チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「東洲斎写楽=踏襲斎洒落=物真似亭洒落風」

2011年06月09日 00時29分55秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる
東洲斎写楽は、寛政6年(おおよそ西暦1794年)5月、
【28】枚の役者大首絵でデビューした。当時、
浮世絵版画1枚の値段は、[にっぱち=じうろく]掛け蕎麦と同じ
16文(現在の価値だとおおよそ500円弱)だったという。
ともあれ、
その【28】枚の演目と人数の内訳は、

「花菖蒲文禄曾我」(一人=9、二人=2)
「敵討乗合話」(一人=6、二人=1)
「恋女房染分手綱」(一人=8、二人=1)/「義経千本桜」(二人=1)

である。のべ33人のうち、女形は8人である。
「おちょぼ口」の女形はともかく、これら28点33人すべての役者絵は、
いずれも「歯」を見せてない。ちなみに、
ヒトの歯は【28】本である。

それはさておき、
「花菖蒲文禄曾我」は、元禄14年(およそ1701年)に
伊勢亀山で実際にあった仇討ちをもとにしたものである。
石井半蔵・源蔵兄弟が父と兄の敵
赤堀源五右衛門を見事討ち取ったのは、父が討たれてから
【28】年目のことだった。浅野内匠頭が江戸城内において
吉良上野介に刃傷に及んで切腹に処せられた2箇月後のことである。

次に、
「敵討乗合話」も、題目どおりに仇討ちものである。それから、
「恋女房染分手綱」は、お家ものであるが、
[敵対]を描いてる。また、
「義経千本桜」には1点(ツーショットもの)であり、
川連法眼(かわつらほうげん)に
鬼佐渡坊(おにさどぼう)という、
こなた義経を匿う坊主、かたや義経の命を狙う坊主、
という、これまた[敵対]する関係である。

というように、
写楽デビューの【28】枚の役者絵版画は、
「仇討ち」「敵対」
という、赤穂事件をにおわせる題材づくしとなってるのである。
しかしながら、
写楽の正体は、吉良の家臣に実在した斎藤十郎兵衛と同姓同名の
阿波侯(蜂須賀)の能役者「斎藤十郎兵衛」であるという
"red herring(レッド・ヘリング=燻製鰊)まで用意する周到さが、
どれほどVIPだったかを暗示してる。
「お手々のシワとシワをアワせて、シワシワーっ! サームー!」
蜂須賀侯(実質は佐竹)は阿波と淡路を合わせ領した。
淡路=あわじ、である。さらに、
写楽説を唱える者もいる北斎は、
吉良家の重臣(150石)小林平八郎央通の娘の娘の子、つまり、
北斎は吉良の家臣小林平八郎の曾孫である、
という話もある。私見であるが……
当初、勝川派だった北斎は春朗という号だった。
東洲斎の東は春、州は中州。北斎は川村という名字だったらしいが、
御鏡師中島伊勢の養子となって中島を名乗ってた。
州=中州=中島……である。その中島伊勢の居所は、
赤穂事件後に払い下げになった吉良邸の一角にあった。ただし、
この北斎の件もレッド・ヘリング=目くらましなのかもしれない。
スリムクラブの真栄田賢と三宅裕司のダミ声を聞き分けれない
拙脳なる私には判らない。が、
[東洲斎写楽]というペンネイムが
[踏襲才洒落]という意味だということは、
駄洒落オヤジである私には察しがつく。
写楽という絵師は、それまでの役者絵の
パロディとして宝井キカクされたキャラクターなのである。
日本の文化は江戸まではすべて駄洒落でできてるのである。
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