ペパキャンのサバイバル日記

円形脱毛症で髪の毛がなくなりました。今はスキンヘッドライフ満喫です。
見た目問題当事者としての情報発信中!

「紙の月」読了

2014-03-28 13:18:05 | 本と雑誌

紙の月

紙の月
価格:¥ 1,575(税込)
発売日:2012-03-15

「紙の月」角田光代著、読んでみました。これ、ドラマを先に見て、あら~、原田知世って全然昔と雰囲気変わらず、いい歳の重ね方しているわね~と思っていましたら、どんどんストーリー展開が面白くなってきたので、思わず原作本も購入してしまった次第です。

41歳の専業主婦の主人公が銀行パートの仕事をするようになり、1億円も横領して海外逃亡する話です。ざっくりと。

まあ、実際にはそんな話はありえんやろ~とか思うのですが、これが読み進めるうちに妙にリアルに感じられるからこの角田光代という人の筆致が素晴らしいのだと思います。

まずは、子どものいない主婦が子どもを持つか持たないかで充分に夫と話をしたいのに、のらりくらりとはぐらかす夫の態度にイラッとする箇所に感情移入。パートに出始めてからもちょいちょいこの夫と言う人物が主人公をチクチクしたりする箇所があるのですが、そのチクチクがやがてザラリとした感触に変わっていって、そして、ついには何かを渇望するようになる心理変化がとても上手く描かれています。

後は裕福ではあるけれど、基本的に孤独な老人たち(主人公が受け持つ顧客)や、何かと問題を抱えながら主人公に思いを馳せる同級生達の日常、元彼のエピソードが横軸になっていてこの物語を立体的に浮かび上がらせているのが印象的でした。

これは男性が読んでもあまり面白くないかも知れませんね、ひょっとしたら。

「私がこの世に生まれてきた意味は一体何なんだろう?」とか

「この世界に本当に私は必要とされているのだろうか?」などという疑問を持ったことのない人の方が大半だと思いますが、特に女性は主人公の考えること、感じることに共感できる部分が多いと思います。

後、「お金は怖い」と言う人もいますが、私はお金が怖いのではなく、お金によって得られる(ような気分になる)万能感(この言葉はドラマの中でも非常に印象的でした)

の方がずっと怖いと思いました。人間なんて難しいこと考えているような顔をして暮らしていますけど、札束さえあればどんどんドーパミンが放出される単純な生き物なんだなと思いましたですよ。

久しぶりにお勧めの一冊です♪


一人きりの夜

2014-03-14 11:42:30 | 日記・エッセイ・コラム

梅のバイトが決まりました。何社か受けて落ちては受けて、ようやく某牛丼チェーン店に決まったようです。場所は学校と家との中間地点。地下鉄一本で行けるので通勤便利であります。

実は夏休みの終わりごろ、吹奏楽部を辞めたいと言い出しまして。すったもんだしたのですが、結局、彼の性格上、誰かと何かを集団でやり遂げると言うこと自体が苦になるようでして、

(だったら何で最初からそんなクラブ選ぶかな?って話ですが)、しばらくぼんやり過ごしていたのですが、夫の提案もあり、バイトでもしなはれと。

私自身は高校生だからやはり学業優先でバイトはそんなに身を入れてやらなくてもいいかな?と思っていたのですが、まあ、家での態度がだらしないことこの上ない。男子高校生なんてそんなものだと言われてみればその通りなのでしょうけど、家の手伝いはしないわ、一人前の口をきくわで、それだったらお小遣いくらいは自分で稼いできなさいということになりました。

バイト初日、その日はたまたま夫が遅い日でした。

久しぶりに一人でビールを飲みながら「ああ!」と思ってしまったのです。

思えば梅が生まれる前までは毎日がこんな感じでした。夫も私も働いていて、平日はほとんど一緒に食事をとることもありませんでした。たまたま二人の時間が合えばそのまま居酒屋などへ直行。私も友達と食事をしたりすることもありましたが、基本は家で一人で食事をしていたものでした。

それを寂しいと感じたこともなかったし、そんなものだと思っていました。何しろ梅が生まれるまで9年間もそんな生活をしていたのですから。

梅が生まれて、その生活が一変しました。

私は一人ではどこへも行けなくなりました。

どこに行くのにも梅を連れていくか、夫に預けるか。その二択です。

夫の両親も私の両親も遠方でしたし、ベビーシッターや託児所は不便だったり高価過ぎて利用しにくい感じでした。

今、私が時々お預かりしているファミリーサポートなどという便利なシステムも当時は存在しませんでした。

小学校の前半くらいまではとにかく、私は常に梅と一緒のユニットのようなものでした。文字通り単位としての。二人はいついかなる時もセットで行動するしかなかったのです。

仕事を再開してからも、常に優先順位は梅が一番でした。

仕事だろうが飲み会だろうが、ボランティアだろうが、とにかく、彼の行動時間や行動半径に合わせて私は生活をしてきました。

朝は食事を作り、夕方にはできるだけ家にいるようにしました。

私に時々泊まりの用事ができる時は何日も前から夫にしつこく念入りに梅のことを頼んで後ろ髪を引かれる思いで出かけたものです。ま、もちろん、たまにはパーっと遊ぶこともありましたけどね。

梅が学校行事や宿泊を伴う何かに参加することで彼が居ない日はたまにありましたが、それはあくまで「特別」な日で、「日常」ではありませんでした。

そんな日は夫といそいそと出かけたりして梅が決して食べられないようなスパイシーなエスニック料理や牡蠣を食べたりしていました。何しろ「特別」な日でしたからね。

でもその日はもう「特別」ではありませんでした。

これから続く「日常」へのささやかな一日の始まりでした。

梅はもう小さな子どもではないのです。当たり前だけど。

二人でかくれんぼうをして、私が本気で隠れると、見つけられなくて大泣きしていたあの頃の幼い梅とは違うのです。

そのことに気が付くのに私は少々時間がかかり過ぎたように思います。

時間がかかり過ぎたのか、事実を事実として受けとめるのが怖かったのかは定かではありませんが、やはり受け入れるべき時が来たのだと思いました。

夫にも「これからこんな夜が増えるよ。」と言われました。

でも私はそんなことをさらりと言ってのける夫にも少しだけ腹が立ちました。

いついかなる時でも、「仕事」という御旗の下に、カレンダーに×印をすれば

(我が家では夫が夕食要らない日はそういうルールになっています)

どこへでも気軽に行けて、どんな時間に帰宅しても、そして翌朝どれだけ眠っていても、何の責任もない身軽な立場の人にわかったような口ぶりをされたくありませんでした。

でも私のそんな持って行き場のない小さな怒りは圧倒的な寂しさの前では、案外小さなものにも思えました。

そうです。

私は激しく寂しい思いをしているのだと強く思いました。

子どもが健やかに成長して、親の元を離れて行くのは、究極の子育てのゴールです。

もうそのゴールが見えてきたんだな、それは、それで喜ばしいことなのだと自分に言い聞かせました。

でも、まだ、私の頭は少々混乱していました。

16年という月日がどう考えても早く過ぎ去り過ぎたのではないかと。

私の知らないところで誰かが時計のネジを早回ししたのではないかと。

いや、ひょっとしたら、私の脳の一部が委縮して、何年か分の記憶がぶっ飛んでいるのではないかと。

でもどうやらどれもそれは私のおかしな妄想のようでした。

きちんと梅は高校生になって、自分の意思でバイトに行って、夜家を空けている。

そして私は16年分きっちりと歳をとってしまった。

それだけが事実でした。

何でもない普通の夜でした。

春と冬が交錯するようなお天気で、日差しに暖かさは感じられるものの、夜遅い時間帯はやはりまだ冬がそこに居座っているのを感じました。

「特別」から「日常」へのシフトはこれからも続いていくことだろうと思います。

こんな感情があったことすらいつかはすっかり忘れてしまうんだろうなと思います。

でも今は忘れたくないと思いました。

だから今日はこの気持ちを残しておきたくてこうして日記に綴っています。

ねえ、本当に子どもって早く成長し過ぎるよね!