超芸術と摩損

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原発から3キロ 見捨てられた病院 院長が明かす“真実”

2011-05-20 02:00:10 | 週刊誌から
「オヤジを見つけるまでは、剃らずにおこうと……」
 大震災から三週間余、探し続けた父親は、福島第一原発からわずか三キロの双葉病院(大熊町)で亡くなったまま放置されていた。遺族のやり切れなさの一方で、「患者を捨てて逃げた」と非難を浴びた病院には語られざる真実があった。

 白髪交じりの髭を蓄えた福島県富岡町の佐藤和彦さん(48)は四月七日、父、久吾さん(享年87)の火葬を済ませた。入院していた久吾さんの死亡診断書には、三月十四日午前五時十二分、死因は肺癌と記してあった。
 遺体の放置。それは原発事故が引き起こしたパニックの結果としか言いようのない事態だった――。
 震災当日、双葉病院でスタッフに父の安否を確認した後、佐藤さんは政府の避難指示に従って避難所で一夜を過ごした。翌十二日になると、原発事故は更に深刻化していた。冷却機能を喪失し、一号機が爆発したのだ。避難指示は二十キロ圏内に拡大し、佐藤さんは更なる避難を迫られた。
 安否のわからない父を探して、双葉病院の患者が避難したとされる施設を訪ね歩いたのは、しばらく後になってからだった。
「姉夫婦と自分とで搬送先のいわき光洋高校(いわき市)、伊達ふれあいセンター(伊達市)、あづま総合連動公園(福島市)を回りました。しかし、生存者、死亡者の名簿にも、身元不明の遺体の中にも父はいなかった。系列のいわき開成病院にも情報はなく、私の携帯番号を伝えても連絡もこなかった。二十二日には県の災害対策本部を訪ねましたが、どうやら病院に何体か遺体が放置されているらしい、という不確かな情報しか得られなかった。ようやく四月三日の夜、父の遺体を確認したという連絡が病院側からありました」
 結局、佐藤さんが父の亡骸と対面できたのは四月六日午後五時過ぎ。久吾さんと合わせ、病院には四人の入院患者の遺体が放置されていたのだった。引き渡し場所の福島警察署川俣分庁舎には、双葉病院の鈴木市郎院長も来ていた。
「院長はこちらが疑問をぶつけても『すみません』と繰り返すばかりでした。死因にも納得できないが、なぜこれだけ長期間放置され、探し回っていた私たちに何の連絡もなかったのか」
 その院長も原発事故に翻弄された一人だ。放射能の恐怖が迫り、治療もままならない重篤な老人たちを避難させるため奔走していた。
 当時、双葉病院の入院患者は三百三十九人。うち二百九人を職員が手分けしていわき開成病院に搬送。遺体のまま置かれた四人を除く百二十六人と、併設する介護老人保健施設「ドーヴィル双葉」の入所者約百人が取り残されていた。
 当の鈴木院長が語る。
「まず三月十二日の午前九時、大熊町役場に酸素吸入器や点滴が外れたら全身衰弱状態になる重い患者さんの救出をお願いしましたが、誰も来ない。連絡手段がないので七キロほど離れた双葉厚生病院に.行けば何か分かるかもと医師を車で行かせたら、救助活動をしていたので『うちも患者さんが死んじまう』と頼んだ。夜十時ごろ、警察と自衛隊が来たけど、『今日は無理だ。明日の朝にしてほしい』と帰ってしまった。
 十三日になっても助けは来ない。双葉厚生病院に行くと警察も自衛隊もいない。私は車で助けを求めに街道を上り、途中、消防車を見つけ、『昨日から頼んでいるのに来てくれない。警察に連絡してください』と言い残して病院に戻りました。でも来ない。また出かけると、パトカーに出くわしたので『何で来てくれないんだ。自衛隊はどこ行ったんだ』と伝えて戻った。すると夕方、双葉警察署の署長さんが来てくれた。私は防護服を着た署長の胸座つかんで『百人ぐらい死んじゃう。何とかしてくれ』と拝み倒した。署長と入れ替わりに副署長が警察官九人をつれてワゴン車二台で来て、一生懸命無線で連絡を取ってくれました。でも『来るとも来ないとも分からない。院長、今日はここで待機だ』と」
 翌十四日の朝、ようやく自衛隊がやってきた。
「久吾さんも含めて三人の方が既に亡くなっていました。重篤な患者さんを廊下まで運び、その先は自衛隊が車に乗せて運び出しました。しかし車が足りず、第一陣は三十五人ぐらい、ドーヴィルの入所者はほぼ全員搬送された。午前十時ごろでした。自衛隊は隊長だけ残り、すぐに来るはずの第二陣に備えて、次の救出方法を打ち合わせました。残った患者は約九十人です。ところが午前十一時ごろ『バーン』と原発が爆発した。それで自衛隊の隊長が上官に指示を仰ぎに出たんです。『十五分ぐらいで戻ってきますから』と」

 しかし、隊長は待てど暮らせど戻ってこなかった。
『夜になっても戻らないので、我々職員四人は病院の事務室で、警官十人はワゴン車で仮眠をとった。すると十五日の午前一時過ぎに『緊急避難だ』と警察のワゴン車に乗せられ、川内村に避難させられた。すぐ解除になって病院に戻ったものの、また『緊急避難』となり、朝の六時ごろにまた爆発があった。副署長は『こういう状況だから院長、自衛隊を呼ぶから川内の役場で待とう』と言うので、役場で待っていましたが、自衛隊は来ません。『車を一台貸してくれ、俺は戻る』と頼みましたが、正午ごろには『こうなった以上、病院には戻れない。危険だ』と制されたんです。あのとき、無理してでも戻っていれば」
 だが、原発パニックの悲劇はこれで終わらなかった。救出された患者二十一人が避難先で死亡していたのだ。
「第一陣の重篤な患者は、県内を何時間もたらい回しにされ、夜中に着いた高校の体育館で十四人もが命を落としたのです。第二陣も七人が亡くなりました。危険な状態の患者ばかりなのに、治療もできない所に行ったとは……」(院長)
 県は自衛隊に救出を要請する際、避難場所は県で確保すると伝えていた。しかし、病院など医療施設は見つからなかった。第一陣を収容した光洋高校も当初は断ったが、県が医療スタッフを派遣することを条件に受け入れたのだ。
 この経緯について県は全容の把握さえできていない。
 県は現場からの救助要請をキャッチできず、十四日未明、何故か国から指示があったという。そして、全員の搬送が完了したのは十六日だ。自衛隊は病院に残された遺体は運び出さず、県や院長にもその事実は長く伝わらなかった。
 ようやく父を弔うことが出来た佐藤さんは言う。
「オヤジには心の中で『遅くなってごめんな』と手を合わせました。二年前に大腸癌で亡くなった母と、どうしても一緒にしてやりたい一心でした」
 認知症になった父のことを最後まで心配していた母。二人が永久の眠りにつくはずの富岡町の墓は、放射能に覆われている。

週刊文春2011年4月28日号
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