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著書『芸術家たちの生涯』
『ほんとうのこと』
『ねむりの町』ほか

11月12日・エリザベス・スタントンの反発

2019-11-12 | 歴史と人生
11月12日は、体操選手ナディア・コマネチが生まれた日(1961年)だが、社会運動家、エリザベス・スタントンの誕生日でもある。米国ではじめて女性参政権を訴えた女性である。

エリザベス・キャディは、1815年、米国ニューヨーク州のジョンズタウンで生まれた。父親は弁護士で、エリザベスは11人きょうだいの8番目の子だった。
当時の米国では、多くの女の子は正式な学校教育を受けなかったが、エリザベスは男女共学のジョンズタウン学校へ通い、ラテン語、ギリシャ語、フランス語、英作文、数学、宗教学、科学などを学んだ。成績優秀で数々の賞をとった彼女は、16歳で学校を卒業すると、さっそく男女差別に直面した。彼女より成績の悪かった男子の同級生たちがつぎつぎと大学へ進学していくのに、大学は女子を受け入れない。エリザベスは仕方なく私立の女学校へ進んだ。
学校を出た彼女は、ヘンリー・スタントンというジャーナリストと知り合い、彼女が25歳のとき、二人は結婚した。彼らの結婚式の際、司祭が花嫁に尋ねる誓い、
「夫にしたがうことを誓いますか?」
は削除された。こうして彼女の名は、エリザベス・キャディ・スタントンになった。
スタントンは、新婚旅行先で知り合ったルクレシア・モットといっしょに、集会開催の新聞広告を打ち、1848年7月、ニューヨーク州セネカ・フォールズで婦人の権利についての集会を開いた。これは、世界ではじめての女性の権利のための集会だった。つまり、人類はそれまで、女性に権利があるなどと考えたことがなかったのだった。
その集会で、32歳のスタントンは、女性の参政権を要求する「女の独立宣言」を読み上げた。女性の参政権の要求は、彼女の夫や、同志のモットさえも考え直してやめるようにと勧めたほど、当時としては革命的なものだった。
スタントンが46歳の年に、南北戦争がはじまった。
南北戦争が北軍の勝利に終わると、奴隷が解放され、すべての市民に参政権が与えられることになった。しかしそれは男性の市民で、依然として女性には参政権がなかった。
スタントンはスーザン・アンソニーらとともに、女性のための週刊の機関誌「レボリューション」を創刊し、全国女性参政権協会(NWSA・ National Woman Suffrage Association)を設立した。そうして、スタントンは、27歳から44歳までに7人の子どもう産み、子育てをしながら、ずっと女性の権利獲得のために活動を続けた。
スタントンは、1902年10月、心不全のため、ニューヨーク市の自宅で没した。86歳だった。その18年後の1920年、女性の投票権を認めた憲法修正第19条が批准された。

専門の米国現代史を勉強中、女性解放運動(ウーマン・リブ)の延長線上でスタントンを知った。日本の女性に参政権が与えられたのは、戦後、米国を中心にした連合軍総司令部の指導のもとであって、日本女性の参政権の源をたどれば、スタントンに行き着く。
現代の日本女性は、投票したり、選挙に立候補したりする権利は、生まれつきの権利としてもっているものと考えているかもしれないけれど、じつはスタントンのような先駆者たちの不屈の努力が山のように積み重なって、ようやく実現されたものである。先人の苦労をくんで、せめて選挙の際には、投票所まで足を運びたい。
(2019年11月12日)


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