超芸術と摩損

さまざまな社会問題について発言していくブログです。

Me Que, Me Que メケ、メケ ― メケメケ ― メケ・メケ

2011-11-12 09:35:50 | 超芸術と摩損
原詩             直訳 ― 丸山明宏訳 ― 薩摩忠訳

Le navire est a quai 船は波止場だ ― 黄昏時 ― 港 港
Y a des tas de paquets そこには大量の積荷がある ― 港町の ― 船が着けば
Des paquets poses sur le quai 積荷は波止場に置かれ ― 酒場の片隅で ― 恋の花が咲く ラ
Dans un petit troquet 小さな居酒屋で ― 安い酒に ― 波止場近い
D'un port martiniquais マルティニークのとある港の(小さな居酒屋で) ― くだ巻いてる ― あの酒場に
Une fille belle a croquer 可愛い娘は覆い隠している ― くろんぼの ― 可愛い娘が
Pleure dans les bras 腕の中で涙を(覆い隠している) ― 色男 ― いるよ ラ
D'un garcon de couleur 褐色の若者の(腕の中で) ― 「別れの杯だよ、 ― なぜかしら 泣いているよ
Car il s'en va, 彼が立ち去るから、 ― 泪を ― 別れが
il lui brise son coeur 彼女を傷心させる(から) ― ふいておくれ」 ― かなしいのか
Elle, dans un hoquet, lui tendant son ticket 彼女は、泣きじゃくりながら、彼に切符を差し出し ― 「可愛い”チチ” ワカッテルダロ ― すすり泣いて 娘は云う
Lui dit: "Cheri, que tu vas me manquer!" 彼に言う「愛する人、私にどれだけ寂しい思いをさせるの!」 ― 俺は海の男だ」 ― ねエ 忘れちゃいやだよ
Me que, me que, mais qu'est-ce que c'est? メケ、メケ、でもそれが何? ― メケメケ これっきり ― メケメケ・メ・ケスクセ
Une histoire de tous les jours 毎日起きてること ― 会えないかも知れぬ ― 別れの話さ
Me que, me que, mais qu'est-ce que c'est? メケ、メケ、でもそれが何? ― メケメケ お前も ― メケメケ・メ・ケスクセ
Peut-etre la fin d'un amour きっと愛の終わり ― 達者で暮らしな ― 濡れ場の話さ

La sirene brusqua サイレンがせかした ― 太い腕に ― 汽笛が鳴る
Leurs adieux delicats 二人の心苦しい別れを ― 抱かれたまま ― 船はゆれる
Mais soudain tout se compliqua しかし突然何もかも厄介なことになった ― 泣きじゃくる色女 ― 別れが近ずく あゝ
La petite masqua 小娘は隠した ― ブロンドの髪 ― ふたりはもう
Un instant ses tracas 一瞬だけ不安な気持ちを ― 青い瞳 ― 泣くのをやめ
Pourtant son courage manqua それでも気丈さが足りなかった ― イヤイヤをしながら ― かたく抱きあう ラ
Elle dit: "J'ai peur, il ne faut pas partir 彼女は言った。「怖いの、離れてはいけない ― 「ネェ アンタ アタシひとり ― 娘は云う 離れちゃいや
Vois-tu, mon coueur, sans toi je vais mourir!" 分かる? 我が心の人、あなたがいないと私は死ぬ!」 ― 置いてきぼりは嫌だ」 ― 別れが かなしいのよ
Le garcon expliqua qu'il fallait en tous cas 若者はどうしても仕方ないからと説得した ― 「可愛い”トト” 行かないでヨ ― そこで男 涙ながし
Qu'il parte et c'est pourquoi il embarqua 立ち去るからと、だから船に乗った ― アタイは死んじゃうわよ」 ― サヨナラ 船が出るよ
Me que, me que, mais qu'est-ce que c'est? メケ、メケ、でもそれが何? ― メケメケ これはまあ ― メケメケ・メ・ケスクセ
Une histoire de tous les jours 毎日起きてること ― お気の毒なこったよ ― 別れの話さ
Me que, me que, mais qu'est-ce que c'est? メケ、メケ、でもそれが何? ― メケメケ つれない ― メケメケ・メ・ケスクセ
Peut-etre la fin d'un amour きっと愛の終わり ― 男もいたもの ― 濡れ場の話さ

Les paquets embarques 積荷が積まれ ― 時は過ぎて ― 荷物積んで
Le bateau remorque 船が曳航され ― 汽笛が鳴り ― 船は岸を
Lentement a quitte le quai ゆっくり波止場を離れた ― 来る時が来ました ― 静かに離れる ラ
Ne soyez pas choques びっくりしないで ― 男は立ち ― ぼくのこころ
N'allez pas vous moquer 小馬鹿にしないで ― 女はすがる ― 信じておくれ
De ce que je vais expliquer 今から言う話を ― 引きずられながらも ― 胸のせつなさを ラ
Regardant au port son bel amour a terre, 港から陸の恋人を見て、 ― 思い出の石畳に ― 泣いている 娘をみて
Pris de remords, il plongea dans la mer 悔恨にとらわれ、彼は海に飛び込んだ ― 投げ出される女よ ― 思わず 海ヘザンブ
Devant ce coup risque par l'amour provoque 呼び覚まされた愛による大胆な行為を前に ― 船をめざし 走る男 ― 恋ごころに 狂った男
Les requins ont reste interloques サメも呆然としている ― 叫ぶ女を捨てて ― 魚も 呆れはてる
Me que, me que, mais qu'est-ce que c'est? メケ、メケ、でもそれが何? ― メケメケ 馬鹿野郎 ― メケメケ・メ・ケスクセ
Une histoire de tous les jours 毎日起きてること ― 情なしのけちんぼ ― 濡れ場の話さ
Me que, me que, mais qu'est-ce que c'est? メケ、メケ、でもそれが何? ― メケメケ 手切れの ― メケメケ・メ・ケスクセ
C'est l'aurore d'un nouveau jour それは新しい日の夜明け ― お金もくれない ― 濡れた身体で
Qui est fait pour durer toujours そしていつまでも続くようにできている ― あきらめて帰ろう ― 二人は 抱きあう
Car l'amour vient pour retrouver l'amour... 愛がやってくるのは愛に再び出会うためなのだから… ― やがて月も出る港 ― あとは云えないね
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ショスタコーヴィチ 交響曲第13番 作品113 <バービイ・ヤール>

2010-01-30 01:32:13 | 超芸術と摩損
エヴゲーニイ・エフトゥシェンコの詩によるバス独唱、男声合唱と管弦楽のための作品


第1楽章 バービイ・ヤール

バービイ・ヤールに記念碑はない。
ごつごつした墓銘碑のような断崖。
怖い。
今日の私の年齢は、
ユダヤの歴史と同じ長さだ。
いま自分はユダヤ人だと感じる。(検閲後:この水源の地に立つと)
太古のエジプトをとぼとぼ歩いている。(検閲後:人類愛への信頼が湧く。)
十字架に架けられ非業の死を遂げ、(検閲後:ロシヤ人もウクライナ人も)
今日まで体には釘の跡が。(検閲後:ユダヤ人と同じこの地に伏す。)
自分はドレフュスだと感じる。
小市民に密告され裁判にかけられ、
鉄格子の中に閉じ込められた。
捕縛されて、唾を吐かれて、罵られて。
そしてブリュッセルレースを身にまとった
金切り声の奥様方に傘で顔をつつかれる。
自分はベロストークの子供だと感じる。
血が流れ床に広がる。
安酒場の常連が荒れ狂う。
ウォッカとタマネギの匂いが入り交じる。
長靴で蹴倒され、動けない私の
やめての声にもユダヤ掃討団員らは耳を貸さない。
「ユダヤを潰せ、ロシヤを守れ」とわめく声に合わせ
麦商人が母を打ちすえる。
ロシヤの民は本当は、
人の出自にこだわらないのだ。
しかし手の薄汚れた者たちがたびたび、
この上なく清らかなロシヤという名を口にした。
ロシヤの大地は暖かいのだ。
なのに卑劣にも、何の臆面もなく
反ユダヤ主義者たちは自らを
「ロシヤ民族同盟」と名乗った。
自分は四月の小枝のように透き通った
アンネ・フランクだと感じる。
私だって恋をする。言葉なんかいらない。
必要なのはただ、ふたり見つめあうこと。
見ていいもの、においを感じとれるものはごくわずか。
木々の緑もいけない、空もだめ。
でもとってもたくさんのことができる。
二人っきりで、やさしく、
暗い部屋で抱き合える。
あの人たち、こっちに向かって来るの?
大丈夫。
あれは春がやってくる音。
春はもうそこだね。
ねえ来て。
キスして早く。
あの人たちが戸を壊してるんじゃ?
いや、流氷だよ。
バービイ・ヤールで野草がざわめく。
木々は裁判官の目で威圧する。
ここではあらゆるものが声なく叫ぶ。
私は帽子を取り、
髪が徐々に白くなっていくのを感じる。
この私自身が、埋められた何百万人もの上で、(検閲後:私は勇敢な死によって)
途切れることのない声なき叫びのようだ。(検閲後:ファシズムを防いだロシヤを思う。)
ここで銃殺されたお年寄り一人一人が私。(検閲後:ロシヤの姿と命運は)
ここで銃殺された子供たち一人一人が私。(検閲後:最後のひとすじまで私の側にある。)
私の中のあらゆる部分がそのことを忘れない。
地上から最後の反ユダヤ主義者が
永遠に葬り去られるとき、
「インターナショナル」よ鳴り響けよ。
私にユダヤの血は流れていないが
全ての反ユダヤ主義者はむき出しの敵意で
私をユダヤ人であるかのように忌み嫌う。
だからこそ私は、真のロシヤ人だ。



第2楽章 おふざけ

皇帝陛下も王様も、
世界中の君主たちが、
観閲式を号令したが、
おふざけへの号令は無理だった。
毎日のんびり寝て過ごす、
有名人士の宮殿に、
浮浪者イソップが現れて、
有名人士は乞食に見えた。
偽善者たちが貧相な足で
汚れをつけたお屋敷で、
ナスレッディン・ホジャが冗談いうと
俗物どもは将棋倒しになった。
買収しようとしたものの
おふざけだけは買収できない。
おふざけを始末しようにも、
あっかんべえで返してきた。
こいつを潰すのは大仕事。
何度も何度も処刑した。
切断されたその首を
近衛兵は槍で突き出した。
でもドサ回りの篠笛が
物語を始めるとすぐ
「こっちだよ」
よく通る叫び声。
おふざけは出し抜けに踊りだす。
ちんちくりんのすってんてんのコート着て、
申し訳なげにうなだれて、
囚人おふざけは政治犯として
処刑場へ歩いていく。
どこから見てもしゅんとして、
あの世行きの覚悟はできた。
と、ふっとコートから抜け出して、
片手を振って
鬼さんこちら。
おふざけを獄に閉じ込めたが、
どうしてうまくいくものか。
鉄格子も石壁も
まっすぐ通り抜けていく。
風邪を引いて咳をして、
のんきな戯れ歌がなりつつ、
ライフルもって冬宮殿へと練り歩く。
陰気な目つきにはとうに慣れた。
そんなの屁とも思わない。
おふざけはおふざけ自身にさえ
たまにおふざけの目を向ける。
おふざけは永久に不滅です。
知能指数1300。
つかみどころのないウナギ。
すくいようのないザル。
ああ栄冠はおふざけに輝く。
たいしたたまげた野郎だぜ。



第3楽章 店

ショールをかけ、スカーフを巻き、
作業へ仕事へ向かうように、
店へ向かって一人ずつ
黙々と女たちは歩いていく。
ブリキ缶がカンカン鳴る音、
瓶や鍋がたてる音。
タマネギとキュウリ漬けのにおいがする、
トマトソースのにおいがする。
私も立ちっぱなしで体が冷えるが、
ちょっとずつ前へ動くあいだに、
たくさんの女の人いきれで
店はどんどん暖まっていく。
女は静かに待っている。
家庭を守る良き女神。
自分で稼いだその金を
手の中に握りしめている。
それがロシヤの女たち。
我らの誇り、我らの裁き。
女たちはセメントを練り、
畑を耕し刈り入れもした。
あらゆることに耐えてきて、
あらゆることに耐えていく。
どんな世事でも女はこなす。
たいへんな力を授かっている。
そんな女たちに恥知らずな勘定のごまかし。
そんな女たちにあくどい秤のいんちき。
私は冷凍パックのロシヤ餃子をポケットに差し、
買い物袋でくたびれた
女たちの誠実な手を
険しい顔でだまって見つめる。



第4楽章 怖さ

ロシヤでは怖さが消えつつある、
遠い昔の幻のように。
教会の入り口でだけ婆さんみたく、
そこここへまだパンをねだるが。
誇らしげな嘘の御屋敷で
怖さは権力に擦り寄ろうとしていた。
怖さは至るところ影のように滑り込み、
あらゆる階段に忍び込んだ。
ひそかに人々を飼い馴らし
あらゆる物に印をつけた。
黙るところで叫ぶのを
叫ぶところで黙るのを
当たり前にしていった。
それも今は昔の話。
今思い出すと異常なほど
誰かの密告をひそかに怖がり
ドアのノックをひそかに怖がった。
ふん、じゃ外国人と話す怖さは。
そんなの何でもない。では妻と話すときは。
では行進のあとの沈黙と向き合う、
例えようのない怖さは。
吹雪の中の強制労働も、
戦争で弾をよけるのも怖くなかった。
でも自分ひとりとお喋りするのが、
時々ものすごく怖かった。
私たちは突き飛ばされも犯されもしなかった。
だからいま敵へ向けて
怖さに打ち勝ったロシヤは
より大きな怖さを作り出す。
新たな怖さがはっきり見える、
心と裏腹に国に協力する怖さ、
全くの真実である理想を、
欺瞞でけがす怖さ、
頭がかすむほど大宣伝する怖さ、
人の言葉を真似する怖さ、
人を疑惑でおとしめ
自己を盲信する怖さ。
ロシヤでは怖さが消えつつある。
時々知らず知らず書き飛ばしながら
この数行を書いているとき、
全力で書いていないという、
その怖さだけを感じつつ書く。



第5楽章 名

聖職者は繰り返した、ガリレオは
危険な愚か者だ。
しかし時は証明する、
愚か者こそが偉いのだ。
ガリレオの仲間の学者は、
ガリレオよりは小才が利いた。
地球が回るのも知っていた。
しかし彼には家族があった。
学者は自分に嘘をつき、
妻と馬車に乗り込んで、
これで名を挙げたと思い込んだ。
実際は名を下げたのだ。
地球は回ると知ったため、
ガリレオは敢えて窮地に立った。
そしてガリレオは大物になった。
こういう者こそ名を挙げるのだ。
こんな名なら大歓迎だ。
名を挙げるとは例えば、
シェイクスピア、パスツール、
ニュートン、トルストイ、
レフ・トルストイ?
そうだよ。
なら皆どうして泥を塗られた。
いくらけなされても才能は才能さ。
なじった者は忘れられ、
なじられた者は記憶に残る。
大気圏を越えようとした人、
コレラで死んだ医者、
みんな名を挙げたのだ。
こういう人を私は見習う。
揺るぎない信念を私も信じる。
この信念が勇気をくれる。
名を挙げようとしなければ、
それだけ私は名を挙げる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

律法学生イェントル 1/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:53:23 | 超芸術と摩損
 父が死ぬともうヤネフに残る理由はなくなった。家にいるのはイェントルひとりだけだ。下宿を求める者ももちろんいたし、ルブリンからトマシェフからザモシチから、結婚世話人もわんさか押しよせた。でもイェントルには結婚する気はなかった。心の中でいやだいやだと何度もつぶやいた。式を挙げたら女はどうなる。すぐに出産、子育て、出産、子育て。姑にもかしずかされる。イェントルに女の暮らしは向いてなかった。針仕事もだめ、編みものもだめ。料理はこがす、ミルクはふきこぼす。安息日のデザートは失敗だらけ、パン種はふくらまない。男のすることのほうがよっぽど性に合っていた。心よりお悔やみ申し上げるイェントルの父トドロス氏は、何年も病床に就いたまま、娘を息子がわりに律法を学び、学ばせた。戸に鍵を掛けさせ窓はカーテンを引かせ、一緒にモーセ五書を、ミシュナーを、ゲマーラーを、注解を読んだ。イェントルはとても優秀な生徒だった。父はよく言った。
「イェントルは男の心を持った子だ」
「じゃあどうして女に生まれたの」
「神様も間違うことはある」
 間違いなくイェントルは、ヤネフのどの娘とも違っていた。背が高くやせぎすで、胸もおしりも小さかった。安息日の午後、父が寝入ると、イェントルは父のズボンをはき、房つきの服を着、シルクのコートを羽織り、室内帽をかぶり、ビロードのつば広帽を頭に載せ、姿見に映してみた。上唇にはうっすらうぶ毛まで生えていた。唯一女らしいのは三つ編みの髪だけだ。三つ編みぐらいいつだって切ればいい。イェントルにはあるたくらみがあった。昼となく夜となくそのことばかり考えた。麺打ち板、デザート皿、馬鹿女とおしゃべり、肉屋の切り台の前でおしあいへしあい、イェントルはそんなことのために生まれてきたんじゃない。父はたくさんの話をしてくれた。律法学院のこと、律法学者のこと、偉大な先人たちのこと。イェントルの頭の中はタルムードの議論と質疑と箴言でいっぱいだった。ひそかに父の長いパイプをふかしたこともあった。
 イェントルは差配人のところに行き、カリシュでおばと暮らすから家を売りたいと言った。近所のおばさん連中はやめなさいそんなことと言った。結婚世話人はばかな、ここにいたほうがいいお相手が見つかるのにと言った。でもイェントルは聞かなかった。ことを急ぐあまり一番最初に来た買い付け人に家を売り、家財道具はただ同然で売り払った。遺産を売って手にしたお金はたったの百四十ルーブルだった。そして真夏、ユダヤ暦の月名でいうとアブのある夜遅く、ヤネフの住人みんなが寝静まったころ、イェントルは三つ編みの髪を切り、もみあげを作って、父の服をまとった。わら細工のかばんに下着と聖句箱と少しの本を詰め、徒歩でルブリンへ向かった。
 大通りで馬車を拾いザモシチまで乗った。ザモシチからはまた歩いた。途中で宿に泊まり、死んだおじの名を借りてアンシェルと記帳した。宿は名の通った律法学者のもとで学ぼうと旅立った若者でいっぱいだった。みんなどの学院がいいか意見を言いあっていた。リトアニアの学院がいいと言う者、勉強も食事もポーランドのほうが上と言う者。考えてみたら、イェントルがたった一人で若い男に囲まれたのはこれが生まれて初めてだった。女のおしゃべりとはぜんぜん違うとイェントルは思った。でも気おくれして話の輪に入ることはできなかった。ある若者は理想の結婚相手と持参金の希望額をまくしたてた。別の若者は籤の祭のときの律法学者のまねをして律法の一節を読み上げたあと、ありとあらゆるひわいな解釈をしてみせた。しばらくすると若者たちは力くらべをはじめた。相手の握りこぶしをこじ開ける者、腕ずもうに興じる者。ある学生はパンと紅茶を食しながら、スプーンのかわりに小刀で紅茶をかきまぜた。
 やがてその中の一人がイェントルに近づいて肩をついた。「なんで黙ってるんだ。口がきけないのか」
「べつに話すことはない」
「名前は」
「アンシェル」
「こいつ照れてるぜ。顔が真っ赤だ」
 若者はイェントルの鼻をつまんだ。イェントルは平手打ちしようとしたが、腕が動かなかった。血の気が引いた。まわりの者より少し年長の学生が止めに入ってきた。背が高く肌の色のうすい、目がらんらんとした黒ひげの男だ。
「おい、なんでいじめるんだ」
「関係ないやつはあっちに行ってろよ」
「そのもみあげを引っこ抜いてやろうか」
 黒ひげの男はイェントルを呼び寄せると、どこから来た、どこへ行く、と聞いてきた。イェントルは、律法学院を探してる、静かなところがいい、と言った。男は自分のひげを引っ張ると
「なら一緒にベヘフに行くか」
 男はこれからベヘフに戻り四年目の勉強を再開するところだった。ベヘフの学院は小さく、三十人しかいない学生全員に街の人たちがごちそうを用意してくれる。食事は腹いっぱい食べられ、おかみさんが靴下をかがってくれ洗濯もしてくれる。学院長でもあるベヘフの律法学者はとてつもなく優秀で、十の問いを提示し、たった一つの証明だけで十の問いすべてに解を出す。学生のほとんどはこの街で妻をめとることになるのだと言う。
「どうして学期の途中で抜け出したの」
「母が死んだ。いまはその帰りだ」
「名前は」
「アヴィグドル」
「どうして結婚してないの」
若者はひげを掻いた。「長い話があってな」
「聞きたいな」
アヴィグドルは両目をおおってしばらく考えていた。「ベヘフに来るのか」
「行く」
「ならじきにわかるだろうけどな。僕はアルテル・ヴィシュコヴェルというベヘフで一番のお金持ちの、一人娘と婚約してたんだ。結婚の日取りまで決まってたのに、急に婚約証書をつきかえしてきた」
「何があったんだ」
「わからない。さぞかし噂にはなっただろうけどな。持参金を半分受け取る権利もあったけど、それは僕の性分が許さない。別の結婚話もすすめられたんだけどその人じゃ気が進まなくてな」
「ベヘフでは律法学生が女の人をながめる機会もあるのか」
「僕が週一回ごちそうになってたアルテルさんのうちでは、いつも娘のハダスが食事を運んできてな…」
「美人か」
「金髪だ」
「黒髪でも美人はいるだろう」
「いない」
 イェントルはアヴィグドルをじっと見つめた。アヴィグドルはやせて骨ばって頬がこけていた。もみあげは縮れ毛で色は黒を通りこして青みがかって見えた。まゆ毛は鼻の上でつながっていた。イェントルを見る鋭い目には、秘密を打ち明けてすぐの気恥ずかしさが浮かんでいた。服喪の習慣にしたがって、えりの折り返しが引きはがしてあり、上着の裏地まで見てとれた。アヴィグドルは落ち着きなく卓をたたき鼻歌を歌った。深いしわを寄せたひたいの奥で、思いがうずまいているようだった。ふいに口を開いた。
「それがどうした。世捨て人になるだけのことさ」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

律法学生イェントル 2/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:52:44 | 超芸術と摩損
 イェントル、いやアンシェルがベヘフに着いてすぐ、週に一度のまかないを割り当てられたのは、偶然にもあのお金持ち、アヴィグドルが娘から婚約を破棄されたというアルテル・ヴィシュコヴェルの家だった。
 学院では学生は二人一組で勉強する。アヴィグドルはアンシェルを相手に選び、アンシェルの勉強を手助けしてくれた。アヴィグドルは泳ぎも達者で、アンシェルに平泳ぎと立ち泳ぎを教えてやると言ったが、アンシェルはいつも口実をみつけて川に降りようとはしなかった。アヴィグドルは同じ下宿に住もうと言ってくれたが、アンシェルは目のよく見えない老寡婦の家に寝泊りする部屋を見つけた。毎週火曜日、アンシェルはアルテル・ヴィシュコヴェルの家で食事をごちそうになった。給仕はハダスだった。いつもアヴィグドルから質問攻めにされた。「ハダスの様子は。つらそうか。楽しそうか。嫁に行く話はあるか。僕のこと何か言ってくるか」。アンシェルはいちいち報告した。ハダスが卓布の上に料理をひっくり返したこと。塩を持ってくるのを忘れたこと。指を突っ込んだままかゆ皿を持ってきたこと。下女をこき使っていること。小説の本にずっと夢中なこと。毎週髪型を変えること。それに自分では美人と思っているらしく、しょっちゅう鏡の前に立っているけど実はそれほどでもないこと。
「あれじゃ結婚して二年もすればばばあだな」
「興味ないか」
「あんまりな」
「でも迫ってきたら断れないだろう」
「大丈夫だよ」
「欲にかられることはないのか」
 二人は学校の隅で一台の書見台にそれぞれ本を乗せたまま、勉強よりおしゃべりに時を忘れた。ときどきアヴィグドルがタバコを吸うと、アンシェルはアヴィグドルの唇からタバコを奪い一服ふかした。アヴィグドルはソバ粉のパンケーキが好きだったので、アンシェルは毎朝パン屋に買いに行き、代金は一度も払わせなかった。アンシェルの行動にアヴィグドルが驚かされることもたびたびだった。アヴィグドルのコートのボタンがはずれると、翌日アンシェルは針と糸を持って学院にやって来てボタンをつけなおしてくれた。アンシェルはシルクのハンカチ、靴下、マフラーなど、それこそいろいろなプレゼントを贈ってくれた。アヴィグドルは五歳年下の、いっこうにひげの生える気配のないこの男にますます惹かれていった。
 あるときアヴィグドルがアンシェルに言った。「ハダスと結婚してほしい」
「そんなことして何になるんだ」
「ぜんぜん知らないやつよりはましだ」
「恋敵になるぞ」
「ならないよ」
 アヴィグドルは街を散歩するのが好きで、アンシェルもよくついて行った。一心におしゃべりしながら、水車小屋まで、松林まで、キリスト聖堂のある十字路まで歩いた。ときどき草地で寝ころがった。
「どうして女は男みたいにならないんだろうな」
「どういうことだ」
「どうしてハダスはアンシェルみたいにならないのかな」
「なんで僕だ」
「おまえはいいやつだよ」
 アンシェルはいたずら好きになっていた。花を引っこ抜いて花びらを一枚一枚引きちぎった。クルミを拾ってアヴィグドルに投げつけた。アヴィグドルは手のひらにはうテントウムシを見ていた。
 しばらくして、アヴィグドルが言った。「結婚させられそうなんだ」
 アンシェルは半身を起こした。「誰と」
「フェイトルの娘のペシェ」
「後家の」
「そう」
「なんで後家なんかと」
「ほかにいないからな」
「そんなことないよ。きっといい相手が現れるよ」
「現れないよ」
 アンシェルはそれはだめだろうとアヴィグドルに言った。ペシェは器量も頭も悪い、ただの豚女だ。しかもだんなが一年で死んだ運気の悪い女だ。こんなのと一緒になったら誰でも早死にする。しかしアヴィグドルは黙っていた。タバコに火をつけ、深く吸い込むと、煙で輪を作った。顔色が悪かった。
「女がいないと困る。夜も眠れない」
 アンシェルは驚いた。「なんで理想の女が出てくるまで待てない」
「ハダスが運命の人だった」
 アヴィグドルの目が潤んだ。アヴィグドルは急に立ち上がった。「もう帰るぞ」
 それからは何もかもあっという間だった。アンシェルに悩みを打ち明けた二日後にはもうペシェと婚約し、学院にはちみつケーキとブランデーを持ってきた。式の日取りも近い日に決まった。未亡人が新婦だと嫁入り道具の支度もいらない。すべて準備済みだ。それに新郎に親はなく許しを得る必要もない。学院の生徒たちはブランデーを飲み結婚を祝った。アンシェルも一口飲んだがすぐにせきこんだ。
「うわ、のどが焼ける」
「それでも男かよ」。アヴィグドルは笑った。
 祝杯がすむと、アヴィグドルとアンシェルはゲマーラーを開いて座ったが、勉強ははかどらず、会話もはずまない。アヴィグドルは体を前に後ろに揺らし、ひげを引っ張り、聞き取れない声でぶつぶつ言っている。
「最悪だ」。だしぬけに言った。
「好きでもないのになんで結婚するんだよ」
「あれならヤギのほうがましだった」
 次の日アヴィグドルは学校に来なかった。革商人のフェイトルは敬虔派で、娘の夫にも敬虔派の会堂で勉強を続けることを望んだ。律法学院の生徒はひそかにうわさした。後家は見るからに小太りで樽みたいな女だ。しかも母親は牛乳屋の娘で、父親は無学同然で、家族みんなが金にきたない連中だ。フェイトルはなめし革工場の共同経営者で、ペシェは持参金を使って、ニシンと炭と鍋と釜を売る店を買った。店はいつも小作人でごったがえしている。父と娘はアヴィグドルに礼服を用意してやり、毛皮のコートと布のコートとシルクのフードつきコートとブーツを二足注文した。そのほかにもアヴィグドルはすぐに贈答品を山のように受け取った。タルムードのヴィルナ修訂版、金の時計、宮清めの祭の燭台、香辛料箱。でもどれももとはペシェの最初の夫のものだ。アンシェルは書見台の前で一人ぼっちだった。
 火曜日、アンシェルが晩餐をいただきにアルテル・ヴィシュコヴェルの家に行くと、ハダスが言った。「相棒のことどう思う。ぜいたく三昧よね」
「そっちこそどう思ってたんだ。誰とも結婚しないとでも思ってたのか」
 ハダスは顔を赤くした。「私のせいじゃないわ。父が反対したから」
「どうして」
「むかしあの人のお兄さんが首をつったのよ。それを知って」
 アンシェルはハダスの立ち姿を見つめた。背が高く、金髪色白で、首が長く、ほおがくぼんで、目が青く、綿の服の上に更紗のエプロンをつけている。ふた房にまとめた髪を両肩のうしろに掛けている。自分が男だったら、アンシェルは思った。
「いまも後悔してるの?」
「そりゃあ」
 ハダスはいたたまれなくなって出て行った。食事のつづきの肉団子と紅茶は下女が持ってきた。食事が終わり食後の祈りのために手を洗っているとハダスが戻ってきた。
 食卓まできて押し殺した声で言った。「絶対にあの人には何も言わないでね。私の気持ち、知らないほうがいいから」
 ハダスはすぐにまた部屋を出て行った。出ていくとき、敷居に足をかけてつまづきそうになった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

律法学生イェントル 3/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:51:49 | 超芸術と摩損
 学院長はアンシェルに新しい勉強相手を見つけるようにと言ったが、何週間たってもアンシェルは一人きりだった。学院にアヴィグドルのかわりになる者はいなかった。みな体も心も幼かった。話は中身がなく、つまらないことを自慢し、笑いかたは馬鹿同然で、やることはけちくさい。アヴィグドルがいない学校はぽっかり穴が開いたようだった。夜、下宿の寝椅子に横になっても眠れなかった。上着とズボンを脱ぐと、そこにいるのはいつ結婚してもいい齢の女、別の女と婚約した男を好きになった女、イェントルだった。本当のことを言えばよかったかも、とアンシェルは思った。でももう遅すぎる。アンシェルは女には戻れない、本と学校なしの生活なんてもうできない。寝転がったままおかしなことばかり考えて、気が変になりそうだった。うつらうつらしたかと思うと、ぎょっとして目が覚めた。夢の中では、男でありながら女であり、婦人用の胴着と紳士用の房つきの服を着ていた。月のものが遅れていた。急に怖くなった…ひょっとして。昔読んだメドラーシュ・タルピオトに、男を思っただけで身ごもってしてしまった女の話があった。イェントルは、異性の服を着てはならないという律法の禁令の意味がいまやっと分かった。それは人の目だけでなく自分自身をもあざむくことだ。魂さえもが混乱し、まちがった体に受肉してしまったのだ。
 夜は横になっても寝付かれず、昼はまぶたが重かった。食事をいただきに行っても、何一つ食べてくれないと嘆かれた。教師の目にもアンシェルは、講義に身が入らず、窓の外ばかり眺めて物思いにふけっていた。火曜日になると、アンシェルはヴィシュコワー家の晩餐にあらわれた。ハダスがスープ皿を置いて給仕しても、別のことに気をとられ礼さえ言わない。手を伸ばしたスプーンも落としてしまった。
 ハダスが見かねて声をかけた。「アヴィグドルに捨てられたんですって」
 アンシェルははっと我に返った。「どういう意味だ」
「もう相棒じゃないんでしょ」
「学院を去ったからね」
「会うことはあるの」
「しばらく姿を消したみたいだな」
「結婚式には行くんでしょ」
 アンシェルは、言葉の意味がよく分からなかったかのように黙った。しばらくして言った。「あいつは大馬鹿だよ」
「なんでそんなこと言うの」
「こんな美人がいるのに、なんであんなサルみたいなのと」
 ハダスは髪の生えぎわまで赤くなった。「全部父が悪いのよ」
「大丈夫。きっといい相手が見つかるよ」
「結婚したい人なんていないから」
「でもみんなが君のこと…」
 沈黙が続いた。いつもより大きく見えるハダスの目は、何も慰めにはならない悲しみとやるせなさをたたえていた。
「スープが冷めるわよ」
「僕も、君のこと…」
 アンシェルは自分の言葉に驚いた。立ったままハダスは、うしろに顔を向けて自分を見つめるアンシェルを、まじまじと見かえした。
「何を言ってるの」
「本当だよ」
「誰かに聞かれたら」
「それでもかまわない」
「スープ飲んでて。すぐ肉団子持ってくるから」
 ハダスは背を向けると部屋を出た。ハイヒールの靴音が高く響いた。アンシェルはスープをかきまぜ、底にしずんでいる豆をひとつすくっては、またスープの中に落とした。まったく食欲がわかなかった。のどの奥が苦しかった。罪深いことに足を踏み入れつつあることは十分にわかっていたが、えたいの知れない力に突き動かされてしまう。大皿に肉団子を二つ載せてハダスが戻ってきた。
「どうして食べないの」
「君のことばかり考えてしまって」
「なに考えてるのよ」
「結婚したいんだ」
 ハダスは気持ちを無理に抑えこんだような顔をした。
「そういうことは、父に言うものよ」
「わかってる」
「仲人をよこすのがきまりよ」
 ハダスは小走りに部屋を出ていき、たたきつけるように戸を閉めた。アンシェルは心の中で笑っていた。「自分は女の子をからかうことだってできるんだ」。アンシェルはスープに塩を、コショウをおもいきり振った。ずっと座ったままでいた。頭がくらくらした。何てことを、気が狂ってしまったのか、そうとしか考えられない…。食事を無理に口に押し込んだ。何の味もしなかった。アヴィグドルがハダスと結婚してほしいと言ったことを、アンシェルはいま急に思い出した。混乱する頭の奥から、あるたくらみが浮かびあがった。アヴィグドルの仇をうってやろう、そして同時に、ハダスを利用して、アヴィグドルともっともっと近づいてやろう。ハダスは生娘だ。男のことは何も知らないはずだ。そんな子ならいつまでもかんちがいしたままにしておける。アンシェルももちろん処女だったが、ゲマーラーを読み、男どうしの会話を聞いて、その方面の知識は豊富だった。アンシェルは、世の中すべてをあざむいてやろうと考え、恐怖と愉快にうちふるえた。「烏合の衆」という言葉が頭に浮かんだ。アンシェルは立ち上がると声に出して言った。「本当のはじまりはこれからだ」
 その夜、アンシェルは一睡もできなかった。数分おきに起き上がっては水を飲んだ。のどがからからでひたいは焼けるように熱かった。頭は熱に浮かされ、自分の意思とは無関係に回転し続ける。心の中で口論が続いているような感じだった。胃がずきずきし、ひざが痛んだ。人間たちをだまし、道々につまずきの石とわなを仕掛ける悪魔と契約を結んだ気分だった。アンシェルが眠りに落ちたのは明け方だった。目を覚ますと、これまで以上に疲労感があった。しかしこのまま寝椅子で眠り続けるわけにはいかない。無理をして起き上がり、聖句箱の入ったかばんを持って、学校に出かけた。学校へ行く途中、前から歩いてくるのは、なんとハダスの父アルテル氏だった。アンシェルがうやうやしく朝の挨拶をすると、アルテル氏も親しげに挨拶を返してきた。アルテル氏がひげを触りながら話しかけてきた。
「ずいぶんやせこけてるが、ハダスがへんなものでも出してるんじゃないのかね」
「ハダスさんは素敵なお嬢さんでとても親切にしていただいています」
「でもほんとに顔色が悪いぞ」
アンシェルはしばらくの間黙っていた。「アルテル様、申し上げたいことがございます」
「何かな。言ってみなさい」
「アルテル様、お嬢様が気に入りました」
 アルテル・ヴィシュコヴェルは立ち止まった。「そうか。学院の生徒はそういう話はしないのかと思ってたよ」
 目は笑っていた。
「でも本当のことです」
「こういう話は相手方の男性一人だけとするものではないのだが」
「しかし私には親がありません」
「うむ。その場合には世話人をよこすことだ」
「そうですが…」
「娘をどう思う」
「美人で…、素敵で…、賢くて…」
「わかったわかった…。じゃあ家系について聞かせてほしい」
 アルテル・ヴィシュコヴェルはアンシェルの肩に腕を回した。二人はそのまま会堂の中庭まで並んで歩いていった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

律法学生イェントル 4/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:50:24 | 超芸術と摩損
 動きだしたらもうとまらない。思いは言葉になり、言葉は形になる。アルテル・ヴィシュコヴェル氏は結婚に同意してくれた。ハダスの母フレイダ・レアフははじめ渋っていた。ベヘフの律法学生はもういい、ルブリンかザモシチから誰かを迎えたいと言った。しかしハダスは、アヴィグドルのときのように、またみんなの前で恥をかかされるくらいなら井戸に身を投げると言った。障害のある結婚にはよくあることだが、律法学者も、親戚も、ハダスの友人たちも、みんなが強力に後押ししてくれた。しばらくの間、アンシェルが街を通ると、ベヘフ中の娘たちが窓際からアンシェルを熱のこもったまなざしで見つめた。アンシェルはいつもきれいに磨いたブーツをはき、女性の面前でも目を伏せない。クッキーを買いに立ち寄ったパン屋でも、女たちと、みんなが驚くほど気さくに冗談を交わす。女たちは口をそろえて、アンシェルには何か特別なところがあると言った。もみあげのカールのしかたは誰とも違い、スカーフの巻きかたも個性的だった。笑っていても涼やかな目は、いつもどこか遠くをみつめているかのようだった。それにアヴィグドルがフェイトルの娘ペシェと婚約しアンシェルを捨てたことで、街の人々はなおさらアンシェルに同情を寄せていた。アルテル・ヴィシュコヴェルが作成した婚約の予備契約書では、アヴィグドルとのときよりも持参金も贈答品も多く、生計費支給も長期だった。ベヘフの娘たちはハダスと抱きあって婚約を祝福した。ハダスはすぐにアンシェルの聖句箱を入れる袋と、パンを包む布と、クラッカーを入れる袋を編みはじめた。アヴィグドルはアンシェルの婚約の話を聞くと、学校に来て祝いの言葉を告げた。アヴィグドルは、ほんの数週間でめっきり老け込んでいた。ひげは荒れ、目は血走っていた。
 アンシェルに言った。「こうなるような気はしてたよ。はじめから、宿で最初に会ったときから」
「ハダスと結婚してほしいって言ったのはアヴィグドルだよ」
「わかってる」
「どうして僕を見捨てたんだよ。挨拶もなしに去って行くなんて」
「未練を残したくなかった」
 アヴィグドルはアンシェルを散歩に誘った。仮庵の祭が過ぎていたが、まだまだ日は高かった。アヴィグドルは以前にもまして打ちとけた態度で、心のうちをアンシェルに打ち明けた。そのとおり、兄の一人が憂鬱に押しつぶされて首をつったというのは本当の話だ。自分もいま同じ闇の近くにいる。ペシェは金持ちで義父も裕福だが、それでも眠れない夜が続く。店の経営なんかしたくない。ハダスのことが忘れられない。ハダスが夢に出てくる。安息日の夜は、ハヴダラの祈りで使うハダスという名の香箱を見るだけで倒れそうだ。でも結婚するのがほかの男じゃなくてアンシェルでよかった…。ハダスと縁を結ぶのは少なくともそれ相応の人物ということになる。アヴィグドルはしゃがみこむと意味もなくそこらのしなびた草を引きむしった。とりつかれた人間のように、アヴィグドルの話は支離滅裂だった。
 急にアヴィグドルが言った。「兄と同じことを考えたこともあった」
「そこまでハダスのことを」
「心に刻みつけられてしまってる」
 二人は友情を誓い、二度と離れ離れにならないことを約束しあった。二人とも結婚したら、すぐ近くに住むか、できれば同じ一軒家に住んではどうだろうとアンシェルは言った。毎日一緒に勉強したいし、店を共同経営するのもいい。
「本当のことを言うとな」。アヴィグドルは言った。「僕にとってはヤコブとベニヤミンみたいなもんだ。僕の人生はアンシェルなしでは考えられない」
「ならどうしていなくなったりしたんだ」
「だからこそだよ、たぶん」
 肌寒くなり、風が吹き始めたが、二人は歩き続け松林まで来た。日が落ちて夕べの祈りの時間になるまで戻ろうとはしなかった。二人が肩を組み話に夢中になり、水たまりもごみの山もかまわず歩き続ける姿を、ベヘフの娘たちは窓際からながめていた。アヴィグドルは顔色が悪く、髪もぼさぼさで、吹きつける風にもみあげがゆれていた。アンシェルはつめを噛んでいた。ハダスも窓際に駆け寄り、二人を一目見て、目に涙を浮かべた。
 ことはめまぐるしく進んだ。アヴィグドルがまず結婚した。新婦は未亡人だったので、結婚式は地味で、楽団も道化も呼ばず、新婦のヴェールもなかった。ペシェは結婚祭壇の前に立った翌日には店に戻り、汚れた手で炭を扱った。アヴィグドルは敬虔派の会堂で新しいショールを着けて祈りを捧げた。昼過ぎ、アンシェルはアヴィグドルのところに行き、夕暮れまで二人で話しこんだ。ハダスの父はできるだけ早い結婚を望んだ。ハダスはこれで二回目の婚約で、新郎には親がない。妻も家も手に入るのにいつまでも老婦の下宿の寝椅子の上で寝返りを打つこともないだろう。しかし結局アンシェルとハダスの結婚は、宮清めの祭の週の安息日と決まった。
 毎日幾度となくアンシェルは、自分がしようとしていることは罪深く異常で邪悪な行為なのだと自らに言い聞かせた。ハダスと自分を偽りの絆で結び合わせ、決して償うことができないほどの数々の罪を犯すことになるのだ。うそはうそを呼ぶ。アンシェルは結婚式の前にベヘフを抜け出し、人知を越え悪魔の所業とでも呼ぶべきこのおかしな喜劇に、何度も終止符を打とうと考えた。しかし抵抗できない力につかまれてしまっていた。アンシェルの心はアヴィグドルにますます惹きよせられていく。それにハダスのかりそめの幸せを打ち砕くなど到底できることではなかった。結婚のあと、アヴィグドルの向学心はこれまで以上に高まり、親友アンシェルと一日に二度顔を合わせ、午前中はゲマーラーと注解を、午後は法典とその注釈を読んだ。アルテル・ヴィシュコヴェルと革商人フェイトルは、そんなアヴィグドルとアンシェルを見て、ダヴィデとヨナタンのようだと喜んだ。事態はいっそう手に負えなくなり、アンシェルはやぶれかぶれになっていった。新しい衣装のために仕立て屋で採寸をしたときは、男でないことがばれないようあの手この手で必死になってごまかした。これまで何週間も成りすましおおせてはいたが、それでもアンシェルには信じられなかった。なんでこんなにうまくいくんだ。世間を騙すこのゲームはいったいいつまで続くのか。もしも真実が露見するとしたらそれはどんな形になるだろう。アンシェルは心の中で笑い、心の中で泣いた。これではまるで人々をペテンにかけ悪戯するために世に送られた小悪魔じゃないか。アンシェルは一人つぶやいた。自分は悪人だ、罪びとだ、ナバトの子エロボアムだ。魂が律法を求めている、だからこそここまでの苦しみを背負ったのだ。アンシェルにできる弁明はそれだけだった。
 結婚してすぐアヴィグドルは、ペシェが自分に冷たいと愚痴をこぼし始めた。愚図、のろま、ただ飯食らいとわめかれ、店に縛りつけられ、これっぽっちもやる気の起きない仕事をおしつけられ、こづかい銭もけちってくる。アンシェルはそんなアヴィグドルを励ますどころか、逆に不満をあおりたてた。ペシェは見るだけで目が腐る、うざいしせこいし、最初のだんなもきっといじめ殺したんだろう、アヴィグドルもあぶないぞ。その一方でアンシェルは、背が高くて男らしい、頭もよくて学もあるとアヴィグドルをほめちぎった。
「もし自分が女でアヴィグドルと結婚できたら、毎日ほめ続けてあげるのに」。アンシェルは言った。
「でもお前は女じゃない…」
 アヴィグドルはため息をついた。
 そうこうする間に、アンシェルの結婚式は近づいた。
 宮清めの祭の前の安息日に、アンシェルは教壇に上げられ律法の一節を朗読した。そして女たちから干しブドウとアーモンドを振りかけられた。結婚式の日には、アルテル・ヴィシュコヴェルが若い二人に祝宴を催してくれた。アヴィグドルはアンシェルの右隣に座った。新郎がタルムードを講釈し、参列者みなで議論しながら、タバコを吸い、ワインやリキュールやレモンティー、ラズベリージャムティーを飲んだ。続いて新婦にヴェールをかぶせる儀式が行われ、そのあと新郎が会堂の横に用意した結婚天蓋に連れて行かれた。しだいに夜は更けて冷え込み、よく晴れて満天の星空が浮かんだ。楽団が演奏を始めた。二列に並んだ娘たちが火をともした小ロウソクと飾りひも付きの大ロウソクを掲げた。結婚式が終わり、新郎新婦はこの日初めての食事となる黄金色の鶏のスープを口にした。そして舞踏が始まり引き出物が紹介された。すべて慣習どおりだった。高価な引き出物が山と積まれた。道化が、新婦を待ち受ける悲喜こもごもをおどけて演じた。ペシェも参列者の一人だったが、宝石でごてごてと飾り立ててもなお醜く、ずれたかつらがひたいを隠し、毛皮のケープはばかでかく、手には何度洗っても消えない炭のしみが残っていた。貞淑の踊りのあと、新郎と新婦はそれぞれ別々に閨へ連れて行かれた。付き添い人は二人に行為のしかたを教え、「子孫繁栄」を申し渡した。
 夜が明けると、義母とその一行が閨に降りてきて、ハダスの下からシーツをひきはがし結婚が成就したか確かめた。血のあとを見つけると、みな大いに喜び新婦にくちづけをして祝った。そしてシーツを高く掲げ、外に出て、降りはじめた雪のなかで成就の踊りを踊った。アンシェルは新婦の花を散らす方法を思いついていた。何も知らないハダスは、それが本来のやり方と違うことに気がつかなかった。ハダスはもうアンシェルを心の底から愛してしまっていた。新郎と新婦は、最初の交わりから七日間は離れて過ごさなければならないという掟がある。次の日アンシェルとアヴィグドルは、女の月経に関する論文を読んだ。会堂からほかの男がいなくなり二人きりになると、アヴィグドルはアンシェルに、ハダスとの夜はどうだった、と恥ずかしそうに聞いてきた。アンシェルの話にアヴィグドルは満足した。二人は日暮れまでひそひそと語らいつづけた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

律法学生イェントル 5/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:49:27 | 超芸術と摩損
 アンシェルと縁を結んだのはとてもよくできた人たちだった。ハダスは妻として尽くしてくれた。両親も義息のあらゆる願いを聞いてくれ、義息の教養を誇りにした。幾月たってもハダスにおめでたはなかったが、気にとめる者はいなかった。一方アヴィグドルの結婚生活は着実にひどくなっていた。ペシェはアヴィグドルにきつくあたり、とうとう食事も満足に出さず、洗濯さえ嫌がるようになった。アヴィグドルはいつもお金に困るようになり、アンシェルはまた毎日ソバ粉のパンケーキを買ってやるようになった。ペシェは忙しいと言って料理をせず、けちで下女も雇わないので、アンシェルはアヴィグドルを自宅に食事に呼ぶことにした。アルテル・ヴィシュコヴェル氏夫妻は、元婚約者の家に求婚を断った者を招くのは間違っていると言って反対した。街じゅうがこの話題で持ちきりになった。しかしアンシェルは前例を引いて、律法によって禁じられてはいないことを示した。街の人々はほとんどがアヴィグドルの味方で、なにもかもペシェが悪いと言った。アヴィグドルはすぐペシェに離婚してほしいと言うようになり、こんな猛女と子供を作るわけにはいかないと、オナンにならい、ゲマーラーの語句を借りれば「中で振って外に種をまく」ようになった。アヴィグドルはアンシェルにそっとこぼした。ペシェは汚れたまま床に入り、のこぎりのようないびきをかく。店と金のことばかり考えて寝言でも金の話が出る。
「アンシェルがほんとにうらやましいよ」。アヴィグドルは言った。
「うらやましがることなんかないよ」
「すべてを手に入れたじゃないか。あれだけの財産が自分のものだったら…。もちろんアンシェルから奪うというんじゃなくて」
「人みなおのおのの苦しみがある」
「どんな苦しみがあるっていうんだよ。神を騙るな」
 アヴィグドルにはまったく想像もつかなかったことだろう。実はアンシェルは夜も眠れず、逃げ出すことばかり考えていた。ハダスと床をともにし偽りを続けることが日に日に苦しくなっていた。ハダスの愛情のこまやかさを前に自己嫌悪に陥った。義父母によくしてもらい孫を所望されるたびに心が重くなった。金曜の午後は街じゅうが公衆浴場に出かける日だ。毎週毎週違う口実を作って逃げたが、それが疑いを呼び、さまざまに噂が流れた。体に醜いあざがあるんだろう、脱腸だ、ちゃんと割礼してないのかも。この歳なら当然ひげが生えてもいいころなのにほおを見たらつるつるだ、ということはあっちのほうも。籤の祭の季節になり、過ぎ越しの祭も近づいていた。夏はもうすぐだ。べへフから遠くないところに川があり、暖かくなると律法学生や街じゅうの若者がそこへ泳ぎに出かける。うそは腫れ物のように膨らみ、いつか必ず破裂する。うそをつかなくてすむ方法を考えなければならなかった。
 妻の実家に住む若者は、過ぎ越しの祭の週のあいだの半休日に近くの街に旅に出る習慣があった。気晴らしを楽しみ、心身を休め、儲け口を探し、本や若い男が買うようなものを買って帰る。ルブリンはべへフからもそう遠くない街だ。アンシェルはアヴィグドルを誘って、費用は持つから旅に出ないかと持ちかけた。アヴィグドルは、しばらくのあいだ家で口やかましい女の相手をしなくてすむと思い大喜びした。馬車の旅は楽しかった。野山は緑になり、暖かい国から戻ってきたコウノトリが、大きな弧を描いて空を舞いおりる。谷には水がほとばしり、鳥がさえずり、風車が回る。春の花が野にほころびはじめ、あちこちで牛がもう草をはむ。旅の二人は、ルブリンに着くまでおしゃべりし、ハダスが詰めてくれた果物と茶菓子を食べ、冗談を言いあいきずなを深めた。ルブリンで宿に入ると二人部屋を取った。旅の途中アンシェルは、ルブリンで驚きの事実を告げるからとアヴィグドルに約束していた。アヴィグドルはふざけて言った。驚きの事実って何だ。伝説の秘宝でも見つけたか。論文でも書いたのか。秘教を研究してハトでも作り出したか。
 二人は部屋に入った。アンシェルは念のため戸に鍵をかけた。アヴィグドルはまだおどけていた。「さあ言え。驚きの事実って何だ」
「これまで聞いた中で一番信じられない話だから覚悟してほしい」
「何でも覚悟はできてるよ」
「自分は男じゃない。女だ。名前もアンシェルじゃない。イェントルだ」
 アヴィグドルは吹き出した。「冗談も休み休み言え」
「でも本当の話だから」
「どんな馬鹿でも信じるやつはいないよ」
「証拠を見せようか」
「おう」
「じゃあ服を脱ぐ」
 アヴィグドルはぎょっとした。ひょっとしてアンシェルは男色を迫るつもりかと思った。上着を取り、房つきの服を脱ぎ、下着を脱ぎ捨てた。アヴィグドルは一目見て顔面蒼白になり、すぐ火が出るほど紅潮した。アンシェルは急いで服で体を隠した。
「わざわざこんなことをしたのは役所で証言してほしいからなんだ。でないとハダスは未通の妻のままになる」
 アヴィグドルは二の句がつげなかった。がたがた震えはじめ、しゃべろうと唇を動かしても、声が出ない。立っていられなくなり、へたりこんでしまった。
 やっとの思いでつぶやいた。「どうしてこんなことが。信じられない」
「もう一回見せようか」
「いい」
 イェントルはすべてを打ち明けた。病床の父とともに律法を学んだこと。女たちにもくだらないおしゃべりにも我慢がならなかったこと。家と家財道具を売って街を出て、男のふりをしてルブリンまで出てきて、道すがらアヴィグドルと出会ったこと。アヴィグドルは無言で、ただ目はじっと離さず話を聞いていた。すでにイェントルは服を着なおしていた。さっきと同じ男の服だ。
 アヴィグドルが言った。「夢だ。夢に決まってる」
 頬をつねった。
「夢なんかじゃないよ」
「こんなことが自分の身にふりかかるなんて」
「全部本当のことだ」
「どうしてこんなことを。いや僕は黙っていよう」
「パンをこねたり焼いたりして人生を無駄に過ごしたくなかったから」
「ハダスは。どうしてあんなことをした」
「アヴィグドルのためになると思って。ペシェにひどい目にあわされていたから、うちでなら一息つけるだろうって」
 アヴィグドルは長い間黙っていた。うなだれ、両手をこめかみに当て、首を振った。「これからどうするつもりだ」
「別の律法学院に行くよ」
「何だって。もっと早く言ってくれてたら、僕たちは…」
「いや、それはよくないと思う」
「どうして」
「自分は男でもない、女でもない」
「どうしたらいいんだ」
「あんなひどいのとは別れて、ハダスと結婚して」
「あいつは絶対に離婚する気はないし、ハダスも僕とは結婚しないだろう」
「ハダスは今でもアヴィグドルのことが好きだから。もうお父さんの言いなりにはならないよ」
 アヴィグドルはふと立ち上がったがまた座り込んだ。「アンシェルのこと、忘れられそうにない。ずっと…」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

律法学生イェントル 6/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:48:35 | 超芸術と摩損
 律法に従えば、アヴィグドルがイェントルと二人きりで過ごすことは一瞬たりとも許されない。しかし上着とズボンを身に着けると、そこにいるのはいつものアンシェルの姿だった。
 これまでと同じ調子で二人は会話を始めた。「『女は男が着る服を着てはならない』と戒律にあるのにどうして毎日破り続けた」
「ニワトリの羽をむしったり、女どうしで他愛のないおしゃべりをするのには向いてないから」
「来世は生まれて来なくてもいいと思ったのか」
「うん、まあ…」
 アヴィグドルは伏せていた目を上げた。アンシェルは男にしてはほおに毛がなく、髪が多く、手が小さいことに、今ごろになってやっと気がついた。それでも本当にそんなことがありえるのか、とても信じられない思いだった。いますぐにでも目が覚めるんじゃないかと考え、唇をかんだりももをつねったりした。急に恥ずかしさを感じ、口を開くたびにどもりがちになった。アンシェルとの友情、心の通い合った会話、相互の信頼、それが全部ごまかしと錯覚になってしまった。アンシェルは悪魔か、そんな考えが頭をよぎった。悪夢を振り払おうと首を振った。それでも夢と現実を見分ける理性が、これは事実だとはっきり告げる。何とか勇気をふりしぼろうとした。いくらアンシェルがイェントルだったとしても、アンシェルとは他人ではいられない…。
 やっとの思いで言った。「捨てられた女のために証する者は、その女と結婚してはいけないんじゃないか。律法はその者を『当事者』と呼んでいる」
「えっ。それは気がつかなかった」
「エベン・エザルを開いて確かめてみないと」
「そもそも捨てられた女に関する法がこの場合に適用されるのか」。アンシェルは学究の徒らしく答えた。
「ハダスを未通の妻にしたくなければ、ハダスに直接秘密を明かすことだ」
「それはできない」
「とにかく、証人はもう一人要る」
 しだいに、二人の会話はタルムードの議論になっていった。女と聖典の議論をしていると思うと、アヴィグドルははじめ妙な気持ちだったが、考えてみればずっと以前から二人を結び付けていたのは律法なのだ。体は異性でも、心は同じだ。歌うように語り、親指を振り回し、もみあげをつかみ、ひげのないあごを引っ張るアンシェルは、そのすべての動作が律法学生そのものだった。議論が白熱すると、アヴィグドルのえりをつかみ、馬鹿野郎とののしった。アヴィグドルはアンシェルに、恥ずかしさと悔恨と、心配の入り混じった、強烈な愛の感情を感じた。もっと早く知っていたら、とアヴィグドルは思った。アンシェル、いやイェントルは、メイール師の妻ブルリアのようにも、ナフマン師の妻ヤルタのようにもなれたはずだ。いま初めて、自分が長い間求めていたものがわかった。生活の些事にかまけてばかりいない妻、それだったのだ…。ハダスへの思いは消えた。望むのはイェントルだ。しかしとても口には出せなかった。体が熱くなり、顔がほてっているのが自分でもわかった。もうアンシェルの目を見ることはできなかった。そもそもハダスと結婚したことはどう説明できるのか。どれほどの数の違背を犯したことになるのか。故意による欺瞞、虚偽の宣誓、身分詐称…、まだまだあるはずだ。アンシェルの罪を数え上げようとして、自分もそれに巻き込まれていることに気づいた。イェントルが偽りを続けていた時期に、イェントルと並んで座り、イェントルの体に触れている。
 ふいに尋ねた。「もしかして、異教徒なのか」
「なにを言うんだ」
「ならどうしてこんなことを」
 アンシェルが説明すればするほど、アヴィグドルはよけいにわからなくなった。その要点は、心は男、体は女という、ただ一点だけのようだった。ハダスと結婚したのはとにかくアヴィグドルと近づきたかったからだとアンシェルは言った。
「僕と結婚すればよかったのに」。アヴィグドルは言った。
「一緒にゲマーラーや注解を学びたかったんだ。靴下をつくろいたかったんじゃない」
 長い沈黙が続いた。アヴィグドルが口を開いた。「ハダスが知ったら倒れるぞ。何てことだ」
「自分もそう思う」
「これからどうなるんだろうか」
 夕闇が迫り、二人は夕べの祈りを唱えはじめた。動揺が収まらないアヴィグドルは、祈りの言葉を間違え、一部を読みとばしたり、同じ部分を繰り返したりした。横目でうかがうと、アンシェルは体を前後に揺らし、胸をたたき、頭を垂れていた。目は閉じ、顔を天に向け、何かを請い求めているようだった。天にまします父よ、真実を知りたもう…。祈りがすむと、向かい合わせになり、しかし距離は十分に保ったまま、それぞれいすに座った。部屋は闇に包まれた。紫の刺繍のような日没の照り返しが、西の窓を透かし壁に映って揺れた。アヴィグドルはまた話をしようとしたが、言葉ははじめのどの奥で震え、声にならなかった。
 その言葉が急に飛び出した。「でもまだ間に合うんじゃないか。もうあんな女とは無理だ…。だから…」
「アヴィグドル、それはだめだ」
「どうして」
「自分は今までどおり生きていくつもりだから…」
「別れたくないよ。すごく」
「自分も別れたくない」
「このことにはいったいどういう意味があるんだろう」
 アンシェルは答えなかった。夜のとばりが下り、光がかすんでいく。暗がりの中で、二人は互いの考えにじかに耳を傾けているかのようだった。アヴィグドルが部屋の中でアンシェルと二人きりになることは律法によって禁じられていたが、相手がただ単純に女であるとはどうしても思えなかった。服装には不思議な力がある、とアヴィグドルは思った。
 しかしアヴィグドルが口にしたのはまったく別のことだった。「ハダスに離縁状を送ったほうがいいと思うんだが」
「どうやって」
「結婚誓約が無効な以上、どんな方法でも同じだろう」
「そうだな」
「ハダスに真実を伝えるのは、十分に時間を置いてからのほうがいい」
 女中がランプを持って入ってきたが、部屋を出るとすぐアヴィグドルが火を消した。二人の今の心境とこれから語り合う話の内容を考えると、光には耐えられそうもなかった。漆黒の中で、アンシェルはあらゆる事情を説明し、アヴィグドルのあらゆる質問に答えた。時計が二時を打っても、なおも語り続けた。アンシェルはアヴィグドルに言った。ハダスはずっと忘れていない。ハダスはしょっちゅうアヴィグドルを話題にし、健康を心配し、ペシェとあんなふうになったことを気の毒がっていた。その同情の中に自己満足の影がまったくなかったとは言わないにしても。
「ハダスはきっといい嫁になってくれるよ」。アンシェルは言った。「自分はデザートの焼きかたも知らないくらいだから」
「それでもいい。もしその気があるのなら…」
「アヴィグドル、だめだ。そんなめぐり合わせじゃなかったんだよ…」
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

律法学生イェントル 7/7 I・B・シンガー

2010-01-26 03:45:55 | 超芸術と摩損
 べへフの住人には、何もかもがきつねに鼻をつままれたような話だった。使いが来てハダスに離縁状を手渡したこと。休暇が終わってもアヴィグドルがルブリンに滞在を続けたこと、そしてべへフに戻ったときは病人のように肩を落とし、目が死んだようになっていたこと。ハダスは床に伏せ、日に三度医者が往診した。アヴィグドルは斎戒の行に入り、誰かがたまたま見かけて声をかけても、返事もしようとしなかった。一晩中部屋の中でタバコをふかしながら行ったりきたりしている、とペシェが両親に訴えた。ついに疲労困憊して倒れこみ、うわごとでイェントル、イェントルと、聞いたこともない女の名前を口にした。ペシェは離婚話を口にするようになった。アヴィグドルが応じるはずはない、最低でも慰謝料を要求するだろうと誰もが思っていたが、アヴィグドルはだまっていいなりになるばかりだった。
 べへフの住人は謎をいつまでもそのままにしておけるような人たちではない。そもそも住人全員がよその家の晩ごはんまで知っているせまい街に、秘密などあるはずもないのだ。ところが、ふだんから鍵穴をのぞき、よろい戸に耳をあてる者が何人もいるこの街で、この一件は謎のままだった。ハダスはベッドに身をうずめて泣いた。診察した薬草医は、日に日に衰弱してきていると言った。アンシェルは跡形もなく姿を消した。アルテル・ヴィシュコヴェル氏に呼び出されてアヴィグドルが家に来たが、いくら窓の下で背伸びをしてみても、二人のやりとりは一言も聞き取れなかった。常日ごろから他人の事情に首を突っ込みたがる人々がありとあらゆる説を唱えたが、どれひとつとしてすべての謎を解き明かすにはいたらなかった。
 ひとつの説は、アンシェルがカトリックの僧に説き伏せられ、改宗してしまったというものだった。ありそうな話かもしれないが、しかしそれならいつも律法学院で勉強していたアンシェルが、いったいいつどこで僧侶と会っていたのか。それにいったいいつから背教徒が離縁状なんか送るようになったのか。
 アンシェルがほかの女に秋波を送ったとこっそりささやく者もいた。しかしそれなら相手は誰なのか。べへフに駆け落ち事件などなく、ユダヤ教徒にも異教徒にも、最近べへフからいなくなった若い女はいない。
 アンシェルは悪霊に連れ去られたのでは、いやアンシェルこそが悪霊だったのでは、と言う者もいた。その証拠に、アンシェルは公衆浴場にも川にも姿を見せなかったではないか。悪魔の足はガチョウの足だというのは常識だ。しかしそれならハダスはアンシェルの素足を見なかったのか。それに悪魔が離縁状を送るなんて話は聞いたこともない。悪魔が人間の娘と結婚するときは、ふつう未通の妻のままにしておくものだ。
 はたまたアンシェルは何か罪を犯し、その罰として追放されたのだと言う者もいた。しかしその罪とはいったい何なのか。それになぜそれを律法学者の手にゆだねなかったのか。なによりアヴィグドルが幽霊のようにふらふらしているのはなぜなのか。
 楽団員のテヴェルの説が最も真実に近かった。テヴェルが言うには、アヴィグドルはハダスを忘れることができず、アンシェルが離婚して友人にハダスを譲ろうとしたのだという。しかしそもそもそこまでの友情が存在しうるのか。それにそれならどうしてアヴィグドルがペシェと離婚する前にアンシェルがハダスと離婚したのか。もっと言えば、そのもくろみがうまくいくためには事前に妻の側も事情を説明され納得していなければならない。なのにどこをどう見てもハダスがアンシェルを心の底から愛していたことは間違いなく、事実ハダスは悲しみにくれて寝込んでしまっている。
 ひとつだけ誰の目にもはっきりしていることがあった。アヴィグドルは本当のことを知っている、ということだ。しかしアヴィグドルから話を引き出すのは不可能だった。斎戒を続け、かたくなに沈黙を貫くその態度は、街の人々に対する無言の抗議だった。
 ペシェと親しい友人はアヴィグドルと離婚しないように言ったが、二人はあらゆるつながりを絶ち、もはや夫婦として暮らしてはいなかった。アヴィグドルは金曜の夜に妻のために祈りを捧げることすらやめていた。夜は一人で学校へ行くかアンシェルが以前下宿していた老寡婦のところで時を過ごした。ペシェが話しかけても返事もせず、ただ頭を垂れて立ちつくすばかりだ。商売人のペシェはこんな行動に納得する女ではなかった。そばにいてほしいのは店を手伝ってくれる若い男であり、憂鬱に沈んだ律法学生ではない。そんな男なら妻を見捨てることだってしかねない。かくしてペシェは離婚に同意した。
 その間にハダスは体調を取り戻し、アルテル・ヴィシュコヴェル氏は一件の結婚契約を公告した。ハダスがアヴィグドルと結婚するという。街中が騒ぎになった。過去に一度婚約し、それが破談になった男女が結婚するなどという話は聞いたことがない。挙式はユダヤの暦でアブの九日の次の安息日にとりおこなわれた。貧者への饗宴、会堂入り口の結婚天蓋、楽団、道化、貞淑の踊り、すべて生娘の結婚の慣習どおりだった。ただそこには喜びだけがなかった。新郎は結婚天蓋の下に立ったが、その姿は陰鬱そのものだった。新婦は病から癒えていたが、顔色は悪くやつれたままだった。黄金色の鶏のスープに新婦の涙がこぼれた。参列したどの顔にも同じ疑問が浮かんでいた。いったいなぜアンシェルはこんなことをしたのか。
 アヴィグドルがハダスと結婚したあと、ペシェが、アンシェルはアヴィグドルに妻を売り、その代金はアルテル・ヴィシュコヴェルが肩代わりしたと噂を流した。謎解きに懸命になったある若者は、ついにある結論にたどりつき、アンシェルはトランプをしたかルーレットを回して、勝ったアヴィグドルに愛する妻を差し出したのだと言った。人というものは真実のひとかけらも見つからないとき、偉大なる虚偽の助けに飛びつくものだ。見つけようとすればするほど見つからなくなる。そのようにして、ときに真実は埋れてゆく。
 結婚からまもなく、ハダスは妊娠し、男の子が誕生した。割礼に集まった人々は、父親が子を紹介するのを聞いて耳を疑った。子供の名前は、アンシェルだった。(おわり)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする