和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

鳥見の等彌

2009年09月25日 | 和州独案内

 鳥見山の西麓に鎮座する等彌神社は、こじんまりとした、しかし綺麗に整った境内を持つ雰囲気の良い神社です。おもてからはあまり大きくないように見えますが、背後に控える鳥見山を含めると相当の規模になります。神社は上ツ尾社と下ツ尾社に別れ、参道途中右手に八幡社と春日社を祀る下ツ尾社が、一番奥まった所に大日靈貴命を祀る上ツ尾社があります。
  
                           下ツ尾社  
 
  
                       上ツ尾社への折れ上がり参道
 
  
                             本殿正面から
 
 等彌神社の良いところは上ツ尾社と下ツ尾社、つまり上社と下社の形態を今に残しつつ在るというところです。山を御神体として斎祀る場合、山裾には里宮があり山頂には山宮があり、其の形態を等彌神社も踏襲しています・・と言っておいても良いでしょう。
 図らずも対岸の大神神社が将にその形態の典型であって、更に北隣、弓槻ヶ岳の兵主神社、その更に北にある春日大社も同じ範疇に括る事が出来ます。もちろん重層した神社の性質の一面がということですよ。
 しかし、ご存知の通り今挙げた神社の山宮に参拝することは、特別な手続きを経ない限りおいそれと出来ません。対してこの等彌神社は、嬉しいことに境内脇から山頂までの道が整備され、一般に開放されています。
 等彌神社の上ツ尾社を単純に山宮に当てはめる事には、多少躊躇してしまいますが、社伝によると本来の上ツ尾社は、現在地の背後、鳥見山山中の小ピーク斎場山付近に在ったとされています。それが天永三年(1112)の霖雨に発生した山崩れによって社殿が流された為に、現在の地に移し降ろしたと言う事です。件の斎場山は鳥見山山頂への山道の途上にあり、現在は歌碑が立っている以外何も有りません。
 日本書紀に見える、神武即位後の四年春の条「乃ち霊畤(まつりのには)を鳥見山の中に立てて、其地を号けて、上小野の榛原(はりはら)・下小野の榛原と日ふ。用て皇祖大神を祭りたまふ」に現れる鳥見山をこの地とする説があり、それに従って霊畤(まつりのには)を鳥見山山頂に比定しています。
 これを宇陀の榛原の鳥見山に充てる説もありますが、榛原は新しく開いた土地の意味で固有の地名を指している訳では無いようです。しかしだからといって、山中に点在する小ピークに「庭殿」や「白庭」の旧跡地をあてるのは少々強引に過ぎる感じで、もう一方の生駒山麓の鳥見の地との折り合いをどの様に付ければ良いのでしょうか。
 それでは実際に歩いてみることにします。
  
                        本殿下のここが登り口

  
 注連縄を渡して聖別された霊畤(まつりのには)遥拝所。鳥見山山頂を正面に見る場所に位置し、高杯形土師器が多数出土している。ここから山の中に分け入る道になります。
  
  
 最初の小ピーク斎場山は、お椀を伏せた形をしており、谷から吹き上げる風がとても心地よかった ここからも祭祀用臼玉が多数出土している

  
                       まあ何というか白庭だそうで

  
 20分弱程の山中行の末の終着点、標高245mの鳥見山山頂。特に見晴らしが利くわけでもなく素っ気無さが漂う中、霊畤の文字は達筆だった。 ハイカーの踏み跡が目立ち、南に抜けるルートが有るようです。