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私的感想:本/映画

映画や本の感想の個人的備忘録。ネタばれあり。

小山田浩子『穴』

2014-02-22 20:56:38 | 小説(国内女性作家)

仕事を辞め、夫の田舎に移り住んだ夏。見たことのない黒い獣の後を追ううちに、私は得体の知れない穴に落ちる。夫の家族や隣人たちも、何かがおかしい―。ごく平凡な日常の中に、ときおり顔を覗かせる異界。『工場』で話題を集めた著者による待望の第二作品集。芥川賞受賞作のほか「いたちなく」「ゆきの宿」を収録。
出版社:新潮社




技術的に優れた作品が、必ずしもおもしろいと思えるとは限らない。
また逆に、退屈だと思えるような作品が、必ずしもヘタクソであるとも限らない。
『穴』は、それを如実に示す作品だと個人的に感じた。

専業主婦になった女の周辺を描いた作品である。
そのため男の僕からすると、だから? としか思えない内容であまり入り込めない。
しかしそこで描かれる、家族や日常に対する違和感の描き方は非常に丁寧で感服する。


主人公の女は派遣社員で、夫の実家に移り住むため退職する。

そこでの派遣社員の境遇は生々しく読み応えがある。
また退職後の専業主婦の生活も、成すところもなく、時間が流れていく様が丁寧に描かれていて興味深い。

パワフルな姑を前にしての微妙な違和を感じさせる描写や、希薄さを感じさせる舅、ぼけているとしか見えない義祖父、メールにかまけている夫、存在していないと思われる謎めいた義兄、鬱陶しい謎の子供たちなどは心に残る。

特に姑や夫が良い。
彼らの行動は不平をもらすほどではない。
けれど、目の前でそんな行動をされたら、もやっとするのだろうな、という描写が目立つのだ。姑の振込みなんかは典型だ。

また現実と非現実が不明瞭のため、よけいにもやっとした味わいに拍車がかかる。
それがよい意味で心に爪あとを残してくれる。


そんな描写の積み重ねから見えてくるのは、家族の形だ。

義兄が言うように、家族ってのは妙な制度である。
家族のメンバーに悪い人はいない。だけど、他人と暮らす以上、何かを犠牲にしなければいけない。
義兄のように(たぶん彼は「私」の本音のメタファーと思うが)、そんな関係性からドロップアウトしたくなる人もいよう。

だが「私」は「流れみたいなものに加担」して、家族の生活を受け入れていく。
最後に姑に自分が似ていると思ったのは、彼女が家族として生きていく以上、感じる違和を逃げずに受け入れた証なのかもしれない。


内容的に、個人の好みに合わないことは残念ではある。
しかし観察力とある種のもやっとした味わいは卓越しており、目を見張る。
波長が合う人もいるのだろう、と思える作品だった。



併録作品は連作である。個人的には、『いたちなく』が好きだ。
いたちを溺死させるところのグロテスクなところと、仏教の因果話を思わせる味わいがおもしろかった。

評価:★★(満点は★★★★★)

金井美恵子『愛の生活・森のメリュジーヌ』

2013-10-06 17:16:24 | 小説(国内女性作家)

『わたしはFをどのように愛しているのか?』との脅えを透明な日常風景の中に乾いた感覚的な文体で描いて、太宰治賞次席となった十九歳時の初の小説「愛の生活」。幻想的な窮極の愛というべき「森のメリュジーヌ」。書くことの自意識を書く「プラトン的恋愛」(泉鏡花文学賞)。今日の人間存在の不安と表現することの困難を逆転させて細やかで多彩な空間を織り成す金井美恵子の秀作十篇。
出版社:講談社(講談社学芸文庫)




金井美恵子をまとめて読むのは初めてなので、世間的にどう評価されているか知らない。
だがこの作品集に限って言うなら、作品は三つのタイプに分かれるかな、と感じた。

一つは、『愛の生活』をはじめとした、死と不在の予感を描いた詩的な作品。
一つは、『兎』をはじめとした、近親相姦の予感をはらんだ、退廃とエロティシズムのにじみ出た作品。
一つは、『アカシア騎士団』のような、メタフィクショナルな作品、である。

個人的には、『兎』のようなエログロで、淫靡かつ退廃的な作品に心ひかれた。



本作品集の白眉は何と言っても『兎』だろう。
初めて読んだのは、『小川洋子の偏愛短篇箱』だったが、再読してもいい作品だと感じる。

そこには近親相姦を思わせるイメージに満ちていて、エロティカルな雰囲気に魅せられる。
一方でウサギを殺害するところはグロテスクなイメージで、それもまたおもしろい。
言うなれば文字通りのエログロなのだけど、全般に漂う退廃的な雰囲気は、ひたすら蠱惑的で読んでいるだけでぞくぞくとした。
その豊饒なイメージにはただただ心ひかれる。


ほかの作品では、『母子像』もおもしろい。
こちらも『兎』同様、近親相姦がテーマだが、父を愛する娘の退廃的な心理が大層読み応えがある。
「私があなたを愛したのは父親だったから、そしてそれを禁止するのも、あの人が父親だったからでした」ってところは、少ししびれた。


『黄金の街』は父娘でなく、姉弟の近親相姦もの。
プロット自体は、断片的なイメージが羅列されていて追いづらいけれど、全編にあふれる耽美な雰囲気は見事としか言いようがない。
姉弟の結びつきの強さと性的なイメージ、そして死への憧憬は、ねっとりするような表現が目立つせいか、読んでいると心に絡みついてくるかのようだった。



近親相姦系以外では、後半のメタフィクショナルな作品も楽しく読めた。

『アカシア騎士団』は、ミステリアスでどこか幻想味もあっておもしろい。
そこで描かれる真実に関して、はっきりとしたことはわからない。
そして木工場の主人も真実を言っているかはわからない。
だがそこからは作家としての、木工場の主人の自己顕示も見えてくる。
彼が話した小説も、送られてきた手紙も、彼のクリエイターとしての表現方法の手段なのかもしれない。そう思えるからだ。
そういう意味、「私」が木工場に行かなくなるのも当然なのだろう。
ともあれよくできた構成の話で、僕は好きである。


『プラトン的恋愛』は、書くという行為の苦しみがにじみ出ているように感じた。
彼女の作品には別の作者がいるという設定はメタ的ではあるけれど、それはある意味、彼女の分身でもあるのではないか。
「小説というものは(略)読むという行為を通して、もう一度書きなおされるもの」とも言うが、小説を書き、読み直すという行為を通して、客観的に物語をとらえ、あたかも別の人間が書いたかのような境地にまで至った状況を、この作品は書きつづっているのかもしれない。
そんなことを読み終えた後に感じた。


とりあえず一通り読んだ限りでは、詩的な表現が目立ち、イメージを喚起するような作風が多いように感じた。
それが良いように出ているのが、『兎』などの作品群だろう。
詩人としても活躍する著者らしい短篇集、そんな印象を受けた次第だ。

評価:★★★(満点は★★★★★)

藤野可織『爪と目』

2013-09-21 05:13:19 | 小説(国内女性作家)

「あなた」は眼科で父と出会う。「わたし」の爪と「あなた」の目も必ず出会う。娘と継母の嫌悪と快感を斬新な語りで描く芥川賞受賞作
出版社:新潮社




『爪と目』はある種、寒気を感じさせる作品である。
それもすべて、感性の欠落した人物を描き上げていることが大きい。


主人公は「わたし」の義母である「あなた」ということになるだろう。
この「あなた」という人は、人としての大事な何かが欠けている人だ。

ついでに言うと、この小説では、「あなた」の夫である、「わたし」の父も大事な何かが欠けている。
基本的に父は気配りが足りず、子育てを始め、他人に丸投げしている面がある。
そして父も「あなた」も他人に対して無関心という点が大きい。
「あなたと父は、よく似ていた」という言葉があるけれど、共につきあっている相手にすら関心を持てないという点では確かに共通している。

「あなた」は、つきあっている相手のみならず、あらゆることに関心がない。

そのときどきで感情は動くけれど、それも長く続かず、飽きるか、あるいは忘れてしまう。
そしてあらゆることを「他人事」のように受け止めてもいるのだ。
それにそれまでの知人から切れても平気でいられるという特徴もある。
そもそも不倫相手だって、相手のことを気遣うこともなく平気で切り捨てているくらいだ。

他者に対する関心のなさは、「わたし」に対しても向けられている。
「わたし」は爪を噛むという異常行動を取っているにも関わらず、それに対して、「あなた」はまともな処置を取っていないのである。


そういった「あなた」の行動は、他人に対する共感意識の乏しさに由来するのだろう。

本書の中にはある本からの引用という形で、以下のセリフが出てくる。
「あんたもちょっと目をつぶってみればいいんだ。かんたんなことさ。どんなひどいことも、すぐに消え失せるから。見えなければないのといっしょだからね、少なくとも自分にとっては」

それは後に、「あなた」が「わたし」をベランダに追いやるときのセリフとしても転用される。
それは嫌な現実から目をそむけるための手法という意味合いで描かれているが、「あなた」の普段の状態こそ、まさにこのような状態と言えるのかもしれない。

つまり「あなた」は他人に対する共感意識に目を閉ざしているのだ。
ただし「あなた」の場合は、それを無自覚にやっている。そこが不気味である。


そしてその共感意識の乏しさは、「あなた」とおなじと語る「わたし」にも当てはまる。
ラストの行動は、そんな「わたし」の共感意識の乏しさがもたらした恐ろしい事件と僕には見える。
その最後にもたらされた後味の悪さがおもしろい。

好みで言うなら、『爪と目」は決して好きなタイプの作品ではない。
だが読み終えた後に覚える、ぞくりとした寒気が、きわめて印象深い一品であった。



併録の2作品では、「しょう子さんが忘れていること」がおもしろかった。

彼女は、脳梗塞で自分の体が不自由になった老女だ。
年齢的に荷物をおろして楽にしたい、と考えているのに、そのような自分の体が荷物になっている状態にいらだっている。

そんな彼女の内側で沸き立つのは、セックスの予感なのだろう。
セックスは、彼女の中では完全に片のついた問題として捉えられており、嫌悪感すら持っている。
しかしそのセックスの問題に、彼女自身さらされようとしているのだ。

言うなれば、本書はセックスを捨てた女の、セックスに対する仄かな欲求に、自分自身困惑している話と見える。その予感の描き方が良かった。
ラストはコメディにしか見えなくて、無しだが、老女の身体性と心の問題という主題自体は興味深い作品だった。

評価:★★★(満点は★★★★★)

吉屋信子『わすれなぐさ』

2013-09-10 05:21:13 | 小説(国内女性作家)

美しく我侭なお嬢様・陽子、人造人間とあだ名される優等生・一枝、無口で風変わりな個人主義者・牧子。一枝と心を通わそうとする牧子だったが、華やかな魅力に溢れる陽子の操る糸に絡めとられていく…。夏休みの水泳合宿、学校帰りの横浜ドライブ―少女小説の女王が描く、昭和ロマン漂う少女たちの愛と友情の物語。
出版社:河出書房新社(河出文庫)




吉屋信子と言うと、少女小説というイメージがあるのだが、『わすれなぐさ』はまさにそのイメージにぴったり合う小説である。
少女たちの交流と友情とちょっとした反発など、幾分甘い結末も含め、少女小説らしい味わいが出ている。

だが内容自体は、少女小説と言うジャンルと無関係に、純粋におもしろい作品であった。


物語は、三人の少女によって展開される。

主人公はおとなしめで普通の少女(作者的には個人主義の雄なる者らしいが)の牧子になるのだろう。
だが物語をけん引するのはブルジョアのお嬢様然とした陽子である。

陽子は上流階級の娘のテンプレって感じの少女だ。
高飛車でパワフルで、その押しの強さで周囲を巻き込んでいく。人の心に頓着せず、自分の欲求を押し付けるって感じが強い。
あまり性格がいいようには見えず、一枝に半巾を投げつけるところを始め、身勝手でわがままだな、と感じる面はいくつかあった。

しかしその押しの強さは個性的で、人を引き付ける力もあるのだ。
牧子と仲良くなろうとして、彼女と親しくなるために、行動するところなどは典型だ。
誕生日に牧子を招待した彼女は、牧子を美しく化粧させたり、ダンスを仕込んだりと、さながら愛玩する人形を扱うように、牧子を翻弄していく。

いやいや強引だな、と感じる面もあるのだが、陽子に押されて牧子もされるがままになっている。
その陽子の魔術にかかったかのようになっているところがおもしろい。
意味合いは違うが、ファム・ファタールって言葉を思い浮かべる。

ともあれ、主従とも、ペットとご主人とも見えかねない、二人の関係性が心に残る。



そんな牧子の家庭は父権主義の色合いの強い家庭だ。
父は子どもたちの運命を決定し、それを強要してくる。

牧子もそれに反発を覚えているが、時代が時代だけに心の中だけで思っているだけの感は強い。
そして同じように父親に縛られているという点では、真面目一辺倒な一枝も同じである。

共に弟という家督を継ぐ者を大切にし、家のために尽くすよう求められる。
当時の少女たちを取り巻く環境が目に見えるようで、何とも苦い。
父権主義は今考える以上に抑圧的だったのだろう。

そんな抑圧ゆえに、陽子に振り回されることで牧子も解放されたような気分になっていたのかもしれない。そんなことを考えてしまう。



そんなあるとき、弟がプチ失踪状況となる。そこから父娘間で会話がされるようになり、、、、、という風にラストへ向け、物語は進んでいく。
結論から言えば、物語は大団円といったところだろうか。
実際、封建主義的な抑圧から、牧子も一枝も解放され、陽子とは一人の人間として向き合うこととなる。

正直そんなラストは甘いな、という感じもしなくはない。
父の転向を始め、一枝たち一家の救いなど、都合が良すぎる気もする。

しかしそれゆえに後味が良く、読後も爽やかであることは否定できまい。
何より物語としては充分におもしろい点が良い。

昭和初期の風俗や、当時の少女を取り巻く状況などを知ることができる点も良かった。
時代を経ても色あせない、本作はそんな良質な作品である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

瀬戸内寂聴『夏の終り』

2013-08-31 05:56:45 | 小説(国内女性作家)

妻子ある不遇な作家との八年に及ぶ愛の生活に疲れ果て、年下の男との激しい愛欲にも満たされぬ女、知子…彼女は泥沼のような生活にあえぎ、女の業に苦悩しながら、一途に独自の愛を生きてゆく。新鮮な感覚と大胆な手法を駆使した、女流文学賞受賞作の「夏の終り」をはじめとする「あふれるもの」「みれん」「花冷え」「雉子」の連作5篇を収録。著者の原点となった私小説集である。
出版社:新潮社(新潮文庫)




いい作品ではあるが、好みではない。
『夏の終り』とその連作短編の個人的な感想を書くならそういうことになる。

その心理描写は丁寧で、ところどころではっと目を見張る表現や、人物の行動がある。
しかし僕の心に響くまでには至らなかった。
それもこれも表題作の主人公知子の行動が理解できないからだ。



本作は『あふれるもの』『夏の終り』『みれん』『花冷え』の連作短編と、『雉子』の独立短編の五編より成っている。

『夏の終り』をはじめとした連作短編の主人公は、知子という三十代の女だ。
彼女は夫と子どもがいたのだが、あるとき涼太という若い男に恋をし、夫と子を捨ててしまう。その後涼太と別れた知子は、妻子のある慎吾と関係を持ち、そのまま八年間、不倫関係にあり続ける。そんなとき知子は涼太と再会、慎吾がいながら、涼太とも関係を持つようになる。
そういう話だ。見るからにドロドロである。


涼太や慎吾といった男たちは、僕から見ると、わかりやすい人物である。

涼太は知子と一緒になりたいと思っているらしい。
それゆえに現状の三角関係が許せず、惨めったらしい態度も取っている。
知子と慎吾の関係をなじるところなどは醜態ではあるけれど、わかりやすくて人間臭い。

慎吾も妻子ある身でありながら、態度をはっきりさせないところなどは、典型的な浮気男らしく、そのずるさもまた理解できなくはない。
それに同じ女と関係を持つ男同士、なれ合っているシーンがあるが、そういった本音を隠した付き合いは、腹の探り合いとも、休戦協定とも見えて、充分理解可能な行動だ。


しかし、主人公の知子の行動に関しては、僕にはどうしてもわからなかった。

知子は「無鉄砲で衝動的」で、「活力があふれ」た人である。
そのせいか、この人は感情で生きているように見えてならない。

好きと思えば、その感情に突き動かされるように動き、男が頼りなさそうならば、その男のために活力を注ぎこむほど、深くのめりこんでいく。

そんな風に、湧き立つ感情に従い生きる知子の姿が、僕には上手くなじめなかった。
知子がそういう人だってのはわかる。そんな知子の行動を記す筆は冴えていると思う。
だけど、その行動まですんなり受け入れるには、若干抵抗がある。


たとえば『みれん』の中で、知子は慎吾とその妻に八年の不倫関係を終わらせようと宣言する手紙を書き、投函する。
その淡々とした無自覚な行動が、僕には今ひとつピンとこなかった。

まだ嫉妬やら何やら、強い感情があって、それに従って行動するならわかるけれど、知子はあまりに淡白に映る。

実際、知子は惚れっぽいくせに、その関係に対する執着はあまりに薄い。
感情的なために、感情が落ち着いてくれば、それを平気で突き離せるのかもしれない。

それを評して、「知子の過去は、いつでも衝動的に事をおこしてしまって、あとから仕様ことなしの理屈づけをしていくという順序で、押し流されてきた」と書かれているが、まさにその通りだと思う。


そんな知子の姿は、あまりに女性的だと思う。

それゆえのおもしろさや、興味深さがあったことは否定しない。
しかしそれゆえに、男の僕には受け入れがたいものがあった。

やはりこの一連の作品は、僕には苦手な作品である。そう結論付けざるを得ない。



個人的には『夏の終り』などとは同音異曲の『雉子』の方が楽しく読めた。

こちらの主人公も、子を捨てた女で、子に対してもどこか冷淡に見える。
一応彼女は子どもや元夫に内緒で子どもに会いに行っている。
だがそれだって、子への愛の形を借りた無自覚な自己愛と見えなくもないのだ。
合っているかは別として、そう読み手に思わせるあたりはすばらしい。

しかし倫理的に見て自分の行動は問題があると女は気づいており、罪悪感もあるらしい。
最後の堕胎の場面には、そんな女の罪の意識がほの見え、グロテスクですらあった。

評価:★★(満点は★★★★★)



そのほかの瀬戸内寂聴作品感想
 『源氏物語 巻一~巻五(桐壺~藤裏葉)』(瀬戸内寂聴 訳)
 『源氏物語 巻六・巻七(若菜上~紅梅)』(瀬戸内寂聴 訳)
 『源氏物語 巻八~巻十(竹河~夢浮橋)』(瀬戸内寂聴 訳)

幸田文『流れる』

2013-08-18 18:35:57 | 小説(国内女性作家)

梨花は寮母、掃除婦、犬屋の女中まで経験してきた四十すぎの未亡人だが、教養もあり、気性もしっかりしている。没落しかかった芸者置屋に女中として住みこんだ彼女は、花柳界の風習や芸者たちの生態を台所の裏側からこまかく観察し、そこに起る事件に驚きの目を見張る…。華やかな生活の裏に流れる哀しさやはかなさ、浮き沈みの激しさを、繊細な感覚でとらえ、詩情豊かに描く。花柳界に力強く生きる女性たちを活写した幸田文学を代表する傑作。日本芸術院賞、新潮社文学賞受賞。
出版社:新潮社(新潮文庫)




『流れる』は必ずしもとっつきやすい作品ではない。
にも関わらず、ふしぎとおもしろい作品でもあるのだ。
そういう意味、興味深い一冊だろう。



本書をとっつきにくいと感じた理由は、何と言っても文章にある。

幸田文の文章は美しいとよく言われる。
けれど『みそっかす』を読んだときにも感じたが、意味のつかみづらい文章でもあるのだ。

たとえば最初の方など、登場人物が何の前ふりもなく登場するから、誰が誰だかまったくわからない。
それに、文章の中には直感と主観に満ちた論旨の飛躍も見受けられる。
加えて、明確な筋がないせいで全体的にふわふわした印象にとどまるのだ。


それに物語の筋だって、とらえどころがない。
一応メインストーリーは、お金に関するごたごたがあり、芸者たちが離れて行く、というところだろうが、そんな筋書きなどあってないようなものである。

そういう辺りが本書をとっつきにくく、親しみにくいものにしている。



それでも本書をおもしろい、と感じたのは、主人公の視点にあるのだ。

主人公は、芸者置屋に住み込みの女中として働く梨花という女である。
彼女は女中ではあるけれど、知性のある人だ。
むかし彼女自身が女中を雇っていたようだし、もともとは富裕な家で育ったが、夫と子供を亡くしたため零落した人なのかもしれない。

そんな賢い人のためか、周囲の観察もなかなか的確だ。
特に皮肉交じりな視線やユーモラスな感覚や、ちょっとしたせつなさがにじみ出ている点がすばらしい。


梨花がこのように周囲を観察できているのは、「女中という位置のせいだろう」。
「ひとごととして一歩さがったところから気楽に見ていられる」から、いろんなことに目を配ることができるのだ。。
もちろん梨花が「眼のいいしろうとさん」ということも、重要な意味合いをもっている。


そんな梨花が観察する人間関係の機微はなかなかおもしろい。

最初の方の金を拾うシーンとかは上手いな、と思う。
そのときの行動から米子の図々しさがよく見えるし、主人のしっかりした人間性が見えてくる辺りはさすがだ。

また不二子という少女が熱を出して甘えるところも良かった。
その行動を「この小ささでこの媚態をしてのける」と見抜くところは、おお、と思わずうなってしまう。男ではここまでのことはなかなか気づけない。そこはさすが女性作家だ。
幼い少女であっても、女であることを見て取り、そこに同じ女として嫌悪を感じるところ、しかしそれと言って突き放すわけではないところに、梨花の視線の鋭さを感じる。

ほかにも普段強がっている勝代が実は結構弱いところもあることを看破するところや、借金問題がこじれている染香に対する視点も辛辣ながらも的確である。


確かに本書はとっつきにくい。
それでもその観察の行き届いた人間模様は、それだけで十分に楽しく、非常に読み応えのある作品なのである。

評価:★★★(満点は★★★★★)



そのほかの幸田文作品感想
 『みそっかす』

小野不由美『丕緒の鳥』

2013-08-07 05:16:50 | 小説(国内女性作家)

「希望」を信じて、男は覚悟する。慶国に新王が登極した。即位の礼で行われる「大射」とは、鳥に見立てた陶製の的を射る儀式。陶工である丕緒は、国の理想を表す任の重さに苦慮していた。希望を託した「鳥」は、果たして大空に羽ばたくのだろうか―表題作ほか、己の役割を全うすべく煩悶し、一途に走る名も無き男たちの清廉なる生き様を描く全4編収録。
出版社:新潮社(新潮文庫)




『十二国記』のメインストーリーは、陽子の物語と泰麒、延王や延麒たちの物語だと個人的には思っている。
百歩譲っても、『図南の翼』のように王と麒麟を中心にした物語だろう。

それだけに十二年ぶりの新作である本書を読んで、幾分がっかりしたことは否定しない。
ここに出てくるのは、メインストーリーには絡まない庶民ばかりだからだ。

あるいは著者は、陽子や泰麒の物語を描くことにはもう興味がなくなっているのではないか、なんて邪推してしまう。
著者の関心はすでに十二国記の設定を使って、人間ドラマを描くことにしか興味が向けないのかもしれない。

だが困ったことに、そんな物足りない内容でも、物語としては充分おもしろいのである。
『丕緒の鳥』の全体的な感想を言うなら、そういうことになる。



以下順々に感想を記す。

『丕緒の鳥』

下級国官の丕緒の苦渋がうかがえる一品。
悲惨な現実に民が苦しんでいる現実を前に、自分の仕事で、何とかそれを王に伝えようとして、挫折する姿がなかなかせつない。
現実に対してそれぞれに立ち向かったからこそ、陽子の即位で報われるのではないか、という明るい予感が心に残る。



『落照の獄』

個人的にはこの作品中の白眉。
特に死刑制度についての議論がすばらしかった。
個人的に僕は、死刑制度は条件的反対派だけど、そういった視線から見ても、ここに描かれた死刑制度の矛盾はかなりフェアに描かれていると感じた。

そしてフェアであろうと登場人物がふるまうからこそ、死刑かどうかを裁く側は苦闘しなければいけないのだろうな、と瑛庚の姿を見ていると感じる。
死刑は理屈や情だけでは、簡単に解決できる問題ではなく、人を殺すというのはそれ自体が忌むべきものだからだろう。

ラストはそんな苦みと傾国の予感とがにじみ出ている。
暗い最後ではあるが、それだけに真に迫るものがあった。



『青条の蘭』

国のため、仲間のために、ひたすら王宮を目指す標仲の物語が痛ましい。
そして必死で山毛欅林を救おうとする包荒たちの姿も読んでいると、悲壮とも感じる。
そんな標仲の姿に触れて、手を差し伸べる周囲の姿が心に残る。

ラストはぼかしたままで、あの実が青状であるかは明かされない。
しかしドラマに伴う人の思いだけはしんしんと心に残る作品だった。



『風信』

地に足のついた下級役人たちの姿が忘れがたい。

すべての人間が国のために何かができるわけではない。国が荒れていても、それに対して何かができないときもある。
それでも彼らができるのは暦を作ることでしかない。
そしてそれが人びとの生活を支えるのならば、それをするしかない。

戦うだけでなく日々を支えることにも意味があるのだろう。
そんな無力に近い人間の、日々の営みが明るいラストと相まって、胸に響いた。

評価:★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの小野不由美作品感想
 『くらのかみ』

中島京子『小さいおうち』

2013-07-03 05:28:42 | 小説(国内女性作家)

昭和初期、女中奉公にでた少女タキは赤い屋根のモダンな家と若く美しい奥様を心から慕う。だが平穏な日々にやがて密かに“恋愛事件”の気配が漂いだす一方、戦争の影もまた刻々と迫りきて―。晩年のタキが記憶を綴ったノートが意外な形で現代へと継がれてゆく最終章が深い余韻を残す傑作。著者と船曳由美の対談を巻末収録。
出版社:文芸春秋(文春文庫)




人間の営みは、社会状況がどうであれ、簡単に変わるものではないのかもしれない。
そんなことを『小さなおうち』を読んでいる間感じた。

小説の舞台は、昭和初期という軍靴の足音が近づきつつある時代である。
イメージとしては、決して明るいものではない。
それは満州事変から終戦に至る過程にあたるわけで、軍隊が幅を利かせて、人びとの生活を抑圧していったという印象が強いからだ。

しかし小説で描かれる昭和初期はそんな雰囲気とは大きく違う。
そこで描かれているのは、緊迫感や暗さや閉そく感とは異なる、普通の家の日常だからだ。まずそこに驚いてしまう。


この作品で描かれる時代描写はどれも新鮮なものばかり。

たとえば一章は、二・二六事件の起きた年を舞台にしている。
翌年には日中戦争(支那事変)が起きて、近衛文麿がぐだぐだな対応をした結果、やがて大陸戦線は泥沼にはまりこんでいく。そしてそれ以降、監視社会の雰囲気は強まり、政府による統制も、思想の誘導も平気で行なわれていくはずだ。

しかしそこでは陰惨な雰囲気はほとんどないのである。
むしろ語られるのは東京オリンピックが開かれるかもしれないという明るい予感なのだ。
教科書で習って知っている風景とは、違った世界がそこにはあって、目から鱗である。

実際、庶民からすれば、社会状況は新聞や雑誌などから得る知識でしかなく、生の体験ではないのだと思う。
だから人びとは自分の身に危機が迫らない限り、いつも通りの日常を当たり前のように過ごしていくのだろう。

この視点は、女中という常に生活と密着した人間を語り手にしているのが大きいと思う。
それもあってか、生活描写が細やかな点も印象深い。
日の丸弁当に関するエピソードや食料の統制が行なわれていても、デパートで大売り出しを行なっていたとかはその最たる例だ。
どれもイメージの刷新を迫られるようなエピソードばかりで感服し、心を奪われる。


そんな日常の中で描かれる物語は、女中から見た奉公先の家庭と、奥様の恋愛事件と言ったところだろうか。
まず女中タキと奥様である時子の関係が良かった。
そこにあるのは主従というよりも、一つの友情なのではないかと感じる。

少なくともタキの側からすれば、平井家には強い愛着があったのだろう。
時子に対する思いはことのほか強かったことは見ていてもよくわかる。
それは睦子(というよりも吉屋信子)の言う第二の道かな、という気もしなくはないが、それはそれとして、その観念は崇拝にも近い。

そしてそんなタキの思いは、最終章へとつながるのかもしれない。
小中先生が言っていた良い女中の話が、タキにあのような行動を取らせたのだろうか。
それとも、もっと違う個人的な動機があってのことだろうか。

僕は両方だろうとは思うが、タキがそのことを生涯悔いていたのは確かである。
そして自分の行動について正しいか問い続けたのだろう、と感じる。そう考えるとどこか悲しくてならない。

しかし板倉が描いたように、時子とタキは幸福な時間を過ごしていたことはまちがいない。
板倉もそんな彼女らが生み出した幸福な家を愛してくれた。
そう考えると、悲しみの中にも一抹の救いを見る思いもなくはない。

ともあれ、時代の空気を描き切っており、ただただ心を奪われる作品である。
大きな賞を得るにふさわしい作品だろう。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『abさんご』 黒田夏子

2013-02-19 20:47:34 | 小説(国内女性作家)

蓮實重彦・東京大学元総長の絶賛を浴び、「早稲田文学新人賞」を受賞した75歳「新人女性作家」の、若々しく成熟したデビュー作。
出版社:文藝春秋




 aというがっこうとbというがっこうのどちらにいくのかと,会うおとなたちのくちぐちにきいた百にちほどがあったが,きかれた小児はちょうどその町を離れていくところだったから,aにもbにもついにむえんだった.その,まよわれることのなかった道の枝を,半せいきしてゆめの中で示されなおした者は,見あげたことのなかったてんじょう,ふんだことのなかったゆか,出あわなかった小児たちのかおのないかおを見さだめようとして,すこしあせり,それからとてもくつろいだ.そこからぜんぶをやりなおせるとかんじることのこのうえない軽さのうちへ,どちらでもないべつの町の初等教育からたどりはじめた長い日月のはてにたゆたい目ざめた者に,みゃくらくもなくあふれよせる野生の小禽たちのよびかわしがある.

『abさんご』という作品は、上記のような出だしで始まる。
一読しただけで、意味をつかめる人はどのくらいいるだろう。少なくとも僕は無理だった。

すんなり理解できないのは、ひらがなが多用されているからというのもあろう。
だがそれ以上に、文章自体、すっと頭に浮かんでくるタイプの文ではないのである。
主語がわかりづらく、修飾語が多すぎて、文章構造も入り組んでいる。
とにかく読みづらいのだ。

では、お話を楽しめなかったか、と言えばそうでもないからふしぎなのだ。
確かに読みづらく、理解を疎外するような文章なのだが、そこから静かな情感が立ち上がってきている。
たぶん文章のリズムのおかげと思うのだが、ともあれ、ふしぎな読み味で忘れがたい。


物語は、〈受像者〉という章から始まる。
そこには過去を追想する一人の女が登場しているが、どうやらその彼女が過ぎりさりし過去の思い出を、断章形式で記しているようである。

彼女は幼いころ母を亡くし、その後父と二人で暮らしている。
〈やわらかい檻〉の章の序盤を読む限り、二人の生活は、二人だけながら落ち着いた生活だったらしい。だが、「家事がかり」の登場によって、その生活に微妙な狂いが生じる。

とてもふてぎわにとてもつらそうに家事がかりをする家事がかりがきてから,断じてそれを見ならいたくない者にとっての家は,権利がないのにめぐまれている,いつ逐われてももんくのいえない,やすらげないよそよそしい異土となった.

住みうつって十ねんの者たちにはのがれようのないほんとうの転落がはじまり,改変者にはひたすら功績感と所有感がつのっていった.

というような状況に追いやられているのである。
自分たちのリズムで暮らしている家を次々と自分のリズムで染めていく継母の行動に、継子はどうも違和感を覚えているし、心の底では反発心を持っているらしい。
何か、完全に主客が逆転していっており、それがどこかおもしろかった。

しかも父親は
つきあった配役が親にとってと子にとってとどれほどことなるいみをもっているかにうかつな親を,子はすでにたよれなかった.

というように、そんな継母と継子の微妙な心理状態には、無頓着なのである。


やがて、〈やわらかい檻〉の章などに見られる微妙な心理的衝突を経て、「家を出る」ことを考えるのも、状況的には自然だろうな、とは思う。
〈草ごろし〉は、そんな心情を、メタファーとして表した章であろう。

そしてそのような心理的違和感は、家を出ても、なお消えないのである。
父親が死にゆく場面になっても、決して消えず、何気ない場面のそこここで経ち現われているようだ。
そういった彼女の状況と深く語られることのない心情は読んでいる分には楽しい。


読みづらさはあるものの、物語自体はシンプルでおもしろい。
独特の表現もなんだかんだで味わい深く、この作者にしか出せない個性が、強いインパクトを残す。
僕はけっこう好きな作品であった。



25~26歳のときに書いたという『毬』『タミエの花』『虹』の三作もおもしろかった。

『毬』
自分の中の絶対的な倫理観よりも、他者の目を気にしての倫理観を重視しているあたりがおもしろい。だから人が気付きもしなければ、タミエは毬も盗むし、果物を平気で食べるといった、うろんな行動を取ってしまう。
その倫理の未分化な時期を的確に捉えていると感じた。

『タミエの花』
自分の知っている世界を、正しいことを教えられたことで否定されたように感じる感情の動きや、知っているふりをして、優越感のようなものを感じる心情がおもしろい。
少しひねくれた子どもの、ありのままの感情が再現されていて、おもしろく読めた。

『虹』
前二作で示されたタミエのうろんさが、もっとも陰惨な形で現われており、衝撃を受ける。
よもや水に対する怕れや、虹を見たことがないということが、あのような過去につながっているとは思わず、戦慄を覚えた。


ともあれ、黒田夏子という作家のポテンシャルを感じさせる作品集である。

評価:★★★★(満点は★★★★★)

『ヘヴン』 川上未映子(再読)

2013-02-05 21:50:00 | 小説(国内女性作家)

〈わたしたちは仲間です〉――十四歳のある日、同級生からの苛めに耐える〈僕〉は、差出人不明の手紙を受け取る。苛められる者同士が育んだ密やかで無垢な関係はしかし、奇妙に変容していく。葛藤の末に選んだ世界で、僕が見たものとは。善悪や強弱といった価値観の根源を問い、圧倒的な反響を得た著者の新境地。
出版社:講談社(講談社文庫)




『ヘヴン』は紛れもなく一級の作品である。

そのいじめの描写はつらく、相手を思う気持ちは胸苦しく、そして展開される哲学的な思惟は深く、文章もいい。
再読ではあるが、僕はやっぱりこの作品が大好きだと改めて思った。



物語は中学二年の生徒で、学校で凄惨ないじめにあっている「僕」と、同じくいじめられているコジマの交流を中心として描かれている。


そこで描かれる、「僕」へのいじめは本当に苛酷だ。

「僕」は斜視であることをからかわれ、上履きを突然投げつけられたり、チョークを無理やり食べさせられたり、机の中にごみを詰め込まれたり、体に跡がつかないよう殴られたり蹴られたりしている。
読んでいるだけでつらくなってくるような陰惨な場面ばかりだ。

実際、作中の「僕」もつらいらしく、死を考えることもある。
そのように「僕」の心が追いつめられていく様子は本当に見ていて苦しい。

そんな中で、もっとも残酷だったのは、人間サッカーであろう。そのシーンは圧巻であった。
体育館へ連れ込まれるときの不安、ボールになれ、と言われて、バレーボールをかぶせられた後、何が起こるかわからず待っているときの恐怖など、「僕」の感情が激しく伝わる。
おかげでそのシーンを読んでいるときは、胃が痛くなってしまったほどだ。

その場面は、「僕」を蹴り飛ばした後のところもすばらしい。
いじめを行なった二ノ宮が「僕」に言った言葉は本当にひどかったからである。
そのときの二ノ宮の言葉を読んだときは、あまりに卑劣過ぎて、戦慄が走った。
それはもう、人でなし、としか言いようがなく、そのクズっぷりにむしろ感嘆すらしてしまう。

そして、こんな苛酷な場面でも、容赦なく描写する川上未映子の筆力に、圧倒されるほかなかった。見事と言うほかない。



そして、そのいじめの描写が苛酷であるからこそ、「僕」とコジマの交流が胸に響くのだろう。

最初の方の手紙のやり取りなんかはとってもすてきだ。
はっきり言って、話している内容には大したことはないのだけど、二人の距離感が縮まっていく様子がよく伝わり、温かい気分になる。

だからこそ「僕」は、「コジマが苛められているのを見」るのがつらくなるし、自分が「苛められているのを見られていると思うのも」つらいと思うようになる。
それはすごく自然な心の動きだ。

そして、そんな風に感じるのは、「僕」が優しい子だからってのもあるのだ。
自分がいじめられているのに(あるいはいじめられているからこそ)、親身になって他者のことを心配し、悲しんでもいる。
そんな「僕」の心に触れて、読み手であるこちらも彼と同じように苦しい気分になってしまう。


そうして二人の仲もどんどん親密さを増していく。

個人的には夏休みのデートのシーンが好きだ。
そこでお金のことや着ていく服のことを考えて、おろおろする「僕」がとってもかわいらしい。

もちろん髪を切るところもすばらしかった。

たぶん「僕」はコジマが話すはさみの理屈はあんまりわかってはいないのだと思う。
しかしそれがコジマにとって重要なことだということは、「僕」にもわかっている。
だから自分の髪を切っていいのだと、言えるのだ。

それもまた、相手の気もちになって考える、彼の優しさの表れなのだろう。
そんな「僕」の行動に胸を打たれてしまう。そして「僕」のことをこちらも好きになってしまう。
そしてやがて、コジマに対して、直接的なものを求めたくなっていく「僕」の気持ちに、せつなさのようなものさえ感じてしまうのだ。



とは言え、コジマという少女は変わった子である。
その変わった感性のため、「僕」との間に、どこか齟齬が生じているのは否めない。

まず彼女が自分の体を汚くしている理由は理解できないし、先にも触れた彼女のはさみの論理も意味がわからない。
「僕」の斜視があいつらはこわいのだ、というのは何となくわかるけれど、僕にはコジマの思想を、最後までわかることができなかった。

だが端的に言ってしまうなら、彼女の理屈は、周囲のものに意味をつけていく、という点で共通しているような気もする。

「ふだん感じてる不安もこの安心も」「とくべつなことだって思ってたい」とコジマは思っている。だからだろうか、自分をいじめるやつらは、何もわからずいじめているにすぎないと、彼女は軽蔑したように語ってもいる。

コジマの考えは、ニーチェ辺りなら、畜群のルサンチマンとでも言いそうな内容である。もっともコジマ的には自分らの側が超人なのだろうけれど。
ともあれ、それはどこか宗教に通じるようなにおいも感じられる。
言うなればファナティックなのだ。


そしてそんなコジマの論理は百瀬の論理と明確な対照を成しているのだ。

百瀬の思想を一言で語るならば、ニヒリズムである。

彼によると、事物には意味がないらしく、いじめもしたいからしていると言う。そして自分の身は自分で守れ、とも言っている。
一見すると、それは真実の一端をついているようにも思う。

だがニヒリズムとは、理性で世界を割り切ろうとする代物である。

理性で割り切ろうとしているから、一面的には正しく見える。
だけどそれは理性で割り切れない感情などを黙殺してもいるのだ。ゆえに冷酷な空気をはらんでもいる。


百瀬の理屈は、別の言い方をするなら、物事の意味を剥ぎ取るということでもある。
そういう点において、物事に意味を付与しようとする、コジマの意見とは対立しているようにも見える。

だけど、意味を付与するにせよ、意味を剥ぎ取るにせよ、それはすべて理性で割り切られることであるという点では共通しているのだ。
コジマと百瀬は異なるようで、実のところ表裏一体なのである。

だからだろうか、思想という点において見ると、「僕」はどちらの側にも与することはできないのだ。
コジマが特別だと言った、「僕」の斜視だって、一万五千円で治るものでしかない。
しかし百瀬が言ったように、斜視は関係ない、と突き放すのも何かが違う。


そしてその「僕」の態度が結果的にはコジマとの仲を裂くことにもなったのだと思う。

「僕」がコジマに斜視の手術のことを話して、仲違いしてしまう場面は、心底悲しかった。
「僕」に限らず、読み手である僕も、コジマには理解してほしかったのだが、偏った考えを持っているコジマには伝わらなかったらしい。それが本当に悲しくてならない。
そして二人の仲が決裂したまま、ラストシーンを迎えるに至る。



ラストの雨の中のシーンは、すばらしいとしか言いようがなかった。
物語的にも、思想的にも、エモーショナルな部分に訴えかけるという点でもまさにクライマックスである。

その中で、個人的に僕が気になったのは、「僕」がいじめられているからと言って、最後まで相手に対して仕返しをできなかったことだ。
どんなことがあれ、「僕」はいじめられていることを理由に、いじめ返すことのできない人間なのだろう。


それはある意味では優しさだと思うのだが、見ようによっては軟弱さでもあると思う。
そしてその軟弱さを、二ノ宮は虐げ、コジマは意味を付与しようとした。

それは、良い悪いと言った倫理的なものではないのだと思う。
そこにあるのは、ただそうである、という事実だけなのだ。

しかしそこで起こった事実こそが、紛れもなくすべてでもあるのだ。
「僕」が二ノ宮たちを殴り返せなかった事実も、コジマが「たったひとりの、僕の大切な友達だ」という事実も、最後に斜視が治った目で見た世界の美しさも、それが事実であり、それがすべてなのである。

そこには意味はないし、意味は付与できない。
しかし、だからと言って、それで切り捨てられるものでもない。

ただ彼の中の倫理と、愛しい者を愛しいと感じる感情と、美しいものを美しいと感じる感性、それこそが意味とかを超越した「僕」にとっての絶対なのだろう、と思う。


あきれるほどの長文になった。
だが『ヘヴン』はそれだけ、長々しくいろいろなことを語りたくなるような作品でもある。
心を動かされ、知的に刺激され、いろいろなことを思わずにいられない。

嫌いな人は嫌いな作品なのだろう。
しかし僕は、『ヘヴン』は長く読まれるに足る傑作である、と本気で信じている。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



初読時の『ヘヴン』感想
 『ヘヴン』

そのほかの川上未映子作品感想
 『乳と卵』
 『わたくし率 イン 歯ー、または世界』

『田村はまだか』 朝倉かすみ

2013-02-03 19:00:47 | 小説(国内女性作家)

深夜のバー。小学校のクラス会三次会。男女五人が、大雪で列車が遅れてクラス会に間に合わなかった同級生「田村」を待つ。各人の脳裏に浮かぶのは、過去に触れ合った印象深き人物たちのこと。それにつけても田村はまだか。来いよ、田村。そしてラストには怒涛の感動が待ち受ける。
出版社:光文社(光文社文庫)




『田村はまだか』はある意味では大人のための小説と言えるのかもしれない。
世間にもまれて、いろいろとあくせくし、ウダウダと立ち止まっている大人たちが、子どものときの記憶を思い出しつつ、なかなか来ない旧友を待つ物語。そう見えるからだ。

個人的には、読み手がカタルシスを得る話ではなく、登場人物たちがカタルシスを希求するお話とも感じられた。


小学生のころの友人たちが、久々のクラス会の三次会で、なかなかやって来ない旧友の田村を待つというのが主筋である。
最初に田村のエピソードが語られた後、次の章からは、待っている側の友人たちの個々のエピソードが描かれる。

かつて小学生だった彼らもそれなりに大人になって、世間にもまれている。

たとえば第二話に出てくる上司の石田や、第三話に出てくる元彼の柴崎はどう見てもイヤなやつだ。しかし大人である以上、そういった人物ともつきあわねばならないのがつらいところだろう。

それを抜きにしても、多くの人物は大人になり問題を抱えているのは確かだ。

池内は最初は威勢が良かったのに、徐々に仕事に手を抜くようになっている。
千夏は歳の離れた生徒に恋心のようなものを抱いてそれをいつまでも引きずっている。
坪田は性的に変なゆがみ方をした(ように見える)男で、隣の女にも関心を寄せているが、あえて踏み込もうとはしていない。
そのほかにも妻や夫と離婚した者もいるし、不倫関係にある者もいる。

特殊なケースもあるが、それなりに希望もあれば、生きづらさもあるらしい。


そんな彼らにとって、田村は、美しい過去の象徴でもあるのだ。

田村は少年時代の恋を貫き、まっすぐに生きている。
だからこそ「田村のことを思うとき、おれたちの心は混じりけのないものになる」なんて言葉が坪田の口から出てくるのだろう。

個人的には幾分つくりすぎの部分があり、入り込めなかったが、そういった何かを希求する場面は悪くない。またウダウダと悩んだりするところも好きだ。
そういった揺らぎのようなものこそ、小市民的な世界であり、小市民的な感覚を描いた作品とも言える。


個人的には合わなかったが、達者な作品と感じた次第だ。

評価:★★(満点は★★★★★)

『きいろいゾウ』 西加奈子

2013-01-22 20:15:07 | 小説(国内女性作家)

夫の名は武辜歩、妻の名は妻利愛子。お互いを「ムコさん」「ツマ」と呼び合う都会の若夫婦が、田舎にやってきたところから物語は始まる。背中に大きな鳥のタトゥーがある売れない小説家のムコは、周囲の生き物(犬、蜘蛛、鳥、花、木など)の声が聞こえてしまう過剰なエネルギーに溢れた明るいツマをやさしく見守っていた。夏から始まった二人の話は、ゆっくりと進んでいくが、ある冬の日、ムコはツマを残して東京へと向かう。それは、背中の大きな鳥に纏わるある出来事に導かれてのものだった―。
出版社:小学館(小学館文庫)




個人的な好みに合わないし、もどかしい部分もある。
しかしすてきな部分も多く、波長が合う人にはまちがいなく心に響く作品だろう。

『きいろいゾウ』の感想を端的にまとめるなら、そういうことになる。


主人公は、都会から田舎町に引っ越してきた、売れない小説家である夫のムコと、動物などの声が聞こえる嫁のツマという、若い夫婦だ。

二人の周囲には個性的な人が多い。
近所に住む、いつもズボンのチャックが全開のアレチさん、不登校児でやたらとクールな大地君など、それぞれの登場人物はきっちりキャラが立っている。

そんな周囲の人たちに囲まれて、仲睦まじく暮らす二人の夫婦なのだが、あるとき一つの手紙が届き、事態は動き出す。
そんな感じの物語である。

笑える部分は多く、ユーモラスでとぼけていて、物語の空気は悪くない。


とは言え、個人的に気に入らない部分はいくつかあった。
特に、ツマの特殊能力はどうも引っかかる。

ツマは周囲の動物や虫や草の声が聞こえるというふしぎな能力を持っている。
そういった設定を使うこと自体は別にかまわないのだが、はっきり言って消化不良なのだ。

特にラストの、ツマがアレチさんと出会うあたりなどはそう感じる。
なぜツマは周囲の声に導かれるように進んだのか、どうして最後にツマは声が聞こえなくなったのか、など、いくつかの点で疑問が残り、いかにも隔靴掻痒。
僕にはご都合主義にしか感じられずに読んでいて白けてしまった。

この設定は、ツマとムコの距離感を出すためにつくり上げた設定とは思う。
だけど、こんな特殊なものでなく、普通の設定でも、本作は充分勝負できるはずだ。
それだけになぜこんな設定にしたのか、と疑問に思い、もどかしくてならない。


しかし本作のメインである、ツマとムコの関係はすてきであった。

物語はツマの日常風景と、その日のできごとを記したムコの日記とを、交互に描いて進む。
その描写を読んでいると、ツマとムコの夫婦が、互いのことを思いやっているのが、よく伝わってくる。

ツマが何気なく取っている行動を、ムコが心配そうにしているところを読んでいると、この夫婦の温かい距離感が伝わり、心が震える。
そんな温かい距離を、実感として得られるからこそ、ツマはムコに安心して甘えていられるのだろう。
その関係が読んでいてたいそう心地よい。
「きいろいゾウ」の話を始め、通じ合うもので結ばれた二人の関係はある意味、理想的だ。

でもそれだけ、距離の近さを感じられるこそ、相手が遠くに行ってしまうような不安な気持ちもまた強く抱くのかもしれない。
だが、そういった不安も、ある意味、自分が相手をどれだけ好きで大切にしたいということを確認していく作業の一つなのだろう。
そんなことを漠然と感じる。


基本的には大甘な作品とは思う。もどかしい部分も目につく。
それでも、ストレートなまでの恋愛物語は、どこかまばゆくもあり、いくつかの点ではセンスが光る。

言いたいことはいろいろあるが、ともあれ何かと印象に残る一品であった。

評価:★★★(満点は★★★★★)

『冥土めぐり』 鹿島田真希

2012-10-31 21:03:47 | 小説(国内女性作家)

あの過去を確かめるため、私は夫と旅に出た――裕福だった過去に執着する母と弟。彼らから逃れたはずの奈津子だが、突然、夫が不治の病になる。だがそれは完き幸運だった……著者最高傑作!
出版社:河出書房新社




表題作の『冥土めぐり』、は、家族とのつながりと、家族との決別を描いた小説である。
そしてこの小説のおもしろい点は、主人公を取り巻く、そんな家族の描き方にある、ように思う。


主人公の女性奈津子は、脳の病気で障害を持ってしまった夫と暮らす主婦だ。
物語は、夫との旅を描いた現代と、母と弟と暮らしていたころを描いた過去を中心に展開される。

個人的にもっとも印象に残ったのは、彼女の追憶の中に登場する、母と弟だ。
これがなかなか個性が強い。一言で言うなら、二人はバブル脳なのである。

実際二人とも、高級なものに金をつぎ込むことにためらいはなく、他人から何かを与えられることを当然と思っている。また他人からはよく見られたいと願い、自分の思い通りにいかないと被害妄想じみた考えに陥る。
基本的には、物事の上っ面しか追っていないような人たちだ。
弟はその結果、破産手前まで陥る始末だから性質が悪い。

だが痛い目にあっているはずなのに、二人(主に母)はそれを人のせいにして、ちゃんとした反省もせず、現実をきっちり直視しない。
そういう場面を読むと、ああこの人たちは本当にダメな人だなと(他人のことは言えないが)思ってしまう。


奈津子は、母と弟のことをおそらく軽蔑している。
そして既に破産手前にまで陥って昔のようにはいかないのに、過去の華やかな時代にすがりつく姿に、どうも嫌悪感を抱いているようだ。

だが奈津子は二人のことを忌み嫌っているにもかかわらず、上手く距離が取れていない。
それは母と弟の(特に母の)呪縛が大きいからだろう。

実際母は奈津子に自分の思いを押し付けてきたし、弟は彼女をバカにし続けてきた。
「きっと自分は幸せになるのに値しない人間なのだろう」と独白する場面があるが、奈津子は基本的に自己評価が恐ろしく低い。
そしてそれはすべて、家族が彼女に与えた傷でもあるのだろう。


そんな奈津子に変化をもたらすのは夫の太一だ。
とは言え、彼は必ずしも好ましい人物ではない。

相手への気遣いはまったくできないし、人に何かをしてもらっても、礼すら言わず当然のような態度でいる。
しかし無邪気な性格ゆえか、人から嫌われないという美質も持ち合わせている。

それは彼が「なにも考えていない」ことによるところが大きい。
彼は傍から見れば、とても不幸な人間なのだけど、それを悲観するでもなく、自棄になるでもなく、ただ理不尽を理不尽と受け止め、あるがままに生きている。
ある意味、聖なる愚者だ。

それは母と弟の関係であれこれと考えてしまう奈津子とは、好対照を成している。
そしてそんな夫に触れることで、家族の呪縛から解放されていく姿が大変美しい。
そこにあるのはまさしくカタルシスだろう。

ラストには、そのような浄化の予感が伺え、大変爽やかな印象を残す。
非常に後味の良い一品だった。



併録の『99の接吻』も違ったおもしろさがあった。
主人公の菜菜子や姉たちは、基本的に変化を嫌い、閉じた世界で濃密な人間関係を築いていきたいタイプの人間のように見える。
その環境を好む、「わたし」のやや倒錯じみているが、多分に女性的な心理がおもしろい。
僕にはない考え方の分、なかなか新鮮だった。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの鹿島田真希作品感想
 『六〇〇〇度の愛』

『ワーカーズ・ダイジェスト』 津村記久子

2012-06-11 20:15:05 | 小説(国内女性作家)

32歳は、欲望も希望も薄れていく年だった。けれど、きっと悪いことばかりじゃない。重信:東京の建設会社に勤める。奈加子:大阪のデザイン事務所に勤め、副業でライターの仕事をこなす。偶然出会った2人は、年齢も、苗字も、誕生日まで同じ。肉体的にも精神的にもさまざまな災難がふりかかる32歳の1年間、ふたりは別々に、けれどどこかで繋がりを感じながら生きていく―。頑張るあなたに贈る、遠距離“共感”物語。
出版社:集英社




三十代前半という年齢を、人はどう捉えるのだろう。
社会人的にはまだ若い部類に入るけれど、年齢的、体力的にはすでに若いと言えない。結婚し、家庭をもっている人もこの年齢になると多くなる。
言うなれば、人生のターニングポイントとも言える年齢かもしれない。


本作の主人公、佐藤奈加子と佐藤重信の二人は、共にもうすぐ32で、誕生日も同じ、苗字も同じで、身長もほぼ同じだ。
二人は仕事で出会い、何となく気が合うものを感じているっぽいが、恋に発展するわけでもなく、ビジネスライクに別れる。リアルな話である。
そんな二人の33になるまでの約一年を、それぞれ描いている。


32歳の二人の一年間は、それなりに問題を抱えたものである。

奈加子の場合、駅の駐輪場のおじさんの対応のように些細なものから、職場の同僚との人間関係、別れた恋人との精神的な折り合い、嫌な仕事相手、などいろいろとトラブルなり、精神的苦痛なり、悩みなり、もやもやした気分を味わったりしている。
重信の場合は、仕事上のトラブル(苦情処理は本当に大変そうだ)、年齢的な体の変調(残尿感、はげ、ED)など、こちらもそれなりに大変そうだ。

端的に二人の問題をまとめるなら、仕事、健康、恋愛、人間関係、といったところか。
それはどの年齢にも共通の問題ではある。
だけどリアリスティックな32歳の現実を交えて描いているせいか、この年齢特有の要素も浮かび上がってきているのだ。
その描写が輝いており、なかなか読み応えがある。
特に仕事のトラブル関係は、きついな、と思えるほどリアルで、心に迫る。


小説の中の二人は、ある程度年を重ねて、それなりに心情に変化が現れたりしている。

32になると「年々予定は減っている」なって気づいたり、酒席での馬鹿騒ぎが嫌で人の話を聞いていたいと思うようになり、「どうも最近物欲がなくなってきてるなあ」なんて嘆息したり、「誰かに何かを伝えたい衝動を、ちゃんと管理できるようにならなければならない」などと自分を戒めたりしている。

現在33の僕にとって、それらいちいちの言葉は、ああ、わかるわ、と感じる面が多かった。
そしてそれらを生み出したのは、作者が周りや自分を丁寧に観察し、それをしっかり言葉という形にして織り上げているからだろう。

たぶん、津村記久子の視点と観察力は、(同世代で共感を覚えやすいということもあるかもしれないが)現役作家でも屈指のものと思う。


そんなある意味、平凡な日常を、ここまで観察力豊かに、描き上げている点はすばらしい。
スパカツをはじめとした、本当においしそうな食べ物の描写と言い、この作家の世界はあくまで小規模な日常だ。
だがそれは裏を返せば、地に足がついた、と世界でもあるのだろう。

独特のとぼけた感じのユーモアは相変わらずおもしろく、物語は前向きで、堅実に生きる男女の姿が大変好ましくもある。

僕は、津村記久子という作家の世界と空気が好きだ。
そうすなおに思える作品である。



併録の『オノウエさんの不在』もおもしろかった。
『ワーカーズ・ダイジェスト』にも通じる部分はあるが、仕事をテーマにしたお話である。

仕事はときとして理不尽なこともあるわけで、腹立たしい、と思う場面だってなくはない。
社畜のように空気を読んで、会社の空気に流されることだって、会社人なら一度はあるかもしれない。
そんな嫌な状況の中、人はどう仕事と折り合い、しかし自己を主張するのか。

オノウエさんが切られるかも、といううわさを同期たちと話をすることで、サカマキは仕事への不満を口にしたかったのだろうな、と読んでいると感じる。
だが仕事において、大事なのはある意味、割り切りと折り合いなのかもしれない。

最後の場面は、例によって非常に前向きな空気が流れていて、気持ちよい気分で本を閉じることができる。そのあたりもすばらしい。
地に足のついた世界を、丁寧に描いており、仕事に対して前向きな気持ちにもなれる。
なかなかの佳品と思った次第だ。

評価:★★★★★(満点は★★★★★)



そのほかの津村記久子作品感想
 『君は永遠にそいつらより若い』
 『ポトスライムの舟』
 『ミュージック・ブレス・ユー!!』

『おはん』 宇野千代

2012-04-03 21:27:29 | 小説(国内女性作家)

人にもの問われても、ろくに返答もでけんような穏当な女」である主人公”おはん”は、夫の心がほかの女、芸妓”おかよ”に移ったとき、子供を身ごもったまま自分から実家に退いた。おはんとおかよ、二人の女に魅かれる優柔不断な浅ましくも哀しい男の懺悔――頽廃的な恋愛心理を柔軟な感覚と特異な語り口で描き尽し、昭和文学の古典的名作とうたわれた著者の代表作。
出版社:新潮社(新潮文庫)




しょーもない男は、僕を含めたくさんいるわけで、この小説の語り手もそんな、どうしようもない男の一人に数えられる。

語り手である「私」は元妻と現在の妻との間でふらふらする男だ。物語はそんな「私」の一人語りで進んでいく。
その語りがとても心地よい。
物語の舞台がどこに設定されているか、厳密には決められていないけれど、彼のどことも知れない方言交じりの口調が大変テンポ良い。
そのテンポに乗って、サクサクと読み進められるのは大きな魅力だ。


さて肝心の物語だが、見ようによっては脱力もののストーリーである。

「私」は妻のおはんを捨てて、芸妓のおかよの元に走ったわけだが、おはんに再会してからはおはんに嫌われたくないという思いから、おはんの気を引き、最終的には抱いてしまう。そうしてそれ以降、「私」はおはんと、おかよの二人の気を引こうと右往左往する。

その展開に、僕は読んでいて脱力してしまった。
この人は、本当にまあ、アホな人だな、と読んでいて何度も思ってしまう。

彼は、二人の愛する女に嫌われたくないし、両方とうまくやっていきたい、と考えている。
そしてわが身かわいさもあってか、はっきりと物事を決めることができない。
端的に言えば優柔不断で、女とよろしくやることばかり考えているような男なのである。
本当に本当にしょーもない人だ。

でもこういう人って、何となくいそうである。
宇野千代もそんな男をかなり丁寧に描写していて、好ましい。


そんな「私」は当然のことながら、その優柔不断で、行き当たりばったりで、感情のおもむくままの行動から、どんどん苦境に立たされていく。
妻がありながら、別の女と家を持とうとしたり、と計画性のなさがはなはだしく、それでいて、ちゃんとした行動を取ろうとせず、物事を先延ばしに延ばして、ひたすら決断を先送りしようと、逃げてばかりいる。おかげで待っているのは袋小路だけ、というような事態に陥るのだ。

要するところ「私」という人は図体の大きな子供なのだろう。
そんな「私」の姿は読んでいると、哀れにすら感じられるからおもしろい。

そしてそんなしょーもない男にふり回された挙句、息子を失う、という不幸にまで見舞われたおはんもまた、哀れに見えてならなかった。


ともあれ、男と女の物悲しく見ようによっては滑稽な姿を、丁寧に描出していて、おもしろい。
なかなかの佳品と思った次第だ。

評価:★★★★(満点は★★★★★)