チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「Parisの審判とマネの右手の法則/草上の昼食(エドゥアール・マネ画)」

2013年12月29日 23時08分06秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

エドゥアール・マネ 草上の昼食


今年は、
"Edouard Manet(エドゥワル・マネ、1832-1883)の
"Le Dejeuner sur l'herbe(ル・デジュネ・スュル・レルブ=草上の昼食)"
が完成されて(1863年)から150年の年だった。現在、
新展示なったオルセー美術館の目玉作品となってるが、
官展である1863年のサロンに出品して落選となった。
現実の女性の裸を描いたことが不道徳極まりないとして、
落選展でもプロ・アマから非難を浴びた。

マネの絵では晩年の「フォリ=ベルジェールのバール」がもっとも好きだが
(cf;「フォリー=ベルジェールのバー/マネによるキュビスムの萌芽」
http://blog.goo.ne.jp/passionbbb/e/c037e2612965b6281c70b37166fff531 )
「草上の昼食」にも強烈に惹きつけられる。
虚心坦懐に観ててもジーンとくる感動的な絵である。が、ともあれ、この絵は、
ルヴル所蔵のジョルジョーネ(最近ではティッツァーノ作とされてる)の「田園の合奏」に、
ラファエッロの「パリスの審判」をもとにした
マルカントニオ・ライモンディの銅版画の右下の3人を素材にして、
アガサ・クリスティが「エルキュール・ポワロ」の
"Lord Edgware Dies(邦題=エッジウェア卿の死)"でネタにした、
ギリシャ神話のパリスと語源は別ながら同じスペルの町である、
大改造されつつあるパリ(Paris)の当時の
現実を象徴的に描いた絵画である。

「3人」ということにまず、
「キリスト教」を連想させるようになってる。が、
後方の川にもう一人、沐浴をしてる白い衣服の女性がいる。
キリスト教においては沐浴は洗礼である。その女性の上には
【赤い】鳥が描かれてる。ステッキを左手に持つ男性の右手の
親指がその沐浴をする女性を通過した先に
指し示してるアトリビュートである。いっぽう、
人差し指の先には裸の女性を透過して絵の左下の
赤(聖母マリアの服色=神聖な愛)とは補色関係にある遠い色である
【緑の】蛙を指し示してるのである。
神聖な愛の正反対の色ということは、
下世話な性欲を表してるということである。すなわち、
親指の指す方向は、
川の中→セーヌの中之島→シテ島のノートルダム寺院とその北北西の
ヴァンドーム広場前の破毀院の象徴であり、
パリ(シテ島が町の発祥といわれてる)から西南西の、
当時はもうなくなってたブルボン朝のヴェルサイユ宮殿であり、
人差し指の指す方向は、
Maitresse royale(メトレス・ロワイヤル=公妾)が堂々と存在した
それは腐敗の象徴であった。

画面全体は深い緑の森に囲まれてる。が、
この指が指し示す二方向は白や明るい色が配されてる。
かつ、後方の白衣の女性よりも、手前左の裸体の女性のほうが、
はるかに明るく描かれてる。つまり、
キリスト教の戒律よりも現実の性風俗のほうが脚光を浴びてる
現実を映し出してるのである。

かように、マネの絵というものは意味深く、
単に屋外の"移りゆく光の中の一瞬を切り取った"という
だけの印象派といわれるモネやルノワールのような、
商業的な絵とはまったくその意義を異にしてるのである。
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