ぴかりんの頭の中味

主に食べ歩きの記録。北海道室蘭市在住。

【本】辞書を語る

2009年05月01日 22時01分04秒 | 読書記録2009
辞書を語る, 岩波新書編集部(編), 岩波新書(新赤版)211, 1992年
・『辞書』をテーマにした小文、26編収録。半分以上、見たこともない名が並んでいますが、いずれも各分野を代表する名うての執筆陣のようです。
・自身の辞書使用は専らパソコンにインストールされた辞書。意識して数えたことがありませんが、ほぼ毎日少なくとも一度は引いているのではないでしょうか。辞書に関する思い出も、思い入れも特にありませんが、子供の頃に初めて辞書の引き方を知ったときの「あっ!?」っという驚きは、おぼろげながら記憶にあります。
・出版当時はまだインターネットの普及しはじめで、当時からは想像もつかない状況に現在なっています。「Wikipedia」をはじめとして "素人" が辞書を造る時代が来ようとは。
●『辞書――自由のための道具』田中克彦
・「辞書学の本質的部分は意味学(セマシオロジー)であるから、書き手はふつうの利用者が、自明のこととして通りすぎてしまうようなところにこそ熱中するのである。」p.5
・「私たちは、現代中国の辞典によって、逆にこういうことを教えられるのであるが、フランス語の辞書にはこういう点では実にいいものがある。それは、近代フランスが、いつも新しいことばと概念を作って世界の先頭にたってきただけに、自らのことばに責任をもたなければならないたちばにあったからだろう。日本語もまた、外国人によっても学ばれ、とりわけ、アジアの近代の研究のために学ばれる言語になるようであれば、辞書に対するこうした能動的な書きかたにむかって進む必要があると思う。」p.9
●『ある辞書編集者』大野晋
・「辞書の原稿作りは、熱心にすればするほど進行は遅くなる。」p.26
●『新しい日本語辞典を』城田俊
・「国語辞典は、毎年、装新たに出版され、書店の奥の棚はいつも辞書に溢れていますが、どれもこれも似たり寄ったり。書くためにはパッシブな援助しかしてくれません。  では、日本語で文章を書くのに積極的に手助けしてくれる辞書というものがあり得るでしょうか。書く力は才能、それも習練によってのみ磨かれる……と思っている方が多いかもしれませんが、究極的にはそうだとしても、文章を創るのにアクティブな援助を行う辞書が構想できないわけではないと思われます。」p.30
・「このように、論理的観点からすれば一つですませていいものに、日本語を含めて自然言語は多様な表現を用意し、語と語を贅沢な慣用によって結びつけます。これは世界のすべての言語が病む事態です。「病む」といったのは論理とか効率の観点から言ったに過ぎず、この病弊があるからこそ、言語は豊かで美しく、人を飽かせないのです。しかし、それがまた、書くのは面倒だという感じをおこさせる原因の一つともなります。」p.32
●『ある辞書づくりの体験から』日高敏隆
・「辞書の本体を大項目にして、調べたい単語を索引でひくというブリタニカ方式は、どうも日本には定着しないらしい。日本では小項目辞典が好まれるようである。」p.40
・「文部省による「学術用語」制定も、「世直し」の一つである。常用漢字も同じことだ。そのどちらも、世間に完全に受けいれられたことはない。  昔からいわれるとおり、ことばは生きものである。どこかの権威によって統一されたり、整理されたりするものではないし、正しいとか正しくないとか裁定されるものではない。いろいろなものがいり混って、ごちゃごちゃと動いてゆくうちに、おのずから落ち着いてくるものなのだ。  だからこそ辞書が必要なのだ。辞書は道案内であって、法律ではないのである。」p.44
●『外国語学習と辞書』渡辺吉鎔
・「このように会話文を少しシステマティックに分析すると、辞書に頼りすぎるのは禁物ということがよく分かってくる。結局、外国人としては、何回も何回も実際の使用場面に出会わない限り、辞書の限界を乗り越えることはなかなか難しいと思う。」p.75
・「辞書というものは、一つの言葉を別の言葉で定義している。ところが、一つ一つの言葉はそもそも違う意味領域をもっている。まさにそのために独立した語として存在しているのだ。したがって、説明される語の意味領域と説明する語の意味領域は本質的に完全には一致しない。この点は、辞書の宿命であり、最大の欠点でもあるといえよう。」p.76
●『アクティブな辞書』渕一博
・「さまざまな辞書が電子化されてくれば、それを集積した一大辞書データバンクの構想も出てくるだろう。(コンピュータ)ネットワークを介してそれにアクセスする。人によっては自分用のパーソナル辞書をカスタマイズして作る。近未来の夢として、そういうことも技術的には可能になろうとしている。」p.105
・「能動的な辞書というのが、辞書にとって自然でかつ必然的な進化の方向だろう。その段階になれば、長い伝統のある辞書の構成法をさらに発展させた新しい方法論も確立されるだろう。」p.106
●『言葉の保険について』赤瀬川原平
・「辞書は保険だ。  辞書を持っていると、言葉の保険に入っているような安心感がある。やることはやってあるんだというような。辞書がないと、そういう安心感がないというか、一寸先は闇、わからない言葉に出合ったらどうしよう、という不安感がある。」p.117
・「辞書の世話にばかりなる文章は、たぶんB級かC級の出来だろう。保険の世話にばかりなる人生も、たぶんB級かC級の人生である。といってそれがないと不安が発生するのが辞書の変なところだ。」p.118
・「ホテルの机の抽斗には必ず聖書が入っている。あれはキリスト教の信者であってもそう開くものではないだろう。でもやっぱりないと落着かない、さまにならないというのであるわけで、あれも一種の保険だ。日本は仏教国だから、あの聖書はますます開かれない。手にする人がいない。そこで提案だが、どうせならあの聖書を辞書にしたらどうだろうか。」p.118
●『日常的に楽しむ辞書』群ようこ
・「編者の個性が出る独断に満ちた辞書がもっと出てきて欲しい。一般的には本棚のなかで鎮座することが多い辞書ではあるが、用例を読んで笑ったり、感心したり、日常的に楽しむものになればもっといいと、私は思っている。」p.133
●『無口なパートナー』杉本苑子
・「文章を書く者が、辞書を読む視力を奪われたらどうなるか。考えてもゾッっとする。広大な砂漠に、地図も磁石もなく抛り出されたような心細さに陥るのではなかろうか。」p.208
●『「敗荷」を知る』増田れい子
・「辞書は、転ばぬ先の杖である。まったく。丈夫なザイルのようなものである。ペンにすがって生きる身には、辞書は地所にまさる生産手段である。」p.217
●『辞書との出会い』中村真一郎
・「ところで広く読むということは、あるひとつの真理を追求するというのとは異なって、多様性を喜ぶという方向におのずから向かうので、そうすると個々の作品そのものを、そこからある目的意識をもって、何かを引き出すというのではなく、あるがままに、作者の意図にそって、その効果を味わうということになり、つまりはテキストの文体や、構成や形式を愉しむという方向に行きがちである。」p.226
・「私は本を読むということは、行間から私の勝手な幻想を拡げるということではなく、テキストの意味を、可能なかぎり作者の意図に近付けて理解することだという、基本的な事実を骨身にしみて教えこまれ、」p.228
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【写】樽前ガロー(苫小牧)

2009年05月01日 08時01分38秒 | 撮影記録2009
●樽前ガロー(苫小牧) 撮影日 2009.2.7(土) [Yahoo!地図]

・たまたま近くまで来たので「冬のガローはどうなっているんだろう」と様子を見に行ってきました。

・『樽前ガロー地区』案内板。
 
・『樽前ガロウ橋』
 
・橋からの上流側の眺め。木の葉っぱが無いぶん、夏よりも見通しは良いです。足元を流れるのは樽前川。
 
・両岸の岩の壁に生える苔。
 
・下流側の眺め。
 
・岩壁のアップ。
 
・人気のない静かな森の中を小川がサラサラ音をたてて流れるという状況。普通だと心が落着きそうなものですが、何故かこちらは居心地が悪く、あまり長居してはいけないような落着かない気分になります。

・今回は上流部の橋には立ち寄らずに、ガローを後に。

[Canon EOS 50D + EF-S18-200 IS]
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