ペパキャンのサバイバル日記

円形脱毛症で髪の毛がなくなりました。今はスキンヘッドライフ満喫です。
見た目問題当事者としての情報発信中!

蜷川実花写真展

2015-08-12 16:22:26 | 日記・エッセイ・コラム
仕事帰りに本町まで行って、蜷川実花写真展を見て参りました。
何だか最近は写真展と言ってもバシバシ写真撮ってください、TwitterやLINE、Facebook、ブログなどで宣伝してくださいと言う事でしたので遠慮なく撮らせて頂きました。


蜷川実花らしい極彩色の写真が満載で、色の洪水に埋もれてしまうような感覚が好きです。
大阪での展示は本日にて終わってしまうようですが、また、何処かで出展されると思いますので興味のある方は是非どうぞ。無料ですしね。
壁一面にこのカラフル写真がズラーッと並んでいる様子は圧巻でした。

なにわ淀川花火大会

2015-08-10 12:27:34 | 日記・エッセイ・コラム
今年は有料の席が取れたので、熱中症対策を万全にしてなにわ淀川花火大会に行って来ました。結論から言うと、花火大会直前にかなりのゲリラ豪雨に見舞われ、奇跡的に気温が下がり、熱中症の心配はほぼ皆無でした。
昔は十三(じゅうそう)の花火大会って呼んでいたのですが、呼び名が変わったみたいです。
夫の取引先の方の計らいで会場に到着すると、最前列の席をキープしてくださっていました。
ありがたい事です。

こんな感じ。私達は梅田会場でしたので、この写真の左奥から花火が上がる予定です。
有料エリアにはトイレも完備されているのですが、私はアルコールを飲むと非常にトイレが近くなるので、今回はお酒控え目にしました。

夕焼けも綺麗で待ち遠しいです。
私達の席だけテーブルも用意されておりましたので、皆さん、始まる前からお弁当やおつまみやビールなどをしこたま買い込んで宴会ですよ。宴会。(笑)

帰りは梅田までぼちぼち歩いて帰ったのですが、これはかなりの距離でした。普段は通れるところを封鎖してわざと迂回させるのでかなり歩く事になります。
歩きやすい靴を履いていく事。後は時間に余裕を持つことですね。

また、会場内や最寄駅近辺は携帯電話やネット回線が繋がりにくい状況ですので、お友達と待ち合わせなどする場合には着いたら電話するねー!LINEするねー!の平成方式ではなく、どこどこの駅のどこの改札に何時と昭和方式で待ち合わせた方が、はぐれにくいと思います。

浴衣姿の女性やカップルも沢山見かけて、日本の夏の夜を満喫しました。

動画をYouTubeにあげてみたのでもしよろしければ動画もどうぞ。

Yodogawa riverside fireworks 2015 Osaka Japan なにわ淀川花火大会

Yodogawa riverside fireworks climax 2015なにわ淀川花火大会フィナーレ


初盆

2015-08-09 17:09:21 | 写真
4月に夫の母(私から見たら義母、姑)が他界しました。
私たち夫婦が結婚した時から義母はリウマチを患っており、人の手を借りなければできないことが多くありました。
亡くなる直近には入院もしており、認知症の症状も出ており、お医者様からも覚悟をしておくようにと言われていましたし、
歳も80歳を超えておりましたのでそんなに突然のお別れというわけでもありませんでした。
10年近くに渡って介護をしてきた義父はその介護から解放されて、少しほっとしたような気持ちになったかもしれません。
もちろん50年以上連れ添った奥様をなくされたのですから辛い気持ちの方がずっと大きいには違いありませんが。

4月のお通夜と告別式は生前の義母の希望で家族葬という形で営まれました。喪主である義父。私たち家族3人。夫の妹家族5人。
たった9人だけで送り出しました。和やかな雰囲気で親密でそれはとても義母らしいお別れの儀式だったと思います。

そういえばこのブログ、私の近親者も読んでいるかもしれませんが、どうかこのことは読んだとしても私の両親を始め、親戚などには
伝えないでください。お願いします。

夫が一連の葬儀や49日の法要が終わって少しこぼしていたことを今日は書いておこうと思います。
ここから先は夫からの伝聞です。

義母は山口県は下関市で生まれました。83年前ですからまだ戦前ですね。実家は商売をしており、日本が満州(今の北朝鮮あたり)まで
領土を広げた際に家族で元山というところに移り住み、そこで終戦を迎えます。比較的裕福に暮らしていたらしいです。家は大きく、
お手伝いさんがいたとも聞きました。終戦直後にロシア兵が土足で上がり込んできたこと、着の身着のままで家族と手を引いて逃げたこと。
長い間ぎゅうぎゅう詰めの列車に揺られたり、丸一日かけて歩いたり、またぎゅうぎゅう詰めの船に乗せられ、下関まで命からがら逃げ帰ったそうです。
夫が小学校高学年か中学の頃に現代史を勉強した際にそのことを少し義母から聞いたらしいのですが、夫が大学に行った時には
なぜか「もう忘れた」を連発してその多くは結局闇に葬り去られることになったそうです。
下関の高校を卒業した義母は看護師の資格を取り、横浜で看護師として働いていたところ、たまたま怪我で入院してきた患者(義父)と
恋に落ち、結婚に至ったそうです。
義母の方が4歳も年上。おまけに恋愛結婚。相手は看護師。(当時看護師の職は今と違って少し下に見られる傾向があったらしい)
同郷とはいえ、山口県のど田舎で精米所を営んでいた次男坊である義父の
親戚連中は誰もがその結婚に反対で義母は最後の最後まで義父の田舎とは折り合いがよくありませんでした。
だから今回亡くなった知らせも義父の田舎にはしていません。
もし訃報を聞いたら年寄りがわんさか大阪まで押し寄せてくるだろうし、その割には料理がどうの、祭壇の花の数がどうのと
どうでもいい愚痴をさんざんこぼして帰ることになり、お迎えするこちら義母をゆっくり送り出すどころか彼らの相手で疲れてしまうことは
目に見えていたからです。

夫が生まれ、大阪に義父の転勤で引っ越してきて、夫の妹が生まれても義母は決して仕事をやめようとはしなかったようです。
当時高度経済成長期によくある一家を支えるサラリーマンと専業主婦、二人の子どもという形とは少し違っていたので夫は当然のことながら鍵っ子に
なりました。そのことに悪びれる風でもなく、時々看護師仲間と慰安旅行に行って家を平気で空けたり、高い寿司屋に夫を連れて行ったり、
高価な文学作品全集やレコードの類を自分で稼いだお金なんだからと割に豪遊していたらしいです。その血は夫にも少し流れているような気がします。
義父はそのような生活態度があまり気に入らなかったようで、何度も仕事を辞めて家に入るように頼んだらしいのですが、義母には
夫の稼いだ少しのお給料でちまちまやりくりするいわゆる普通の奥さんらしいことは何一つ興味が持てなかったのでしょう。そのことでよく夫婦喧嘩をしていたと
夫が記憶しているのが夫が高校生の時。

夫が大学3年で一旦休学して世界中をフラフラ旅行し、大学に戻ったころ、義父が心筋梗塞で倒れ、一命をとりとめたのですが
そのことがきっかけで義母のリウマチがひどくなり、看護師はやめたと聞きました。

私と夫が結婚したい旨を夫の両親に話に行った時にはすでにリウマチはかなり悪化していて、夫が私に話してくれたキャリアウーマンの片鱗すら
見て取れない優しい柔和な一人の女性でした。
私自身は実母から世の中に姑ほど恐ろしい生き物はないと教わっておりましたので後々どんないじめられ方をするのだろうとビクビクしていたのですが
それは全くの杞憂に終わりました。
嫁と姑の間には程度の差こそあれ、ある程度橋田寿賀子的な諍いがあるのが世の常だとすると、私と義母の関係はそれとはまったく違ったものでした。
お互いに干渉しない。干渉しないから接点もない。文句もない。ただそれだけ。
梅が生まれたときはちゃんと喜んでくれましたし、彼の誕生日は毎年覚えておいてくれてお祝いもいただいていましたが、それだけの関係でした。
夫が仕事を失敗したときも特に何も言ってなかったですね。もともと商売人の家に生まれたので案外そういう意味では商売はいい時も悪い時もあると
一番柔軟に考えていたのが義母であったと思います。

ただ身体の自由が利かなくなると並行して、義実家の中で義母の発言権が少しずつ小さくなり、しまいにはそこに居ても居なくてもいいような雰囲気が
作られていったのも事実です。皆若いころのやり手だった義母を忘れ、介護が必要な寡黙なおばあちゃんとしてしか扱わなくなっている様子が私にもひしひしと
伝わってきました。
しかし実際に介護を担っているのは義父であり義妹であるわけですから、そんなことは口が裂けても言えませんでした。
家族で集まっても大人はダラダラと大して面白くもないテレビを見続け、子供たちはゲームやスマホに夢中というなんとも居心地の悪い家になったなと常々
思っていました。最後は10年くらいその状態が嫌で、私も義実家から足が遠のいていました。

結局義母が亡くなった後のお通夜やお葬式の合間にも彼らはテレビのバラエティー番組にくぎ付けで、誰一人義母の生前について話をしようとはしませんでした。
親戚にも知らせない。義母自身の係累はもはや居所や生死すらわからない。たった9人の家族葬で集まった一番身近な家族ですら、仏様を一階に放置したまま、
2階の控室でテレビに夢中になるってこの人たちは一体何なのだ?と激しく思いましたが、それが彼らの日常であり、彼らのやり方なのでしょう。
何度も言うようですが、それについて私が口を挟む余地はないのです。

夫が一番憤っていたのは義母の生い立ち、冒頭の部分、当時満州からどんな思いで引き揚げてきたか、その事実を義父も義妹も今回義母がなくなるまでまったく知らなかったと
いう事実でした。日本の近代史にもまったく興味を持たず、また、連れ合いである女性や母親がどんな少女時代を送ってきたか(それはたぶん私が想像するよりずっと
壮絶であったに違いありません)さえ知らず、知ろうともせず、どうでもいいテレビ番組なんか見ている彼らに対して腹が立ったようでした。
葬儀会社を決めるのも戒名をどうするかも、大切なことはすべて夫に任せて、泣いてばかりで何も役に立たないことにも少しいらだっているようでした。

まあ、そんなこんなで本日初盆を迎えたわけなのですが、私もあのテレビを見てばっかりの態度にはいい加減腹が立ってきたので今回初盆は仕事があると
嘘をついて出席しませんでした。義母の死を悼む意味でこのブログを綴るのがせめてもの罪滅ぼしです。

先日他界された任天堂のCEO岩田聡さんには、面識のあった方、なかった方も含め全世界中が悲しみに打ちひしがれているというニュースを見ました。
彼の功績から考えればまた50代という若さもあり、多くの人にその死が悼まれるのは当然だと思います。
でもそんな人はごくわずか。義母のようにひっそりと息を引き取ったことさえ誰にも知らされずに旅立っていく人の方がずっと多いのだろうなと思いました。
私は初盆にもいかない悪い嫁ですが、義母のことを独りだけで悼むことにします。合掌。