なんやかんやで「変わった!?」と思っても、結構、過去に培ってきた常識の中での変化に過ぎないことも多い。
でも今回は、自分の中に根強くその常識があったことを再認識して唸ってしまったくらいの変化だった。
分りにくい言い回しになってしまったけれど、つまり、相当変わったよね、と思っていたことが、まだまだ従来の3点支持の頚城の範囲内の発想ということに気付かされた変化ということだ。
もうかなり「3点支持は違うよねえ」というのは(少なくとも私の周囲の笛吹きの間では)行き渡っている情報ではないかと思うけれど、決して、違う!とも言えない。
一方向に力を入れて、それがどんなに少ない力だとしても、それが指の動きや、身体全体の邪魔をしていることは自明の理だろう。
でもだからといって、じゃあ、どうやって持てば?
となるので、「3点支持」が廃れないのも、それはそれで仕方のないことかもしれない。
わかりやすいし。
私のやり方は、左手人差し指の触れる部分を支点として、シーソーの様に頭の重さ、と右手を釣り合わせて構える、というもの・・だった。昨日までは。
3点支持は地球に対して水平の前後のベクトルで支える発想。
私のやり方は地球に対して垂直に上下のベクトルで支える発想。
水平と垂直では全く違うでしょ、とは思うものの、そうはいっても、それぞれが反対方向になって釣り合う、という捉え方では同じだ。
それが本日、全く違う原理で構えることとなった。
22日の甲野先生の音楽家講座、その後の人差し指の当て方の変化、そして、昨日の陽紀先生の個別講座での新たなやり方や稽古法をフルートで試してみて、もうすぐに、「こっちだな!」というものがみつかった。
それは、反対方向で釣り合わせるのではなく、全てが同方向。
地球に対して全て下向きの方向。
別に難しいことでもなんでもなく、ただフルートを置くだけ。
ポイントは楽器の釣り合い、身体の釣り合いを調和させること。
頤、左人差し指、右手親指に置く。
これに伴って、左右の手、手首も変化。
今までは、左右の手のイメージはどちらかというとフルートに対して垂直で、2本の足となっているような感じだったのが、双方がより重心を目指して傾き1点を目指すように。
四角から三角に。
漢字の六の一画目を取れば、それが構えを表す略図になるような感じ。
でも手首は伸びているという訳ではなく、その旋回の仕方が変化した。
内旋ではなく、やや外旋。何故なら載せるから。
ここ数日の人差し指の変化はその兆しだったのか、とも思う。
以前よりも、より頤に載る様になったので、左人差し指が支点という感じではなくなる。
平等に3点に置く。
もっと言うと、見た目は3点だけれど、実質的には頤と左右の手が目指す1点の2点ということになるかもしれない。
こうなると、あれほどこれまで自分の奏法を助けてくれていた脚指で手指を操作、という3月からの奏法も、さほど必要としなくなったのも面白い。
手首が邪魔して堰き止めていたものが取れて、ブワーっと何かが流れ出し全身駆け巡るという初めての感覚が、面白く楽しく、ずっと吹いてた。
気味悪い程に、自由さが増し、指も舌もまわり、なんといっても、響きが凄い。
昨日ウダウダと陽紀先生に愚痴っていた悩みも吹っ飛ぶ。
不安が生じるというのは、自分の中にまだまだ病(滞り)があるから。
欲も不安の裏返しという病だろう。
実際、昨日までの吹き方では伝承ホールは無理だったと思う。
それがうっすら自覚されていたのだろう。心というか身体からの声で。
この病いが全てなくなるというのは、生きている間は無理かもしれないけれど、こうして少しずつでも、潰していければと思う。
『幾度も病をおびき出し、打ち砕き』(願立剣術物語)
まず、「おびき出す」ということが難しいのだ、ということをしっかりと胸に刻んでおかねばね、と思う。
でも今回は、自分の中に根強くその常識があったことを再認識して唸ってしまったくらいの変化だった。
分りにくい言い回しになってしまったけれど、つまり、相当変わったよね、と思っていたことが、まだまだ従来の3点支持の頚城の範囲内の発想ということに気付かされた変化ということだ。
もうかなり「3点支持は違うよねえ」というのは(少なくとも私の周囲の笛吹きの間では)行き渡っている情報ではないかと思うけれど、決して、違う!とも言えない。
一方向に力を入れて、それがどんなに少ない力だとしても、それが指の動きや、身体全体の邪魔をしていることは自明の理だろう。
でもだからといって、じゃあ、どうやって持てば?
となるので、「3点支持」が廃れないのも、それはそれで仕方のないことかもしれない。
わかりやすいし。
私のやり方は、左手人差し指の触れる部分を支点として、シーソーの様に頭の重さ、と右手を釣り合わせて構える、というもの・・だった。昨日までは。
3点支持は地球に対して水平の前後のベクトルで支える発想。
私のやり方は地球に対して垂直に上下のベクトルで支える発想。
水平と垂直では全く違うでしょ、とは思うものの、そうはいっても、それぞれが反対方向になって釣り合う、という捉え方では同じだ。
それが本日、全く違う原理で構えることとなった。
22日の甲野先生の音楽家講座、その後の人差し指の当て方の変化、そして、昨日の陽紀先生の個別講座での新たなやり方や稽古法をフルートで試してみて、もうすぐに、「こっちだな!」というものがみつかった。
それは、反対方向で釣り合わせるのではなく、全てが同方向。
地球に対して全て下向きの方向。
別に難しいことでもなんでもなく、ただフルートを置くだけ。
ポイントは楽器の釣り合い、身体の釣り合いを調和させること。
頤、左人差し指、右手親指に置く。
これに伴って、左右の手、手首も変化。
今までは、左右の手のイメージはどちらかというとフルートに対して垂直で、2本の足となっているような感じだったのが、双方がより重心を目指して傾き1点を目指すように。
四角から三角に。
漢字の六の一画目を取れば、それが構えを表す略図になるような感じ。
でも手首は伸びているという訳ではなく、その旋回の仕方が変化した。
内旋ではなく、やや外旋。何故なら載せるから。
ここ数日の人差し指の変化はその兆しだったのか、とも思う。
以前よりも、より頤に載る様になったので、左人差し指が支点という感じではなくなる。
平等に3点に置く。
もっと言うと、見た目は3点だけれど、実質的には頤と左右の手が目指す1点の2点ということになるかもしれない。
こうなると、あれほどこれまで自分の奏法を助けてくれていた脚指で手指を操作、という3月からの奏法も、さほど必要としなくなったのも面白い。
手首が邪魔して堰き止めていたものが取れて、ブワーっと何かが流れ出し全身駆け巡るという初めての感覚が、面白く楽しく、ずっと吹いてた。
気味悪い程に、自由さが増し、指も舌もまわり、なんといっても、響きが凄い。
昨日ウダウダと陽紀先生に愚痴っていた悩みも吹っ飛ぶ。
不安が生じるというのは、自分の中にまだまだ病(滞り)があるから。
欲も不安の裏返しという病だろう。
実際、昨日までの吹き方では伝承ホールは無理だったと思う。
それがうっすら自覚されていたのだろう。心というか身体からの声で。
この病いが全てなくなるというのは、生きている間は無理かもしれないけれど、こうして少しずつでも、潰していければと思う。
『幾度も病をおびき出し、打ち砕き』(願立剣術物語)
まず、「おびき出す」ということが難しいのだ、ということをしっかりと胸に刻んでおかねばね、と思う。