超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

年間150億!「50年間発病ゼロ」狂犬病予防行政の実態は獣医師の利権確保?

2010-05-25 00:25:23 | 新聞から
 ペット大国と言われる日本。街を歩いて散歩中の犬に出くわさない日はない。

 (社)ペットフード協会の調べでは、2008年の日本国内における犬猫飼育頭数は約2,683万9,000頭(犬:1,310万1,000、猫:1,373万8,000)。また、(株)矢野経済研究所が調べたペットフード、ペット用品、生体などを含めた08年度ペット関連市場は1兆1,371億円。02年度と比較して、実に15%も拡大している。

 日本でペット頭数が増え続けている理由について、矢野経済研究所は調査結果の中で、「社会環境が変化し、家族とのつながりが以前より希薄になってきている中で、近年ペットをパートナーとして家族同様に扱い、また同時にペットに"癒し"を求める傾向が強まっている」と分析。世知辛い世の中で生きる現代人にとって、心を癒してくれるペットは生きるうえでのパートナーというわけだ。

 人間社会に欠かすことができないペットゆえに、一緒に暮らすからには「家族」としての義務も求められる。その代表例の一つが、犬の登録と狂犬病予防注射だ。狂犬病予防法では、生後90日を経過した犬には、市町村への登録と年一回の狂犬病予防注射が義務付けられている。罰則規定もあり、違反者には20万円以下の罰金というから、けっこう厳しいのだ。

 ところがこの予防注射、法律で義務付けられているものの、全国すべての飼い主が遵守しているわけではない。埼玉県に住む40代男性は、これまで飼った3頭の犬に、ほとんど注射を受けさせたことがないという。

「年 3,000円の予防注射代がもったいないわけじゃない(笑)。単純に必要ないですよ。日本では狂犬病は50年以上前に根絶している。年一回の義務化は過剰だと思う。そもそも、狂犬病予防法ってサンフランシスコ講和条約の時代にできた法律でしょう。当時は必要だっただろうけど、なぜ見直しがされないのかむしろ不思議」と訝しがる。

 また、都内で2匹のミニチュアダックスを飼っている30代女性も、注射を受けたのは最初の1回だけ。今後は受けるつもりはないという。

「アメリカから来た友達に話したら『信じられない』と驚かれて、初めて日本が特殊なんだと知った。アメリカでは狂犬病はまだ根絶されていないけど、3年に1度でいいらしい。それでも狂犬病が蔓延したという話はない。ググってみたら、こんなことしてるの日本だけみたい」

 法律が過剰なのか飼い主のエゴなのかの議論はさておき、たしかに狂犬病予防法が施行されたのは1950年。国内における狂犬病患者は1956年を最後に確認されていない。半世紀以上前に根絶されている狂犬病の予防接種が、今も法律で毎年義務付けられていることについて、監督官庁である農水省はどう考えているのか。

「根絶したから必要ないと言いますが、毎年徹底した予防行政を行っているから抑えられているんです。それに、中国や韓国、インドネシアなどでは発生が増えており、近隣アジアとの交流が活発な現代では予断は許さない。狂犬病は一度発生してしまったら助かることがない恐ろしい病気ですから、年一回の予防注射は必要だと考えています」(畜水産安全管理課)

 しかし、国内約1,300万頭の飼い犬のうち予防注射を受けているのは、実は全体の4割程度に過ぎない。1,300万頭の6割にあたる約780万頭が、注射を受けずに"放置"されていることになる。にも関わらず狂犬病の発生はゼロなのだ。これについて同省は「今まで無いからこれからも無いとは言えない。たまたま出なかったとも言える」と譲らない。神奈川県内のある獣医師はこれについて「うーん、奇跡ということでいいんじゃないの?」と笑顔で答えてくれた。果たして、年一回の予防注射義務化は本当に必要なのだろうか。

 これについて、ワクチンの安全性という面から警笛を鳴らすのは、「公益財団法人どうぶつ基金」の佐上邦久理事長だ。

「予防注射に使われる狂犬病組織培養不活化ワクチンは、意外に知られていませんが、非常に副作用の強い危険な薬なんです。イギリスの調査報告[http://www.bogartsdaddy.com/bouvier/Health/vaccination-concerns-uk.htm]によると、ワクチンの副作用として大腸炎やてんかん、脳障害、心臓病、すい臓病などが報告されています。また、アメリカでもてんかんや筋肉の脱力脳脊髄炎、意識喪失、死亡などが報告されています。最悪の場合はショック死する犬もいるのです」

 海外で衝撃的な事例が報告されている狂犬病ワクチン。日本国内も例外ではない。農林水産省動物医薬品検査所のホームページでは、「副作用情報データベース」のコーナー[http://www.nval.go.jp/asp/se_search.asp]で、薬品による様々な副作用事例を公開している。試しにキーワード欄に「狂犬病」と打ち込んで検索してみると、平成14年から現在まで145件(4月16日現在)の狂犬病予防注射による副作用報告が抽出され、その半数以上が「摂取後に死亡」していることがわかる。

 たとえば、平成20年10月29日に報告された雌のチワワ(5月齢)の死亡例では、注射後に「嘔吐、脱糞が認められていることや病理解剖所見より、ワクチンによる遅発性のアナフィラキシーショックの可能性が高い」としたうえで、ワクチンとの因果関係について「因果関係があると考えられる」としている。また、平成20年5月4日に報告された雄のウェルシュコーギー(9歳)では、注射後に「多量の血様液(ピンク色)が鼻より流出」して死亡し、「ワクチンに対するアレルギーが原因となって発症したという可能性が否定できない」との所見が記録されている。

 これら死亡原因が狂犬病ワクチンであると科学的に断定するには、「死亡例のサンプルを収集し、ウィルス学的、免疫学的、病態学的、病理組織学的根拠を出す必要がある」(獣医学研究者)というものの、現状ではそこまでの実験を農水省は行っていない。ただ、「いずれにしても副作用が強いことは事実だし、何よりこうした情報が飼い主たちへ十分に周知されていない」(同)と指摘する声もある。

 副作用で死亡する可能性がある危険な薬が横行している現状について、「ワクチン代で稼ぐ獣医師たちの利権が背後にある」というのは、前出の「公益財団法人どうぶつ基金」理事長の佐上氏だ。

「予防注射の代金は2,500円~3,000円ですが、ワクチンの仕入れ価格は約300円。ほとんど技術料です。注射を受ける犬の数が全国で年間約500万頭なので、原価との差額が2,500~3,000円とすれば単純計算で120~150億円の利権が存在することになる。集団接種の場合、各地の獣医師会が地元保健所から委託されて仕切り、獣医師会に一旦プールしたお金から日当として各獣医師へ配当されるのが一般的。予防注射が4~6月に行われるため、獣医師業界では『春のボーナス』と呼ばれています」

 日本全国の獣医師に絡んだ"利権"150億円という数字が莫大かどうかは判断が分かれるところだが、あくまで春の臨時収入という前提と、仕入れ価格が300円前後であることを勘案すれば、極めて高い利益率であることは間違いない。さらに言えば、300円という原価でありながら3,000円前後に設定している注射代金の根拠もあいまいだ。関東の複数の保健所に電話で問い合わせたところ、「ずっと前からそうしている」を繰り返すだけで、どこも積算根拠は「特にない」との回答だった。

 また、甲信越地方のベテラン保健所職員は次のように言う。

「保健所が金額のことをとやかく言って獣医師会がヘソを曲げたら困る。限られた期間で、法で定められた注射を済ますには獣医師会に頼むしかないのだから。地元に獣医師会は一つしかないので、行政はどうしても立場が弱くなる。うちの地域はまだいいほうだけど、よその県では獣医師会がえらい威張ってるとこがあるらしいからね」

 佐上氏は言う。

「6割が予防接種を受けていない状態で、狂犬病発生が50年間ゼロというのが何よりのケーススタディ。今後も発生する可能性は限りなくゼロに近い。発病すれば死亡するのも事実ですが、実は噛まれた後からでも発病までの数週間から数カ月以内にワクチンを打てば、ほぼ100%完治する珍しい病気なんです。でもそういう営業上都合の悪いことはほとんど知らされない。万が一狂犬病が発生しても事後の対処で十分です。それより、犬が副作用で死んでしまうリスクのほうが大きいという合理的な考えから、日本以外の根絶国では義務化を廃止していると考えられます。日本でも、死んでいく犬の命の重さを考えた法改正が必要です」

 3月24日に参議院会館で行われた民主党議員による「犬や猫等の殺処分を禁止する議員連盟」(座長:生方幸夫副幹事長)の勉強会へ講師として呼ばれた佐上氏は、集まった30人ほどの議員を前にして次のように語った。

「およそ800万頭近い犬が注射を受けていないのに、狂犬病にかかる犬が50年間一匹もいない。先進国の狂犬病根絶国で狂犬病ワクチンを毎年義務化している国は日本だけです。いまだ狂犬病があるアメリカでさえ、動物愛護協会が3年に一度の摂取を推奨しているだけ。オーストラリアでは副作用の危険性から使用を差し控えているという話もある。それほど危険な薬が獣医師の利権のために使用され続けていることが大きな問題です。また、鑑札や注射済票が無い犬は、捕獲されると狂犬病の疑いがあるという前提で検診もされずに殺処分されてしまう。動物愛護法の精神にも矛盾します。狂犬病予防法5条、6条を早急に改正して注射の義務化を廃止するとともに、施行後60年が経過して賞味期限切れとなった法律全体を、抜本的に見直すことが必要です」

 議員立法を経て法改正までたどりつかなければ、犬を「死」という副作用から守ることは不可能なのだろうか。佐上氏は続ける。

「いえ、現行法のままでも飼い主が愛犬を守る方法はあります。狂犬病予防接種は法により義務付けられてはいますが、例外として副作用を伴う疑いがある場合は接種しなくてもいいことになっています。飼い主さんはワクチンが死を伴うリスクがあることを理解して、獣医師による十分な診断のうえで摂取を受けるべきでしょう」

 都内の獣医師に以上の話をぶつけてみると、匿名を条件に次のように本音を語ってくれた。

「飼い主を欺いて利権確保する今のやり方を時代遅れと感じてる獣医師も最近は多い。それに、"本業"でしっかり儲けてる都市部の獣医師は"春のボーナス"のありがたみが無いから、獣医師会に加盟しない人も少なくない。都心部では加盟率70%くらいだと聞く。独力で稼げる医師と、獣医師会に頼らざるをえない層との二極化が進み、会自体が弱体化してるとも言われている。獣医師会のボス連中は現行法を堅持するため旧与党の代議士に献金したり、関係省庁にロビー活動をしてきたと聞いたことはあるけど、自分らは詳しいことは知らない。それに政権も変わったし、今後はどうなるのか......」

 永住外国人地方参政権や夫婦別姓など「トンデモ法案のゴリ押し」(自民党若手議員)や、普天間基地の移設や子ども手当ての支給などで迷走続きの民主党。支持率も17.2%(4月 16日・時事世論調査より)と超低空飛行を続ける中で、今夏の参院選に大きく不安を残しているのが現状だ。

 前述の議員会館での勉強会の後、薬害肝炎訴訟の福田えりこ議員と言葉を交わす佐上氏の姿があった。

「薬品会社や医師の利益のために副作用を無視して命が奪われていく構図は、薬害肝炎と同じですねと言うと、福田さんは大きくうなずいてくれました。ペット業界団体や獣医師会とのしがらみのない若い議員に期待したいです」

 参院選へ向けて亀井静香金融担当相が取り込みを図っていると言われる郵政票が最大でおよそ100万票。一方、飼い犬登録数から勘案される犬の飼い主の総数は、その10倍となる約1,000万人だ。全国の「飼い主票」獲得へ向けた政策提言は、党の支持率回復へ向けた起爆剤となる可能性を秘めていると言えるだろう。
(文=浮島さとし)

日刊サイゾー 2010年04月25日18時20分
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瀬尾幸子 おつまみ横丁 が教える 15分で誰でも作れるお弁当

2010-05-21 01:00:42 | 週刊誌から
お弁当を作って持っていった方が、健康にも財布にもやさしいのはよくわかる。でも毎日続けられるかどうか、自信がない。そんな人のために料理研究家の瀬尾幸子さんが、十五分で作れるお弁当レシビを考案してくれた。

 昨年あたりから続いているお弁当ブーム。“弁当男子”なんて言葉が流行したのもその証。お弁当を作って持っていきさえすれば、昼休みに混んでいる店に並ばなくてもいいし、その上節約にもなっていいことずくめ……。
 しかし、毎日作るとなると結構大変。何かよい方法はないものだろうか?
 そこで、誰でもできる簡単レシピ本『おつまみ横丁』などでおなじみの瀬尾幸子さんに聞いてみた。
「朝は皆さん、一分、一秒を争うほど忙しいはずです。身支度もしなければならないし、朝ごはんも食べなければなりませんよね。その上お弁当を作るとなると大変。特に料理初心者は、お弁当作りと言われると、あれもこれも作らなきゃと思って身構えてしまいますからね。ここはひとつ、現実的に作れて、無理しないで続けられるお弁当を考えましょう」
 今回瀬尾さんが提案してくれたのは、ごはんメインの一品+簡単にできる野菜のおかずを組み合わせるお弁当。
「おかずを上にのせる“のっけ弁当”か“混ぜごはん”。それに副菜を添えます。これだと詰めるのも楽だし、なんといっても精神的な圧迫感もない(笑)。誰でも十五分もあれば作れると思います」
 そんなにシンプルな作りで栄養のバランスは大丈夫?
「たしかにちょっと炭水化物の量が多めになりますが、全体の栄養バランスは1日のトータルで考えればいいんです。それに外で買うお弁当よりは断然野菜を食べられますし、第一値段は四分の一.くらいで済みますよ」
 それではメニューを紹介してもらおう。材料は普通のお弁当箱(三五〇cc~五〇〇ccくらいの大きさ)を目安にした。手早く作るためには、最初に材料を全部用意しておくといいそうだ。


混ぜご飯弁当4品
「具をさっと作って、ご飯と混ぜるだけなのに、おいしいお弁当です」

●香り鮭混ぜご飯
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、具(塩鮭 1切れ、塩昆布 5g、青じそ 4枚、白煎りごま 大匙1、生姜みじん切り 大匙1)

①塩鮭はオーブントースターで焼いて、骨と皮を取ってほぐす。
②青じそはあらみじん切りにする。
③ご飯に具を混ぜる。おにぎりにしてもおいしい。

●のっけオムライス
材料 ご飯茶碗山盛り1杯、具(玉葱1cm角切り 1/4個分、ウインナー輪切り2本分、塩、胡椒各少々、サラダ油小匙2、トマトケチャップ 大匙1・5) スクランブルエッグ(卵2個、牛乳大匙1、塩、胡椒 各少々、バター 小匙1)

①具の材料を耐熱容器に入れラップをかけてレンジで2分加熱する。
②温かいご飯を混ぜ、トマトケチャップライスを作る。
③スクランブルエッグの材料(バター以外)を混ぜ、中火で熱したフライパンにバターを入れてから流し込み、好みの固さのスクランブルエッグを作り、トマトケチャップライスにのせる。

●鶏ごぼう飯
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、鶏もも肉1/4枚(小さめて細ごぼう 20cm、醤油 小匙2、砂糖 小匙1、紅しょうが 少々

①鶏もも肉は1・5m角に切る。ごぼうは斜めうすぎりにする。
②フライパンを中火で熱し、鶏肉を入れて脂が出るまで妙める。ごぼうを加えてしんなりするまで3分くらい弱火で妙めたら、醤油と砂糖を加え水気がなくなるまで煮る。
③ご飯を加えて混ぜ、紅生姜をのせる。

●ヒジキご飯
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、乾燥芽ヒジキ 3g、豚赤身ひき肉 40g(卵の大きさくらいの量)、高菜の漬物みじん切り 大匙3、醤油 小匙1、サラダ油 小匙1

①乾燥芽ヒジキはたっぷりの水で柔らかくなるまで戻し、水気を切る。
②フライパンを中火で熱しサラダ油をしき、豚肉をパラパラになるまで妙める。続いてヒジキ、高菜を加えて妙め合わせ、醤油で味をつける。
③水気がなくなったら、ご飯と混ぜる。


のっけ弁当8品
「フライパンでさっとおかずを作り、ご飯に乗っけて持っていくお弁当。ご飯に乗せるので少し濃い目の味付けがコツです」

●ピーマンと豚肉の細切り妙め
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、ピーマン 2個、豚ももうすぎり肉 70g(約3枚)、生萎みじん切り 小匙1、にんにくみじん切り 小匙1/2、オイスターソース 小匙1、醤油 小匙2、小麦粉 小匙2、塩、胡椒 各少々、サラダ油 小匙2

①ピーマンは縦半分に切って種とへたをとり、細切りにする。豚肉は1cm幅に切って、胡椒、小麦粉小匙2をまぶす。
②フライパンを中火で熱し、サラダ油小匙2をしき、豚肉を妙める。火が通ったらピーマン、にんにく、生萎を加えてさっと妙め、醤油、オイスターソースを加えからめる。
③ご飯の上にのっける。

●すき焼きいため
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、牛薄切り肉 80g、糸こんにゃく 60g、長ねぎ 1/2本、醤油 大匙1、みりん 大匙1、サラダ油 少々

①糸こんにゃくは灰汁抜き済みを使うと楽。ざく切りにする。長ねぎは斜めうすぎりにする。牛肉は4cm幅に切る。
②フライパンを中火で熱し、サラダ油をしき、牛肉、長ねぎを入れてしんなりするまで妙め、糸こんにゃくを加える。しょうゆ、みりんを加えて汁気を飛ばすように妙める。好みで七味唐辛子を振る。
③ご飯の上にのっける。

●煮込みハンバーグと目玉焼き
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、あいびき肉 100g、パン粉 大匙3、溶き卵 1/2個、牛乳 大匙1、玉葱みじん切り 大匙3、塩、胡椒、サラダ油 各少々、ソース(トマトケチャップ 大匙2、中濃ソース 大匙2、醤油 小匙1、水 1/4カップ)、卵 1個

①ボウルに、ご飯とサラダ油以外のハンバーグの材料を入れて良く混ぜ3等分して円盤状に形作る。
②フライパンを中火で熱し、サラダ油を薄くしき、①を並べ、焦げ目が付いたら裏返し、蓋をして2分弱火で焼く。
③ソースの材料を入れて煮立て、②をからめる。
④ご飯に③をのっけ、最後に目玉焼きを飾る。

●鶏の照り焼き
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、鶏もも肉 1/2枚、醤油 小匙2、みりん 小匙2

①鶏もも肉は厚みに包丁を入れて、観音開きにし、厚みを均一にする。
②フライパンを中火で熱し、鶏肉の皮を下にして焼く。こんがり焦げ目が付いたら裏返し、火を通す。
③一度取り出し食べやすく切って、醤油、みりんをからめ、ご飯にたれごとのっける。

●豚肉となすのごま味噌妙め
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、豚薄切り肉 50g、なす2本、味噌 大匙2、みりん 大匙1・5、サラダ油 大匙1、白すりゴマ 大匙2

①豚肉は3cm幅に切る。茄子はへたを取り縦2つに切ってから、斜めうすぎりにする。
②フライパンを中火で熱し、サラダ油をしき豚肉を妙める。豚肉に火が通ったらなすを加え充分しんなりするまで妙める。
③みりん、味噌、白すりごまを加え全体が良く混ざるように妙め、ご飯の上にのっける。

●鶏肉のそぼろと紅生萎
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、鶏ひき肉 60g、醤油 小匙2、砂糖 小匙1、サラダ油 小匙1、紅生萎 少々

①フライパンを中火で熱し、サラダ油をしき、鶏ひき肉をばらばらになるまで妙める。
②醤油、砂糖を加え味付けをする。
③紅生萎と一緒にご飯に乗せる。時間があれば煎り卵(卵 1個、砂糖 小匙1、塩 一つまみ)を作ってのせてもいい。

●豚肉とキャベツの中華風味噌妙め
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、豚薄切り肉 70g(3枚)、キャベツ 1枚、赤唐辛子 輪切り1/2本分、にんにく うすぎり3枚、サラダ油 小匙2、八丁味噌 大匙1、みりん 大匙1、小麦粉 小匙1、塩、胡椒 各少々

①豚肉は3cm幅に切って、塩、胡椒、小麦粉 小匙1をまぶす。キャベツは3cm角に切る。
②フライパンを中火で熱し、サラダ油をしき、にんにく、赤唐辛子、豚肉を妙める。豚肉に火が通ったらキャベツを加えゆっくり水分を飛ばすようにしんなりするまで妙める。
③味噌と、みりんを混ぜて加え強火でからめ、ご飯にのつける。

●和風わさびステーキ
材料 ご飯 茶碗山盛り1杯、牛肉ステーキ用 150g、わさび 小匙1/3、醤油 小匙2、酒 小匙2

①フライパン(フッ素加工のもの)を中火で熱し、サラダ油をしかずに牛肉を乗せ、片面1分半ずつ焼いて酒を振り取り出す。
②焼いた肉を一口大にきってボウルに入れ、わさび、醤油を加え混ぜる。
③ご飯の上に肉を乗せ、わさび醤油をかける。


簡単に作れる野菜の一品
「ご飯メニューにもう一品、野菜メインのおかずを添えて、お弁当の完成」

●キャベツと青じその塩もみ
材料 キャベツの2cm角切り 1枚分、青じその短ざく切り 3枚分、塩 小匙1/4、オリーブオイル 小匙2

①ボウルにトキャベツ、塩を入れしんなりするまで軽く揉み、水気を絞って、青じそとオリーブオイルを混ぜる。

●なすと茗荷のゆかり漬け
材料 なす斜めうすぎり 1本分、茗荷小口切り 1個分、ゆかり粉 小匙2

①材料をボウルに入れてしんなりするまで揉んで、水気を絞る。

●切り干し大根とツナのサラダ
材料 切り干し大根 10g、ツナ缶 小1/2缶、貝割菜 少々、マヨネーズ 大匙1・5、塩、胡椒 各少々

①切り干し大根はたっぷりの水で戻し、水気を絞る。
②余分な油を切ったツナ、塩、胡椒、マヨネーズ、切り干し大根を混ぜる。貝割れのざく切りを加えてもいい。

●レンコンのキンピラ
材料 レンコン 5cm、ベーコン 1枚、サラダ油 小匙2、めんつゆ(3倍濃縮タイプのもの) 小匙2

①レンコンは皮をむいて薄いいちょう切りにする。ベーコンは1cm幅に切る。
②フライパンを中火で熱し、サラダ油をしいてレンコン、ベーコンをいため透き通った感じになったら、めんつゆを入れて妙め合わせる。

●さつま揚げのカレー妙め
材料 さつま揚げ 1枚(100g)、しいたけ 2枚、カレー粉 小匙1/4、醤油 小匙1・5、サラダ油 小匙1

①さつま揚げ、しいたけは1cm幅に切る。
②フライパンを中火で熱し、サラダ油をしき、①を妙める。
③醤油、カレー粉を加えて味付ける。

●赤ピーマンの甘酢漬け
材料 赤ピーマン(パブリ力) 1/4個、ハム 2枚、甘酢(酢 大匙1、砂糖 小匙1、塩 一つまみ、あら挽き胡椒 少々)

①パプリカは種とへたを取り、細切りに、ハムは1cm幅に切る。
②ボウルに①と甘酢の材料を入れてしんなりするまで軽く揉む。

●小松菜とハムのナムル
材料 小松菜 2株、ハム 2枚、顆粒鶏スープの素 一つまみ、塩、胡椒 各少々、ごま油 小匙1

①小松菜は根元を切り落として、3cmのざく切りにする。ハムは細切りにする。
②小松菜を耐熱容器に入れ、レンジ強(500W)で2分加熱し取り出す。
③ハム、頼粒鶏スープの素、塩、胡椒、ごま油を加え混ぜ冷ます。気にならなければニンニクすりおろしを少々加えるのもいい。

●しいたけのバター醤油
材料 しいたけ 3枚、バター 小匙1、醤油 小匙1、あれば万能葱小口切り 少々

①しいたけは石づきを取り、軸を取る。
②フライパンを中火で熱し、バターを溶かし、しいたけのかさと軸を入れてしんなりするまで焼く。
③醤油を加え混ぜ、万能葱を加える。

●水菜と桜海老のおひたし
材料 水菜 1株、乾燥桜海老 大匙1、めんつゆ(3倍濃縮タイプのもの) 小匙2

①水菜は塩を加えた熱湯で、さっとゆで、冷水にとって冷ます。
②水気を絞ってざく切りにし、桜海老、めんつゆを加え混ぜる。

●大根の塩こぶ妙め
材料 大根 3cm、豚薄切り肉 1枚、大根の葉 少々、塩昆布 4g、バター 小匙1

①大根は皮をむき短冊に切る。大根の葉は小口切りにする。豚肉は短冊に切る。
②フライパンを中火で熱し、バターを溶かし大根、葉、豚肉を加えて妙める。
③豚肉に火が通り、大根がしんなりしたら塩昆布を加え、全体に味がなじんで、水気がなくなるまで妙める。

   ※       ※

 どれも簡単なメニューばかり。ところでお弁当箱に詰めるときは、どういうことに注意すればいいのだろう?
「ごはんはとにかくギューギューに詰めること。ふんわりと盛ると、カバンの中であっちへゴツン、こっちへゴツンとして寄ってしまいます。隙間なくキッチリと入れることです。おかずもなるべく汁気の出ないものを入れましょう。汁気がもれるのも困りますが、水分が多いと味も変化してしまいます。たとえば最後、水溶き片栗粉でとじるなどするといいでしょう。うま味も逃げ出さないし、乾燥も防げます」
 最後に、本当に寝坊した日は、やはりお弁当は諦めなきゃならない?
「もし五分でも時間があれば、おにぎりだけでも作って持って行くといいですね。ボウルにごはんとかつお節とお醤油を入れてサッと混ぜて、それをラップを使って握るだけです。パンにハムとチーズだけを挟むサンドイッチもすぐできますよ」
 さぁ、GWにちょっと予行演習をして、休み明けには自分の作ったお弁当を持って職場に行ってみませんか?


週刊文春2010年5月6日・13日ゴールデンウィーク特大号
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初めて明かされる「勝ち組」のタブー ユニクロ中国「秘密工場」に潜入した!  ジャーナリスト 横田増生

2010-05-20 05:33:06 | 週刊誌から
月給2万円、午前3時までアイロン掛け…

八割以上のユ二クロ製品に付く中国製のタグ。だが、どんな工場で作られているのか、日本人は誰も知らない。中国沿岸部の工場で働いているのは、月給二万円の労働者たち。彼らは徹底管理された現場で疲労困憊していた。日本企業のもの作りの現実がここにある。

 デフレの日本で一人勝ちを続けるユニクロにとって、なくてはならないのが中国にある七十カ所の生産委託工場だ。ユニクロによると、年間に生産する五億着の衣類のうち約八五%を中国で生産しているという。
 柳井正社長は自著『一勝九敗』でこう語っている。
<ぼくらの場合は小売出身なので、生産はできないが、(中国の)メーカーに委託した場合の生産管理は可能だ。可能というより、品質の高い商品を作るために必須なのだ>
 ユニクロの中国戦略にかかわった関係者はこう話す。
 「ユニクロは、中国人が経営する工場をあたかも自社工場のように使いこなすことができるように、九〇年代後半から委託工場を絞り込み、一社あたりの発注量を増やすことで、工場側の“忠誠心”を手にしてきた」
 だが、ユニクロは情報開示に消極的だ。例えば、委託工場が中国のどこにあるのかさえ、突き止めるのは容易ではない。
 小誌が昨年末に柳井社長にインタビューをした際、中国工場の取材を申し込んだところ、
「それだけは企業秘密にかかわること、だから絶対にダメです。ZARAだってどこだって、それだけは見せない。我々が行ったって見せてくれないんですから」
 と言下に断った。

 日本人の誰もが身につけるようになったユニクロの製品は、どんな工場で、どのような人たちによって作られているのだろうか。
 上海から電車とタクシーを乗り継いで四時間。浙江省寧波に着いたのは、四月上旬の小糠雨の降る日だった。この地には、ユニクロの大手委託工場の一つであり、四万人超が働く申洲針織有限公司がある。
 四川省の同じ農村出身だという沈静さん(17)と孫澤申さん(18)は、地元の中学を卒業した後、出稼ぎにきた。ユニクロの生産ラインでアイロンがけをはじめて一年がたつ。
「仕事は、朝八時から夕方五時までだけれど、これまで定時に終わったことはほとんどない。夜九時や十時までの残業はいつものことで、それでも終わらないと、午前零時や朝三時までアイロンをかけ続けることもある。朝三時まで働いても、翌朝八時には次の日の仕事が始まる。睡眠が取れないのが一番つらい。とくに三月は、朝三時までの残業が何度も続いたので、同じラインの女の子が倒れたぐらい」
 休憩時間は昼食と夕食時に一時間ずつある。しかし仕事の聞は、立ったままアイロンをかけ続けるので、残業が終わると肩が張り、足は棒のようになるという。
 この二人が手にする月給は残業代込みで千五百元(約二万円)だ。
「こんなに働いて千五百元は少ないと思うけれど、私たちには経験もないし、残業が続くのは私たちの作業が遅いからだって言われている」
 申洲針織が、ユニクロ向けのポロシャツやパーカーなどのカットソー類の生産を始めたのは、一九九〇年代のこと。その後、ユニクロの成長とともに、事業規模を拡大し、二〇〇五年には親会社が株式公開を果たした。
 二〇〇〇年代に入ってからは、ナイキやアディダスといった欧米企業からの生産も、受注するようになった。が、依然としてユニクロが売上高の五割近くを占める最大の顧客である。
 しかし最近、同社内においてユニクロに対する評価が変わりつつあるという。
「ここ数年、ユニクロとの取引では、ほとんど利益が出ない。利益の大部分は、欧米企業との取引によるものだ。中国国内の人件費や原材料費が年々上がっているのに、ユニクロの買い取り価格は下がってきている」(申洲針織関係者)

 千九百九十円で売られている半袖ポロシャツの場合、ユニクロの平均買い取り価格は、四~五ドル(三百八十~四百七十五円)。過去五年間、この価格は「下がることはあっても、上がることはなかった」という。
 中国国内の最低賃金は、過去五年で二倍近くに跳ね上がっており、原材料費も高騰を続けている。
 先の関係者によると、ユニクロと欧米企業では買い取り価格の決め方が違うようだ。
「ナイキやアディダスの場合、諸経費が上がったり、為替が変動した時には、買い取り価格に反映されるようになっている。しかし、ユニクロの場合、『日本の消費者はこの製品にはこの値段までしか払わない』というところから話がはじまるから、利益は薄くなるばかりだ」
 さらにユニクロと欧米企業では、委託工場に対するコンプライアンスの意識も大きく異なるという。
「欧米企業の場合、委託工場での児童労働などが指弾〈れた例もあったため、自分たちに割り当てられた生産ラインで働く作業員の残業時間を細かく管理している。法定労働時間を超える残業など厳禁だ。
 一方、ユニクロは、コンプライアンスよりも納期を優先しているようだ。納期に間に合わなければ、残業してください、それでもダメなら徹夜してください、という感じだ。ユニクロが、労働環境に関心を払っているとは思えない。中国企業に現場の監督責任を負わせるつもりなのだろう」(同前)
 今回取材した中国の委託工場の関係者は、異口同音に、ユニクロの取引条件の厳しさを語る。それなのに、なぜ七十もの下請けメーカーがユニクロとの取引を続けるのか。
 広東省東莞市などに工場を持つ品苑集団は、九〇年代半ばからTシャツやポロシャツなどの生産を請け負い、現在、ユニクロの委託企業としては上位三社に入る。
 ユニクロ以外では、エディー・バウアーやウォルマート、J.C.ペニーなどの生産を請け負う。
 同社のカットソー部門のトップである黄星華総裁(46)は、パワーポイントを使って説明する。
「ユニクロとの取引の魅力は、発注量が多く、安定している点にある。加えて一度決めた取引条件が変わらないのも、取引を続ける理由の一つだ。以前は、複数の日本企業と取引をしていたが、今はユニクロ一社だけだ」
 ユニクロ以外の日系アパレル企業の場合、発注後でも、頻繁に生産量や生産仕様が変わることがあり、さらに支払い前になって、何度も値引き要請が行われることも少なくないという。それでは売上や利益のメドが立たないために、日系企業との取引はユニクロ一社に絞られた。
 同社の東莞の工場には、ユニクロの上海事務所から“匠”と呼ばれる技術者二人を含む、五~六人の日本人社員が毎週やってきて、品質と生産の進捗状況を管理している。

 晶苑集団の別の関係者によると、同社はユニクロの製品開発も行っているという。
「年四回、当社の担当者が企画した製品を持って東京に行き、柳井社長の前でプレゼンを行う。そこで、柳井社長のOKがでれば、シーズンの発注量が決まるようになっている」(ファーストリテイリング広報は、「ユニクロの商品は全てユニクロのR&Dセンターによる企画、デザインです」と回答)
 黄総裁は、厳しい買い取り価格と並んで、ユニクロの取引の特徴として、納期の短さと品質に関する要求の高さを挙げた。
「ユニクロの納期は、生地の裁断から縫製までおよそ一カ月。業界平均は三カ月だから、非常に短い。加えて、不良品率を〇・三%以下に抑える必要がある。これも業界平均の不良品率が二%前後であるのと比べると、ケタ違いの厳しさといえる。しかも、ユニクロの場合、何を不良品とするかという基準も厳しい。Tシャツの表に、〇・五ミリの糸くずが付いていただけでも不良品とみなされる」
 別の工場の関係者は、ユニクロの厳しい取引条件に耐えられるのは、資金力のある大手の工場に限られるという。
 例えば、日本へ発送した製品が、ユニクロ側の検品によって不良品率が〇・三%を超えていれば、すべて中国へ返送される。もう一度検品した後で、再発送することになるが、費用はすべて工場が負担する。
 工場がリコール対象となる製品を出荷した場合は、もっと大変だ。〇八年秋、フリースの膝かけに金属片が混入する事件が起きた。その際、リコール費用に一億円以上がかかり、生産した工場の一年分の利益が飛んだといわれる。
 晶苑集団で縫製工として働く王円さん(29)は工場で働いて五年がたつ。
「この工場は、品質管理が厳しい。すべての作業が機械で記録されているため、一回ミスすると、五元から十元を罰金として引かれてしまう。働き始めた五年前と比べると、プレッシャーがきつくなるばかり。工場を変えないのは、ここの作業の手順ややり方に慣れているからです」
 王さんの月収は約二千元(約二万七千円)で、最低賃金と残業代を合わせた千六百元と、毎週百元支給される報奨金からなる。
 作業を失敗した場合の罰金は、報奨金からひかれるので、もし罰金で報奨金がすべてなくなれば、月収は千六百元になる。
 王さんの夫の方勇氏(33)も同じ工場の検品部門で働いており、八歳になる女の子と三人で工場近くのアパートに住んでいる。
 アパートは日本でいう八畳の間取りに、台所とトイレと、家族三人で眠るベッドが一台あった。家賃は月二百二十元。休日に家族三人で近くの公園を散歩するのが楽しみだと話す。
 夫の方氏に、将来の夢を尋ねてみた。
「娘がちゃんとした教育を受けて、上の学校まで行くことかな。私たちのような出稼ぎではなく、事務所で働くようになってほしい」
 統計によると、彼らのような出稼ぎ労働者は二億三千万人。平均月取は約千五百元(約二万円)だ。地元に働き口がないため、製造業が集'まる広東省や浙江省、江蘇省といった沿岸部に出てくる。
 ユニクロの委託工場で働く労働者たちの住まいを訪ねると、生活の貧しさを目の当たりにさせられる。
 東莞市にある徳永佳集団の染色工場も、ユニクロの大手委託工場の一つ。労働者は、十二時間ごとのシフトで働いている。
 工場で機械修理工として働く河北省出身の凌弘毅氏(25)は、「工場の寮に入ると好きなタバコが自由に吸えない」と、工場の近くのアパートに同郷の友人二人と一緒に住んでいる。
 家賃は月百六十元で、六畳の間取りにおかれた一台のベッドに二人が眠り、もう一人が床にカーペットを敷いて眠る。部屋についているトイレで水を汲んで浴びるのがシャワー代わり。部屋にある家電製品といえば、天井に据え付けられた、三枚羽根の扇風機だけだった。
 一日十二時間働いて、月収は二千元。時給を日本円に換算すると、八十円に届かない。凌氏は、そのうち千五百元を河北省の妻子に仕送りする。自由になるお金は、一日に一箱買うタバコ代の八元だけだ。
 広東省にある別の工場の労働者の部屋に行くと、工場から盗んできたというユニクロのベルトを発見した。この二十代の男性の月収は千五百元。ベルトの価格は百五十元で、彼の収入の十分の一にあたる。中国人通訳は、盗品はどこかで売りさばくのだろうという。
 工場の労働者たちと話していて、気づいたことは、ユニクロについてはほとんど知らないという事実だ。話を聞いた労働者の中に、ユニクロの製品を買ったことがあるという人は一人もいなかった。
「日本のブランド品にしろ、欧米のブランド品にしろ、私たちのような出稼ぎには高すぎる」(ユニクロの委託工場で働く労働者)
 ではどんな人たちがユニクロ製品を購入しているのか。上海市北部のショッピングセンターにあるユニクロの店舗で話を聞いた。
 辛子色のジャケットを着た、安徽省のホテルで働く張興氏(30)は、地元に海外ブランドショップがないため出張で上海に来るたびにユニクロやH&Mで買い物をするという。
「ユニクロの服は、値段が安いのにもかかわらず、かっこいいところがいい。月収は六千元(約八万一千円)ぐらいで、洋服に使うのは五百元ぐらいかな」

 中国でもユニクロ製品の価格は日本とほぼ変わらない。日本で千九百九十円の半袖のポロシャツには、百四十九元の正札がついていた。
 買い物客に話を聞いた結果、彼らの月収は三千五百~六千元に収まることがわかった。出稼ぎ労働者の二~三倍にあたる。委託工場の労働者は、中国の最下層の人々なのだ。
 ユニクロを展開するファーストリテイリングの広報は、小誌の取材に対して、次のように回答した。
――買い取り価格が低すぎて、委託工場の利益が上がらないという声を聞くが。
「ユニクロのお取引先工場はいずれも、長期にわたってともに成長できるいわばパートナー工場と認識しております。従って、指摘の点は当社には当てはまらないものと存じます」
――朝八時から翌朝三時まで働いている工場もある。
「万一、指摘される事実があるようであれば、当社としては厳正に対処しなければなりません。どちらの工場におけることなのか、可能ならば工場名などをお知らせいただけますと幸いです」
 今回取材した工場には、ユニクロの社員が毎週通いつめている。ユニクロの社員が労働環境に気付いていないとは考えにくい。
 日本一のアパレル企業として持て囃されるユニクロ。だが、その生産の大部分を委託する中国の工場には、まだ知られざる闇が放置されたままだ。
(文中一部仮名にしています)

週刊文春2010年5月6日・13日ゴールデンウィーク特大号


ユニクロ側が文春に全面敗訴 「過酷労働」記事の訴訟

 「ユニクロ」を展開するファーストリテイリングなど2社が、過酷な労働について書いた週刊文春の記事や単行本で名誉を傷つけられたとして、文芸春秋に計2億2千万円の損害賠償と本の回収などを求めた訴訟の判決で、東京地裁は18日、請求を全て退けた。
 判決理由で土田昭彦裁判長は「『月300時間以上、働いている』と本で証言した店長の話の信用性は高く、国内店に関する重要な部分は真実」と指摘。「中国工場についても現地取材などから真実と判断した理由がある」と指摘した。

共同通信(2013年10月18日17時56分)


本誌が勝訴! ユニクロはやっぱり「ブラック企業」 月300時間労働 サービス残業の“裏ワザ”

「原告らのその余の請求をいずれも棄却する」
 10月18日、東京地裁の法廷に、土田昭彦裁判長の声が響き渡った。ユニクロ側が小社を訴えた裁判の判決で、本誌が指摘した「過剰労働」について、裁判所は全面的に事実と認定したのだ。今回の判決は、すべてのブラック企業への最後通牒である。

「ユニクロ」を展開するファーストリテイリング(柳井正社長)らは、本誌記事「ユニクロ中国『秘密工場』に潜入した!」(2010年5月6日・13日号)および単行本『ユニクロ帝国の光と影』(小社刊・横田増生著)によって名誉を毀損されたとして、小社に計2億2000万円の損害賠償と書籍の回収を求めていた。
 ユニクロ側が問題視したのは、国内店舗や中国の工場における過酷な労働環境をレポートした、次のような記述についてである。
〈現役店長はこう説明する。(中略)「けれど、仕事量が減ったわけではありませんから、11月や12月の繁忙期となると、今でも月300時間を超えています。そんな時は、タイムカードを先に押して、いったん退社したことにしてから働いています。本部ですか? 薄々は知っているんじゃないですか」〉(単行本より)
 柳井社長の怒りは凄まじかった。11年6月6日に行われた部長会議では、小社を訴える旨の報告の後、柳井社長から次のような話があった。
「高収益を上げ、高成長を遂げているユニクロは、低価格と高品質を両立した商品を実現するために、店舗の社員やお取引先の労働者から搾取している、という内容が書籍に書かれている。
 しかし、我々は、そのような恥ずべき行為は決してしておらず、万が一、不適切な労働実態などがあれば、真摯にそれを正していく企業である」(同社「部長会議ニュース」より)
 これに対し、本誌はユニクロの現役店長や元店長の陳述書や詳細な取材メモを法廷に提出。事実をもって柳井社長やユニクロの主張に反駁した。
 その結果、裁判所は柳井社長やユニクロ側の請求をすべて棄却。判決のポイントになったのは何か。
 判決文では、ユニクロ国内店舗の労働環境について〈出退勤管理のシステム上、サービス残業を行うことは物理的には可能であり(中略)、現にサービス残業が行われた事例が発覚していることが認められる〉〈(記事の)重要な部分については真実である〉として、著者の横田氏が店長の証言にもとづいて報じた長時間労働の実態を事実と認定している。
 中国の現地工場における長時間残業などについては〈(記事の)重要な部分が真実であると判断したことには相当の理由がある〉と内容の正当性が認められている。

 じつはユニクロ自身、こうした過剰労働の実態を認識していた可能性が高い。ユニクロが日経新聞(11年3月1日付)に出した全面広告には、〈過剰な残業時間や連続勤務の背景には、ユニクロの発注時期の遅れや急な計画変更のしわ寄せが生産現場に及んだと考えられる場合もあり、私たちも自らを厳しくチェックしなければなりません〉との文言があるのだ。
 法廷ではこの点についてユニクロ側が厳しく追及される一幕もあった。
 労働問題の専門家からも、判決を評価する声が相次いでいる。『人が壊れてゆく職場』(光文社新書)などの著書がある笹山尚人弁護士は、「労働者、とりわけ若い人を使い潰す『ブラック企業』に対して警鐘を鳴らす意味がある」と指摘する。
「店長さんの証言を読むと、ユニクロの労働環境は『ひどい』の一言に尽きる。標準的な労働者の労働時間は月間で約170時間程度。ところが同社では240から250時間で、残業時間は70から80時間に上る。これは過労死ラインですよ。さらに300時間を超える時期もある。
 店長の負担を軽減するために権限を他のスタッフに委譲したり、従業員を増やしたりといった実質的な対応が取られていないことも裁判で分かりました。そもそも、『時間外労働』について、きちんとした認識を持っていないことも分かった。
 そうした実態が取材に基づいて明るみに出されたら、いかに企業がもみ消しに動いても止めようがないことが明らかになった」
 また、ブラック企業被害対策弁護団の代表を務める佐々木亮弁護士は「裁判所が記事の真実性を認めた点は画期的だ」と語る。
「判決文では『ブラック企業』という言葉こそ使われていないものの、認定された事実からは、ユニクロが労働者を使い潰す企業であると判断できます。
 また、長時間労働に従事させられていたユニクロの店長には『管理監督者』だとして残業代が支払われていませんが、それを取り戻せる可能性もある。かつてマクドナルドの店長が“名ばかり管理職”だとして未払い残業代を請求して認められた事例もあります」
 もし残業代の未払い訴訟が相次げば、「ユニクロ側は膨大な負担を求められるだろう。逆にいえば、人件費を正当に支払った場合、同社はけっして高収益企業ではないことが露見する可能性もある」(経済部記者)との指摘もある。

『ブラック企業 日本を食いつぶす妖怪』(小社刊)などの著作がある今野晴貴氏(NPO法人ポッセ代表)は、他のブラック企業と対峙する上でも判決の意義は大きいと言う。
「いわゆるブラック企業は、問題を指摘するメディアや従業員に対して高圧的な対応を取るところが多い。今回の判決はそうした恫喝的体質への牽制になるはずです。そもそも2億2000万円という請求額が異常で、勝ち目が薄くても恫喝目的で訴える『スラップ訴訟』だったのではないか」
 判決を受けて、ユニクロは今後どのように変わっていくのだろうか。
 一連の取材を行った横田氏は、こう語る。
「私は、良い面も悪い面も含めてユニクロのことを書きたいという思いで取材しました。旧態依然としたアパレル業界でユニクロが新しいビジネスモデルを作ったことは間違いないし、優れた点も多い。ただし、柳井社長が売上に占める人件費比率の圧縮を徹底した結果、労働現場にしわ寄せが行っているのは確かです。
 私は、その後も多数の関係者に話を聞いて回りましたが、みな口々に言うのは、『各店舗に正社員がもう1人いれば、サービス残業はなくなる』ということです。
 ユニクロは全国に約800の店舗があるから、仮に社員1人あたりのコストを1000万円としても80億円程度の負担増で実現可能です。1000億円を超す利益を上げているユニクロにとって、けっして難しいことではないはずです」
 判決に先立つ10月10日、ファーストリテイリングは、アパレル企業として初めて年間売上高が1兆円を突破したと発表した。
「(売上高)5兆円は、充分達成可能だと思います」
 柳井社長は今後の目標についてこう豪語してみせた。
 だが、従業員の労働環境について、今回の判決をどう受け止めたのだろうか。

週刊文春WEB 2013.12.29 07:00
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裏切りの事業仕分け/スパコン「予算カット」でも妻を秘書に「月給50万円」  ジャーナリスト 若林亜紀

2010-05-19 06:26:53 | 週刊誌から
裏切りの事業仕分け ジャーナリスト 若林亜紀

JICA、都市再生機構…昨年仕分けられた事業をまた「仕分け」。壮大な「サル芝居」のカラクリを暴く

 鳩山内閣の事業仕分け第二弾が二十三日から始まる。小沢ガールズの一人で、コスプレ風俗ライターだった田中美絵子衆院議員が、セクハラ・パワハラ問題に揺れる骨髄移植推進財団を事前視察したりと、政権は話題づくりに余念がない。
 一方、仕分け対象に選ばれた独立行政法人(以下「独法」、国の子会社)と公益法人(国の孫会社)は怒り心頭だ。
「支持率の下がっている鳩山政権の浮揚のため、選挙目当てのために行おうとしている」(特殊法人労連の竹内清事務局長)
 そもそも、鳩山政権は何のために事業仕分けを再びやるのか。鳩山由紀夫首相は、昨秋こう述べていた。
「仕分けは今回限り。来年も事業仕分けというのはおかしな話で、来年度予算は最初から仕分けられてスリムになっていなければならない」
 しかし、今年度一般会計予算は過去最大の九十二兆円に膨らんだ。理由は子ども手当などのバラマキだけでなく、事業仕分けの評決がことごとく反故にされ予算で復活したからだ。
 たとえば、蓮紡議員が仕分け初日に舌鋒鋭く「廃止」と告げた、学校に電子黒板やパソコン、テレビを配布する文科省の予算七億円は、翌月、政府予算案で総務省の十億円に変わって復活した。
 公明党の弘友和夫議員は、今年一月の参議院予算委員会でなじった。
「だから、何のために事業仕分けをやっているんだと。(中略)後で復活するような、こんなパカなことありますか」
 原口一博大臣が言い訳したが、蓮舫議員は黙った。
 かくして目標は三兆円とも五兆円とも言われた仕分けの予算削減効果は、わずか七千億円にとどまった。〇九年当時、約四千六百の公益法人に年十二兆円の税金が流れ、約二万八千人の国家公務員が天下りしていた。民主党は、天下りや随意契約を減らすことで六兆円を削減できるとマニフェストで豪語していたのに。

 昨年仕分けが済んだはずの法人も再び俎上に上っている。前原誠司国交大臣が「解体的に見直してもらう」とぶち上げた都市再生機構(UR)もそうだ。URは、汐留(民間に又貸しする上層階は家賃月二百二十万円)や恵比寿ガーデンプレイス(家賃三十万円)などに高級賃貸物件をもつ日本最大の大家で、潤沢な賃貸収入がありながら、国から年に四百億円をもらって、ファミリー企業に利益を溜め込んでいる。昨年の仕分けで事業見直しと評決されたのに、さほど変わっていない。
 国際協力機構(JICA)は、昨年運営費の一部を三割減らすべきと評決を受けたが、実際の削減はわずか二%にとどまったため、今回は職員用の豪華な社宅を仕分けるという。杉並区などに三百七十戸もの社宅を所有し、麻布に研修所まであることが昨年の仕分けでも問題になったが、ウヤムヤにされた。今回は再びこれを取り上げるという。
 一番姑息なのは長妻昭厚労大臣だろう。
 昨年の仕分けの結果を受け、厚労省の雇用・能力開発機構の廃止法案が先月まとめられたが、審議日程の調整難を理由に提出が見送られた。自ら廃止を先送りにしておいて、長妻大臣は事業仕分け直前に厚労省独自の事業仕分けを行い、同機構をテレビカメラの前で叩いてみせたのだ。
 仕分けは踊る、されど行革は進まず。民主党の猿芝居が繰り返されるだけだ。
 さて今回だが、独法の仕分け人に任命されたのは、昨年とほぼ同様で、夏の改選を控えた尾立源幸、蓮舫両参院議員や菊田真紀子衆院議員ら八人。五月末の公益法人仕分けには、福田衣里子議員、田中美絵子議員、横粂勝仁議員ら新人九十五名が二軍ともいうべき「仕分け調査人」に指名された。
 仕分け人の一人、尾立議員から電話があった。
「あなたのいた労働政策研究・研修機構に切り込みます。また手伝ってください」
 私は機構の前身である、厚労省の外郭団体、日本労働研究機構に十年勤めた。そこでは、厚労省の次官が理事長に天下り、お気に入りの女性部下を連れて毎月のように海外旅行をしていた。飛行機はファーストクラス、ホテルは五つ星で、観光、グルメ、ショッピング三昧。研究機関とは名ばかり、実態は天下りを養う接待所だった。
 やる気のある研究員は、「まともに研究すれば今の厚労省の政策は、大体、ムダとか、おかしいという結論になる」と言い捨てて辞めていった。そのため、一時は研究員がいなくなり、当時の総務庁から廃止勧告をうけた。そこで事務職を「ニセ研究員」に仕立てることにした。ニセ研究員は当然ながら研究などできないので、一日中テレビを見たり新聞を読んだりして時間を潰していた。
 〇一年、小泉内閣のときに私はこのような実態を内部告発して辞めた。機構の予算は年に五十億円から三十億円にほぼ半減したが、労働政策研究・研修機構と名前を変え、昨年の仕分け対象にもならず生き残った。
 仙谷由人行政刷新相(当時)は昨年の事業仕分けの後、仕分け対象とならなかった独法も、中抜きなどムダ遣いの構造は共通しているから、横串を刺して見直すとしていた。しかし実際には、ムダ遣いしまくりの同機構は昨年度に比べ予算が二割、六億円も増えた。
 事業仕分けがショーと知っていても、古巣を正すチャンスが訪れたのだから、見逃すわけにはいかない。
 十五日朝九時半、仕分け人の尾立議員と私は、東京の練馬区にある機構を現地調査のため訪れた。玄関前には、報道陣二十人ほどが待ち構える。

 内閣府に設置された行政刷新会議事務局では「現地調査は公開していない」と取材を拒む。しかし、仕分け人らは積極的にメディアに日程を教え広報に余念がない。あくまで実態を隠そうとする官僚と、選挙を前にアピールしたい議員側の対応がちぐはぐだ。
 機構側は、幹部ら十人ほどが玄関に出て議員を迎える。私にとってはなじみのある顔ばかりだが、彼らは私と目を合わさぬよう、顔をこわばらせている。
 玄関を入ってすぐ、「報道陣はここまで」と止められたが、聞き取り調査を傍聴できることになった。尾立議員が理事長に交渉したのだ。フカフカの絨毯が敷かれた「特別会議室」では四十人ほどが座れる円卓で、理事長、理事、総務部長、職員ら十名が尾立議員に向き合った。理事は厚労省からの天下りだが、稲上毅理事長は批判をかわすために厚労省が連れてきた学者だ。
 厚労省には似たような団体がいくつもあるが、「労働政策をメインにやっているのはわが独法だけ」と胸を張る機構側に尾立議員が切り込んだ。実際、大きな図書館に行けば、労働関係の法人が出す雑誌は数十種類もあるのだ。
――他と比較してどう違うのですか。
「我々だけではなく、厚労省の方もそういう風に思ってらっしゃいます」
 厚労省が自らの天下り先を悪く言うわけがない。尾立議員はあきれて話題を変えた。
――厚労省の独立行政法人評価委員会から高い評価を得ているというが、委員の中にはこの法人の事業に参加し、報酬を得ている人がいるようですが。
「まったくありません」
 これはウソだ。
――A氏は確かに報酬をもらっているのでは?
「そういう事実はあります」
 実名を出されて、ようやく認めた。
 仙谷大臣は、昨年、独法の役員を公募すると発表。「次第に天下りはなくなっていく。文化大革命が起こってますよ」と自画自賛した。この機構も役員を公募したが、ふたをあけてみると、厚労省の元職業能力開発局長が就任した。しかも、長妻大臣に二回も相談して決定したという。
 役員ポストだけでなく、新卒採用試験では官僚の子弟が幅を利かせる。政府系の団体は女子学生に人気が高い。同機構では千人ほどの応募がありながら、女性枠は最初から官僚の娘と縁者で埋まっており、採用する気がまったくないのに形だけ公募した年もあった。学生をパカにしている。
 厚労省職員の現役出向も二十八名いるが、彼らに研究ができるのだろうか。

 昨年度一年で書いた報告書は五十四本。年間予算は三十億円だから単純計算して論文一本でなんと約六千万円。類似の研究は大学や民間でもやっているが、二千万~三千万円の予算では、と尾立議員が指摘した。
「私どもの研究は、労働分野ということで、現場に出て、労働者の心情に密着して調査するので費用がかかります」
 ふーむ。機構のHPで調査研究成果の全文と概要を見ることができる。「登録型派遣労働者のキャリア形成の可能性を考える」という報告書の概要は次のとおりだ。
<キャリア形成は、派遣先を移動しながらキャリアを積む方法、同一の派遣先において能力や技能を高める方法があることが確認できた。だが、派遣先の意向が優先されるため、必ずしも労働者の希望通りにはいかないとわかった。また、年齢の上昇が壁となることもわかった>
 派遣労働者の愚痴? 何千万円もかけて、このレベルだ。先週、トムソン・ロイターが発表した世界約四千三百の研究機関の総合ランキングで東大は十一位、理化学研究所が百二十九位に入ったが、当然ながらこの研究所はかすりもしていない。
 尾立議員は、最後に、研究員室を視察した。
「いやあ、シーンとして、まったく活気がない。死んでいるようだ」
 優秀な若手研究者が職を得られずにいる理由の一つに、国の研究機関の職を、天下り官僚やその家族が“不法占拠”していることがある。研究費が研究に使われていないのだ。
 枝野大臣は、今回の事業仕分けで研究機関のあり方を見直すという。各省ごとにある研究機関を内閣府の直属とし、国家成長戦略のために活用するという。しかし「国立研究開発法人」という“ホージン”を新たにつくると聞くと、首をかしげざるを得ない。民主党政権になってから、天下り根絶どころか、「国立長寿医療センター」など独法が六つも新設されているのである。
 今回の仕分けについて、蓮舫議員も明言している。
「(削減目標という発想は)まったくない。金を生み出す仕分けではない」
 行革「やるやる詐欺」の民主党の仕分けショーなど無視して、参院選でどの野党に投票するかを考えたほうが良さそうだ。

週刊文春2010年4月29日号


「事業仕分け」追及第2弾 スパコン「予算カット」でも妻を秘書に「月給50万円」  ジャーナリスト 若林亜紀

「2位じゃダメなんですか!」(ⓒ蓮舫議員)昨年の事業仕分けの成功は、この一言から始まった。それに味をしめてというわけではないだろうが、再ひ理研を仕分けるという。まだまだ理研には、スパコン開発費を巡る不透明な契約や、幹部たちの呆れる実態があった。

「前回の仕分けの時とは、私の立場が変わりました。前任の仙谷大臣より二十歳近く若い私が行政刷新大臣となり……」
 事業仕分け第二弾スタートの二十三日、枝野幸男大臣が喜色満面であいさつした。今回は、独立行政法人(独法)を対象に仕分けする。仕分け人は尾立源幸、蓮舫ら今年改選を迎える参院議員など、ほぼ前回の持ち上がりだ。
 枝野大臣は、ぽろっとこんな本音も漏らした。
「(事業仕分けが)国民の皆様の信頼を回復する唯一の手段です」
 会場となった東京駅に近い民間の貸し会議室には大勢の傍聴人が詰め掛け、入場は初日から二時間待ち。ネット中継も多い時で数万人がアクセスした。
 とはいうものの、昨年のような目新しさはなく、仕分け人にも傍聴者にも倦怠ムードが漂っていた。報道陣もニュース映えしそうな蓮舫議員をカメラで追うほかは、携帯をいじったり、ICレコーダーを回したまま席を外す者も目立った。
 しかし、翌日の朝刊には「独法8事業廃止」と大見出しが並んだ。そんな誇れるような仕分けはなかったはずなのに、と思ってよく読むと、なんのことはない。たとえば、先週号で書いた「労働政策研究・研修機構」の仕分けでは、年間予算二十九億円のうち、「職業情報・キャリアガイダンスツールの研究開発」(予算約八千六百万円)が廃止となったが、これをあたかも研究事業全般が廃止を求められたかのように報じているのだ。
 他についても、報道では「廃止」の文字がいさましく並んだが、実はどれも独法にとって痛くも浮くもない一部事業の縮減に過ぎなかった。
 仕分け対象となった四十七法人のうち、国際協力機構(JICA)や理化学研究所など三分の一が、昨年すでに仕分けられており、焼き直しなのだ。前回、JICAは、本部事務所の家賃や人件費、外国赴任手当の高さが問題となり、予算縮減と評決されたが、ほとんど改善されなかった。
 今回は、国内職員千二百人に対して職員住宅が五百十八戸もあることがわかった。これまで三百七十戸保有と公表していたが借り上げ宿舎もあることが判明したのだ。職員数に較べて多すぎるため、三割が空き家という。税金をどぶに捨てているようなものだ。
 なお、JICAは国内職員千二百人、海外に四百人がいる。
 仕分け人が素朴な疑問を投げかけた。
「JICAは、国際協力をする機関と思っていましたが、国内にいる人のほうがずっと多いんですね?」
 JICA側が答えた。
「仕分けでも問題にされましたように、外国赴任手当が高いため、予算枠があるので出せないんですよ」
 会場からは失笑が漏れた。すかさず蓮舫議員が突っ込んだ。
「それはあべこべです」
 事業の必要性でなく、まず高待遇と予算ありきで物事が決まるというJICAの体質が明らかになった。
 一方、説明能力を上げたのは文科省である。所管の理化学研究所(理研)が、昨秋に引き続き俎上にのせられた。
「二位じゃだめなんですか」とスパコン開発費で蓮舫議員に切り込まれ、答えられなかった雪辱を果たすべく、入念な準備をして臨んだ。
 仕分けの一週間前、四月十九日、理研は、仕分け人の尾立参院議員、菊田真紀子衆院議員と民間仕分け人を埼玉県和光市の研究所本部に迎えた。
 理研は職員三千三百名で国から年に九百億円を投じられる国内最大級の研究機関。本部のほか、横浜、つくば、神戸、播磨に研究所があり、海外にも連絡事務所などをもつ。広さ二十七万平米の本部には研究棟が林立し、車か自転車で移動しなければならない。
 出迎えたのは、理研理事長にして、ノーベル賞学者であり、昨年スパコンの予算削減に猛反発した野依良治氏だ。金縁のめがねをかけ、穏やかな物腰で、研究所の概要を説明する。

「理研を世界的なブランドに育て科学技術史に輝かせ続けなければいけない。研究者がやる気を出せるよう雇用制度についても工夫を凝らしている。研究のための研究、研究者のための研究でなく、研究を通して文化に貢献していきたい。
 そのため、ノーベル賞学者など、外国の著名な科学者に定期的に来てもらい、評価・指導をいただいている。何か質問ありますか」
――「評価のための予算はどれくらいですか。(尾立)
「だいたい年に二千数百万円です」(理研職員)
 続いて、仕分け人らは白衣に着替え、研究棟を覗いた。脳科学総合研究センターでは、直観力の研究をしているという。将棋の羽生名人に来てもらって、駒をうつとき、脳の奥で、思考を司る部位とは別の部位が動くことを発見したという。
 若手研究者は、一辺が一・五センチのキューブに、人間の人生八十年分の記憶を三次元で記録する大容量記録媒体を開発中という。
 任分け人らは、最先端の科学に触れ、感嘆と驚嘆のため息の連続だった。
 しかし、理研には隠された“顔”がある。次世代スパコン開発はその典型だ。去年、蓮舫議員の追及に、理研側は「経済合理性にはなじまないが、一位を目指すことで国民に夢を与えることが必要です」と答えていた。
 だが実は、初めから一位になれないことが、事業仕分けの前から内部ではわかっていたのである。
 理研は〇九年度中に五百四十五億円の国費を投入してスパコンの設計を終えるところだった。翌年度からの本体製造を前に、文科省は〇九年夏、省内でひそかにスパコン事業の中間報告をとりまとめた。すると、委員の大半が計画の遅れを指摘し、米国の開発状況と比べると「世界一奪取は困難」と報告した。
 しかし理研側は二百億円ほどの追加投資をして開発を加速すれば瞬間的な「世界一」は可能だとし、計画を推し進めた。一〇年度で二百六十八億円、今後七百億円の予算を要求し、中間報告の結果は明かさないまま、事業仕分けに臨んだ。
 しかし、「スパコンの申し子」と呼ばれる金田康正・東大教授が、仕分け人にいた。「このままなし崩しに続けるより、いったん凍結して戦略を練り直すべき」と金田教授が主張し、予算計上見送りとなったのだ。
 それなのに野依理事長らが抗議すると鳩山由紀夫首相が評決を覆し、四十億円減らしはしたが予算が復活した。その後、一月に中間報告の内容が明らかになっても鳩山政権は、予算を見直さなかったのである。
 衆議院調査局の〇九年の国家公務員天下り状況調査によれば、スパコン開発の外注先への天下りは多い。富士通三十一名、NEC四十一名、日立製作所五十一名。関連会社を含めればさらに増える。
 さらに、スパコンを設置する神戸の施設の建設工事契約はかなり不透明だ。
 設計・積算・工事管理は日建設計に約七億円で、建設工事は大林組に二十六億円で発注したが、すべて競争性のない随意契約であった。機械設備工事もやはり大部分が随意契約である。事前調査で尾立議員が、随意契約の理由を質したところ、なぜか理研側は「競争入札です」とウソをついた。
 理研は、役員八名のうち二名が霞が関からの天下り。残りが野依氏のような学者や電機メーカー出身者だ。年収は理事長が約二千三十万円、理事が一番高い人で約千七百二十万円(〇八年度)だ。
 部課長クラスには文科省からの現役出向も多い。研究員は「役所とのパイプが太くなる」と喜ぶが、役所が理研の予算も人事も握ることになる。
 学者の仕事ぶりはどうなのか。“聖人”ばかりではないようだ。理研元職員が明かす。
「公私混同ぶりはひどいものです。ある幹部は、電車の定期を支給されているにもかかわらず、近県の自宅にハイヤーで帰宅しています。月に二十万円を越えていました。パソコンは年に二回買い替えて常に最新型。機能ではなくデザイン優先です。しかも、『自宅で理研の社事もするから』と言って、自宅のプリンタやインクも経費で落とし、携帯電話代も理研持ちです」
 また“情実採用”もはびこっているという。
「妻を非常勤の秘書にして月五十万円の給料を払ったり、外部のお気に入りの女性を秘書にして週三十時間勤務で五十万円も払っている例もあります(ボーナスはなし)。非常勤なら採用も給与も幹部の裁量でかなり自由になるのです。仕事はヒマで、遅刻や早退などザラなんです」(同前)
 筆者の取材にも、理研総務課はアッサリ認めた。
「きちんと選考を経て採用しています。奥さんを雇っている理由は、若い頃から夫の仕事の手伝いをしていたので能力・資格があると認めたからですし、週三十時間勤務は、家で仕事の準備をしているからです」
 理研で官僚や老練な科学者が国の研究費を食い物にする一方、一般に若手研究者は任期制など不安定な立場である。科学予算はむやみに削るべきではないのかもしれないが、独法の中にムダ遣いの構造がある限り、研究にお金がまわらない。仕分け人は綿密な事前調査を重ね、そのムダに切り込んだ。その努力には頭が下がる。
 しかし、評決が実現する可能性は低い。枝野大臣は、仕分け期間中の記者会見でこう語った。
「廃止するにしても、ただ廃止するのか、国や地方や民間に移管するのか、検討しなければならない」
 検討は二回の仕分けで尽くしたはずだ。あとは実行あるのみ。その気概が枝野大臣にあるのか。「検討中」「来年度から」「四年かけて」という逃げ口上で、“行革やるやるショー”を続けるのか、我々は厳しく見定めて参院選で判定を下そうではないか。

週刊文春2010年5月6日・13日ゴールデンウィーク特大号
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文春図書館 今週の必読II 『ヤノマミ』 国分拓

2010-05-18 00:05:47 | 週刊誌から
こくぶんひろむ/1965年宮城県生まれ。ディレクター。88年に早稲田大学法学部卒業後、NHK入局。これまで手掛けた番組に「フィリピン出稼ぎボクサー」「NHKスペシャル 隔絶された人々 イゾラド」等がある。

現代社会を照射する剥き出しの生と死 

評者 石井光太

 誰もがテレビで一度は、裸体同様の少数民族の姿を目にしたことがあろう。
 画面に映る彼らは民族ダンスに興じる陽気な者たちだ。だが、観る者は心の底で疑問を抱いている。彼らはどこで生殖行為をし、孕み、中絶し、死んでいくのか。
 著者の国分拓はNHKのディレクターである。彼は放送業界の不文律を破り、表層の裏にある事実をカメラに収めようと、アマゾンの密林に暮らすヤノマミ族の村に潜入する。計一五〇日間、同じ飯を喰らいながら、くり広げられる生の躍動を撮ろうとしたのだ。
 国分の目に入ってきたのは、魂をえぐり取るような光景だった。
 一六七人が暮らす家の中で男と女は人目も憚らずに絡み合う。十四歳の少女が育てられぬ子を産めば、その場で絞め殺す。国分が目を逸らすと、村の女たちは臆病者だと嘲笑する。嬰児の遺体はバナナの葉に包まれ白蟻の餌にされる……。
 こうした光景を撮影するうちに、国分の精神は次第に蝕まれていく。微熱が続き、食べ物が喉を通らなくなり、夜尿症に苦しむ。
 私自身、かつて途上国の物乞いや少年兵と暮らした際、同じ体験をした。流産した胎児を犬が喰い、浮浪児が山羊と性交し、死体が金集めの道具にされる。人聞が生き物として直面する生の現実を突きつけられると、文明世界で形成された自我が崩れ、身体が悲鳴を上げだすのだ。
 だが、取材とは、本来そういうものだ。むき出しになった人間の本性を凝視しなければならない。社会の裏に隠された現実をえぐり取らなければならない。物を見る、物を書くとはそういうことなのだ。
 本書を読めば、読者はそこに描かれた人間の本性に愕然とするだろう。国分同様に、自我を破壊されるかもしれない。だが、それで初めて気づかされる我々の社会や人間関係の矛盾は存在する。本書は、アマゾンの深淵から現代社会を照射する作品だと言えよう。

いしいこうた/1977年東京都生まれ。アジアの最深部を描いたノンフィクション『物乞う仏陀』が話題に。他の著書に『絶対貧困』等。

週刊文春2010年4月29日号
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異例の謝罪広告を追認した最高裁決定の研究

2010-05-17 05:48:05 | 週刊誌から
 近年、名誉殻損訴訟でメディアに厳しい判決が下されるケースが増えている。つい先日、本誌も東京高裁から謝罪広告の掲載を命じられた。が、決定に至る1、2審の審理内容と判決には、法曹専門家の間からも疑問や異議を唱える声が少なくない。その当否を研究する。

 さる3月18日、最高裁判所第一小法廷において、櫻井龍子裁判長以下5名の裁判官によって、その決定は言い渡された。
 主文は、上告の棄却。
 本誌が07年11月8日号で掲載した特集記事『秋田経法大を乗っ取った「創価学会」弁護士の「伝書鳩スパイ網」恐怖政治』について、大学側が名誉毀損で提訴。東京地裁における1審で本誌側が敗訴したため、すぐさま控訴したものの、その2審でも本誌側が敗訴となる。そこで最高裁に上告していたところ、その決定が下されたのだ。
 すなわち、これで本誌の敗訴が確定したわけである。
 この決定に従って、以下、大学側(現在はノースアジア大学と改称)が申し立てて裁判所が認めた文言と体裁による『謝罪広告』を掲載した。
 無論、謝罪の文言は本誌の本意とするところではないが、法によって定められた決定とあれば是非もない。
 しかし、1審で、本誌は数多の証拠を可能な限り提出し、証人にも具体的かつ詳細な証言を尽くしてもらった。が、それらの主張はほとんど認められず、なかんずく、2審においては新たな証人を申請したにもかかわらず却下され、一切の証拠調べが行われないまま判決が下されたことは、遺憾の極みと言うほかない。
 では、この裁判では何が争点だったのか。ポイントは、大まかにいって4点。①弁護士でもある現理事長はクーデターによって前理事長を追い落とし、自らがその地位についた。②自らの意のままに教職員を退職、降格させた。③理事長の直轄である教育指導室が教職員を監視している。④創価学会の幹部でもある理事長が学会の意向を受けて大学を乗っ取ろうとしているのではないかという噂が存在する――といった記事の内容について、大学側は、これらがすべて事実無根であり名誉を毀損している、という主張だった。
 これに対して1審の東京地裁が出した結論は、判決文によれば、まず記事は、
<公共の利害に関する事実に係るものであり、かつ、専ら公益を図る目的に出たものと認められる>
 と認定された。となると、あとは記述した内容が真実か、あるいは真実だと信ずる相当の理由があることを立証できれば、本誌側に違法性はないことになる。
 が、前述の通り、本誌側の主張はことごとく退けられた。理由の根幹は、学校関係者であるが故に匿名での取材協力しかできなかった情報源について、
<その情報源がいかなる人物であるかが全く明らかではない>
 ために信用性を否定されたことだった。
 が、中には、不利益を被ることを承知の上で、敢えて義憤から実名で証人として出廷してくれた学校関係者もいたのである。そして自身の体験を赤裸々に供述したのだが、そうした証言についても、判決は、
<推測にすぎない内容>
 と一方的に断じている。
「今回の敗訴確定の報を受けて、世の中というのはなんと矛盾に満ちたものなのだろうと思いました」
 と慨嘆するのは、その実名証人の1人であるノースアジア大学教養部の元准教授、土肥貞之氏である。氏は准教授でありながら前述の教育指導室兼務を命じられ、准教授を解任されて講師に降格させられた。
 いま改めて、しみじみとこう続ける。
「もちろん、裁判官も人間なので完壁ではありません。間違えるからこそ、冤罪事件も起こるのでしょう。全知全能の神でもない限り、真実を見抜くことはできないのかもしれません。ただ、曲がりなりにも25年間、法学部中心に教鞭を執ってきた人間として今回の裁判を経て思うのは、やはり、司法教育の大切さですね」
 そしてもう1人、
「正直、裁判所の判断には落胆しました」
 と呆れるのは、同じく証言者として法廷に立った伊藤寛雄氏である。氏は同大学の附属高校で理科と野球部部長を担当していた契約教員だったが、理由が判然としないまま解雇され、労働審判も起こしていた。
「裁判で大学側は、私の人事評価が低かったという証拠だというものを出してきましたが、それは私の労働審判ではまったく出てきていないものでした。裁判でもその点を指摘したのに、裁判所は何ら疑問符をつけることなく、それを有力な証拠として採用してしまった。訴訟指揮という点で、裁判所には不公平感を強く感じました」
 
 さらに、先述した4つの争点のうちの4点目、すなわち、創価学会による乗っ取り云々の噂について、1審判決では、
<噂の内容の真実性が証明されるか、又は噂の内容を真実であると信ずるについて相当の理由がなければ被告らは免責されない>
と、いずれについても証明できていないと断じた。
 しかし、である。そもそも記事では、あくまでも噂の存在を記しているのみ。しかも、後段では創価学会の否定談話も明確に記述し、おまけに、学会ウォッチャーの否定談話まで掲載しているのだ。
 その4点目に関する1審判決について、
「そもそも噂については、民事の場合その存在の証明ができればいいのではないかという見解もあります」
 と、メディア倫理法制に詳しい立教大学兼任講師の田北康成氏がこう言う。
「例えば、噂の内容を真実と誤認しても仕方がないという“誤信相当性”さえ証明できればよいと考えられる、参考判例があります」
 その判例とは、06年7月18日に福岡高裁で言い渡された『新聞記事訂正請求控訴事件』の判決。ただし、争点は“噂”ではなく“主張や見解”である。
<主張や見解自体が真実でなければ記事の掲載行為が違法になるとすれば、上記のような社会的意義を有する報道が事実上できなくなることは明らかである。なぜなら、上記のような主張や見解が真実であるか否かは、警察による捜査、そして、その後の裁判所における審理を経なければ判明し得ない性質のものであって、その記事を掲載する新聞社側が、正確に調査、判断できるものではないからである。その結果、国民の知る権利、ひいては報道の自由を最大限尊重しなければならない我が国社会にとって、これらの権利ないし自由が享受されないという、極めて憂慮すべき事態となることはいうまでもない。(中略)主張や見解が正確であるか否かを問わず、違法性が阻却されるものと解するのが相当である>(判決文)
 田北氏が続ける。
「今回の記事で取り上げている大学は公共機関であり、学生本人だけではなく親も選択にかかわり、その選択によっては子供の一生を左右することもある。そういう公共機関について“こんな噂がある”という報道はあってもいいはず。その記述は公共の利害に関して公益を図る目的であるのだから、噂の存在が真実であり、また誤信相当性が証明されていれば名誉段損には当たらないと思います」
 この種の疑義の声は1審についてばかりではなく、2審の東京高裁の訴訟指揮についても多い。
 先述の通り、高裁では証拠調べが行われず、新たな証人申請も認められず、わずか1回で結審となった。
「高裁で新しく証人が申請されたのですから、裁判所はきちんとその証人の供述を聞くべきでしたね」
 そう指摘するのは、青山学院大法学部の大石泰彦教授である。
「記事は、1審でも公共性と公益性が認定されています。そもそも欧米では、公共的なものが批判された記事の場合、悪意をもって記事を書いたということを書かれた側が証明しない限り、名誉段損は成立しない。それだけ公共的なものに対する言論が守られています」
 上智大学文学部新聞学科の田島泰彦教授も同意見。
「高裁で証人申請したのにまったく審理せず退けたというのは、非常に不可解ですね。それまでは匿名だった情報源が敢えて裁判に出廷するというんですから、裁判所はもっと重く受け止めてしかるべきです」
 それだけに、証言する予定であった当の証人、同学校法人全体の組合執行委員長も務めた、同大附属高校の元教員も、こう嘆息する。
「どうして裁判所があんな判断を下したのか、理解に苦しみます。控訴審で私の証人採用がなされなかったことも含め、裁判所の決定は残念でなりません。証言できていれば、様々な問題がつまびらかになったのではないかと思います」
 と無念の想いを吐露する。
 こうした“不可解な”控訴審の結果、1審よりも賠償額は増額され、しかも、1審では退けられていた謝'罪広告まで命じたのである。到底、承服できる判決ではなかった。
「控訴審で新たな証人を認めなかった理由として、高裁は、取材源を明らかにしたところで真実性が証明されるわけではないという点も挙げていますが、その判断は乱暴だと思います」
 と、前出の田北講師は、高裁の判断にこんな疑義も唱える。
「実際、控訴審で新たな証人の証言を審理していれば、結果は変わったのではないか。逆に賠償額は減額され、謝罪広告も1審同様認められなかった可能性が高いと思います」
 さらに続けて、こんな疑問も呈する。
「大学側の“記事の影響で入学希望者が350人から288人に激減した”という主張などを、高裁では積極的に受け取っています。しかし、そもそも大学界全体が学生数の減少傾向にある中で、果たして記事が減少の直接の原因となったとハッキリ言えるのでしょうか。どうも、高裁が謝罪広告を割と簡単に認めているという印象が拭えません」

 実をいえば、そもそも裁判所が謝罪広告を命じること自体、法曹界では以前から疑義を呈する声が上がっていたのだという。
 憲法、言論法の犬家である青山学院大名誉教授の清水英夫氏が、こう解説する。
「謝罪広告には大きな問題がある。謝る意思がない者に対して権力で謝らせる謝罪広告の強制は、どう見ても憲法19条で保障されている“良心の自由”に反する憲法違反だと私は考えています。これでは逆に精神的な苦痛を与えられ、名誉を段損されることになるわけです」
 憲法19条――その条文には、こう記してある。
<思想及び良心の自由は、これを侵してはならない>
 清水名誉教授が続ける。
「日本とまったく同じ条文の民法と、日本と似ている憲法をもつ韓国には憲法裁判所という機関があります。そこで91年、謝罪広告は違憲である、という判断が出ました。その判決文の中では、諸外国でも、自ら謝る意思がないのに他所から見れば謝っている印象を与える謝罪広告は、良心の侵害になるという理由から認めていないということまで書いてあります。しかし、私自身もかつて弁護士として“謝罪広告は違憲である”という上告をしたことがありますが、日本の最高裁はその上告を認めませんでした。日本は他の国から見て変わっていますよ」
『名誉段損の法律実務』という著書もある佃克彦弁護士も、こう言う。
「自分たちはこれが真実だと思っているのに間違っていましたという謝罪広告を出させるのは、やはり問題ですよ。例えば、裁判所がこういう事実を認定したという広告を裁判所として出す形式ならいいかもしれません。いや、これは別に私独自の考えではなく、かなり昔から法曹界にある意見なんです。もちろん、私もこれに大賛成です」
 実際、この点については、かつて最高裁でも意見が分かれたほど。謝罪広告が違憲か否かが争われ、同年に最高裁大法廷において合憲の判断が下されたものの、その際、2名の判事が反対意見を付しているのである。
 いずれにしろ、判決は確定した。先の清水名誉教授がいみじくも言う。
「週刊新潮はこれまでも『「裁判官」がおかしい!』といった記事などで、かなり厳しく裁判官を批判してきている。今回のような裁判所の態度には、もしかしたら週刊新潮に対する不快感が作用しているのかも、という感じすらしますね」
 よもや司法の信頼が揺らぐようなことがあってはなるまい。

謝罪広告
 私たちは、「週刊新潮」2007年11月8日号掲載の、「[特集]秋田経法大を乗っ取った『創価学会』弁護士の『伝書鳩スパイ網』恐怖政治」と題する記事において、学校法人ノースアジア大学(旧名・秋田経済法科大学)の理事長である小泉健氏が、クーデターを起こして前理事長を辞めさせ自分が理事長に就任するや、監視組織を使って教員を監視し、自らの意見に反対したり悪口を言った教職員を理事長就任後に次々と辞めさせ、誰1人小泉理事長に逆らうことができないような恐怖政治・独裁体制を築き、同大学を乗っ取ったという記述をしたほか、同大学が創価大学の分校になるのではないか、あるいはその跡地に創価学会の墓地が建設されるのではないかと記述しました。
 しかしながら、このような事実は全くありませんでした。
 ついては、前記の記事により、学校法人ノースアジア大学の名誉及び信用を著しく段損したことに対し、陳謝の意を表しますとともに、今後二度とこのような誤りを犯さないことを誓約します。

 平成22年4月22日     株 式 会 社 新 潮 社
                  代表取締役 佐 藤 隆 信
                  早  川     清

学校法人ノースアジア大学殿

週刊新潮2010年4月29日号
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地雷・不発弾「26万発」を処理した「日本のハート・ロッカー」  ジャーナリスト 松本利秋

2010-05-16 05:37:55 | 週刊誌から
 カンボジアやラオス、アフガニスタンで汗を流すわが国の自衛官OB。彼らが中心のNPO(特定非営利活動法人)が、8年間で26万発もの地雷や不発弾を処理した。国士舘大学講師でジャーナリストの松本利秋氏が、「日本のハート・ロッカー」の活躍をリポートする。

 今年3月、映画の米アカデミー賞で、作品賞や監督賞など6部門の賞を獲得したのが、米軍占領下のイラクで爆発物を処理する米兵の姿を描いた『ハート・ロッカー』(キャスリン・ビグロー)である。
 映画では主人公が重そうな耐爆服に身を包み、バグダッド市内に仕掛けられた爆弾の位置を確認し、素手で信管を外していく。40℃を超える熱暑の中、戦車をも吹き飛ばす爆発物に立ち向かう人間の息づかいや緊張感が伝わり、見ている方も息苦しくなる。
「ハート・ロッカー(hurt locker)」とは、「爆発で不具になった人」「そうなってもおかしくない危険地帯」などを意味する米軍の隠語だが、
「映画の緊迫感は痛いほど伝わってきました。この仕事は、まさしく私が長年やってきたことですから」
 と語るのは元自衛官の鈴木昭二さん(73)。1990年に3等陸佐で退官した鈴木さんは、その半生を不発弾処理に捧げてきた。宮城県築館高校を卒業後、陸上自衛隊に入隊。太平洋戦争のときに米軍が日本に投下したものの爆発せず、戦後も地中に埋まったままの不発弾を数多く処理してきた。
「米軍の空襲では最も標準的と言われる500ポンド(重量は約250㌔)爆弾を265発、大型の2000ポンド(約1㌧)爆弾は40発くらい処理しました。他の小さい爆弾にいたっては数え切れないほどです」
 と鈴木さんは言うが、もし500ポンド爆弾や2000ポンド爆弾が処理中に爆発したらどうなるのか。
「髪の毛一本すら残りません。木っ端微塵になりますから、爆発させないように自分の技術や能力を高めるしかない。怖くないといえばウソになる。怖いですよ。怖いからこそ、私はチャレンジしてきたんです」
 鈴木さんが、外国の不発弾処理の関係者に、爆弾の信管を手で外してきたと説明すると、
「ミスター鈴木はクレイジーと呆れられます」
 戦後、日本の不発弾処理を管轄していたのは旧通産省だった。実際の処理に当たったのは旧軍の爆薬技術者や米軍の爆発物処理隊である。端的に言って、不発弾処理で極めて重要なのが、爆弾から信管を外す作業だ。
「米軍の処理班は、少量の火薬を使い、爆弾から離れた位置で信管を破壊する作業をします。成功率は82%。残りの18%は失敗。過去に米軍が500ポンド爆弾の処理で新築の2階建てを2棟吹っ飛ばし、東京都が補償したこともありました。米軍にとって、しょせん日本は戦場なんですね」
 陸上自衛隊に不発弾処理隊が創設されたのは1958年である。
「それまで米軍に頼んできたことを、自分たちでやろうという機運になり、自衛隊に5個の不発弾処理隊が創設されました。私は志願し、練馬駐屯地の処理隊に配属されたのです」
 自衛隊は米軍の処理法を学びながらも、独自のやり方を開発していった。
「私たちは間違っても爆弾を爆発させないために、目でしっかり確認しながら、手で信管を外しました。自国で被害を出してはならないのです。不発弾が発見されたら、現場に急行し、2人1組で作業をします。1人だとミスする恐れがあるので、もう1人がチェッカー役になる。自衛隊はこの方法を貫き、1度たりとも失敗はありませんでした」
 退官間際の3年間、鈴木さんは陸自の武器学校で弾薬科の教官を務めた。その後、民間企業に再就職したが、特定非営利活動法人「日本地雷処理を支援する会(JMAS)」が設立された02年5月、再び現役時代の知識と経験を買われ、地雷や不発弾の処理に当たることになったのである。
 彼は同年6月、JMASの「不発弾処理専門家」としてカンボジアに渡った。
「向こうに行きますと、足や手のない人がいっぱいおるわけです。みな地雷や不発弾で怪我をしている。これを取り除くには、技術のある我々がやるほかない」

 鈴木さんは自ら地雷や不発弾の処理をして見せるだけでなく、現地で要員の教育にも当たった。政府系組織「カンボジア地雷処理センター(CMAC)」から派遣された職員に、“自衛隊のやり方”を伝授した。
「カタコトの英語と現地語でコミュニケーションをとりました。いつ、どうすべきか。CMACの職員が内容をきちんと理解しているか、プノンペンの本部にいる通訳に、電話で確認しながら教えていったのです」
 カンボジアでは長期にわたる内戦により、国内のいたる所に地雷や不発弾が散乱している。その数は地雷だけでも400万発から500万発と推計され、完全に除去するには100年はかかると言われている。
 例えば地雷には、対人地雷もあれば、対戦車地雷もある。鈴木さんはCMACと共同で金属探知機を使って探し出し、回収して無力化していった。1つで十分な殺傷力を持つ対戦車地雷が、3つ重ねであったこともあったという。
「旧ソ連製の対戦車地雷です。地雷は120㌔から150㌔の踏圧がかからなければ爆発しません。兵隊が背嚢を背負って、地雷に飛び乗れば爆発するかもしれませんが、通常は人が乗っただけでは対戦車地雷は作動しないのです」
 手で、一つ一つ地雷を掘り起こしていくのだが、
 「その際に注意しなければならないのは、地雷の底にヒモが付いていることがあるのです。それを引っ張ると爆発する仕掛けになっている。対戦車地雷を処理するときは、手鏡で、底も確認する必要があります」
 また爆弾は、手榴弾からボール型爆弾、クラスター爆弾、迫撃砲弾、ロケット弾など様々なものがある。大きいものでは500ポンド爆弾から1000ポンド、2000ポンドの爆弾まで発見された。製造国も10カ国以上に及んでいる。
「爆弾にもそれぞれに特徴がありますが、基本構造は同じですので、その点をよく知っていれば、処理を間違うことはありません。不発弾の処理は、爆弾から信管を外して無力化し、爆破処理場に持っていって、爆弾に爆薬を仕掛けます。十分な退避距離を取ってから爆破させ、危険がなくなったことを確認するまでが一連の作業です」
 鈴木さんがカンボジアに行って間もないころ、CMACの職員が、ベトナム戦争当時によく使われた「Mk82」という500ポンド爆弾の処理に困っていた。
「米国の500ポンドや1000ポンドの爆弾についている化学式長延期時限信管は、4分の1まわしただけで爆発するようになっています。それを爆発させないように信管を抜く。信管の中にはロックピンが入っており、まずこれを抜かなくてはならない。信管にドリルで穴を開け、穴から磁石や粘着テープなどを利用してピンを抜くのです」
 CMACの職員が窮していたのは、爆弾から信管を抜いた後の作業である。
「この大きな爆弾のどこに爆薬を仕掛けたらいいか分らない、というのです。私は、爆破処理場に深さ150㌢、幅120㌢、長さ180㌢の穴を掘らせました。穴底へ下ろした爆弾の中央に爆薬を仕掛けるように指示したのです。掘った穴には土をかけて元のように埋めなおします。できれば盛り上げるくらい土をかけたほうがいい。そうすれば500㍍から700㍍の退避距離で安全なのです」

 爆破処理をする際に取る退避距離は、例えば対人地雷で150㍍、対戦車地雷で500㍍が目処。2000ポンド爆弾の処理では、1900メートルの退避距離を取ったこともあったという。
 鈴木さんは現役時代の77年ごろ、文字通り“痛い思い出”がある。
「ガスボンベの爆破処理の際、たった50㍍しか退避距離を取らなかったために、破片が右脚に刺さったことがありました。ポケットに入れていたペンチが盾になって、直撃はまぬがれましたが、60日間も松葉杖暮らしです。以来、安全に関することでは、一切妥協はしませんでした」
 カンボジアでは水中にあった不発弾の処理も行なった。
「地元の人が、船溜りに爆弾があると教えてくれたのです。水が濁っていて、爆弾そのものが見えない。なぜここで不発になっているのか。信管の点爆薬だけが爆発して、本体の炸薬が爆発していなかった。完全には爆発していない“不完爆”というやつです。作薬が爆発していない状態で、爆弾の外壁が割れていました。私と班長が水の中に潜って爆弾にロープをかけ、現場に出動したみんなで引き上げたのです」
 鈴木さんをはじめ、陸自OBのボランティアを、地雷、不発弾処理のために外国に派遣しているJMASは、陸自の不発弾処理隊で長年活動してきた土井義尚元陸将が中心となって立ち上げたNPOである。
 今年3月までの約8年間で、カンボジアで処理した地雷と不発弾の数は19万6126発。ラオスの5万7705発、アフガニスタンの7972発と合わせて総計26万1803発を除去した。
 これまで地雷や不発弾があったため立ち入れなかった危険地帯が安全地帯になり、住民は畑や田んぼを作って食糧生産量も増えた。JMAS副理事長の奈良暁氏はこう言う。
「JMASは地雷や不発弾の処理ばかりでなく、学校や道路の建設、水資源の確保など、自衛隊の海外復興支援活動で培った技術とノウハウをコミュニティ建設に役立てるプロジェクトを進めています」
 JMASの活動を支えているのが、外務省の政府開発援助(ODA)の日本NGO連携無償資金協力をはじめ、会員が納める会費のほか、企業や財団、個人有志からの寄付などである。
 カンボジアやラオスではJMASの不発弾処理専門家は歓迎されているが、彼らの身が危険に晒されているのがアフガニスタンだ。
 07年2月から首都カブール北方70㌔にあるパルワン県で地雷、不発弾処理事業を開始した。自衛官OBが国連の対タリバン武装解除の監視に携わった経緯もあり、日本人の不発弾処理作業に敵対意識を持っている人間も多い。現地で作業を行なう際には銃で武装した護衛をつけなければいけないほどである。

 カンボジアで地雷、不発弾処理に当たっていた鈴木さんは、06年6月からラオスで活動を始めた。
 鈴木さんが赴任する直前、子供たちが道端で、BLU-26というテニスボール大のクラスター爆弾を見つけ、コンクリートの柱に投げつけたところ、爆発。5人の子供が即死する事故が起きた。また3歳の幼児があぜ道で同じBLU-26を見つけ、投げて遊んでいるうちに爆発。即死。鈴木さんは子供の父親から、
「もうちょっと早く来てくれれば、こんなことにならなかったのに……」
 と、さめざめと泣かれたこともあった。鈴木さんは処理要員の養成ばかりでなく、現地の人たちへの啓蒙活動も大切だと語る。
「現地の人たちは不発弾を掘り起こし、鉄と爆薬を業者に売って生計の足しにしています。500ポンド爆弾の鉄だと、130㌦から150㌦にはなる。爆弾の構造を知らず、信管をハンマーで叩くなど実に乱暴にあつかっています。また家庭で爆弾をランプや家具として使ったりしている。もし爆薬が残っていて衝撃を加えたりすると、爆発することもある。大変危険だから、地雷や爆弾の形をしたものは、我々に提出するように呼びかけました」
 ラオスでは、金属探知機で調査を行ない、小さな金属片も除去した道路で、対戦車地雷による事故が起きている。地雷を踏んだトラクターが前後に千切れて吹き飛ばされ、運転していた乗員は即死。鈴木さんが爆破状況を調査したところ、
「爆心の地中深く焼けてこげたプラスチックのカスがありました。金属探知機に反応しないプラスチック製の容器に、炸薬を詰めた地雷だったのです」
 鈴木さんが赴任したカンボジアとラオスの2カ国だけでも、8000万発以上の不発弾が残るという。平和になったとはいえ、専門知識を持った陸自OBが求められているのだ。
 ラオスでの任務を終えた鈴木さんは昨年10月に帰国したが、
「私は爆発物処理を天職としてやってきました。私で役に立つことがあれば、何でもお手伝いするつもりです。そのために体を鍛えています。毎朝、指立て伏せを30回、でんぐり返しや逆立ちもしているんですよ」
 鈴木さんと一緒に『ハート・ロッカー』を鑑賞した奥さんは、
「これはあなたの仕事ね」
と漏らしたという。そんな話をしてくれた鈴木さんは幸せそうだった。

週刊新潮2010年4月29日号
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中国政府が「青海地震」援助求めずで「隠すもの」

2010-05-14 01:55:17 | 週刊誌から
 中国西部の青海省玉樹県で4月14日、マグニチュード7・1の地震が発生した。件の中井洽防災担当相が国際緊急援助隊の派遣を打診したのだが、中国政府からは意外な返答が。
「今回は、外国の援助は受けない」
 一昨年6月の四川大地震では、国際緊急援助隊が被災地入りし、丁寧な遺体収容作業が現地住民からも喜ばれていたのだ。
 中国政府は言葉の壁と高山病の危険性を“受け入れ拒否”の理由に挙げているが、青海省の標高と言語は、近隣の四川省と変わりない。では、何が。チベット問題に詳しい大学教授が解説する。
「受け入れを拒むのは、やはり隠したいものがあるからでしょう。そのひとつが、中国政府が破壊してきたチベット仏教の寺院ではないでしょうか」
 特に、玉樹県の住民は97%がチベット族。チベット仏教の寺院が密集し、小学生まで反政府デモに参加するという土地柄なのだ。更に、こんな理由も。
「青海省は中国核開発のメッカで、長年核実験が行なわれてきた。一昨年の大地震の時は、省内にある核施設の放射能漏れの有無を調査したとの政府発表があった。だが、今回、核施設の情報は何も明らかにされていません」(防衛省関係者)
 青海省内には核施設だけでなく、大型軍事基地もある。
「一昨年、米国の核兵器専門家が衛星の画像解析で、青海省内にインドの主要都市を射程圏内に収める中距離弾道ミサイルの発射施設58カ所が存在することをつきとめました」(同)
 チベット寺院の破壊に、核施設と大型軍事基地。なるほど、これなら援助隊拒否も頷ける。だが、平野官房長官は4月16日の定例記者会見でこう発表した。
「中国政府から医療分野の支援要請があり、医薬品購入のため、1億円を上限とする無償資金協力を行なうことを決定しました」
 我々の税金は、中国の財布ではない。

週刊新潮2010年4月29日号
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北朝鮮「収容所半島」を忠実に再現!映画『クロッシング』は涙と怒りもて観よ  ジャーナリスト 勝谷誠彦

2010-05-12 23:58:43 | 週刊誌から
 試写が終わった時、私は疲労困憊していた。内容の重さに、ではない。生理的にこれまで味わったことがない状態に置かれたことに身体が反応しているのであった。泣きたいのに、泣けないのだ。涙を分泌する神経をより大きな感情が抑えてしまっているのである。

 その感情とは怒りだ。泣くことを押しとどめるほどの怒りというものが自分の中にあることを、私は半世紀を生きてきて初めて知った。『クロッシング』とはそういう映画である。
 怒りの対象は北朝鮮という独裁国家のシステムそのものと、それを作り上げた金正日とその取り巻きたちだ。いや、それだけではない。にもかかわらずそこで虫けらのように殺されていく人々を看過している国際社会とは何なのだろう。つまりは私の怒りは私自身にも向けられていたのである。
 物語は北朝鮮の北部にある炭鉱町から始まる。坑夫のヨンスはサッカーの代表選手として勲章までもらった人物だ。日本の終戦直後のような貧しい生活。しかし誠実な妻ヨンハと聡明な息子ジュニに恵まれた日々は幸せに過ぎて行く。
 北朝鮮の「普通の人々」の生活ぶりをキム・テギュン監督は活写する。これまでは持ち出された隠し撮り映像でしか私たちはそれを知らなかった。キム監督は多くの脱北者たちからの聞き取りをもとに、はじめてフィクションとしてそれを再現することに成功したのだ。隠し撮りにつきもののおどろおどろしさはそこにはない。あの半島の北側にも、人間として私たちと何らかわらない人々が生きていることを教えてくれる。
 人々はかわらない。違うのは恐るべき独裁体制だ。それが牙を剥いた時に、ヨンス一家の人生は暗転する。妻が病に倒れる。薬を手に入れるためにヨンスは豆満江を越えて中国領内へと入るのである。脱北者を食い物にするブローカー。西側の「善意」の団体の支援も、ヨンスの運命をねじ曲げていく。「善意」もまた国家間の異常な軋轢の間では暴力装置となりうることをキム監督は描く。このリアリティが一切の偽善を映画から排していく。
 物語の筋をこれ以上書くのはルール違反だろう。一家の離散、ジュニの流浪。子供だから妊婦だからといって何の容赦もない恐るべき弾圧と独裁。これらを見て私は北朝鮮の体制変化には「軟着陸」はないと確信した。もし体制が転覆したならば、人々はあらゆるものを武器にして自分たちを弾圧してきた連中を吊るすだろう。金正日はルーマニアで殺されたチャウシェスクになることを恐れているという。彼のその危倶は実に正しいと私は感じた。
 企画から完成まで四年。韓国、中国、モンゴルで八千キロにも及ぶロケを行なって『クロッシング』はあの収容所半島をはじめて正確に描写した。世界中で高い評価を受けながら、しかし昨年予定されていた日本での公開は見送られた。
 「各方面への配慮」があったとされるが、詳細は明らかではない。ところが配給会社だったシネカノンが事実上の倒産、皮肉なことにそのことが、私たちが『クロッシング』を観られる機会を作り出す。配給権を手にしたのは太秦という会社だった。なぜ敢えて火中の栗を拾うようなととをしたのか。同社の小林三四郎社長は私の聞いに対して意外な事実を明らかにした。
「私は柏崎の出身で、蓮池薫君とは、小、中、高と一緒だったんです」
 その親友がある日突然、姿を消す。
「あの不条理と痛みは今でも消えません」
 蓮池さんご本人も今回の公開をとても喜んでくれていると言う。
 悲惨そのものの物語でありながら、映画としてのクオリティはとても高い。北朝鮮の、中国の、モンゴルの自然の美しさの描写は見事だ。キリスト教に勧誘されるヨンハは「イエスは半島の南にいてどうして北にはいないのか」と泣く。しかしながら、大切なモチーフとされている「雨」は平等に降るのである。天然の普遍に対して、神の偏在というあまりに大きなテーマも映画は突きつけてくる。
 投致された同胞を取り戻すのはもちろん、その先に人間として救わねばならない人々があそこにはいる。

週刊文春2010年4月22日号
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大宅賞40周年特別企画 私が見た歴史的瞬間

2010-05-12 02:48:07 | 週刊誌から
<ノンフィクション分野における“芥川賞・直木賞”をめざすもの>とは四十年前に発表された、大宅賞創設の弁である。当時賞金は一千ドル、副賞に世界一周航空券。爾来、六十五編の優れた作品を世に紹介してきた。歴代受賞者が、執筆秘話ヤ受賞の思い出を語る。

渾身の一作を書かせた「絶えざる好奇心」
近現代史に迫る 梯久美子/辺見じゅん/高木徹/伊佐千尋/猪瀬直樹

 去る四月五日、今年の大宅壮一ノンフィクション賞が決定、発表された。第41回となる今回の受賞作は、『日本の路地を旅する』(上原善広)と『逝かない身体―ALS的日常を生きる』(川口有美子)の二作。
 創設四十年を数えた大宅賞は、昭和四十五年、著名なジャーナリスト、ノンフィクション作家であった大宅壮一氏の半世紀にわたるマスコミ活動を記念して制定されたもの。
 自身受賞者でもあり、現在は選考委員を務める柳田邦男氏はこう言う。
「大宅賞が出来た当時、日本にノンフィクションを顕彰する賞はありませんでした。賞を作っても、該当するような良い作品が出るだろうか、候補作が集まらないのではないかと、単行本になっていない雑誌のレポートも候補にしようということになりました」
 第1回の受賞作『極限のなかの人間』(尾川正二)が、凄惨なジャングルの戦場における人間の善と悪を描き出したニューギニア戦記であったように、当初は戦記、空襲体験、原爆体験などが目立った。
「しかしテーマも次第に広がってきました。
 社会がどんどん複雑になっていく中で、そこで起こってくる複雑な社会問題や、人間の生き方を取り上げる作品が多角的に書かれるようになりました」(柳田氏)
 四十年間の受賞作を眺めてみると、「戦争の描き方が大きく変化していることが特徴的」と柳田氏は見る。
「近年、戦争体験のない若い世代の書き手が、あらためて調べたり、当事者に聞いて、戦争について書いた作品が増えています。稲泉連さん(『ぼくもいくさに征くのだけれど』で第36回受賞)、城戸久枝さん(『あの戦争から遠く離れて』で第39回受賞)などがそうですね。若い世代がもう一度戦争を発見し、追体験している」
 柳田氏が歴代受賞作の中でも絶賛する、梯久美子氏の『散るぞ悲しき 硫黄島総指揮官・栗林忠道』(第37回受賞)も、戦争を知らない世代が未知の世界に果敢に切り込んだ作品だった。
 太平洋戦争の激戦地・硫黄島の総指揮官を務めた栗林忠道が生前、戦地から家族にあてて書いた四十一通の手紙を通して人物像を切々と描き出し、その文学性も高く評価された。
 梯氏が語る。
「ライター生活をしていたあるとき、戦史を扱った本の中で、偶然栗林さんの手紙を見つけたんです。硫黄島に着任したばかりに出した、妻への手紙です。そこには、追伸としてこんな一節がありました。
<家の整理は大概つけて来た事と思いますが、お勝手の下から吹き上げる風を防ぐ措置をしてきたかったのが残念です>
 二万の将兵を率いて第一線にいる五十歳を過ぎた指揮官が『お勝手の隙間風』を気にしているなんて(笑)、いったいどういう人なんだろうと惹きつけられました」
 手紙に惹かれた梯氏は、ほどなく栗林中将の子息を訪ねて、大切に保管されていた硫黄島からの手紙を目にすることになった。
「極限状態でどう行動するかにその人の本質が現れると思いますが、栗林さんは、人間はどんな時でも人間らしく生きられるのだということを教えてくれました。
 この人のことをもっと知りたいという思いが、昭和史を調べるエネルギーになり、結果的に新事実の発見につながった。そこまで惚れ込める人に出会えたことは本当に幸運だったと思います」(梯氏)

 第21回に受賞した辺見じゅん氏の『収容所ラーゲリから来た遺書』も、戦争と手紙にまつわる秘話を題材とした感動的な作品だ。
 戦後十二年たってから、抑留中に死亡した主人公の遺書が、家族のもとに届けられた。しかも六通の筆跡はばらばらだった。監視の厳しい強制収容所から、遺書を持ち出した驚くべき方法とは――。
 著者の辺見氏は、
「昭和の遺書を集めていたときに、ふと、山本幡男さんという方が書かれた一通に目が止まりました。書かれた時期が昭和二十九年七月になっていたからです。シベリアの収容所から書いたものを持ち出すのは処罰の対象になりますから、どういうことだろうと思いました。
 早速山本さんの夫人であるモミジさんを訪ねると、他にも遺書があり、しかもすべて書いている人が違う。わけを尋ねると、収容所の仲間たちが、ご主人の遺書を分担して記憶し、解放されてから書き送ってきたことが分かったんです」
 辺見さんは実際に山本さんの遺書を記憶して持ちかえった収容所の仲間たちを訪ね歩いた。
「山本さんが亡くなってから、他の方たちが帰還するまでの二年半ほどの問、なぜあの極寒の収容所生活を生き延びられたのかと聞くと、『遺書を持ち帰らなければいけないという思いが生きる支えになった』とおっしゃっていましたね。
 この作品では、階級や配置については伏せてありますが、重要なことを覚えた人たちは特務機関や憲兵出身の方で、本来であれば嫌われる立場。しかし記憶力がすごいので、山本さんはあえてそういう人をえらんだのでしょう」(辺見氏)
 山本氏が亡くなる場面の書き方で苦しんだ辺見氏は、思案の末、同じがんで亡くなった父の様子をそこに投影したという。
「最初から最後まで、何かに呼ばれているように感じながら書いた、幸運な作品です」(同前)
 二〇〇一年三月、アフガニスタンのバーミアン大仏がタリバン政権によって爆破された事件は、後の9・11テロへの前奏曲だった。この事件を取り上げた壮大なスケールの『大仏破壊』で第36回大宅賞を受賞した高木徹氏の場合も、旺盛な好奇心が幸運なタイミングを捉えたようだ。
「今思えば、二〇〇三年春にアフガニスタンを取材できたということは非常に幸運でした。ソ連撤退から今日に至る、もっとも治安のいい時期だったんです。当時はカブール市内なら警護なしで夜でも普通に動いて取材や撮影ができました。この二十年間でほんの一瞬だけの幸運でした。元内務次官のアブドルサマド・ハクサルなどは、取材後に暗殺されてしまいましたからね。いまではもう、こんな取材はできません」
 沖縄普天間基地の移転問題が連白紙面を賑わせ、裁判員制度が導入されたいま、伊佐千尋氏の『逆転』(第9回受賞)は三十年後の今もタイムリーな作品なのではないだろうか。
 一九六四年、米支配下の沖縄普天間で起きた米兵殺傷事件。沖縄の青年四人が逮捕され、著者の伊佐氏は裁判の陪審員に選ばれた。
「最初は十一人の陪審員がみな有罪説でした。僕も早く評決して帰りたかった。でも、被告四人はやっていないと言っているし、証拠とされた自白調書はどうも任意性に疑いがある。それで僕一人が無罪で、あとは全部有罪というところから、粘ったわけです」
 伊佐氏の孤独な闘いが逆転にいたるまでの息詰まる展開は映画『十二人の怒れる男』を彷彿とさせるが、
「実は観ていないんです。観ると真似したくなりますから(笑)。しかし一票の重みがある陪審員制度だったからこそ、個人が力を発揮することができた。現行のような裁判員制度だったら、こうはいかなかったでしょうね」(伊佐氏)
 旧皇族の土地を次々と取得し、プリンスホテルを建てるコクドの謎を追った猪瀬直樹氏は、執拗な取材の末に西武鉄道グループ総帥・堤義明氏と相対し、「先代の教え」を引き出した。堤氏の父康次郎氏は、東京大空襲の最中にも土地を買い漁っていたといい、猪瀬氏は「免税特権を失った旧皇族らをターゲットにしたそのやり方は、少ない手もち資金で土地をいかにうまく入手するかに尽きる」と喝破したのである。
『ミカドの肖像』で第18回大宅賞を受賞した当時を振り返り、猪瀬氏は、
「『ミカドの肖像』はテーマだけでなく雑誌の連載ページのレイアウトやイラストまで、新しい違和感のあるものにしました。固定観念でやらないこと。これまでにないジャンルを開拓するつもりで絶えざる好奇心をもって、自分もどんどん変化していかなければならないんです」

日本人であることを誇りにできる人々
人物に迫る 佐野眞一/小堀圭一郎/山文彦

 綿密な取材で練り上げられた人物の評伝も、大宅賞を受賞してきた。
 日本列島を隈なく旅し、柳田国男以来最大の業績を上げた民俗学者・宮本常一と、彼のパトロンとして生涯支え続けた財界人・渋沢敬三。対照的な二人の交流を描いた傑作、『旅する巨人』で受賞(第28回)したのは佐野眞一氏。
「宮本常一とお師匠さんの渋沢敬三は、日本人であるということを誇りに思える数少ない人間だと思うんです。その二人の生涯を辿ることによって、高度経済成長後の日本人の精神の劣化を描きたいと思いました。
 ちょうどその頃、大蔵省の官官接待などで日本がどんどん汚れていくという感じがした時代なんです。
 拝金主義がはびこっていて、日本人であることが恥ずかしいという思いを抱いていた。そういう中で、宮本常一を取材して、あんな生き方があったんだなあと、ひじょうに清清しい気持ちになりました」
 佐野氏にとって、宮本常一は民俗学者というより優れたノンフィクション作家であるという。
 晩年、宮本は「記憶」と「記録」の関係をこんなふうに表現しているという。
「記憶されたものだけが記録にとどめられる」
 佐野氏が続ける。
「僕はそれを、『記録』されたものしか『記憶』されないと逆のベクトルで捉えた。それが僕は、ノンフィクションの要諦だと思っているんですね。全国を自分の足で歩いた宮本さんは、圧倒的な作家というか、記録文学者というか、比類ない存在だと思います。
 更にいうと宮本さんは、“小文字”で書いた人なんです。政治とか経済とかいう誰もが使う大文字の言葉じゃなくて、土佐の檮原という辺鄙なところの盲目の元馬喰の話に耳を傾ける。それは小文字の言葉なんです。宮本さんが耳を傾けなければ、その人の生涯は記録されずに消えてしまうんです。宮本さんの功績は極めて大きい」
 ところが現在は、佐野氏が「書くに値する人物」はなかなかいなくなってしまったという。
「政治家も経済人も小物ばかりになって、まったく取材執筆の意欲がわかない、勢い過去の人物を描くことになってしまいますね」
 東大名誉教授の小堀桂一郎氏が大宅賞の受賞者であることは、案外と知られていないかもしれない。氏が受賞したのは第14回、作品は『宰相 鈴木貫太郎』。
「そもそも、鈴木貫太郎という人に対する直感があったんですね。
 遠い縁戚に当たっていて、しょっちゅう会うという間柄ではありませんでしたが、人柄にも惹かれていました。
 昭和天皇に忠誠心をもって、軍や重臣と渡り合いながら、ついに聖断による終戦を成し遂げた。そういう彼を、単に資料の収集・編纂ではなく、読み物という形で論証できたらと思ったんです。
 戦後の原点ともいうべきこの終戦の大業が、いま人々の記憶から失われています。鈴木貫太郎がたいへんな苦心をして、何とか終戦を迎えることが出来た、そのことは忘れないでほしいですね。
 日本は終戦時に無条件降伏をしたのだという説がそれまでずっと信じられていましたが、この本の中で条件付降伏であったということが書けました。そのことには江藤淳さんがとても喜んでくれたのを覚えています」(小堀氏)
 第31回の受賞作は、山文彦氏の『火花 北条民雄の生涯』だった。
 北条はハンセン病に冒され、多磨全生園に隔離されながら小説を執筆。『いのちの初夜』で文學界新人賞を受賞するが、翌年二十三歳の若さで亡くなった。
 山氏が語る。
「『いのちの初夜』を二十歳で読んで以来、いつか北条民雄について書いてみたいと思い続けていました。結局、本を出版できたのは四十一歳のときですから、二十年ほどかかったことになります」
 編集者に「北条民雄を書きたい」と言っても、「なぜいまさら北条なのか、誰も知らないのに」と言われてばかりだったという。
「北条を取り上げることは、当然ハンセン病にも触れなければならないわけですから、面倒なテーマと思われたのでしょう。
 でも僕にしてみれば、誰も知らないから書かないのではなく、書けば北条のことを知ってもらえるという思いが強まりました。
 取材では、相手を待つということが大事でした。北条をじかに知る数少ない一人で、全生園に暮らしていた渡辺立子さんに取材をする場合も、手紙を書いたり人づてにお願いしたりして、半年待たねばなりませんでした。実際に全生園でハンセン病患者の方々に取材させていただいたのは、大変貴重な経験でした」
 それほど時間をかけ待つことを厭わないほど、北条の何が山氏の琴線に触れたのか。
「歴史の表には現われにくい人々の声を書きたいという思いがありました。その声を北条に代表させていけば、大きく言えば近代主義というものが何であったかを書けるんじゃないかと。
 当時ハンセン病患者は差別されていて、その差別を食い破ってでも作家になろうと生きた北条がいる。彼の苛立ち、怒り、絶望は、とても大きな物語を背負っていた。彼ひとりだけの物語ではもうないんですね。
 そこに近代主義が見殺しにしてきた真実があると思うし、僕が北条の物語ととことん格闘して見極めたかったものでもあります」

現代人を翻弄する企業社会のダイナミズム
企業・技術に迫る 柳田邦男/杉山隆男/佐藤正明

 現代社会の高度な技術を本当に人間は制御できるのか、そして技術によって人間は本当に幸せになっているのか――。
 冒頭にも登場していただいた柳田邦男氏は、『マッハの恐怖』で第3回大宅賞を受賞した。
 ――昭和四十一年の春、連続して三機の航空機が重大事故を起こした。
 二月四日、羽田沖に全日空機が墜落(百三十三人死亡)。三月四日、羽田空港でカナダ太平洋航空機が着陸に失敗、炎上(六十四人死亡)。三月五日、BOAC機が空中分解、富士山麓に墜落(百二十四人死亡)。
一カ月で三百人以上の死者が出た。更にこの年十一月、松山沖に全日空機が墜落している(五十人死亡)。
<まるで狂ったような事態の中から、ひとりの記者として何をつかみ出せばよいのか、私の感情は昂ぶり困惑した。そうした中で、私にできたこと、それは氾溢する感情をおさえて、事実の記録に徹することからはじめることであった>
 柳田氏は『マッハの恐怖』の序文にそう書いている。当時NHKの記者であった柳田氏は、寒風吹きすさぶ東京湾上にタグ・ボートで出かけ、濃霧の羽田空港の滑走路を駆け回り、残雪に覆われた富士山に長靴で登った。
 それぞれの現場で散乱する航空機の残骸の凄さに圧倒された柳田氏は、一過性の報道では飽き足らず、その後四年にわたってこの連続航空機事故を追いかけた。
 それぞれの事故調査報告書を読み解き、関係者に取材を重ねた集大成が、『マッハの恐怖』として上梓された。写真や図版も駆使されていて、事故の過程が克明に分かりやすく表現されている。
 柳田氏が振り返る。
「あの連続航空機事故は、まさに当時のエレクトロニクス文明の最先端で起きた事故でした。なぜああした巨大事故が起きてしまうのか、詳細に調べて書いたものはまだなかったのです。
 航空機の事故原因の究明など、専門的で難しい用語が飛び交い、分かりにくいものになると敬遠されていたのでしょう。
 私はそれにチャレンジしようと思いました。現代社会では、何気ない一般庶民の生活であっても、高度な技術や法律行政制度に取り巻かれている、そうしたものと真正面から向き合い、分析しないと、現代の真実は描けないと思ったのです。そういう意味で、『マッハの恐怖』は、日本のノンフィクションが非常に専門性の高い分野に恐れず切り込んでいく先駆けとなったと自負しています」
 昭和四十年代、雑誌記事で日経新聞の幹部の取材中、同社が「活字印刷を捨て、コンピュータで新聞を作る」というプロジェクトを進めていると知った杉山隆男氏は、これを題材に長編ドキュメンタリーを書きたいという思いを感じた。
 第17回大宅賞を受賞することになる、『メディアの興亡』が始動した瞬間だった。
「それまでの新聞社を扱った本や記事は、イコール記者を描いたものが多かったのですが、私は新聞社という組織や企業を全体として捉えたかったのです。
 日経は時代を先取りした経営者のもとで活字を追放し、コンピュータで新聞をつくることでコストダウンし、新商品も開発していこうとしていました。つまり新聞企業への脱皮にいち早く取り組んでいた。
 そういう中で、活版の工場に働く活字工の人たちや、まだ未知数だったコンピュータに賭けた人たちがどうなるのか、興味が湧きまじた」(杉山氏)
 杉山氏は日経のコンピュータ化をタテ軸に据え、従来型の新聞社から踏み出せずに経営を悪化させていく毎日新聞の動きをヨコ軸におく。
「それも経営者など一人の人間に焦点を当てたドラマにするのではなく、会社組織の中でいろいろな人たちがいろいろな考えを持ちながら働き、計画が行き詰まったり思いも及ばないような事態に陥る物事のプロセスを描きたいと思ったのです。
 こうして、日経と毎日、同じ業種で同時代に存在しながら、対照的な“生き方”の違いを際立たせることにしたのです。いわばこの作品の主人公は人間ではなく、新聞界に大変革をもたらした時代そのものと言えるかもしれません」
 一方、企業取材の難しさを語るのは、『ホンダ神話 教祖のなき後で』で第27回受賞を果たした佐藤正明氏である。
<日本は企業社会といわれるほど、人々は何らかの形で“会社”と関わりを持っている。(中略)戦後の廃墟跡から産まれたホンダの発展と苦悩を通じて、日本経済の光と陰を浮かび上がらせたかった>(受賞のことば)
「ホンダは本田宗一郎さんのワンマン会社だと思われていました。実態は天才的な技術者である本田さんと、名経営者である藤沢武夫さんの二人羽織だったからこそ、世界的な企業に育ったんです。二人が出会わなければ、本田さんは町工場のオヤジで終わっていたし、藤沢さんも街の筆耕屋で終わっていたでしょう。
 その二人が創業二十五周年を機に同時に引退した昭和四十八年に、私は記者として初めて自動車業界を担当しました」(佐藤氏)
 二人の創業者なき後、ホンダが官僚主義や人事抗争により迷走していくのを追いかけるとともに、佐藤氏は本田、藤沢両氏ともしばしば接触して取材を重ねていく。取材は徹底して当事者に及び、本書で鮮やかに真相が描き出される“プリンス”入交昭一郎(元副社長)の突然の退任劇は、まさに迫真のドラマである。
「当時のホンダの現役経営者もOBも、皆さん率直に取材に応じてくれました。現在のホンダ社内では、この本が唯一の真実、ホンダの聖書だと薦める人と、焚書にしたいと言う人に分かれています。僕としては、読者それぞれに自由に評価してもらえればいいんです」(同前)

私はあの歴史的な瞬間、そこにいた!
稀有な体験を綴る 星野博美/中村紘子/佐藤優

 一九九七年七月一日、イギリスから中国に、香港の主権が返還された。一八九八年に清朝からイギリスが得た、九十九年間の租借期間が終わったのだ。その日の朝午前六時、星野博美氏は降りしきる雨の中、雨合羽を着て待っていた。
 第32回受賞作『転がる香港に苔は生えない』にはこんな一節がある。
<私は遠足の前の晩のような興奮を覚えていた。返還セレモニーなどどうでもいいが、これから数時間後に自にするであろうもの、これだけは他者が介在した映像ではなく、絶対に自分が立ち会ってじかに経験したい、と前から決めていた。
 中国人民解放軍の香港入城である>
 やがてやってきた部隊の車列に、「支配者であるという自覚」を感じながら、星野氏はいつの間にか手を振り続けている。消防車、軍用トラック、戦車、装甲車。一時間におよぶパレードが終わったとき、星野氏はひどく疲労していた。
<強烈な力で眠りに引き込まれながら、私はどうしようもなく、何かが完全に終わってしまったような気がしていた>
 星野氏が振り返る。
「この本は二作目です。最初の本はわけも分からず書いてしまったんですが、この本のときは地に足がついていたと思います。特異な街で何が起きているか知りたい、それを直に体験したい、それが日本で生きる日本人としての私に何かを教えてくれるはずだと確信を持って香港に行けました」
 選考委員からは「高く評価されるべき」(立花隆氏)「文句なしの傑作」(西木正明氏)という声も出た。
「受賞は驚きました。たぶん選考委員の方も、ごちゃごちゃしているし、ジャンルもあいまいだけど、面白いからいいかという感じだったのでは(笑)」
 一方、「私は大宅賞についてまったく知りませんでした」というのは、ピアニストの中村紘子氏。『チャイコフスキー・コンクール ピアニストが聴く現代』で第20回大宅賞を受賞した。
「当時の中央公論の嶋中鵬二社長のお薦めで、『中央公論』に二年関連載しました。
 私は、一九八二年からチャイコフスキー・コンクールを始めとする国際コンクールに審査員として参加してきました。そこでの経験をもとにピアノを中心とする西洋クラシック音楽が、日本を始めとする世界各国にどのように受容され発展したかを、具体的に考えてみようと思ったのです」
 モスクワで行われるチャイコフスキー・コンクールの場合、一日平均十時間、約一カ月にわたって百名以上の演奏を聴くという。
「当時のソビエトは国威発揚のために来るものは拒まずで、たくさんの参加者がいました。ですから下手な人も大勢いて、ひとり四十分も弾くので、審査員も退屈して、密かにおしゃべりしたり、メモを回したり面白かった」
 ホロヴィッツが「東洋人と女にはピアノは弾けない」と言い放ったなど、著名な演奏家・作曲家の思いがけぬ発言の数々も紹介されて興味は尽きない。
「今思えば、八二年のブレジネフ時代、八六年のゴルバチョフ時代、九〇年のソ連崩壊寸前と、コンクールに行くたびに情勢が激変していて、それらを直に見聞きできたのも幸運でしたね」
 やはりソ連崩壊の過程に居合わせたのは、佐藤優氏。当時の体験を描いた『自壊する帝国』で第38回大宅賞を受賞した。
「『自壊する帝国』は、東京地検に逮捕・起訴された経緯を描いた前著『国家の罠』が世に受け容れられたことで書かざるを得なくなったのです。ではいったいお前はロシアで何をやっていたのかという質問が多く、本という形で説明しようと思ったのです。
 当時のメモは地検に押収されていましたので、九八パーセントは記憶によって書きました。カレンダーだけは見ましたが、新聞記事を見直したりもしなかった。それでも、校正者に誤りを指摘されることはありませんでした。重要な情報は公電などに一度まとめているので、書くことで記憶しているんです」
 本書のキーマンとなるラトビア人学生サーシャなど数多い登場人物、高級レストランでの作法などのディテールを見ると、本書が記憶だけで書かれたということには驚かされる。
 守旧派がゴルバチョフを軟禁した九一年八月のクーデター未遂事件で、錯綜する情報の中から事実を摑もうとする著者の情報活動の緊迫感溢れる展開は、選考委員から「小説のような面白さ」(藤原作弥氏)と評せられたほど。
「受賞の報せが入ったのは、鈴木宗男議員の政治資金パーティで挨拶をし終わったときでした。刑事被告人が受賞するとは思わなかったので、とても嬉しかった。特別な一日になりました」

週刊文春2010年4月22日号
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