和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

つづき 大和の種々の薬

2009年12月27日 | 和州独案内
 かつては寺院が文化のセンター的役割を荷い、学問のみならず医療においても知識技術の中心地であったために、寺院由来の薬が多く世に出回ったのは当然のことなのでしょう。
寺院は社会福祉事業の一環として、また信者獲得のためにも慈善事業として薬を求めに応じて頒布していました。
 寺院というより国家の威信の為かも知れませんが、その最も大掛かりなものとしては、正倉院に伝えられた天平時代の薬種に見ることが出来ます。光明皇太后によって東大寺の大仏に献納された生薬のリスト「種々薬帳」によると、約60種もの貴重な生薬が一旦献納され、その後求めに応じて正倉院から興福寺の敷地に設置した悲田院や施薬院を通じて広く衆生に施されました。現在でも20種ほどが現存しており、犀角や巴豆 などの珍しい薬種が当時のままに、いや当然経年劣化は見られるものの遺物ではなく伝世品として今にあります。
 それ以前にも唐招提寺の鑑真は来朝に際して、仏典のみならず相当数の薬種を持ち込みました。それらを配合し調剤する知識にも長けていたのか、それとも弟子にその辺りに通じた人物がいたのか、奇効丸なるものを天皇に進上しその功として水田百町歩を賜ったという話が伝わっています。

 その奇効丸と混同されるもので、関西の方なら必ず分かる「ひやひやひやの樋屋奇応丸」の大元の奇応丸は各地に由来を異にして遍在していましたが、東大寺に纏わる話としては、ある日寺に伝わる太鼓の張り皮が破れ、その内部に製法が記されており、その通りに処方したのが始まりというものがあります。流石にこれは薬の発祥譚として有名な大寺に仮託されたものでしょうが、それは中将湯と中将姫の関係に似ていなくもありません。中将湯の話は別の機会にもう少し詳しく書ければと思っています。
 
 寺院に薬が多いのは流通の未成熟な時代、法事、法要の都度人々が寺に集まるからでもあるのでしょう。そして当時のスーパースターのような存在の高僧に薬の由来を求めたのは、今で言うある種のPRのようなものかもしれません。
 あじさい寺の別名を持つ金剛山寺は、中興の祖である満米上人が地獄めぐりをしたことで有名ですが、この寺で造られたのが「万病丸」です。いわば黄泉がえりをした満米上人の地獄めぐりの話は、絵巻物になって「絵解き」のかたちで広く信者に流布していましたから、万病丸の効能はプラセボ効果もあいまって、それこそ万病に効く良薬としてもてはやされた事でしょう。
 チンポンカンポン祭で有名な御所の柿本神社の別当寺である影現寺では秘薬「仙方施神丸」を法要などに際して頒布していました。
 その影現寺から西へ直ぐのところにある慶雲寺では「桑山丸」を製造していました。元は違う名を付けたものが、近世、和歌山から新庄藩に転入してきた桑山氏が善政を敷いたことに感謝して桑山の名を冠したと云います。

 これら以外にも沢山の薬種が大和にはあった訳ですが、そのほとんどが途絶えてしまいました。信者への頒布は慈善事業の一環でしたが、時代が降るにつれ総じて寺の経営が苦しくなり、商品経済が発達する中で何らかの対価を求める様になったのでしょう。近世の始まる以前から薬の販売は始まっていた模様で、寺院もその流れに乗り豊心丹のようなヒット商品が現れます。しかし、近代以降は法律上の問題もあるかと思いますが、結局時代の大きなうねりに乗り切れず寺院由来の薬は衰退してしまいました。それに取って代わったという訳では無いですが、陀羅尼助丸や三光丸といった民間薬が途絶えること無く今に伝わっていくのです。

  
全く関係ないですが、18日の初雪が初積雪の大荒れの天気。  年が変わるまでは「この冬一番の冷え込み」という表現は気にしないことにしていましたが、今年の寒波は一味違った。特に、金剛葛城山脈が有る為か、大和の国中の天気は桜井・橿原辺りを境界にして南北では全然違う気がします。 

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。