和州独案内あるいは野菜大全

第一回奈良観光ソムリエであり、野菜のソムリエ(笑)でもある者の備忘録のようなもの。文章力をつける為の練習帳に

鳥のこと(歴史編)

2009年09月07日 | 和州独案内
 かなり間が開いたので繋ぎに鳥の事も書いておこうと思う。すぐ隣の杉林がねぐらだからしょうがないですが、うちの常連は残念ながらカラスです。トビも時折見かけますがカラスとは折り合いが悪くトビは多勢に無勢いつもカラスの群れに追い立てられるという理不尽さ、これがイヌワシなどの王道の猛禽類ならいざ知らずどちらも同じ雑食性で時に死肉をあさる様な食性だからそんなに邪険にしなくともと思ってしまう。それにしてもトビが羽根を大きく広げて旋回する様は、思わず見とれてしまいます。トビでさえというのは可哀想ですが、あんなに優雅な姿ならばイヌワシならどれ程雄大で美しい姿なのでしょうか。

 カラスもトビも「書紀」においてはカムヤマトイワレビコつまり神武天皇一行の窮地を救った立役者でもあります。カラスはヤタガラスとして熊野の行軍を助け、まつろわぬ土着の民である兄磯城と弟磯城の前に現れて二人を試したりします。そして少し前の兄猾、弟猾の時と同じく弟が神武側に付き兄は誅されるのです。これは古い兄弟祭政二重政体の有り様や、海幸彦と山幸彦のように神話に普遍的に見られる弟の優位性を踏襲しているのでしょう。
 トビは金鵄として長髄彦の軍勢を眩惑させ磐余彦達に勝利をもたらしました。その事跡にちなんで鳥見の地名が付けられるようになったという地名発祥譚でもあります。鵄が転訛して鳥見となった訳ですが、大和にはトビそしてカラスにちなんだ地名がいくつかあります。
 神武の東征神話では生駒山麓の日下邑に上陸した神武一行は、山を越え長髄彦と対峙したが、遂に大和に入る事さえ出来ないのみならず兄の五瀬命を失ってしまいます。そこで大きく迂回をして、熊野から吉野宇陀を通って兄猾、兄磯城を破りようやく国中に入りついに長髄彦を討ち果たした というのがあらすじで、その道筋にトビやカラスの地名が残されているわけです。しかしそもそも神武東征をどのように評価すればよいのか見当がつかない。少なくとも史実を物語っている訳ではないので、地理的に体系立てて理解するのは難しいと言うか余り意味が無いのかも知れない。とは言え東征神話には宇陀の各地から桜井への道筋が詳らかに描かれており、地図で確認したり実際訪れたりしてみたくなりますよね。
 
 それにしても何故この二種類の鳥が選ばれたのか?三本足の烏は支那において太陽の象徴であり黒点を表わしたものではあるが、どちらも雑食死肉食らいであり特に、人の身近に生活するカラスには死のイメージが付き纏い印象はよくありませんが、むしろそれが逆に異界を繋ぐ生き物として特別視されたりはするのでしょう。
 個人的には神話好きなものですからオージンのフギンとムニンが頭を過ぎります。あちらは確かワタリガラスのはずですが知能の高い鳥という認識は汎世界的にあったわけです。神話と言えば、カラスが太陽の象徴ならば月の象徴は兎、古くはヒキガエルが居ると考えられていました。もちろん月の表面のクレーターの模様がそのように見えたということである訳ですが、それにまつわる話として英雄羿とその妻の嫦蛾の物語が知られています。羿は昔、太陽が十個もあるために苦しんでいた人々のためにその内の九個を射落とした弓の名手です。後に不老不死の仙薬を得るも妻の常蛾に裏切られ仙薬を奪われてしまいます。常蛾は月まで逃れますがヒキガエルにされてしまい、それが月の模様になっているというお話です。夫婦で太陽と月に関わっている訳ですが、不老不死のくだりはギルガメッシュ叙事詩の話を彷彿とさせます。

 八咫烏という存在は、天皇に供御し灯燭を職掌とした先祖を持つ葛野主殿県主に語り継がれ、作り上げられたもので、神武天皇を供奉先導したという祖先譚であると考えればある程度納得がいきます。氏族伝承を大王家の神話が取り込んだ訳で、宇陀にある八咫烏神社がその名残りなのですが、八咫烏の太陽との繋がりにこだわると聖なるラインのような考えも生まれてくる訳です。確かに太陽線は脇に置いても、神社の鳥居越しに東に見えるのはこの辺りのシンボルである伊那佐山の全景で、この二者に何らかの関係が有るというのは肯ける所かもしれません。
 延喜式神名帳にも表れる八咫烏神社は中世には廃れて、社は崩れ基礎を残すのみとなっていたものを江戸時代に今の春日造に立て替えたと云うことです。

    
もう少しアングルを考えればよかったが、確実に八月の後半には神社の鳥居越しに伊那佐山山頂から昇る朝日を拝む事ができたはずです。

  
しかし神社本殿は現在南面して立地しており、伊那佐山とは正対していないうえに、山頂にある都賀那伎神社との関係も深くは無さそうです。