超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

新 日本の幸福 ――今日まで、これから 第5話 別離

2014-04-29 22:03:00 | 新聞から
 うっすらと積もった雪の中から、ダイコンの小さな葉が顔をのぞかせていた。今年1月下旬。東京電力福島第1原発から約60キロの自宅敷地にある畑に立ち、山田晴彦(66)はため息をついた。
 「妻と自分の分しか作らねくしたんだ。孫たちはもう食べてくんねえからね」。家族に喜んでもらうために、野菜や果物を育てるのが生きがいだった。原発事故が起きるまでは…。

 山田は約40年前に隣町から兼業農家に婿入りした。約2ヘクタールの田んぼと、小さな畑。ホテルやレストランで料理人をしながら、不規則な勤務の合間に家の農作業を手伝った。
 長女康子と次女弘美が生まれると、一緒に過ごす時間を増やそうと、週末に休める地元の建設会社に転職。土日は畑に立ち、農作業を1人で任された。夏には取れたてのキュウリやトマトを食卓に並べた。「お父さんの野菜が一番だって言ってくれてさ。誇らしかったよ」
 高校卒業後に福島県外に出た康子が、実家に戻ってきたのは6年前。ー人で子どもを産み、晋と名付けた。山田は休日にベビーカーに乗せ、職場や家の周りを散歩した。
 しっかり歩けるようになった晋は、畑の一角にあるブドウのハウスについてきた。「これが花だよ」「この実が大きくなるんだよ」。一つずつ教えると、早く食べたいとせがんだ。
 秋が近づき、実は黒く色づき始める。「もう食べられる?」。口に入れ、顔をしかめる晋。「まだ渋かったんだろうね。ひどい顔をしてたっけな」。今でも思い出すと、ふっと笑ってしまう。
   ☓  ☓  ☓
 畑に専念して、孫のためにおいしい野菜を作る―。建設会社を定年退職し、老後の夢を思い描き始めていたところに、原発事故が起きた。
 山田が住む地域は、放射線の年間積算線量が20ミリシーベルトに達する恐れはないとして避難区域にはならなかった。
 近所の農家が育てた作物は、放射性物質の量が基準値以下だ。「福島の野菜はきちんと測定されている。日本一安全だ」。山田の信念は揺るがない。だが娘たちの考えは違った。
 2013年1月、康子は大雪の中、晋を車に乗せてハンドルを握った。毎朝、保育園に送る時と同じように。「1年ぐらいで、すぐに帰るから」。両親にうそをつき、新潟県ヘ向かった。そこでは、妹が既に避難生活を始めていた。
 山田の自宅居間には、晋が好きだったアンパンマンのぬいぐるみと、保育園で作った折り紙のペンダントがある。食器棚のガラス戸にぺたぺたと貼られたシールもそのままだ。「そりゃあもう、かわいくて仕方なかったよ」。山田はうつむき、話すのをやめた。

 13年1月、山田の長女康子は4歳になった息子の晋を連れ、福島県の実家から新潟県に避難した。「1年ぐらいで帰るから」。止めようとする父にそう言い残したが、数年は帰らないと覚悟を決めていた。
 避難先の2DKのアパート。家具は少なく、壁には晋がクレヨンで描いた絵が一面に貼られている。康子は新潟に来た後、非難前に周囲から浴びせられた言葉をメモ帳に箇条書さにした。
 「しんけいしつ」
 「(福島は)もう大丈夫」
 「「いまさら(引っ越すの?)」
   ☓  ☓  ☓
 11年3月、東京電力福島第1原発事故が起きた。約60キロ離れた実家周辺では、住宅地の除染作業が急ピッチで進んだ。屋根や壁を高圧の放水で洗浄し、雨どいにたまった泥を取り除く。枯れ葉も袋に詰めて運び出された。空間放射線量は下がったが、除染の長期目標とされる年間1ミリシーベルトを上回っている所もあった。
 「まだ高い値なのに、国は住んでも安全だと言うばかり。何を信じていいか分からなかった」と康子が言う。
 事故から8カ月後、新潟に先に避難したのは、2人の幼子を育てる妹の弘美だった。インターネットで放射線や被ぱくのことをいろいろと調べ、自分の母乳を検査に出したら微量の放射性セシウムが検出された。「お姉ちゃんも早く避難しなよ」。頻繁に電話がかかってくるようになった。
 妹はちょっと神経質すぎるんじゃない? 私のように小さな息子を連れたシングルマザーは、どこも雇ってくれないだろうし…。
 康子は気が進まなかったが、徐々に考えが変わっていった。
 事故から1年近くたち、晋を近所の小児糾に連れて行った時のこと。風邪のような症状が続いていると伝えると、医師が尋ねた。
 「食欲はどうですか」
 「ヨーグルトを食べさせました」
 「あー、今はやりのね」
 そのころネット上では、ヨーグルトを食べると放射性物質が体外に排出されるとうわさになっていた。自分はそのつもりで食べさせていたわけではなかゥたが、鼻で笑うような医師の態度が気になった。
 周りの友人も同じような経験をしていた。別の医師に子どもを診てもらった際に「放射能の影響ですか」と尋ねると、「何でも放射能のせいにしないで」と強い口調で言われたらしい。
 実家周辺の放射線量が今すぐ健康に影響のない水準だとしても10年、20年後にはどうか。幼いわが子の将来を心配するのは親として当たり前なのに、医者にも相談できない。思い悩むうち、康子は体がだるくなり、起き上がるのが難しくなった。「ストレスが原因」と診断された。
 「このままでは晋を守れない」。12年暮れ、新潟行きを決意し、父に打ち明けた。「国が大丈夫だと言っているのに、なんで避難しないといげないんだ」。反対されたが、もう迷いはなかった。

 昨年8月、東京電力福島第1原発から約60キロ離れた山田の家に、長女康子と、孫の晋(5)が避難先の新潟県から帰省した。大雪の朝に車で飛び出してから7カ月。久しぶりの「じい」との再会に、晋は大はしゃぎだった。
 「もぎたてだよ。さあ食べて」。到着を待ちわびていた山田が、湯気の立つトウモロコシを差し出した瞬間、康子は顔をこわばらせた。
 「さっきご飯を食べたばかりだから」
 退職したら、自宅の畑で作ったおいしい野菜を孫や娘に食べさせたい―。それが山田のささやかな夢だった。晋がいなくなってからは週2、3回の電話で寂しさを紛らわせた。お盆の帰省を楽しみにしながら手塩にかけたトウモロコシは、例年より大きく実った。
 2日間滞在し、新潟に戻った康子と電話で言い合いになった。
 「何でそんなに敏感になるんだ」
 「基準値以下でも放射性物質が合まれていることはあるの。将来、晋の体にどんな影響が出るか分からないでしょ」
 今年の正月。再び康子と晋が顔をそろえた食卓に、おせちを並べた。もう畑の野菜は出さなかった。
 1月下旬、山田はひっそりとした居間でこたつに入り、硬い口調で話し始めた。「俺たちは食べてもいいけど、子どもは10年、20年後にどんな影響が出るか分からない」。康子に言われた通りの言葉。「だから娘たちが避難するのは仕方ない」。自らに言い聞かせるように何度も繰り返すと、突然、表情が崩れた。
 「孫に何もしてやれねえな。おもちゃを買ってやるくらいかな」。目を潤ませた。「帰ってこいって、喉元まで出かかっているよ」
   ☓  ☓  ☓
 原発事故後、体調を崩した康子は、新潟に避難してからすっかり元気になった。晋を保育園に通わせながら、自治体の臨時職員として働いた。雇用契約は3月末まで。住宅支援制度も来年3月には終わる。
 晋は来春、小学生になる。ハローワークで次の仕事が見つかるかどうか。母1人子1人での生活は先が見えない。
 両親には、避難前に体調を崩していたことや、生活の不安を伝えられずにいる。「1人で育てられないのなら、すぐに戻ってこい」。そう言われるのが怖い。
 原発事故が起きるまでは、何でも相談していた。でも最近は「放射性物質」という言葉を口に出すと言い争いになるので、触れないようにしている。
 康子は、甘える晋をあやしながら、表情を和らげた。「『帰ってこい』と言わない父に感謝している。孫と一緒に住みたいだろうに、我慢してもらっでいるなって」
 また以前のように、みんなで普通の暮らしができたら、どんなにいいだろう。巻き戻せない時間の中で、父と娘は互いに本心を口に出さないことで、”家族”の形を保とうとしている。
(文中仮名、敬称略、共同=松本真由子)
コメント (1)
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