和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

中将姫と中将湯

2009年12月11日 | 和州独案内
 中将姫と言えば彼女が当麻寺において天人の助けを受け、蓮の糸をつかって一夜にして織り上げたと云われる當麻曼荼羅が有名ですが、その話はまたの機会に置いておくとして、中将姫に纏わる話の中で一番気になっていたことを書いてみたいと思います。
 中将湯を知っている世代といえば五、六十代より上になるのでしょうか、宇陀出身の津村重舎が母方の実家に伝わる、中将姫にその製法を教わったという薬湯を世に売り出したのが1893年、中将湯本舗津村順天堂(現ツムラ)を日本橋に設立したのが始まりです。

 彼の母方の実家と言うのが宇陀の藤村家で、当家が中将姫を匿った青蓮寺の檀家であったために薬湯の製法を教えられたという。ウィキ先生にあるくらい周知の話だからなのかこの話題を余り目にしたことがありませんが、中将湯を知らなかった世代としてはこれは結構衝撃的な話でした。伝説上の人物中将姫に纏わる事が身近な企業の創設に関わっていたなど思いもよりません。

  
 大和の薬の代名詞と言えば陀羅尼助でしょう、奈良検定でもこれまで陀羅尼助の問題しか出題されたことが無かったはずです。もっとたくさんの伝統的な薬があるのに何故だろうか、と言うことは今後出題される可能性はあるという事なのでしょう。
 陀羅尼助は修験の一大地洞川で盛んに製造されていたことは誰もが知っていますが、役ノ小角が修行をしていたという事から、中将姫の伝説を持つ当麻寺でも陀羅尼助が製造されていた事は余り知られていません。
 洞川との間で本家争いを起こしたこともあり、大峰のそれは陀羅助と呼び、当麻寺中之坊は陀羅尼助と呼んで区別し解決を図ったなどという逸話もあります。中将姫にかけて当麻寺の方は尼を残し、大峰の修験は男だけの女人禁制なので尼を除いたという駄洒落で、実話かどうかはあやしいですが。

 今はもう無いがかつては陀羅尼助と肩を並べ、それ以上に流行したのが西大寺の豊心丹です。豊心丹は1242年西大寺の叡尊が四条天皇の命を受け疫病退散の祈願した折、満願の夜に神明の感応があり創製したと伝えます。その豊心丹がおそらく最も売れたのが、1692年(元禄五)の大仏開眼供養の時と、前年の大仏殿上棟式の時でしょう。
 松永久秀の焼き討ちから再興まで二百年をかけた世紀の大イベントは、20万人近くの老若男女を集め、生駒の暗峠まで人の波が途切れなかったという程の賑わいでした。その人々がこぞって買い求め、西大寺が一山を挙げて朝に造ったものが昼には売り切れてしまうほどの人気だったといいます。
 そんな訳で、一躍有名になった豊心丹を騙る偽物や類似品が出回るようになり、奈良町に今も残る老舗薬局の菊岡家に対しても販売差し止めの訴訟を起こしています。西大寺竜池院・一ノ室が、菊岡家の豊心丹は「似せ薬」だとの主張に対し、当の菊岡家は創始者の叡尊が菊岡家の出であるから、製法が伝わっていてもおかしくないと反論しました。
 裁判の結果は古くから販売してきた事を考慮し、菊岡家の販売を認めるが、これまでの「西大寺豊心丹菊岡」ではなく「伝来豊心丹菊岡」と西大寺の名を除く形で販売することで決着した。結果菊岡家は豊心丹の製造販売が正式に認められたことになります。
 裸地蔵で有名な率川の伝香寺でも豊心丹は製造されていましたが、こちらは名前は同じでもその由来は異なるもののようです。伝香寺の豊心丹は、明の鄭舜功から管領畠山義忠に伝えられたものが、義忠と親しかった筒井順昭に伝わり、筒井家の菩提寺である伝香寺に授けられたということです。 
    つづく

おまけ
二級問題
西大寺で製造販売された薬の名は
①反魂丹
②和中丸
③万金丹
④豊心丹

一級問題
御所中嶋家に伝来した薬の名は
①天狗蘇命散
②三光丸
③紫微垣丸
④香蘇散

ソムリエ問題
薬とそれを製造した寺院の正しい組み合わせを選べ
①影現寺と仙方施神丸
②金剛山寺と地蔵丸
③慶雲寺と開心丸
④元興寺と護命丸