴らぬ一音」が在ったのであろうと、今にして私はつくづく思う。
本作の作者もまた、この私と同じ思いなのでありましょう。
〔返〕 マイク真木・ガロに森山・フォークルにカレッジフォークの聴くに耐えなさ 鳥羽省三
○ 向日葵の種がひとつぶあれば良い握り拳の中の荒野に
人も知る、寺山修司の「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」を典拠とした作品である。
<本歌取りの歌>と呼ぶには、余りにも寺山に付き過ぎているし、かと言って、模倣歌とも言えないし、歌詠み上手の貞包雅文さんの作品としては、何ともかんとも評言に困る、実に始末の悪い作品である。
いっその事、<無くもがな>の作品とでも述べておきましょうか?
著名な歌に寄り掛かった、こうした作品を自分の作品として作る場合の最低の条件としては、典拠となった作品に無い独自な要素を、一点だけでも良いから自分の作中に盛り込むことである。
本作には、寺山の作品に在って本作に無い魅力は沢山在るが、本作に在って寺山の作品に無い魅力は、ただの一点も無い。
それでも尚かつ、作者としては、「ひとつぶあれば良い」や「握り拳の中の荒野に」辺りを寺山作に無い要素として、自信を持って創り、自信を持って発表されたのでありましょうが、一読者としての私の立場で言わせていただければ、それは作者ご自身の自己満足、自己欺瞞に過ぎないと思われるのである。
〔返〕 無くもがな在らずもがなの歌も在りそれのみ惜しむ「鳴らぬ一音」 鳥羽省三
○ ありあけの月まなうらにとどめつつついに空席のまま父の椅子
本作に関しては、短歌誌「百合の木」の<代表>たる塘健氏が、同誌に卓越した評言を著していらっしゃるので、無断ながらその全文を転載させていただき、私の観賞文に代えさせていただきたい。
シッダールタ、後のシャカは十六才で結婚する。妻の名はヤソーダラ。二十九才の時に第一子が誕生し、彼はその子にラーフラ(悪魔)の名を与へ、そして妻子を捨てて家出する。妻子を捨てたシャカは生老病死からの自己解放、すなはち悟りを目指す。捨てられたラーフラ(悪魔)にとって、父は永遠の不在であり、空席であった。 (転載終り)
作者が僧籍に在られることを考慮して、仏教の祖・釈迦の事績を作中の表現と関係付けるなど、極めて示唆に富む論評ではありますが、敢えて、一言を添えさせていただきますと、「父」の不在(空席)の背景として、「ありあけの月」を配したのは、実に見事な表現と言う他は無い。
〔返〕 父は月 母は日にして その月の無きを照らせる有明の月 鳥羽省三
○ 踵から海になりゆく水際の君に打ち寄す無限の叫び
「水際」に佇む「君」の「踵」を打ち寄せる波が濡らすことを、「踵から海になりゆく」と言い、打ち寄せる波の音と、「君」に寄せる作者ご自身の思慕の情を、「無言の叫び」としたのである。
「踵から海になりゆく」という表現の、言うに言われない表現の見事さよ。
〔返〕 眼窩から暮れ行く渚に佇みて歌はぬ君の歌を聴いてる 鳥羽省三
○ 無果汁のジュースの甘さ嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように
「無果汁のジュースの甘さ」とは、ただ単に売らんがための「甘さ」であり、ただ単に飾らんがための「甘さ」である。
僧侶であり、教師であり、歌人であり、人間である本作の作者・貞包雅文氏と言えども、時に無意識に、時に意識しつつ、「無果汁のジュースの甘さ」のような笑みを顔面に湛えることがあるに違いない。
「嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように」という下の句の措辞が目に耳に胸に痛い。
〔返〕 戦時下の八紘一宇を思はせて亜細亜に広がる味の素かも 鳥羽省三
2010年04月16日に掲載した記事の再録
「あなたの一首(貞包雅文さんの作品・其のⅡ)」として、短歌誌「百合の木(2008・第9号)」に掲載されていた、連作「鳴らぬ一音」の十五首を観賞させていただきました。
○ 遥かなる馬頭青雲その青きたてがみのごときらめけ言葉
作中の「馬頭青雲」は、正確には「馬頭星雲」と記すべきところでありましょうが、作者の貞包雅文さんは、それにある意志を込めて、敢えて「馬頭青雲」と記したものでありましょう。
左様、「馬頭青雲」の「青雲」とは、<青雲の志を抱いて>などと言う時の、あの「青雲」なのであり、そこから「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と言う壮大な下の句の措辞も導き出されるのである。
それはさて置いて、「馬頭星雲」とは、オリオン座にある暗黒星雲の名称であり、地球から約1500光年の距離に在るこの星雲は、馬の頭の形に似ていることからそのように名付けられたのであると聞くが、仏教者としての本作の作者は、ご自身の関係する<馬頭観世音>との関わりからこの星雲に着目し、この星雲の青く輝いている部分を「たてがみ」に見立て、「その青きたてがみのごときらめけ言葉」と、僧職とは別に自分が携わっている言葉の世界、即ち、短歌という文学形式の益々盛んならんことを祈願したものでありましょう。
だとすれば、この一首は、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に相応しい傑作である。
〔返〕 遥かなる罵倒青雲その禍き意志そのままに燃え行け老残 鳥羽省三
○ ことだまの在す暗き水底に降りゆかんいざ真裸となりて
連作冒頭の作品と比較してみる時、それと対照を為す内容や表現が素晴らしい。
本作の作者は、連作の冒頭で「遥かなる」宇宙の煌きに思いを馳せ、自己の携わる短歌表現の成就を祈願したのであったが、それに続いてこの二首目に於いては、それとは逆に、裸一貫となって「ことだまの在す暗き水底に降りゆかん」と述べ、歌人としての、「ことだま」の漁師としての、ご自身の志と覚悟の程を語って居られるのである。
この一首に接して、私は、『古事記』の<海幸彦伝説>を思い出したが、さて、「ことだま」の漁師・貞包雅文さんの水底探訪の収穫や如何に?
[反歌] 真裸になりて魔羅だし水底の豊玉媛を訪ねて行かむ 鳥羽省三
釣り針を失くして終はる水行の豊玉媛と交はひもせず
○ 夏爛けていよよ煩悩熾盛なりはるか虚空を巡る冥王
2006年8月に行われた<国際天文学連合>の総会で、「冥王星」は1930年以来維持してきた惑星の座から滑り落ち、惑星でない<矮惑星>という位置に退けられてしまった。
著名な天文学者・野尻抱影氏によって日本語で「冥王星」と名付けられたこの天体は、ローマ神話で冥府の王とされる<プルート>に由来するものであって、太陽系の最深部の暗闇に存在することから、いかにも「冥王星」と呼ぶに相応しく、怪しく謎の多い星である。
「冥王星」の見かけ上の等級は14等級以下であるから、これの観測には、口径30cm程度の望遠鏡が必要となると言う。
また、この天体の軌道は、太陽系の他の惑星とは異なって、真円では無く、歪んでいるが故に離心率が大きく、その軌道の一部が海王星よりも太陽の近くに入り込んでいることなどもあって、太陽からの距離を巡って海王星と比較されたり、その大きさを巡って学者の間で論争が交わされるなど、「冥王星」は、惑星の位置に在った頃からいろいろと取り沙汰された、不思議な天体であった。
本作は、その不思議な落第星「冥王星」と、「夏」が「爛け」るにつれて「いよよ」「熾盛」となる作者ご自身の「煩悩」とを取り合わせ、冥府を総べる邪神<プルート>に魅入られたように「煩悩」の多いご自身の精神状態を慨嘆したものでありましょう。
作者・貞包雅文さんは、連作「鳴らぬ一音」の冒頭に於いて、遠い天体への憧れと共に、<ことだま>としての短歌に賭けるご自身の昂揚した気分を歌ったのであったが、冥王星が惑星の座から滑り落ちた今となっては、そうした昂揚した気分も消え失せ、「煩悩」の塊と成り果ててしまったのでありましょう。
[反歌] 冥界を総べゐる禍きプルートよ汝が剣もて吾を突き刺せ 鳥羽省三
○ 絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ化粧うがごとく夕陽に染まれ
実景としては、夕陽を浴びて身体全体を真っ赤に染めて大空を翔けて行く鳥を詠んだものであろう。
しかし、本作の「鳥」はあくまでも「鳥」であって、雀だとか鴉だとか鳩だとか鷹だとかといった特定の鳥に還元出来るものではない。
その幻の「鳥」に向かって、坊主頭の作中主体は、「絶望と歓喜の間で鳴く鳥よ」と呼び掛け、更には「化粧うがごとく夕陽に染まれ」と、この天地を総べる王者の如く指令するのは、何よりも、作者ご自身の絶望と歓喜の余りに昂揚した気持ちの表れであり、それは同時に、昨今とみに減退しつつある性欲が齎すコンプレックスの告白なのかも知れません。
しかしながら、如何に幻の「鳥」と言えども、あの鳥たちが「絶望」したり「歓喜」したりする訳など無いではありませんか?
下の句「化粧うがごとく夕陽に染まれ」という表現に接して、私は、往年の春日井建の作品の世界とこの作品の世界とを重ね合わせて、しばし〈薔薇族の世界〉に遊ばせていただきました。
〔返〕 装ひて天地のはざま翔け行けば歓喜の如き夕陽射し来る 鳥羽省三
その「装ひ」たるや、何と驚いたことに、あの坊さんお馴染みの〈法衣袈裟姿〉ならぬ、膝上二十センチのスカートを穿いた女子高生紛いの女装なのであった。
○ 「この星の血の色は青」口角を歪めて叫ぶアストロノーツ
ごく普通のアメリカ人に「血の色は?」と問い掛けると、即座に「青」という答が返って来る確率はかなり高い、という話を耳にしたことがある。
また、今年の時点でアメリカ人の宇宙飛行士の数は既に三百数十名に達し、その後にも、宇宙に旅立とうとして訓練を受けている宇宙飛行士候補生たちが目白押し状態なのだそうだ。
だとすれば、現代のアメリカ社会に於いては、宇宙遊泳中に「地球の色は?」ならぬ「血の色は?」と問われて、「口角を歪めて」「青」と「叫ぶアストロノーツ」が居たとしても、それほど不思議なことでは無いという結論に達する。
本作の趣旨は、「旧ソ連の宇宙飛行士ユーリイ・ガガーリンは『地球は青かった』と言ったが、それに対してアメリカの宇宙飛行士なら、口角を歪めて『この星の血の色は青』と叫ぶだろう」という内容のギャグであり、そのギャグは、単なるギャグのままで終わらず、早晩起こり得ることが充分に予想される終末戦争への危惧を含めた内容の、恐ろしいギャグなのである。
本作の作者・貞包雅文さんは、十五首連作「鳴らぬ一音」の創作に当たって、その一首目から四首目まで、比較的に中身が濃く、メッセージ性の強い作品を並べて来たが、五首目に至って、その緊張を解いて一休息する必要を感じ、このような軽い味の作品を詠んだのでありましょうが、前述の私の解釈に従えば、この一首の内容も決して決して軽いものではありません。
「この星の血の色は青」というセリフの軽さやくだらなさに比べると、そのセリフを口にしたアストロノーツの「口角を歪めて叫ぶ」様子が余りにも大袈裟で滑稽であるが、その滑稽さと軽さこそ、作者が狙いとしたものでありましょう。
「軽さ」の中に込められた「重さ」を、私たち本作の読者は、この作品の鑑賞を通じて、十分に感得すべきでありましょう。
〔返〕 体内を流れる血潮は日捲りの土曜の如き<青>なのである 鳥羽省三
○ 早馬が着きしにあらず弛緩したメールで届くいくさのしらせ
「早馬」は、近世までの重要な通信手段の一つであり、戦国時代などに於いては、その早馬で以って、遠くで行われている「いくさのしらせ」が届けられたことも実際に在ったに違いない。
本作は、そうした「早馬」と、その「早馬」に替わる現代の「早馬」たる「メール」を題材にし、それに、近頃アメリカ人などがその主役となって頻繁に起している戦争の話題なども付け加えて、現代の世相を皮肉ったものである。
「早馬」に較べれば、「メール」という通信手段は遥かに進歩していて、その通信可能な範囲は比較にならないほど広くなり、その担い手も大衆化している。
したがって、戦争好きな現代社会のあちこちで起きている「いくさのしらせ」が、「早馬」ならぬ現代の早馬「メール」で届くことも充分に考えられるし、現に、国家機密として厳重に報道管制が布かれている某国の辺境で頻発している「いくさのしらせ」などは、その「メール」で以って、国家首脳より先に、民間人が入手している事態となっているのである。
そのように考えると、この一首の趣旨は単なるギャグの範囲を越えたものになり、その意味も、直前の作「アストロノーツ」とは、比較にならないほど重くて深いものとして観賞しなければならないものとなる。
作者の貞包雅文さんは、連作中の遊びのため(或いは、繋ぎのため)の作品をたった一首で止めたのである。
連作も五十首や三十首などの大作の場合は、気分転換のための遊び(或いは、繋ぎ)の作品が二首も三首も続くことがあり、中には、連作全体が<遊びに続く遊び>、<繋ぎに続く繋ぎ>といった弛緩した状態で終わってしまう駄作だらけの連作も在る。
だが、本作は、連作と言ってもたった十五首の連作であり、また、本作の作者は、見せ掛けとは裏腹に、本質的には、一首で以って現代社会の世相を鋭く抉るといった内容の作品を得意としている歌人であるので、この作品は、直前の作品に続いてギャグ風の作品に見せ掛けながら、その本質は、非常に重くて深い内容を含んだ作品なのである。
この地球上のあちこちから、「メール」で以って「いくさのしらせ」が行き交いする事態になることが充分に予測される現代である。
某国からのグーグルの撤退は、「メール」という通信手段の敗北を示すものでは無い。
むしろその逆で、現代の早馬「メール」で以って「いくさのしらせ」が異国に届けられたならば、国家転覆の危機をも招きかねないことを警戒した、某国為政者の短慮から起こった緊急的かつ本末転倒的事態を示すものなのである。
〔返〕 情報の重さに耐えぬツイーターは現代社会の痩馬早馬 鳥羽省三
○ いとけなき乙女子わたりゆく橋のかなたにおぼろ菊の紋章
あのお嬢ちゃんの御祖父に当たるお方を国家の象徴として仰がなければならない立場の一人としては、本来は「愛子様」と敬称付きでお呼びしなければならないのでありましょう。
でも、過ぎし年の彼女の通学校での運動会に於けるリレー選手としての彼女のご奮闘振りが余りにも健気で可愛らしいものであったから、私は、彼女のことを「様」付きで呼ぶことは止めにしようと思う。
そして、愛子ちゃん、いや、事の序でに「子」も取って、単に「愛ちゃん」と呼ぶことにしようと思う。
私は、この一首を目にした瞬間、在ろうことか、あの健気な<愛ちゃん>が、通学校での手痛い虐めに遭遇し、一人だけ教室を逃げ出し、守衛さんの手を振り切って校門を潜り抜け、校外に出て、涙を堪えながらとぼとぼと自宅の門前の二重橋を渡って行く様を想像してしまった。
その門には、あの御一家の象徴である「菊の紋章」が刻されているのだが、涙で曇った<愛ちゃん>の目には、それが「おぼろ」にしか見えないのである。
この鈍感な私に、そういった非現実的な想像を許すのは、本作の持っている緊迫した現実感である。
人によっては、本作のテーマを、たちの良くないブラークユーモアと捉える向きもありましょう。
しかし、その<ブラックユーモア>のブラックの度合いが余りにも大きい時には、それを<ブラックユーモア>を越えた、ヒューモア劇の傑作として捉える人も居りましょう。
私は、そうした人の一人なのかも知れないが、作者の向けた鉾の先に在るのは皇室制度なのかどうかは私にも判らない。
〔返〕 卓球とテニスとモーグル我が姉と 君ら「愛ちゃん」いずこにも居て 鳥羽省三
○ 観覧車まわれよまわれモノクロのハリー・ライムが笑ってやがる
詠い出しの「観覧車まわれよまわれ」は、本作の作者ご自身も所属する「塔短歌会」の幹部同人である栗木京子さんの初期の代表作「観覧車回れよ回れ想ひ出は君には一日我には一生」から剽窃したものである。
だが、本作の内容のほぼ全体は、1950年度の<アカデミー賞>及び19490年度の<カンヌ国際映画祭大賞>を受賞した往年の名画『第三の男』に取材している。
作中の「ハリー・ライム」とは、名優オーソン・ウェルズが出演して話題となったこの映画の登場人物であり、映画の題名となった「第三の男」とは、この人物を指すのである。
この人物は、主役・脇役という区別からすると脇役の一人に過ぎないが、この映画の中では、ジョセフ・コットン扮する主役のホリー・マーチンス以上の存在感を示し、映画の題名にもなった主要人物である。
下の句に「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とあるが、彼<ハリー・ライム>は、この映画の中で主人公の<ホリー・マーチンス>に向かって、「スイスの同胞愛、そして五百年の平和と民主主義はいったい何をもたらした? 鳩時計だよ」という名セリフを吐くのであるが、このセリフと「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」とを考え合わせる時、その表現の深みが明らかになり、短歌作者としての貞包雅文さんのレベルに驚嘆せざるを得なくなる。
この映画の舞台は、第二次世界大戦後、米英仏ソの四ヶ国による四分割統治下にあったオーストリアの首都ウィーン。
そのウィーンの名物の大観覧車の中で、主人公のホリー・マーチンスは、死んだはずの親友・ハリー・ライムの姿を見かける。
そこで、追いかけるホリーと逃げるハリー。
やがて逃げるハリーは、大戦後のウィーンの貧しさを象徴する地下下水道の中に逃げ込んで行く。
そこで、追いかけるホリーもまた、その地下下水道に入って行く。
地下下水道の中に、逃げる者と追いかける者との靴音が響く。
追いかける者と追いかけられる者は旧友である。
その靴音にかぶさるようにして、アントン・カラスの演奏するツィターの音が物悲しく鳴り響く。
再度言うが、下の句の「モノクロのハリー・ライムが笑ってやがる」が宜しい。
「モノクロの」は、単に、この映画が「モノクロ」映画であったことを説明しているのではない。
主人公のホリー・マーチンスにとっては、親友だったはずのハリー・ライムという存在そのものが「モノクロ」なのである。
〔返〕 株の値よあがれよあがれユニクロの柳井正が笑ってやがる 鳥羽省三
○ クラスター爆弾(ボム)が炸裂する朝ぼくらは蝶のはばたきを聞く
主題は「戦争と平和」である。
深読みすれば、その「朝」に「ぼくら」が聞いた「蝶のはばたき」は、「クラスター爆弾が炸裂する」予兆なのかも知れないし、余韻なのかも知れない。
この一首に接して、どこかの国の総理大臣の弟の趣味が「蝶」の蒐集で、その趣味を通じて知り合った「友だちの友だちがアルカイダである」という旧聞を思い出した。
〔返〕 長崎にピカドンが落ちたその刹那 蝉はいつものように鳴いてた 鳥羽省三
広島にピカを落とした飛行士がいつも着ていた擦れた革ジャン 々
○ 赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれば見ゆるわれを焼く火が
「赤錆びし物見櫓の鉄塔にのぼれ」た者とは、生きている者である。
その生きている者の目に「われを焼く火」が見えるはずが無いから、この一首は、「赤錆びし物見櫓の鉄塔」という、前時代の象徴のような物を目にした瞬間、その余りの荒涼とした感じに驚いて、「あの赤錆びた物見櫓の鉄塔にのぼれば、この自分を焼く業火が見えるはずだ」と、直感的に感じたのであろう。
〔返〕 赤錆びた火の見櫓に登ったら不知火海の漁り火が見ゆ 鳥羽省三
○ 反戦歌とうに忘れてかき鳴らすギターのついに鳴らぬ一音
「反戦歌」の流行が終末を遂げようとしていた頃の巷には、<カレッジフォーク>と称する、人参や玉葱が腐れて行く時に発する音のような、匂いのような、生ぬるく臭い歌が流行していた。
あの生ぬるく臭い歌どもの伴奏をする時に「かき鳴らすギター」には、「ついに鳴らぬ一音」が在ったのであろうと、今にして私はつくづく思う。
本作の作者もまた、この私と同じ思いなのでありましょう。
〔返〕 マイク真木・ガロに森山・フォークルにカレッジフォークの聴くに耐えなさ 鳥羽省三
○ 向日葵の種がひとつぶあれば良い握り拳の中の荒野に
人も知る、寺山修司の「一粒の向日葵の種まきしのみに荒野をわれの処女地と呼びき」を典拠とした作品である。
<本歌取りの歌>と呼ぶには、余りにも寺山に付き過ぎているし、かと言って、模倣歌とも言えないし、歌詠み上手の貞包雅文さんの作品としては、何ともかんとも評言に困る、実に始末の悪い作品である。
いっその事、<無くもがな>の作品とでも述べておきましょうか?
著名な歌に寄り掛かった、こうした作品を自分の作品として作る場合の最低の条件としては、典拠となった作品に無い独自な要素を、一点だけでも良いから自分の作中に盛り込むことである。
本作には、寺山の作品に在って本作に無い魅力は沢山在るが、本作に在って寺山の作品に無い魅力は、ただの一点も無い。
それでも尚かつ、作者としては、「ひとつぶあれば良い」や「握り拳の中の荒野に」辺りを寺山作に無い要素として、自信を持って創り、自信を持って発表されたのでありましょうが、一読者としての私の立場で言わせていただければ、それは作者ご自身の自己満足、自己欺瞞に過ぎないと思われるのである。
〔返〕 無くもがな在らずもがなの歌も在りそれのみ惜しむ「鳴らぬ一音」 鳥羽省三
○ ありあけの月まなうらにとどめつつついに空席のまま父の椅子
本作に関しては、短歌誌「百合の木」の<代表>たる塘健氏が、同誌に卓越した評言を著していらっしゃるので、無断ながらその全文を転載させていただき、私の観賞文に代えさせていただきたい。
シッダールタ、後のシャカは十六才で結婚する。妻の名はヤソーダラ。二十九才の時に第一子が誕生し、彼はその子にラーフラ(悪魔)の名を与へ、そして妻子を捨てて家出する。妻子を捨てたシャカは生老病死からの自己解放、すなはち悟りを目指す。捨てられたラーフラ(悪魔)にとって、父は永遠の不在であり、空席であった。 (転載終り)
作者が僧籍に在られることを考慮して、仏教の祖・釈迦の事績を作中の表現と関係付けるなど、極めて示唆に富む論評ではありますが、敢えて、一言を添えさせていただきますと、「父」の不在(空席)の背景として、「ありあけの月」を配したのは、実に見事な表現と言う他は無い。
〔返〕 父は月 母は日にして その月の無きを照らせる有明の月 鳥羽省三
○ 踵から海になりゆく水際の君に打ち寄す無限の叫び
「水際」に佇む「君」の「踵」を打ち寄せる波が濡らすことを、「踵から海になりゆく」と言い、打ち寄せる波の音と、「君」に寄せる作者ご自身の思慕の情を、「無言の叫び」としたのである。
「踵から海になりゆく」という表現の、言うに言われない表現の見事さよ。
〔返〕 眼窩から暮れ行く渚に佇みて歌はぬ君の歌を聴いてる 鳥羽省三
○ 無果汁のジュースの甘さ嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように
「無果汁のジュースの甘さ」とは、ただ単に売らんがための「甘さ」であり、ただ単に飾らんがための「甘さ」である。
僧侶であり、教師であり、歌人であり、人間である本作の作者・貞包雅文氏と言えども、時に無意識に、時に意識しつつ、「無果汁のジュースの甘さ」のような笑みを顔面に湛えることがあるに違いない。
「嘘っぱちだらけのまるでぼくらのように」という下の句の措辞が目に耳に胸に痛い。
〔返〕 戦時下の八紘一宇を思はせて亜細亜に広がる味の素かも 鳥羽省三