「魔王」
先週の作りが良かっただけに、つい見てしまったが、また心理的な矛盾が出てしまうシナリオになっていた。
絶対無いとはいえないが不自然なのは「殺人の汚名」を「愛する人の家庭」を守るために着ようとすること。
愛する人が殺人者なら分かるが、この設定では守る動機としては弱すぎる。
また、芹沢の父親が成瀬に素直に謝るシーンも唐突だ。そのような心境にあのキャラクターの人間がなる過程が描かれていない。
予告編を見るとラストは韓国ドラマ通りにしそうだが、途中継ぎ足したシナリオがドラマの破綻を大きくしてしまったと感じる。
来週まで持たせるために継ぎ足したシナリオでどう収束させるか不安になる回だった。
「キャットストリート」
コミック原作のシナリオ化の難しさが出ているドラマだ。
主人公は子供の頃名子役。ある日とある舞台で大きな失敗をしてしまう。それがきっかけで学校に行けなくなり、今はフリースクール通いをしており、その周りの人間に支えられ立ち直るストーリー。
主演はwowow「パンドラ」や月9織田裕二「太陽と海の教室」にも生徒役で出演している谷村美月。
最近、ドラマに出すぎて自分の演技を振り返られていない気がしている。準メインクラスの役所が最低くるので出ているのだろうが、本人の将来を考えるなら事務所側がセーブすべきだと感じている。
「ロト6で3億2千万円当てた男」
「もし宝くじで3億円当たったら?」という企画だけで始めてしまったためぐだぐだのラストになってしまった。
もっとも、この視聴率でよく10回もやったともいえる。
通常、ロングストーリーは「何々があったことにより途中変化があり、最後にこのように変わった」という流れになっていないとシナリオ化するのに苦労することになる。
このドラマは、「変化」と「変わる」がよく考えて作られなかったのがよく分かる作りだった。
ドラマの最初はミステリーっぽい始まりだったのに、最後が加藤ローサで終わったのはドラマ制作の難しさを感じた。
堀北真希DVD「東京少年」
発売早々に買った。中味はともかく雰囲気は好きな映画だ。
以前、映画を見た際にも書いたが整理して書いてみる。堀北真希主演のミニ映画の中では一番見やすい映画ではある。
企画意図は非常にいい映画だった。残念なのはその企画意図に沿ったピントのあったシナリオが作れなかったこと。
同じシーンが意図も変わらず単なる繋ぎとして2回も使われてしまったのが、映画の面白さを半減させた。
同じ内容を二度見せられる苦痛を感じなかったのだろうか、このシナリオライターは。
「いま、会いにゆきます」のようにみなと視線と唐沢視点でのシーンを見せられたら二人の深い感情が分かったように感じる。
例えば、コンビニでの出会い。みなとのモノローグで唐沢が入店した時点で喜びのモノローグを入れつつ、唐沢の姿を意識しながら仕事をするシーンにする。
後半で唐沢の気持ちを表す際には、同じシーンをカメラアングルをかえて唐沢がみなとの動きを意識しながら店内をうろつくシーンにする。そして、唐沢のモノローグを入れる。
橋の欄干でも同じようにカメラアングルをかえつつ、みなと唐沢の気持ちを表現するシーンにすればシーンの意味が明らかになったろう。
さて、この映画でも明らかなように、男性に対する恋心という点で堀北真希の演技は少し冷めてみえる。
というのも、この点に関して得意の目配りと目の強弱が出来ていない。揺れる恋心…難しいが目が揺れるだけでは表現にならない。
その一方、ナイトとしてみなとに対する表現は悪くないので、本質的に堀北真希の性格はさばさばした男性的な性格なのかもしれない。
舞台挨拶などをみると話しぶりの割りに男性的な雰囲気を最近はたびたび感じる。
その辺が演技をほめつつも、もしかしたら自信過剰の悪い意味があるように見え心にひっかかるようになってきているが。
女優業はいい意味でも悪い意味でも人をかえる…本質的なものを見失わずに成長してくれることを願っている。
ところで、この映画で使われている症状は病名ではない。そして、病名は精神医学学会では認められていない。アメリカ精神医学学会のDSM-Ⅳでの診断基準に入っているが、あくまで症状の一つで病名ではない。
医学書のごく一部を見せるシーンがあるが、あまり感心できるシーン作りではない。
解離性とは、特定の病気でもないのに身体的、精神的機能障害を引き起こすことをさす。二重人格とは同義ではないことから、そのまま見せることで、映画を見た人間に誤解を与える上、解離性障害で苦しむ人たちに不快な感情を与える可能性がある。
ちなみに、昔は解離性をヒステリーと読んでいた時期がある。今だに知識が古いカウンセラーなどはヒステリーという用語を使う人がいるが、本当の専門家は使わない用語なので言葉使いでカウンセラーの善し悪しは分かる。
微妙な問題を扱うときには、もう少し大きなウソにして一部の証拠など出す必要はなかったことだろう。これはこの映画のシナリオを書いた若いシナリオライターに猛省して欲しい。
中途半端な情報は大きな誤解を招くとシナリオ学校などでは言われるが、この若手シナリオライターはその約束を意識していないシナリオを書いてしまっている。
以前、「ヒトノカケラ」という演劇を見た。これはまったく存在しない不治の病気で苦しむ人を描いた舞台だが見た人は「とある病気」を連想しつつ泣いた。
何らかの病気ものを書くなら、やはり苦しむ人を心の片隅に置いて書くべきだろう。
それから、副人格が主人格に統合されるシーンも逆のように感じた。主人格が副人格の存在を知らないのなら、抱き合うシーンは副人格が主人格を抱きしめるのが自然だ。
特にラストシーン付近でナイトと唐沢が話し合うシーンを作ったのなら尚更に感じる。
ナイトが主体的に消えることを決めた…この事実だけで抱き合う二人のシーンの意味は深くなったろう。
ナイトの演技が良かっただけに、この映画はもったいない映画だった。
雫石令のホームページ[魔法のiランド]
先週の作りが良かっただけに、つい見てしまったが、また心理的な矛盾が出てしまうシナリオになっていた。
絶対無いとはいえないが不自然なのは「殺人の汚名」を「愛する人の家庭」を守るために着ようとすること。
愛する人が殺人者なら分かるが、この設定では守る動機としては弱すぎる。
また、芹沢の父親が成瀬に素直に謝るシーンも唐突だ。そのような心境にあのキャラクターの人間がなる過程が描かれていない。
予告編を見るとラストは韓国ドラマ通りにしそうだが、途中継ぎ足したシナリオがドラマの破綻を大きくしてしまったと感じる。
来週まで持たせるために継ぎ足したシナリオでどう収束させるか不安になる回だった。
「キャットストリート」
コミック原作のシナリオ化の難しさが出ているドラマだ。
主人公は子供の頃名子役。ある日とある舞台で大きな失敗をしてしまう。それがきっかけで学校に行けなくなり、今はフリースクール通いをしており、その周りの人間に支えられ立ち直るストーリー。
主演はwowow「パンドラ」や月9織田裕二「太陽と海の教室」にも生徒役で出演している谷村美月。
最近、ドラマに出すぎて自分の演技を振り返られていない気がしている。準メインクラスの役所が最低くるので出ているのだろうが、本人の将来を考えるなら事務所側がセーブすべきだと感じている。
「ロト6で3億2千万円当てた男」
「もし宝くじで3億円当たったら?」という企画だけで始めてしまったためぐだぐだのラストになってしまった。
もっとも、この視聴率でよく10回もやったともいえる。
通常、ロングストーリーは「何々があったことにより途中変化があり、最後にこのように変わった」という流れになっていないとシナリオ化するのに苦労することになる。
このドラマは、「変化」と「変わる」がよく考えて作られなかったのがよく分かる作りだった。
ドラマの最初はミステリーっぽい始まりだったのに、最後が加藤ローサで終わったのはドラマ制作の難しさを感じた。
堀北真希DVD「東京少年」
発売早々に買った。中味はともかく雰囲気は好きな映画だ。
以前、映画を見た際にも書いたが整理して書いてみる。堀北真希主演のミニ映画の中では一番見やすい映画ではある。
企画意図は非常にいい映画だった。残念なのはその企画意図に沿ったピントのあったシナリオが作れなかったこと。
同じシーンが意図も変わらず単なる繋ぎとして2回も使われてしまったのが、映画の面白さを半減させた。
同じ内容を二度見せられる苦痛を感じなかったのだろうか、このシナリオライターは。
「いま、会いにゆきます」のようにみなと視線と唐沢視点でのシーンを見せられたら二人の深い感情が分かったように感じる。
例えば、コンビニでの出会い。みなとのモノローグで唐沢が入店した時点で喜びのモノローグを入れつつ、唐沢の姿を意識しながら仕事をするシーンにする。
後半で唐沢の気持ちを表す際には、同じシーンをカメラアングルをかえて唐沢がみなとの動きを意識しながら店内をうろつくシーンにする。そして、唐沢のモノローグを入れる。
橋の欄干でも同じようにカメラアングルをかえつつ、みなと唐沢の気持ちを表現するシーンにすればシーンの意味が明らかになったろう。
さて、この映画でも明らかなように、男性に対する恋心という点で堀北真希の演技は少し冷めてみえる。
というのも、この点に関して得意の目配りと目の強弱が出来ていない。揺れる恋心…難しいが目が揺れるだけでは表現にならない。
その一方、ナイトとしてみなとに対する表現は悪くないので、本質的に堀北真希の性格はさばさばした男性的な性格なのかもしれない。
舞台挨拶などをみると話しぶりの割りに男性的な雰囲気を最近はたびたび感じる。
その辺が演技をほめつつも、もしかしたら自信過剰の悪い意味があるように見え心にひっかかるようになってきているが。
女優業はいい意味でも悪い意味でも人をかえる…本質的なものを見失わずに成長してくれることを願っている。
ところで、この映画で使われている症状は病名ではない。そして、病名は精神医学学会では認められていない。アメリカ精神医学学会のDSM-Ⅳでの診断基準に入っているが、あくまで症状の一つで病名ではない。
医学書のごく一部を見せるシーンがあるが、あまり感心できるシーン作りではない。
解離性とは、特定の病気でもないのに身体的、精神的機能障害を引き起こすことをさす。二重人格とは同義ではないことから、そのまま見せることで、映画を見た人間に誤解を与える上、解離性障害で苦しむ人たちに不快な感情を与える可能性がある。
ちなみに、昔は解離性をヒステリーと読んでいた時期がある。今だに知識が古いカウンセラーなどはヒステリーという用語を使う人がいるが、本当の専門家は使わない用語なので言葉使いでカウンセラーの善し悪しは分かる。
微妙な問題を扱うときには、もう少し大きなウソにして一部の証拠など出す必要はなかったことだろう。これはこの映画のシナリオを書いた若いシナリオライターに猛省して欲しい。
中途半端な情報は大きな誤解を招くとシナリオ学校などでは言われるが、この若手シナリオライターはその約束を意識していないシナリオを書いてしまっている。
以前、「ヒトノカケラ」という演劇を見た。これはまったく存在しない不治の病気で苦しむ人を描いた舞台だが見た人は「とある病気」を連想しつつ泣いた。
何らかの病気ものを書くなら、やはり苦しむ人を心の片隅に置いて書くべきだろう。
それから、副人格が主人格に統合されるシーンも逆のように感じた。主人格が副人格の存在を知らないのなら、抱き合うシーンは副人格が主人格を抱きしめるのが自然だ。
特にラストシーン付近でナイトと唐沢が話し合うシーンを作ったのなら尚更に感じる。
ナイトが主体的に消えることを決めた…この事実だけで抱き合う二人のシーンの意味は深くなったろう。
ナイトの演技が良かっただけに、この映画はもったいない映画だった。
雫石令のホームページ[魔法のiランド]