一番見つけにくくて、見つけなきゃいけないものは、どこか遠くにある訳でも、走り回って掴まなきゃいけないのでもない、そういうものは自分の中にあるのかもしれない。
それを見つけるために、色んなところへ行ったり、色んな人に会ったり、ぜーんぜん正反対のもの、理解フノウなものに出会ったり、傷ついたり、そして癒されたりするのかもしれない。
って思うこの頃です。
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ピアノに関しても。
今思うと、日本での高校・大学時代、私、感覚だけで何とか繋げてきたことってたくさんです。
特に高校時代は色んな意味で壊れていたw
和音を弾いて、「真ん中のソの音程が高すぎる!!!」とか、
本気で込めて通して弾いてみても、沈黙の末一言 ・・・「だめ」 とか、
いやここには何も書けん 笑。
胃薬飲んでレッスン行ったり…きっとわかる人にはすっごくわかるよね。
もちろん楽しさや喜びはあるのだけど、好きなだけじゃやってけないし、ちょっと休んでみたい…って時も重要な本番はがつがつ定期的にやってくるし、レッスンでは耳や頭の悪いところを指摘されまくりだし、完全に解放されることがあんまりない、っていうのが続く世界。
それ以前はかなーり天真爛漫にやってきただけに、自分でもわかる位劣等感の塊抱えてました。
※ あ!なんかドロドロしてるっぽいけど、フツーに明るく爽やかな学生もいっぱいいると思うよ!ていうか、私の思うところ、努力はあんまり他人に見せない習性があるので一見能天気っぽい人も多いかもね。
そして、そういう指摘を感覚で「こうかな?」ってやってみて、ある時偶然に 「そう」 となったりする。「ソ」をちょと高めにして、和音をハモらせることが出来たりする。出来ると楽しかったりする。
でも、本当は、自分では、どこをどう直したからこう良くなった、とか、よくわかってなかったの。感覚で、こういう感じ!っていうだけ。それでも、普通は出来なきゃ許されない、とにかくどこかへ進めなきゃ私はいなくなっちゃう、消えちゃう、って、文字通りの必死。
わからないものが多い分、先生の存在や意見、一言一言が異様に大きくて、脅威な部分もあり、自分の判断力に自信がなくて、自分を信用することがなかなかできない。半日弾かないだけでオカシクなりそう、っていう過剰に神経質な時期もあった。そういう鎖で繋げていくことに一生懸命になっちゃってたあたし。
ポーランドに来ることで、ある意味世界で一番威厳あった存在から離れ、ひとりになってやっと、自分の素を集めていくこと、が、どういうことなのか、を感じ始めた気がする。初めは全バランスが崩れて、全くピアノが弾けなくなった。頑張ってももがくだけだったし、それが結構長い期間だった。
だけど。今ね、以前は感覚だけで捉えてきていたものたちについて、フッと観点を変えることが出来る瞬間があったりする。こういう観点ばかりに固執してわからなくて雁字搦めになっていたけど、こっち・・・?みたいな。
今が一瞬じゃ足りなくて、一生が一回で数十年じゃ短いんじゃん?と思えてくる。
そして昔から変わらないのは、
本番がいい意味で気持ちよくうまく結果よくいくのは、
曲を愛してるって勝手に思ったとき。
愛そう!じゃなくて、
気付いたらフツッと確かに浮き上がってきてたとき。
愛されたいって思ってるときはうまくいかない。
ただ、ラクな本番は絶対ない。
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心って実際に感じないと、何も学べないもんね。だから、自分が感じてる全てのことって、とっても貴重で、大事で、感謝すべきものだと思う。だから感じる、ってことを大事にしたい。嬉しいときは、嬉しさを思い切り感じる。苦しいときは、苦しさをちゃんと感じる。思考で避けてラクしないで、魂にジュワジュワやきつく位にね。だってそれは、自分だけでは・自分だけしか感じられないことだから。コレ意外と難しいんだけどさー私にとって。
大袈裟だけどさ、例えば魂にとって信じ難く惨いことがあるのなら、それが深ければ深いほど、それに相対して信じ難く幸いなこともこの世には存在するのよ。
醜いものに触れて初めて、それと全く逆の尊いものを実感することができる。
傷つくことで癒しを知って、迷うことで信じることを知っていく。
前者がないと、知れないんだよね?違うかな。
自分の中に与えられた何か大事なものの要素は、他を通して映ることによって初めて見えてくるのかもね。反射して。
と考えてふと頭をよぎったのが聖書の中のこの言葉。
わたしたちはいま
鏡に映ったぼんやりとしたものを見ている。
けれども顔と顔を会わせる時が来る。
いまわたしは、ものごとをかけらしか理解しない。
けれども、わたしが知られているように、
わたしが全てを知るときが来る。
感情、感覚、与えられている、感じさせられているもの の実体って何だろ。
創造的に生きていけたらな。
文、なが。