超芸術と摩損

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北朝鮮「収容所半島」を忠実に再現!映画『クロッシング』は涙と怒りもて観よ  ジャーナリスト 勝谷誠彦

2010-05-12 23:58:43 | 週刊誌から
 試写が終わった時、私は疲労困憊していた。内容の重さに、ではない。生理的にこれまで味わったことがない状態に置かれたことに身体が反応しているのであった。泣きたいのに、泣けないのだ。涙を分泌する神経をより大きな感情が抑えてしまっているのである。

 その感情とは怒りだ。泣くことを押しとどめるほどの怒りというものが自分の中にあることを、私は半世紀を生きてきて初めて知った。『クロッシング』とはそういう映画である。
 怒りの対象は北朝鮮という独裁国家のシステムそのものと、それを作り上げた金正日とその取り巻きたちだ。いや、それだけではない。にもかかわらずそこで虫けらのように殺されていく人々を看過している国際社会とは何なのだろう。つまりは私の怒りは私自身にも向けられていたのである。
 物語は北朝鮮の北部にある炭鉱町から始まる。坑夫のヨンスはサッカーの代表選手として勲章までもらった人物だ。日本の終戦直後のような貧しい生活。しかし誠実な妻ヨンハと聡明な息子ジュニに恵まれた日々は幸せに過ぎて行く。
 北朝鮮の「普通の人々」の生活ぶりをキム・テギュン監督は活写する。これまでは持ち出された隠し撮り映像でしか私たちはそれを知らなかった。キム監督は多くの脱北者たちからの聞き取りをもとに、はじめてフィクションとしてそれを再現することに成功したのだ。隠し撮りにつきもののおどろおどろしさはそこにはない。あの半島の北側にも、人間として私たちと何らかわらない人々が生きていることを教えてくれる。
 人々はかわらない。違うのは恐るべき独裁体制だ。それが牙を剥いた時に、ヨンス一家の人生は暗転する。妻が病に倒れる。薬を手に入れるためにヨンスは豆満江を越えて中国領内へと入るのである。脱北者を食い物にするブローカー。西側の「善意」の団体の支援も、ヨンスの運命をねじ曲げていく。「善意」もまた国家間の異常な軋轢の間では暴力装置となりうることをキム監督は描く。このリアリティが一切の偽善を映画から排していく。
 物語の筋をこれ以上書くのはルール違反だろう。一家の離散、ジュニの流浪。子供だから妊婦だからといって何の容赦もない恐るべき弾圧と独裁。これらを見て私は北朝鮮の体制変化には「軟着陸」はないと確信した。もし体制が転覆したならば、人々はあらゆるものを武器にして自分たちを弾圧してきた連中を吊るすだろう。金正日はルーマニアで殺されたチャウシェスクになることを恐れているという。彼のその危倶は実に正しいと私は感じた。
 企画から完成まで四年。韓国、中国、モンゴルで八千キロにも及ぶロケを行なって『クロッシング』はあの収容所半島をはじめて正確に描写した。世界中で高い評価を受けながら、しかし昨年予定されていた日本での公開は見送られた。
 「各方面への配慮」があったとされるが、詳細は明らかではない。ところが配給会社だったシネカノンが事実上の倒産、皮肉なことにそのことが、私たちが『クロッシング』を観られる機会を作り出す。配給権を手にしたのは太秦という会社だった。なぜ敢えて火中の栗を拾うようなととをしたのか。同社の小林三四郎社長は私の聞いに対して意外な事実を明らかにした。
「私は柏崎の出身で、蓮池薫君とは、小、中、高と一緒だったんです」
 その親友がある日突然、姿を消す。
「あの不条理と痛みは今でも消えません」
 蓮池さんご本人も今回の公開をとても喜んでくれていると言う。
 悲惨そのものの物語でありながら、映画としてのクオリティはとても高い。北朝鮮の、中国の、モンゴルの自然の美しさの描写は見事だ。キリスト教に勧誘されるヨンハは「イエスは半島の南にいてどうして北にはいないのか」と泣く。しかしながら、大切なモチーフとされている「雨」は平等に降るのである。天然の普遍に対して、神の偏在というあまりに大きなテーマも映画は突きつけてくる。
 投致された同胞を取り戻すのはもちろん、その先に人間として救わねばならない人々があそこにはいる。

週刊文春2010年4月22日号
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