超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

論考2022 磯野 真穂

2022-05-30 06:47:52 | 新聞から
狭められていく正常 資本主義と医学 手結ぶ

 米国留学中の2000年に、私は摂食障害の研究を始めた。摂食障害は当時、大きく二つに分けられており、一つは太ることを恐れ、命を脅かすほどの低体重になることもある「拒食症」。もう一つは標準体重ではあるが、過食と嘔吐などの代償行動を繰り返す「過食症」である。

学者の業績

 程なくして私はあることに気付く。それは、摂食障害の種類がどんどん増えてゆくことだ。まず知ったのは、かつて男性版摂食障害と呼ばれ、今は身体醜形障害の一つに分類される「muscle dysmorphia」。自分の体が十分にたくましくないと感じ、過剰なトレーニングに走る症状である。
 これだけではない。過食はあるが代償行動の伴わない「過食性障害」、夜だけ過食をしてしまう「夜食症候群」など、新しい症状が次々と発見され、名が与えられていく。
 この傾向は今も続く。最新の摂食障害は「オルトレキシア」。これは健康的な食べ物の摂取に執着してしまう症状のことだ。
 大学院生だった私はこれを不思議に感じ、その理由を心理学の教授に聞いてみた。すると、次のような答えが返ってきた。
 「新しい疾患を確立すると、それが学者の業績になるから」
 これには虚をつかれたが、その後の研究者人生で目にするあれこれが、教授の言葉の的確さを裏付けてゆく。
 例えば新疾患の第一人者になると、論文の引用回数が増える。学会の基調講演などに招かれやすくなり、学問の世界での存在感は増す。それらは大学でのより良いポジションに彼らを導く。
 ではこのとき、学問の外では何が起こるのか。新しい疾患は「自分の状態に病名が与えられ、ようやく肩の荷が下りた」といった具合に市井の人々におおむね歓迎される。理解を深めるためのキャンペーンが行われることもある。

不気味さも

 さて、ここまで読んだ皆さんはどう思われただろうか。新疾患の確立は、不幸になる人を誰もつくらない、八方良しの学問的営みであると感じただろうか。
 実は私はこの状況に、むしろ不気味さを覚えている。「あるべき状態」から外れている人たちを発見し、その人たちに病名を与え、治療の枠組みを確立することは、「正常」の範囲を狭めてゆく作業に他ならないからだ。
 そのいい例が近年日本でも急速にその数を増やす注意欠陥多動性障害(ADHD)である。これは人の話を最後まで聞いたり、一つのことに集中できなかったりといった、過度に落ち着きのない状態を指す障害だ。
 米国のジャーナリストであるアラン・シュワルツの「ADHD大国アメリカ つくられた流行病」(黒田章史・市毛裕子訳、誠信書房)によると、米国の子どもたちの15%がADHDと診断され、その大半が投薬を受けている。男児に限ると診断率は20%にまで上昇する。
 シュワルツはこの統計の背後に、製薬会社の多額の投資、子どもを薬物で鎮め、願わくば学力向上を図りたい大人の思惑、不明瞭な診断基準があると指摘する。
 落ち着きがないのが子ども、という考えはもう古い。最新の知見に従えば、それは治療できるのだ。 
 また摂食障害と同様に、ここでも新しい障害が誕生しかけている。その名は「SCT=緩慢な認知」。これはADHDとは「ちょっと違う」障害だ。SCTの子どもたちは、大人が期待するよりゆっくり動く。物思いにふけって目の前の課題に集中できない。米国内で潜在的なSCTの子どもは300万人ほどいると述べる者もいる。

新しい市場

 分類と名付けは、世界に秩序を与える人間の知性である。その知性は、世界はこうあるべきだという価値とともにある。
 「見えない障害」に気付くことが、多様性に配慮した、優しい社会であるという、反対し難い声の裏でうごめく価値は何か。
 それは、新しい市場を発掘し、消費を喚起することが善であるという資本主義のそれである。資本主義と医学は、無縁どころか、互いにしっかり手を結ぶ。
 しかしこのような批判は、「それで助かる人がいる」という反論の前に力を失う。こうして人はどこまでも細分化されてゆくのだ。
(人類学者)

2022年5月28日
コメント
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