1日1話・話題の燃料

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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月11日・ルネ・クレールの音

2019-11-11 | 映画
11月11日は、『バカの壁』を書いた脳解剖学者、養老孟司(ようろうたけし)が生まれた日(1937年)だが、映画監督ルネ・クレールの誕生日でもある。

ルネ・クレールは、フランスのパリで、1898年に生まれた。本名はルネ=ルシアン・ショメット。父親は石鹸屋で、ルネには2歳年上の兄がいた。
中央卸売市場のある、にぎやかなレ・アル地区で育ったルネは、哲学を学ぶ学生になったが、18歳のとき、第一次世界大戦に際し、衛生兵として従軍し、救急車の運転手となった。
戦場で見た惨状と恐怖に強い印象を受けた彼は、せき髄を負傷し、除隊した。そうしてパリにもどった彼は、戦後、左翼系の新聞の記者として活躍しだした。
そのころ、「暗い日曜日」を歌った歌手ダミアと知り合い、彼女に歌詞を提供するようになった彼は、ダミアの勧めで、22歳のころ、撮影スタジオを訪ねた。それが縁で、いく本かの映画に出演することになった。このとき使った芸名が「ルネ・クレール」。
ジャーナリストの仕事のかたわら、映画雑誌の編集や、映画監督のアシスタントをしていたクレールは、26歳のとき、チャンスを得て短編「眠る巴里(パリ)」で監督デビュー。
続いて短編「幕間」を発表。これは、出演マン・レイ、マルセル・デュシャン、音楽エリック・サティという前衛作品で話題を呼んだ。ここまでが無声映画時代。
そして、32歳のとき、トーキー第一作「巴里の屋根の下」を発表。トーキーをはじめて使いこなしたと言われるみごとな演出とともに、同名のシャンソンも大ヒットし、クレール監督の名は世界に鳴り響いた。日本でも、西城八十が訳詞した「巴里の屋根の下」が大ヒットした。以後、「ル・ミリオン」「自由を我等に」「最後の億万長者」「幽霊西へ行く」などを発表した後、第二次世界大戦に際しては、米国ハリウッドへ移り、「奥様は魔女」「そして誰もいなくなった」などを撮った。
戦後、フランスへ戻り、「沈黙は金」を発表。
その後「悪魔の美しさ」「夜ごとの美女」「夜の騎士道」などの名作を撮り、62歳になる年にはアカデミー・フランセーズの会員となった後、1981年3月、パリの西郊外にあたるオー=ド=セーヌ県の自宅で没した。82歳だった。

はじめて「巴里の屋根の下」を観たときの鮮やかな印象は忘れられない。パリの下町情緒をコミカルに、詩情豊かに描くなか、音と映像の組み合わせの妙にハッとさせられる瞬間がつぎつぎと出現する。「サウンドトラック付きの映画はこうやって作る」というお手本である。現代観てもなお新鮮な歴史的傑作。映画ファンは必見である。

「日本のルネ・クレール」伊丹万作監督(伊丹十三の父)は言っている。
「私たちがクレールにとてもかなわないと思うのは多くの場合その技巧と機知に対してである。クレールほどあざやかな技巧を持つており、クレールほど泉のように機知を湧かす映画作家を私は知らない。」(『ルネ・クレール私見』青空文庫)
(2019年11月11日)


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