チャイコフスキー庵 Tchaikovskian

有性生殖生物の定めなる必要死、高知能生物たるヒトのパッション(音楽・お修辞・エンタメ・苦楽・群・遺伝子)。

「鳥と十字架/ジョルジュ・ブラック没後50年」

2013年09月01日 19時02分35秒 | 絵画・カウンタ(寓意がある希ガスる

ジョルジュ・ブラック 没後50年


昨日は、
明治政府が迎えたお雇い外国人のひとりだった医者、
Erwin von Baelz(エアヴィン・フォン・ベルツ、1849-1913)の
没後100年にあたる日だった。
"Mongolenfleck(モンゴーレンフレック、Mongolian Spot=蒙古斑)の
命名者である。
草津温泉大好き外人としても知られ、また、
箱根富士屋ホテル滞在中に女中の手があかぎれてるのを見て、
グリセリンやエタノールを含む「ベルツ水」を処方したことでも知られる。

水仕事で荒れてしまったわけではないかもしれないが、
バルセロナのアビーニョ通りの売春宿で荒れた生活をしてた
売春婦たちを描いたピカソの
"Les Demoiselles d'Avignon
(レ・ドゥムワゼル・ダヴィニョン=アヴィニョン通りのお嬢さんがた)"が
西洋絵画におけるキュビスムの創始だといわれてるが、
昨日はまた、
ピカソとともにキュビスムの元祖とされる
Georges Braque(ジョルジュ・ブラック、1882-1963)の
没後50年にあたる日でもあった。キュビスムは、
その前衛性によって印象派にも多大な影響を与えた
マネが発見した多視点性、対象再構成性という新たな扉を、
セザンヌがこじ開け、ピカソとブラックがその中の世界に
飛び込んでった画法である。とはいえ、
ブラックはキュビスムだけの画家ではない。ピカソ同様、
デッサンの巧い画家だった。ときどき、
秀逸な"古典的"な絵を描いた。1946年に制作した
"Les Pavots...Vase a anse
(レ・パヴォ...ヴァズ・ア・オンス=ポピー(ひなげし)...取っ手附きの花瓶)"
のような、美術的史的には価値がない陳腐な作品ながら
黄色と深紅色の色彩配置の妙と抜群のデッサン力に基づく絵も、私は
大好きである。

braqueとは、
braquer(ブラッケ=目を向ける、銃口やカメラのレンズを向ける)という動詞の
直説法現在単数一人称および三人称の活用形なのである。
いろんな位置や時間からの視点で物をとらえるという
キュビスムの画家に生まれながらにしてなるようなサーネイムである。
私が若い時分には、ピカソの名は認知してても、
ブラックを知ってる者は、美術を専攻してる者でも少なかった。
かつて「まんがはじめて物語」のお姉さん役で知られてた
女子美出身の女優岡まゆみ女史がデビュー当時に好きな画家として
ジョルジュ・ブラックを挙げてたので驚いた覚えがある。

パリのルーヴル美術館のシュリー翼1階(日本式にいうと2階)の
第33番展示室(閉鎖されてることが多い)は、かつて、
アンリ2世の控えの間だった。その天井には、
ブラックの「鳥の絵」が3点描かれてる(1953年制作)。
( http://cartelen.louvre.fr/cartelen/visite?srv=car_not_frame&idNotice=16335 )
結果として、これらがルーヴルにある作品の中でもっとも新しいものらしい。
この独特の意匠の鳥(oiseau=オワゾー)を、晩年のブラックは多く描いた。
それがなぜかということは、
「あまちゃん」の能年玲奈女史と福士蒼汰の顔の違いが
なかなかに判別できない拙脳なる私には解りかねる。が、
ブラックのデザインした鳥は、
頭部と尾部、それにクロスする両翼、という
十字架なのである。
ピカソもブラックも、
本当のイケメンというわけではなかったが、
ともに大きな目をした高くて大きな鼻の、
存在感のある顔をした、女性ウケする男だった。が、
ピカソはスケをコマすことに精力を注ぎ、多くの女性を"鳴かせ"てきたが、
ブラックはただのダンディなシャレ者だったので、女たらしの罪滅ぼしに
十字架のフォルムの鳥を描いたわけでもない。
生まれたのが、アルジャントゥイユという、
Oise(オワズ。今年遷宮のオイセではない。
ゴッホの終焉の地オーヴェール・スュル・オワーズのオワーズである)県だったから、
というオヤジギャグではなかったことは確かである。

南仏ニースの西約12kmにあるSaint-Paul-de-Vence(サン・ポル・ドゥ・ヴォンス)の
マーグ財団美術館のチャペルの十字架のイエスの像の上には、
ブラックが最晩年の1962年に制作した、
"Oiseau Blanc et Mauve(オワゾ・ブロン・エ・モヴ=白色の鳥とゼニ葵色)"
というステンドグラスがある。この美術館は
美術収集家のエメ・マーグとマルグリト夫妻が、
1954年に11歳で死んだ息子ベルナルを偲ぶために
チャペルを建てたところに築いたものだったのである。いっぽう、
ルーアンの北約50kmにある、イギリス海峡の海沿い(いわゆるノルマンディ)の町、
Varengeville-sur-Mer(ヴァロンジュヴィル・スュル・メル)に、
ブラックと年上妻マルセルの墓がある。その墓石にも、
「鳥のモザイク」がはめ込まれてるのである。
トリにて、一件、落着。
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