「物質の究極の本質を探ろうとすると最後には観測したものが違っている」
「物質を正確に観測しようとすればするほど間違った情報が導き出される」
これは、量子力学の創始者の一人ともいわれているハイゼンベルク(1901~1976)
の不確定性原理である。
たとえば、物を観察するためにはどうしても光が必要だが、物質の究極の真実を
求めて素粒子などのきわめて微小なものを観察しようと光をあてると、その光によって
物質は光をうける前の位置が変わってしまうというものです。
「電子の位置と運動量は、同時には精密に決めることができない。」
この理論は物理科学に波紋を投じた。アインシュタインがこの理論を破ろうと
したができませんでした。その後も70年たってもだめです。
近代科学思考の誤謬や限界を指摘する新しい理論がでている。
「カオス理論」などもそうではないか。
方程式で書き表される決定論的なものであっても、許容範囲とされるごくわずかな
初期値の違いで結果的には予測不可能な状態になる、つまり予測はあり得ない
と言うことになる・・・
こういったものから、細かく分析して観察すればわかると言う絶対的な
近代科学思考は、新しい思考方法を見出さなくてはならなくなっているのでは
ないか。
先に紹介した、千島喜久雄博士は、科学的方法論として弁証法をとなえている。
弁証法は変わるという「変化」を中心にしている哲学である。
「すべての事象は時間の経過と場所の変化に応じて絶えず流転する」
彼は、形式論理でものごとは測れないと何万ものプレパラートの観察と
思考により、赤血球が細胞に変わっていく姿をみていくうちに気づいたものを
重要視している。この気づきは、ときに母親の勘や、おばあちゃんの知恵、
伝統民族の本能、また子供の心の純朴な見方とらえかたなどとおなじものだと思う。
こういったものは、いかなる科学をも上回る結果を導き出すことがあるのではないか。
つまり、「分析から統合へ」、全体としての人間の機能と言う点から総合することが
重要なのではないか。
「分けて物事をみる」「客観的なものだけが正しい」とするとらわれた近代
思考から自由になることが必要だ。