1日1話・話題の燃料

これを読めば今日の話題は準備OK。
著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月10日・マルティン・ルターの暴露

2019-11-10 | 思想
11月10日は、コピーライターの糸井重里が生まれた日(1948年)だが、宗教改革を起こしたマルティン・ルターの誕生日でもある。

マルティン・ルターは、1483年、現在のドイツのアイスレーベンで生まれた。
マルティンは19歳のとき、エルフルト大学に入った。彼は法律を学んだが、現実生活が不安定なものに思われ、しだいに神学と哲学にひかれていった。
1505年の夏、当時21歳のルターが大学へもどろうとしていると、その途中、彼のすぐそばに、雷が落ちた。恐怖に襲われ、彼は叫んだ。
「お助けください、聖アンナ。わたしは修道士になります」
聖アンナは、聖母マリアの母親である。これがルターの回心で、以後、彼は修道士になり、カトリックの修行を積み、29歳のころには大学の神学部教授になった。
しかし、ルターの悩みは深かった。教会の教えにのっとって神を愛すると言いながら、その実、わが身の平安と幸福ばかりを望んでいる自分の二面性に苦しんだ。そんな折も折、ドイツの大司教が、贖宥状を大々的に販売しはじめた。
「それはちがうだろう」
とルターは思った。そして彼は考えぬいた末、神による罪の許しや救い(福音)は、カトリック教会の言うように、きびしい戒律による生活を送ったり、善行を積んだり、ましてや贖宥状を買ったりして得られるものではなく、心から神を信仰し、ひたすらイエス・キリストに自身をゆだねることで、無条件に与えられるものだ、という結論にいたった。この考えが「福音主義」である。
1517年10月、33歳だった彼は、ウィッテンベルクの教会の扉に、ラテン語で書かれた「95カ条の意見書」を貼りだした。これは、教会側の贖宥状販売に対する抗議文で、ここから宗教改革、プロテスタントがはじまった。
ルターは、「聖書中心主義」「万人司祭主義」を唱え、聖書をドイツ語に訳し、一般の人々に聖書を広めた後、1546年2月、胸の痛みを訴えた後、脳卒中を起こし、故郷アイスレーベンで没した。62歳だった。

「それはそうだろう」と思われることでも、まわりが黙っている状況では、なかなか言いだしにくいものだ。たとえば、2013年9月にアルゼンチンで、日本の首相が、
「福島(の原子力発電所)はアンダーコントロールである(管理できている)」
と笑顔で言ってのけたとき、日本人でそれをほんとうだと思った人は、おそらくひとりもいなかったろう。そのころの連日のマスコミ報道によって、福島では放射能汚染水が地中や海に漏れだし、止めようとして止められないでいるのを、みんな知っていた。
おそらく、あのとき、首相は味をしめたのにちがいない。世界に向けて大ウソをついて五輪を引っ張ってこれるなら、もう何をやってもいいのだとたかをくくったのだろう。

思っていることと、言うことばとを、ぴったりくっつけて、離れないようにしておくことは、人間としてとても大事である。ただ、それには相当の勇気がいる。
付和雷同しやすい、ことなかれ主義の日本人の国民性を考えると、ルターの偉大さが再認識される。
(2019年11月10日)


●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
古今東西の思想家のとらえた「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、道元、ルター、デカルト、カント、ニーチェ、ベルクソン、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、オーロビンド、クリシュナムルティ、マキャヴェリ、ルソー、マックス・ヴェーバー、トインビー、ブローデル、丸山眞男などなど。生、死、霊魂、世界、存在、認識などについて考えていきます。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月9日・野口英世の欠落

2019-11-09 | 科学
11月9日は、ゴロ合わせで消防庁「119番の日」。この日は、サッカーのデル・ピエロが生まれた日(1974年)だが、細菌学者、野口英世の誕生日でもある。

野口英世は、1876年、福島県の、現在の猪苗代町で生まれた。生まれたときの本名は、清作。彼の家は貧しい農家で、清作には姉と弟がいた。生後半年足らずのときに、清作は囲炉裏に落ちて、左手を大火傷し、指が手にくっついてしまった。
清作が14歳のころ、周囲の募金活動により手術費用が工面され、外科手術を受け、左手の指が使えるようになった。このときの感激が、彼をして医学の道を志さしめた。
20歳の年。上京するにあたり、家の柱に彼はこう彫りつけたという。
「志を得ざれば再び此の地を踏まず」
左手の手術をしてくれた医師のつてで、東京に住む歯科医を頼り、学資を捻出してもらい、21歳のときに医師の免許を取得した。そして、22歳になる年に、北里柴三郎が所長を務めていた伝染病研究所に就職した。このころ、本名を「清作」から「英世」に改名。ここに野口英世が誕生した。
24歳のとき、渡米。ペンシルベニア大学の医学部で助手となった。そして27歳のとき、ロックフェラー医学研究所に移籍した。
野口英世は、ずらりと並んだおびただしい数の試験管に同分量の試験薬を短時間で注入するなど、膨大な分量の実験を正確に、疲れを知らず続けるハードワークで業績をあげ、34歳のとき、梅毒スピロヘータの純粋培養に成功したと発表し、世界をあっと言わせた。彼はそのころから何度もノーベル賞候補になった。
彼はロックフェラー財団の研究チームの一員として、中南米やアフリカへおもむき、当時流行していた黄熱病の研究に励んだ。そうして野口自身も黄熱病にかかり、1928年5月、芸在のガーナのアクラで没した。51歳だった。
伝染病で死亡した患者の遺体は、現地で火葬される決まりだったが、ロックフェラーの鶴の一声でルールは変えられ、野口の遺体は金属製の密閉された特注の柩に収められ、米国へ運ばれてニューヨークの墓地に丁重に葬られた。

野口英世は細菌学の学者であり、手作業で実験データを積み重ねた時代の研究者だった。彼の没後、細菌よりもっと微小なウイルスの研究が進み、野口が発表した学説のかなりの部分が、ひっくり返されている。とはいえ、そんなことは科学、医学の世界では日常茶飯事であって、新事実の発見も、前人の研究成果があった上での成果なのだから、野口英世の偉大さを現代の科学の物差しで測ってはいけないと思う。

野口英世の出世物語の興味深いのは、周囲に無心して集めた学資を、遊興で散財し、また援助に頼り、そのお金をまた遊びにつかい、また無心して、を繰り返しているところである。上京する際、小学校時代の教頭が用立ててくれた、当時の一般の月給取りの年収の1年分にあたる金額の学資を、上京後ほんの1、2カ月でつかいきってしまったというから、その派手な遊び方もさることながら、その神経の太さにかえって感心する。そういう大胆に欠落した部分がないと、大事業というものは成らないのかもしれない。
(2019年11月9日)


●おすすめの電子書籍!

『大人のための世界偉人物語』(金原義明)
世界の偉人たちの人生を描く伝記読み物。エジソン、野口英世、ヘレン・ケラー、キュリー夫人、リンカーン、オードリー・ヘップバーン、ジョン・レノンなど30人の生きざまを紹介。意外な真実、役立つ知恵が満載。人生に迷ったときの道しるべとして、人生の友人として。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月8日・マーガレット・ミッチェルの恋

2019-11-08 | 文学
11月8日は、『日の名残り』の作家カズオ・イシグロ(1954年)が生まれた日だが、米国の女流作家、マーガレットミッチェルの誕生日でもある。『風と共に去りぬ』の作者である。

マーガレット・マナリン・ミッチェルは、1900年、米国南部ジョージア州のアトランタで生まれた。父親はスコットランド系の弁護士だった。
子どものころから、自分で童話をこしらえては、自分で表紙を描いて絵本を作っていたマーガレットのまわりには、意志が強く気性が激しかった祖母を含めて、南北戦争を生き抜いた人々がいて、彼女は南北戦争の敗北により南部から失われたものの話を聞いて育った。
カトリック系の女学校、マサチューセッツ州にあるスミス・カレッジをへて、アトランタへもどってきたミッチェルは、20歳のころ、地元の社交界にデビューし、ダンス・パーティーで知り合った二人の男と三角関係になった。相手は「レッド」の愛称で呼ばれるベリーン・アップショーと、ジョン・マーシュという男性で、レッドは定職を持たない野性的な魅力の男、マーシュは堅実な信頼できる男、と対照的な二人だった。ミッチェルは二人の男を振りまわして楽しみ、二人はミッチェルをめぐって争った後、レッドが21歳のミッチェルと結婚した。
しかし、二人の結婚生活は3カ月しか続かなかった。レッドが出ていった後、まだ正式に離婚していなかった彼女はマーシュとよりをもどし、地元の新聞社の記者になった。彼女は週6日、60時間働き、記事を書きまくった。
ふらりとアトランタに舞いもどってきた夫レッドは、ミッチェルに暴力をふるい、離婚が成立した。そして、独身になった彼女は、24歳のとき、マーシュと再婚した。
結婚後、新聞社を退社したミッチェルは、ある日、考えごとをしながら運転していて、クルマを道路わきの木にぶつけた。足首をねんざした彼女は、夫にすすめられ、タイプライターの前にすわって小説を書きはじめた。26歳のときに書きだし、何度も書き直し、文献を調べ、人に取材し、途中に長らくまったく書かなかった期間をへて完成されたその小説が『風と共に去りぬ』だった。
南北戦争時代を背景に、恋愛ドラマが繰り広げられるその小説は、彼女が35歳のときに出版されるや、大恐慌の不景気な時代にもかかわらず、たちまち大ベストセラーとなり、彼女は一躍世界的作家の大金持ちになった。
彼女は1949年8月、アトランタの路上でクルマにはねられ、死亡した。48歳だった。

『風と共に去りぬ』は、拙著『名作英語の名文句』でも取り上げた。
マーガレット・ミッチェルの生涯を振り返ってみると、彼女の人生経験が『風と共に去りぬ』によく反映されていることがわかる。
彼女が最初に書いたという、小説の最後の場面は要するに、ヒロインが、二人の男にひかれ、男たちが自分をめぐって争うのを楽しみながら、結局、二人とも失い、ひとりぼっちになってしまったヒロインは、じつは二人の恋人のどちらをも、まったく理解していなかったのではないか、と気づく、そういうシーンである。これは、ミッチェル自身にとって自尊心にこたえるシビアな場面だったにちがいなく、それをあえて書かざるを得ない作家の業について考えさせられる。
(2019年11月8日)



●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「日の名残り」「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月7日・キュリー夫人の美貌

2019-11-07 | 科学
11月7日は、『ソロモンの指輪』を書いたコンラート・ローレンツが生まれた日(1903年)だが、ラジウム、放射能の研究で名高いキュリー夫人の誕生日でもある。

キュリー夫人は、1867年、現在のポーランドのワルシャワで生まれた。本名は、マリア・サロメ・スクウォドフスカ。両親ともに教師だった。
15歳でギムナジウムを卒業した彼女は、経済的な問題から進学できず、家庭教師などをしてお金を貯めた後、23歳のときに仏国パリに出た。
ソルボンヌ大学で、化学と物理学を学びはじめた彼女は、名を「マリア」から「マリー」に改めた。27歳の彼女が出会ったのが、8歳年上のピエール・キュリーだった。
ピエールは大学の教師で、すでに電気や磁気の研究で成果を挙げていた優秀な科学者だった。二人は結婚した。彼女は、マリー・キュリーとなった。
当時、フランスには、放射能の単位に名を残すアンリ・ベクレルという物理学者がいて、ウランが、X線に似た透過力をもつ光線を発することを突き止めていた。キュリー夫妻はこれを研究テーマに据え、粗末、劣悪な実験環境のなかで、大量の鉱石を大鍋で煮て、沈殿させ、ろ過させといった作業を延々と繰り返して精製していく忍耐強い実験を繰り返し、放射能を発する放射性元素を追究していった。そして、彼女が31歳の年、ポロニウム、ラジウムの新元素を発見した。彼女の実験室で濃縮、精製されたラジウムが青い光を放つ光景は、キュリー夫人の伝記のなかでも印象深い名場面である。
彼女が36歳の年、キュリー夫妻は、ベクレルとともに放射性元素に関する研究によりノーベル物理学賞を受賞した。はじめて女性にノーベル賞が授与された歴史的瞬間だった。
38歳のとき、夫のキュリーを交通事故でなくし、未亡人となった彼女は、ソルボンヌ大学の初の女性教授に就任した。
そして44歳のとき、ラジウムとポロニウムの発見とそのほかの研究により、彼女はノーベル化学賞を受賞した。これは、同じ人物が二度ノーベル賞を受賞した初の快挙だった。
マリー・キュリーは、彼女の業績に嫉妬する科学者による中傷や、マスメディアに悩まされ、うつ病と腎臓病に苦しみながらも、科学の研究環境の整備に努め、第一次世界大戦のときには、医療用のレントゲン設備やレントゲンを搭載した車両の配備に尽力した。
1934年7月、療養のため訪れていたパッシーで没した。66歳だった。

マリー・キュリーが書いた論文のいくつかは、放射線汚染のため、防護服を着てでないと読めないという。

マリー・キュリーが生きた時代のフランスは、女性差別がはげしく、彼女はことあるごとに女性蔑視、嫉妬と闘わなくてはならなかった。
現存する顔写真を見ると、彼女はいわゆる器量良しで、とくに若いころはきれいな顔だちの美人である。しかし、研究一辺倒で、化粧っけのない、地味な女性だった。
もしも現代のフランスにキュリー夫人が生きていたら、粋なファッションに身を包み、つねに華やかな雰囲気を周囲に振りまきながら、男たちが目をむくような偉大な業績をつぎつぎと打ち立てて、婉然と笑っているのではないか。
(2019年11月7日)



●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月6日・ネイスミスの発明

2019-11-06 | スポーツ
11月6日は、『特性のない男』を書いた作家、ローベルト・ムージルが生まれた日(1880年)だが、体育教育者ジェームズ・ネイスミスの誕生日でもある。

ジェームズ・ネイスミスは、1861年、カナダのオンタリオ州で生まれた。両親はスコットランドからの移民で、父親は木材をのこぎりでひく職人だった。
農場で育ったネイスミスは、子どものころ、キャッチボールやかくれんぼ、「ダック・オン・ア・ロック(duck on a rock)」をして遊んだ。「ダック・オン・ア・ロック」というゲームは、敵と味方に分かれてたたかい、たがいに敵の陣地にある大きな石を目標とし、それに小さな石をぶつけると得点になるというものだった。味方チームと敵チームは、たがいに敵の攻撃から自分の大きな石を守ろうとするが、この遊びをよくやっているうちに、ネイスミスは、小石を直線的に投げつけるよりも、ふんわりとロビングを上げて大石の上に落とすほうが効果的であることに気がついたという。
21歳のとき、モントリオールの大学に入ったネイスミスは、スポーツ万能の学生として、カナディアン・フットボール、ラクロス、ラグビー、サッカーなどの球技や体操で活躍し、たくさんのメダルを獲得した。
大学卒業後は、米国マサチューセッツ州のスプリングフィールドにあるYMCA国際トサーニング・センターの体育教師となった。
寒さのきびしい冬季期間、センターでは屋内で運動をおこなったが、荒っぽい連中が屋内に集まると、衝突が起こりやすく、ネイスミスは頭を痛めていた。そんなとき、体育教育科のトップから、屋内用のゲームをなにか考案するようにとの課題が与えられた。そこでネイスミスは、それほど広いスペースを必要とせず、場所を荒らさず、誰もが公平にチャンスをもつことのできる、荒っぽくないゲームを、と、案を練った。
それで、ボールをもって走ってはならない、相手のからだに触れてはならないというルールをもち、ゴールに殺到して選手同士がぶつかり合わないようゴールが高い位置に設置されたバスケットボールが考案された。ここに子ども時代の遊びの経験が生かされた。
史上最初のバスケットボールのゲームがおこなわれたのは、1891年の12月、ネイスミスが30歳のときだった。対戦するチームは9人対9人で、サッカーボールを用い、ゴールには、桃の収穫用のかごが利用された。
こうして、バスケットボールが発明された。
ネイスミスはその後、カンザス大学の教授となり、同大学のバスケットボールクラブの監督などを務めた後、1939年11月、脳出血のため、カンザス州ローレンスの自宅で没した。78歳だった。

近年、「スラムダンク」「黒子のバスケ」などのバスケットボール・マンガが人気で、米国のプロ・バスケットボール・リーグ、NBAにはスター・プレイヤーたちがひしめき、彼らはオリッピックでも活躍してよく話題にのぼる。スター選手たちの年収は軒並み高額で、なかには6000万ドル(約60億円)以上の年棒をとる選手もいるというからすごいけれど、こうしたバスケットボールの隆盛も、この人がいなかったらすべてなかったことを思えば、ネイスミスの遺産の大きさにあらためて驚かされる。
(2019年11月6日)


●おすすめの電子書籍!

『アスリートたちの生きざま』(原鏡介)
さまざまなジャンルのスポーツ選手たちの達成、生き様を検証する人物評伝。嘉納治五郎、ネイスミス、チルデン、ボビー・ジョーンズ、ルー・テーズ、アベベ、長嶋茂雄、モハメド・アリ、山下泰裕、マッケンロー、本田圭佑などなど、アスリートたちの生から人生の陰影をかみしめる「行動する人生論」。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月5日・ヴィヴィアン・リーの宿命

2019-11-05 | 映画
11月5日は、作家の海音寺潮五郎が生まれた日(1901年)だが、ハリウッド女優ヴィヴィアン・リーの誕生日でもある。

ヴィヴィアン・リーは、1913年、当時英国領だったインドの西ベンガル州ダージリンで生まれた。本名はヴィヴィアン・メアリ・ハートリー。父親は騎兵隊の将校だった。
3歳のときから舞台に立っていたヴィヴィアンは、6歳のとき英国イングランドへ引っ越し、ローハンプトンのカトリック女子修道院の付属学校に入学した。
その後、父親の転勤についてヨーロッパを転々として育った彼女は、18歳のころ学校時代の友人が出演している映画を観て、女優を志し、ロンドンの王立演劇学校へと入学した。しかし、年上の弁護士と恋に落ちて結婚し、演劇学校を退学して女の子を産んだ。
22歳のとき、彼女は映画に端役として出演し、演劇の舞台にも立つようになり、芸名ヴィヴィアン・リーを名乗るようになった。「リー」は夫のミドルネームだった。
舞台デビューしてすぐに絶賛されたヴィヴィアン・リーは、彼女の演技に惚れ込んだ俳優ローレンス・オリヴィエと恋に落ちた。たがいに伴侶のあるダブル不倫で、二人は仕事上でも舞台劇の「ハムレット」で共演し、不倫関係のまま同棲をはじめた。離婚していっしょになろうとしたが、双方とも離婚話がまとまらなかった。
舞台と映画で活躍していたリーは、ハリウッドでマーガレット・ミッチェルのベストセラー小説『風と共に去りぬ』が映画化されることを聞き及び、米国へ渡り、自分をヒロインのスカーレット役として売り込み、フィルムテストに合格しその役をつかんだ。
映画「風と共に去りぬ」はリーが26歳のときに公開され、大ヒットとなった。美貌と演技力をいかんなく発揮し、リーはアカデミー賞主演女優賞を受賞、世界的女優となった。
27歳の年にふた組の離婚が成立し、リーはオリヴィエと結婚した。
彼女は38歳のとき「欲望という名の電車」でもアカデミー賞主演女優賞を受賞した。
ヴィヴィアン・リーは、オリヴィエと同棲をはじめたころから、躁鬱病をわずらっていて、理由もなくとつぜん怒鳴りだし、しばらく怒っていたかと思うと、急に静かになり、ぼんやり遠くを見てすわっている、というような発作をたびたび起こした。鬱状態の症状や不眠症により、映画の撮影では、彼女にとってもスタッフにとっても困難と苦しみをともなうことが多かった。
夫のオリヴィエは彼女の発作によく耐えたが、リーに愛人ができたこともあり、彼女が47歳のとき二人は離婚した。リーは躁鬱病の上に、結核も抱え、それでも映画や舞台に出つづけたが、1967年7月、結核のため、ロンドンの自宅で没した。53歳だった。

ヴィヴィアン・リーというと、彼女の代表作「風と共に去りぬ」「欲望という名の電車」を思いだす。どちらも強烈な個性をもった女性の役で、すごい美人で、見るからにただ者ではない、エキセントリックな魅力があってすばらしかった。あの二作品は、彼女の圧倒的な存在感のために、リメイクが困難である。
ヴィヴィアン・リーこそはワン・アンド・オンリーの女優で、宿命の女、生きたカルメンだった。ああいう美人に人生を目茶苦茶にされたい、という願望をひそかにもたない男はいないのではないか。
(2019年11月5日)


●おすすめの電子書籍!

『ここだけは原文で読みたい! 名作英語の名文句』(越智道雄選、金原義明著)
「風と共に去りぬ」から「ハリー・ポッター」まで、英語の名作の名文句(英文)を解説、英語ワンポイン・レッスンを添えた新読書ガイド。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月4日・ジョージ・ムーアのパラドックス

2019-11-04 | 思想
11月4日は、至上の小説化、泉鏡花が生まれた日(1873年)だが、英国の哲学者、ジョージ・ムーアの誕生日でもある。

ジョージ・エドワード・ムーアは、1873年、英国イングランドのロンドンで生まれた。
ダリッジ大学をへて、ケンブリッジのトリニティー・カレッジに進み、25歳でそこのフェローになった。
30歳のとき『倫理学原理』を書き、39歳で『倫理学』を発表。
45歳でアリストテレス学会の会長を務め、52歳から66歳までケンブリッジ大学の精神哲学と論理学の教授にあった。
1958年10月、ケンブリッジで没した。84歳だった。

「信念は窓から外へ出ていってしまう、ドアから美女が入ってきたとたん。(Faith goes out through the window when beauty comes in at the door.)」(Brainy Quote: http://www.brainyquote.com/)
こんな科白を吐いたムーアは英国人紳士らしい、ユーモア精神の持ち主だった。

ウィトゲンシュタインの本を読んでいると、ムーアが登場する。
ムーアの『倫理学原理』は、20代前半の若きウィトゲンシュタインに強い刺激を与えた本で、ウィトゲンシュタインが40歳のとき、ケンブリッジ大学に再入学し博士号を取得した際、試験官だったのが56歳のムーアだった。以前から彼の論文を高く評価していたムーアは、ほとんど形式的な試験だけして、彼を通した。
ウィトゲンシュタインは亡くなる寸前まで、ムーアの「わたしは知っている」という命題を手がかりにして『確実性の問題』を書いていたが、それは未完となった。

ウィトゲンシュタインが「ムーアのパラドクス」と絶賛した有名な命題がある。
「Pである、しかしわたしはPであるとは思わない」
というもので、言い換えれば、たとえばこんな感じである。
「窓の外は雨である。しかしわたしは雨が降っているとは思わない。」
これは論理命題としてまちがってはいない。けれど、ばかげている、とムーアは言った。
「窓の外は雨である。しかし雨は降っていない。」
これならまちがいである。でも「わたしは思わない」となると、まちがっていない。でも、ばかげているだろう、と。

「ムーアのパラドクス」みたいな表現は、主婦の立ち話や会社の会議などで多く使われているが、もっともよく使われているのが政治の舞台である。その昔、首相だった岸信介が日米安保条約を結ぼうとしたとき、日本では大反対運動が起き、国会議事堂や首相官邸が反対デモの民衆数十万人に囲まれた。しかし岸は、
「わたしには声なき声が聞こえる」
と言って、反対の声を無視した。これは、こういうことである。
「国民は反対だと言っている。しかしわたしはそうは思わない。」
見習ったのでもあるまいが、その孫がこう言っている。
「日本の憲法は戦争する権利を放棄している。しかし、わたしはそうは思わない。」
(2019年11月4日)


●おすすめの電子書籍!

『思想家たちの生と生の解釈』(金原義明)
「生」の実像に迫る哲学評論。ブッダ、カント、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、フーコー、スウェーデンボルグ、シュタイナー、クリシュナムルティ、ブローデル、丸山眞男など大思想家たちの人生と思想を検証。生、死、霊魂、世界、存在について考察。わたしたちはなぜ生きているのか。生きることに意味はあるのか。人生の根本問題をさぐる究極の思想書。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月3日・さいとうたかをの才能

2019-11-03 | マンガ
11月3日は「文化の日」。この日は「マンガの神さま」手塚治虫が生まれた日(1928年)だが、「ゴルゴ13」のマンガ家、さいとうたかをの誕生日でもある。

さいとうたかをは、1936年、和歌山県で生まれた。本名は斎藤隆夫で、彼は5人きょうだいの末っ子だった。一家は隆夫が小さいときに大阪の堺へ引っ越し、彼は堺で育った。家は理髪店をやっていたが、父親が家出し、母親が理髪店を切り盛りして女手ひとつで5人の子どもを育てた。
小さいころから絵が上手だった隆夫は、勉強、とくに数学をまったく学習せず、中学卒業後の14歳のころから家の理髪店で働いた。
米国のマンガや、手塚治虫のマンガを読んで感化され、マンガを描きだした。18歳のころ、ストーリーマンガを描いて出版社に持ち込み、採用され、貸本屋向けのマンガ作家としてデビューした。
その後、マンガ雑誌に描くようになり、23歳のころから、マンガの製作を分業化して、組織で作品を作り上げていく体制「劇画工房」を結成し、これが解散した後、24歳の年に「さいとう・プロダクション」を設立。完全分業制の雇用条件もしっかりした製作体制を固めた。
従来のマンガからギャグやコミカルな要素を省き、リアルで迫力のある画面構成の新しいマンガを「劇画」と名付け、イアン・フレミングの「007シリーズ」の劇画版、時代ものの「無用ノ介」シリーズ、池波正太郎の「鬼平犯科帳」シリーズの劇画版などを量産し、32歳のとき、マンガ誌に連載を開始した「ゴルゴ13」シリーズで圧倒的な人気を博し、組織的な製作システムにより安定したクオリティーの作品を発表しつづけている。

JR高円寺駅前には、リイド社という「ゴルゴ13」シリーズのコミックスを出している出版社の立派なビルが建っていて、ずっと昔、友人の打ち合わせについていって、応接室に入ったことがある。そのとき、となりの席で打ち合わせていたのが、そこの社長で、さいとうたかをのお兄さんだった。
友人にそのビルが建った経緯を聞いた。それによると、はじめ大手出版社の雑誌に「ゴルゴ13」が掲載された際、さいとうプロ側が、この作品を単行本化する際には、自分たちで出したい旨の了解を求めたそうで、大手出版社の担当者は、どうせ人気が出ないだろうとOKを出し、契約書も作って判子を押した。掲載された作品は大反響で雑誌連載が決まり、「ゴルゴ13」のコミックス(単行本)は作者さいとうの兄が立ち上げたリイド社から発売された。シリーズは大ヒットし、すぐにリイド社はビルを建てた、という話だった。それで大手出版社側は雑誌の形で「ゴルゴ13」は出せるが、単行本としては出せず、何十億円(もっとかも)のビジネスチャンスを失ったのだった。契約書を作った大手出版社の社員はクビになったと聞いた。

さいとうたかをは算数の九九も知らないそうだ。そういう人が、あの国際的な経済情勢や軍事情勢、最先端科学などがつねにからんでくる国際テロリスト「ゴルゴ13」の話を作っているというのはおもしろい。組織を統率するオーガナイザー的な才能をもった創作者。現代のアレクサンドル・デュマ。強烈な魅力をもった創作者である。
(2019年11月3日)



●おすすめの電子書籍!

『ほんとうのこと』(ぱぴろう)
美麗なデッサンの数々と、人生の真実を突いた箴言を集めた格言集。著者が生きてきたなかで身にしみた「ほんとうのこと」のみを厳選し、一冊にまとめた警句集。生きづらい日々を歩む助けとなる本の杖。きびしい同時代を生きるあなたのために。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月2日・マリー・アントワネットのエレガンス

2019-11-02 | 歴史と人生
11月2日は、映画のルキノ・ヴィスコンティ監督が生まれた日(1906年)だが、フランス王妃マリー・アントワネットの誕生日でもある。

マリー・アントワネットこと、マリア・アントーニア・ヨーゼファ・ヨハーナ・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲンは、1755年に、現在のオーストリアのウィーンで生まれた。その名の通り血縁によってヨーロッパをほぼ征服した名門ハプスブルク家の皇女で、女帝マリア・テレジアの第11女だった。
マリア・アントーニアは7歳のとき、宮廷へ演奏にやってきたひとつ年下のモーツァルトが転んだのに手を差し伸べ、感激したモーツァルトからプロポーズされた。彼女は読書嫌いで、オペラやバレエ、ピクニックを好む娘だった。
母マリア・テレジアが率いる神聖ローマ帝国は、当時勢力を強めていたプロシア(ドイツ)に対抗するため、フランスと同盟関係を結ぶことを目論み、娘マリア・アントーニアを政略結婚させた。彼女は1770年5月、フランスへ渡り、国王ルイ15世の息子の王太子とヴェルサイユ宮殿で結婚式を挙げた。こうしてフランス名のマリー・アントワネットとなった彼女はまだ14歳だった。結婚はしたものの、夫は包茎で、アントワネットは22歳のころまで処女妻だったと言われる。暇を持て余した彼女は夜ごと舞踏会で踊りあかし、ギャンブルにふけった。やがて夫が即位してルイ16世となた、彼女は19歳で王妃になった。
そして22歳のとき、夫が包茎の手術をし、夜の生活が可能となった。マリー・アントワネットは23歳から31歳までに2人の男の子と2人の女の子を産んで王妃の大役を果たした。
彼女はようやく自分の立場に目覚めたが、時すでに遅く、彼女が34歳になる1789年、フランス革命が勃発し、敵対する貴族や民衆からの憎悪を一身に引き受けることになった。
36歳のとき、彼女は家族全員で革命勢力一色となったパリを脱出する計画を立て、愛人に協力させて実行したが、ドレスが届くまで出発を延ばせとか、もっと大きな馬車を用意せよなどとわがままを言い、のんびり逃げたため、途中でつかまり、パリへ連れもどされてしまった。王が国を捨てて逃亡をはかったこのヴァレンヌ事件によって、革命勢力内のそれまで親国王派だった人々にも見捨てられ、ルイ16世は1793年1月に処刑された。マリー・アントワネットは、息子と近親相姦をしたというでっちあげの冤罪により死刑判決を受け、同年の1793年10月、ギロチンにかけられて処刑された。37歳だった。

飢えたフランスの民衆が「パンを」と叫んだのに対し、マリー・アントワネットが、
「パンがなければケーキう食べればいいじゃない」
と言い放ったという伝説があるが、あれは別の王族女性が言ったものらしい。

欧州一の王家に生まれたお姫さまが14歳で輿入れしたら、贅沢でわがままになるのは当然かもしれない。彼女はおそらく額に汗して働く人など見たことがなかったろうし、心を正直に打ち明け諫言してくれる人にも出あわなかったろう。王族生まれは大変である。

断頭台に上がり、これからギロチンにかけられるというとき、マリー・アントワネットは死刑執行任の足を踏んでしまい、
「ごめんなさいね、わざとではありませんのよ。でも靴が汚れなくてよかった」
と声をかけた。幼いモーツァルトを助け起こしたエレガンスは生涯を貫いていた。
(2019年11月2日)



●おすすめの電子書籍!

『女性解放史人物事典 ──フェミニズムからヒューマニズムへ』(金原義明)
平易で楽しい「読むフェミニズム事典」。女性の選挙権の由来をさぐり、自由の未来を示す知的冒険。アン・ハッチンソン、メアリ・ウルストンクラフトからマドンナ、アンジェリーナ・ジョリーまで全五〇章。人物事項索引付き。フェミニズム研究の基礎図書。また女性史研究の可能性を見通す航海図。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

11月1日・萩原朔太郎の詩論

2019-11-01 | 文学
11月1日は、「大陸移動説」のヴェーゲナーが生まれた日(1880年)だが、詩人、萩原朔太郎(はぎわらさくたろう)の誕生日でもある。

萩原朔太郎は、1886年、群馬の前橋で生まれた。父親は開業医で、母親は上流階級出身だった。裕福な環境で育った朔太郎は、小さいころ、洋行帰りの親戚の家で、外国製のオルゴールを気に入り、抱えて離さなくなった。仕方なく両親は、横浜まで舶来のオルゴールをさがし求めて、朔太郎に買い与えたという。からだが弱く、夢見がちな少年だった朔太郎は、本と音楽が好きで、ハーモニカやアコーディオンをいつも手にしていた。
朔太郎は中学時代、短歌を詠み、友人と短歌の回覧雑誌を作っていた。
中学を出た後、高校入試に失敗した彼は、熊本の五高、岡山の六高、慶応大学予科などを入っては落第して転校したりした後、結局退学し、25歳のころ東京を放浪した。音楽家になろうと志して、現在の東京芸大を受験しようと考えた時期もあったという。
27歳のとき、詩人の北原白秋が主宰する「朱欒(ざむぼあ)」に詩を発表して詩人デビュー。同じく白秋のもとに集った詩人、室生犀星(むろうさいせい)と友情を結んだ。
以後、詩人として活動を続け詩集『月に吠える』『悲しき欲情』『青猫』『純情小曲集』などを出した後、1942年5月、急性肺炎のため、東京の自宅で没した。55歳だった。

「ふらんすへ行きたしと思へども
 ふらんすはあまりに遠し
 せめては新しき背広をきて
 きままなる旅にいでてみん。」(「旅上」『純情小曲集』)

この詩「旅上」を読んで以来の朔太郎ファンで、詩集の『月に吠える』『青猫』の復刻版を、ときどきペーパーナイフでページを切り開いて読む。

「詩とは感情の神経をつかんだものである。(中略)
 詩は神秘でも象徴でも鬼でもない。詩はただ、病める魂の所有者と子読者との寂しいなぐさめである。」(『月に吠える』序)
「詩を作ること久しくして、益々(ますます)詩に自信をもち得ない。私の如きものは、みじめなる青猫の夢魔にすぎない。」(『青猫』序)
こういう立場で書かれた彼の詩は、読むと心がうっとりとしびれたようになる。

「どこに私たちの悲しい寝台があるか
 ふつくりとした寝台の 白いふとんの中にうづくまる
 手足があるか
 私たち男はいつも悲しい心でゐる
 私たちは寝台をもたない
 けれどもすべての娘たちは寝台をもつ」(「寝台を求む」『青猫』)

たとえばJポップを聴いて「ああ、わかるわあ」とその「詞」に共感するのと、「詩」はまったく異なるものだと萩原朔太郎は教えてくれる。朔太郎の詩は共感など求めない。読み手の足首をつかまえ、ことばの調べと感情の泉に引っ張り込み、溺れさせてしまう。読み手は別の世界へもっていかれる。詩とは恐ろしいものだ。
(2019年11月1日)



●おすすめの電子書籍!

『世界文学の高峰たち 第二巻』(金原義明)
世界の偉大な文学者たちの生涯と、その作品世界を紹介・探訪する文学評論。サド、ハイネ、ボードレール、ヴェルヌ、ワイルド、ランボー、コクトー、トールキン、ヴォネガット、スティーヴン・キングなどなど三一人の文豪たちの魅力的な生きざまを振り返りつつ、文学の本質、創作の秘密をさぐる。


●電子書籍は明鏡舎。
http://www.meikyosha.jp


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする