いい日旅立ち

日常のふとした気づき、温かいエピソードの紹介に努めます。

「竹林はるか遠く」の著者経歴(ヨーコ・カワシマ・ワトキンス)

2019-07-27 21:54:27 | 思い出の詩


日本人少女ヨーコの戦争体験記著者略歴。
ヨーコ・カワシマ・ワトキンス
(Yoko Kawashima Watokins)
1933(昭和8年)、青森で生まれる。
生後6ヶ月で南満州鉄道株式会社(満鉄)に勤務する父に連れられ、家族で朝鮮北
部の羅南に移住。
1945(昭和20年)、敗戦の間際に母、姉とともに羅南を脱出、朝鮮半島を縦断する決死の体験を経て、日本へと引き上げた。帰国後、京都市内の女学校に入学。働きながら学問に励み卒業すると、大学の夜間部で英文学を学ぶ。卒業後、米軍基地で通訳として勤務していたが、結婚し渡米。アメリカの子どもたちに日本文化を伝える活動をしていた。
1986(昭和61)年に自身の体験を描いた初の著書である「So Far from the Bamboo Grove」を刊行。米国教育課程の副読本として採用され、多くの子どもたちに親しまれている。
現在も、講演活動などで全米だけでなく世界各国をめぐる多忙な日々を送っている。他の著書として「My Brother, My Sister, and I」がある。





「竹林はるか遠く」第2次世界対戦後、奇跡の帰国~So Far from the Bamboo Grove~

2019-07-27 19:44:54 | 読書

第2次世界大戦敗戦直前、直後多くの日本人が、
旧満州、北朝鮮に居住していた。
敗戦直前、この地域では、ソ連軍や朝鮮共産党員が猛威をふるい、
日本人を殺したり強姦したりして、恐れられた。
当然、居住民は、日本目指して冒険の旅に出る。
そのひとり、日本人ヨーコの熾烈な体験をまとめたのが、
「竹林はるか遠く」である。
もともとは、ヨーコがアメリカで ”So Far from the Bamboo Grove”
という題で、出版したのである。
この本は、アメリカの国語教科書にも載せられていた。
これを日本訳しようという話になり、日本でも発表されたのだ。
ヨーコは母、姉一人、兄一人と住んでいたが、
出発時、兄はウラジオストクの工場で働いており、
別行動となった。
3人は、朝鮮共産党員につかまりそうになったり
ソ連兵に殺されそうになりながら、
朝鮮北部~元山~京城(今のソウル)~釜山~福岡、と逃げおおせた。
後、長男も帰国。

この本は、副題「日本人ヨーコの戦争体験記」として売り出され、
ベストセラーとなった。













対局日誌82~93歳の巨匠と闘う~

2019-07-26 20:18:32 | 対局日誌


本日は、無料道場にて3局。

相手は、93歳のH四段。
この方は、93歳の高齢であるにも関わらず、
自らバイクを運転して道場に通われる。
認知症とは、縁がない。
棋歴90年。
矢倉と棒銀が得意だが、何でも指しこなす。

1局目。
相手が矢倉、こちらは、典型的な矢倉くずしの右四間飛車。
思い通りに進んだはずが、見たこともないような絶妙手を指され、
あえなく投了。

2局目。
こちらが四間飛車、相手は山田システム。
これも、相手は手筋をよく知っている。
それでも、手を尽くして攻め、勝勢に。
ところが、終盤王手飛車を食らって、大逆転。
あえなく連敗。

3局目。

あえて、相矢倉にいどんでみた。
なにしろ、相手は、矢倉を指して90年。
なんでもかでも知っている。
あえて、そこに踏み込んだ。
相手は矢倉棒銀、こちらは、37銀型の応手。
玉はあえて69のまま闘う。
飛車、角、銀が86に殺到してきて、総交換に。
手順のアヤはあったが、飛車を取って攻勢に出る。
こちらはほとんど裸玉だが、攻めも厳しかったろう。
敵は、入玉を策してくる。
こちらは龍をつくっているが、
45玉から逃げる手を指されて、困った。
こちらの持ち駒は金、金、銀、桂、香。
だが、19馬と54馬が効いていて、待ち駒ができない。
工夫して、39に香を打って入玉阻止を図る。
最終的には、45玉に対して57金、と待ち駒。
これが、妙手で、8種類の詰みをみた必至。
自玉も危なかったが、駒一枚残していた。
ついに、H四段投了。

会心の一局であった。



























対局日誌81~金星をあげそこねたM三段~

2019-07-25 22:15:30 | 対局日誌


佐伯九段将棋サロンが行われた。
注目の一局は、サロンで一番強いK五段対M三段。
相居飛車の戦いとなり、終盤はもつれにもつれた。
127手目、K五段は、68歩、69玉の形で、周辺に駒はない。
一方、手番のM三段は、28龍の形で持ち駒は金、金、銀。
67銀と必至をかければM三段の勝ち、という局面。
M三段には王手がかからない状態。
67銀を打たずに、一気に詰め切ろうとしたが、
わずかにおよばず、切れ模様となったところで時間切れ引き分け。
サロン終了後の茶話会のとき、聞いてみると、
K五段は、67銀と必至をかけられたら投了する予定だったという。
M三段、惜しくも金星を逸した。









きょうの短歌①~死なれざりけり~

2019-07-23 20:10:25 | 短歌


落合直文は、明治を代表する歌人である。
次の歌が代表作である。

……

父君よ今朝はいかにと手をつきて問ふ子を見れば死なれざりけり

明治の親子である。
長い病床にある父に、子が挨拶に行く。
いつもの習慣かもしれない。
あるいは、母に命じられたのかもしれない。
いずれにせよ、父は、ほっと一息をつく。
あるいは、重病のため、夜中「死にたい」と思い続けていたのかもしれない。
また、子に挨拶されたとき、まさに「死のう」と思っていたのかもしれない。
いずれにせよ、
子の、愛情に満ちた、
礼儀正しい仕草と態度に、
胸を突かれたのである。
この子達を残しては逝けない。がんばらなくては。
病床の父は、改めて、生への意欲を蘇せられたのであった。

子は、宝。
















精神障害をめぐって~それは~奇病か?

2019-07-16 18:31:00 | 医療


先日、先崎学九段の「うつ病九段」の内容を説明しながら、うつ病について書いた。

うつ病もそうだが、精神障害は、現代的な問題である。
種類には、統合失調症、気分障害(うつ病、躁病)、不安障害、などがある。

このうち、とくに問題となるのは、統合失調症である。
発症率は50~100人に1人、といわれる。
1学年3クラス、30余人の子どもがいると、
学年当たり1~2人の統合失調症の子がいることになる。
これだけの人数にひとり、となると、
学年に、とびぬけて成績の良い子がひとりいる、と言う感じで、
ありふれた病気だということになる。
症状としては、次のようなものがある。

幻聴(頭の中から声が聞こえてくる)、
何かによって体が支配されたような感じになる、
幻覚(目の前に像が浮かび上がる)、
自分の考えたことが、他人に伝わっているかのように思われる。
など。

治療は難しく、
精神科医や周囲の協力が必要になる。
かつては「分裂病」と呼ばれ、夏目漱石が罹患していた。
その診断や治療はたいへん難しく、
精神科以外のお医者さんにとってもハードルが高いそうだ。

さて、現代の世界に、精神障害者は4500万人いるといわれる。
また、生涯罹患率は4人に1人であり、
任意の成人年齢の10人に1人である。
世界の人の4人に1人がかかる病気、となると、
問題にせざるを得ない。

今後も、高齢化や社会の不安定化、競争の激化で、精神障害を患う人が増えることが予想される。

ひとごとと思わず、心して向き合いたい病気である。




















身内や友人、知人にも罹患している人がいる可能性が高い。


















よく売れている「うつ病九段」~うつ病の教科書~

2019-07-10 20:53:24 | 医療


大型書店に行くと、「うつ病九段」という本が、たくさん置いてある。
先崎学九段著。
将棋書籍としては、異例の売れ行きである。
本ブログでも、その内容は紹介した。
グーグルなどで、
「いい日旅立ち」and「うつ病九段」を検索すると、たくさんでてくる。
将棋のプロ棋士先崎九段の作品で、
自らのうつ病の発病、経過、症状、現況がわかりやすく書かれている。
大要は、本ブログでもわかると思うが、
買ったり借りたりして読まれると、
現代日本人には不可欠な、「うつ病とは」に関する知識を効率よく
得ることができる。
特に、将棋が好きな方なら、「うつ病」の絶好の教材となる。
今では、うつ病もごく普通の病気で、うつを持ちながら活躍している方は大勢いらっしゃる。
また、不治の病でもない。

精神的な病の中では、一番多い病気である。
正確に言うと、「気分障害」のなかの「うつ」の症状である。(「精神医学特論」・放送大学教育振興会刊)

私も精神医学の勉強をはじめて20年になる。
精神医学のキモの部分は、このブログでも紹介したいと思っている。












フィビエタ(しびれた)話~小泉信吉の便りから~

2019-07-05 19:24:00 | 食物


海軍主計中尉小泉信吉から、家族に宛てて描かれた、
戦争中のガダルカナル船中のユーモアに満ちた話である。

……

兵隊が盛んに釣りをする。そして刺身にして食べる話はすでにお知らせしたこととてご承知のことと思いますが、嘗て小生が「南海の魚には毒魚が多い」と言ったことも覚えておられると思います。しかし我々の居るところは、殆ど毒魚らしきものは棲息せず、ただ内地の平鯵の如き二三尺もある魚、これはときどき食べた者が「シビレ」ることがあると聞いていました。それもしかし、食べれば必ず「シビレ」が来るわけではないので、兵隊は平気で食べます。ところが二三日前の夜のことです。その日は夕食にビール1本ずつ出したので、ビールの肴にと、釣り糸を垂れた者が相当ありました。その中に、本艦の釣り好きの一人たる看護兵曹もおったのです。やがて彼は手ごたえを感じ引き上げて見れば、三尺近き平鯵、早速この獲物は待っていた主計兵曹と、主計課で働いている、前身が魚河岸のアンチャンたる一等水兵の手により刺身に作られ、看護兵も一人それに加わって、四人で刺身を食い、ビールの満をひいたのでした。殊に主計兵曹は刺身が大好物で、もりもりと貪り食ったそうです。数時間後、彼らは寝につきました。そしてまた数時間後、主計兵曹は全身がシビレてきて目を覚ましました。驚いた彼は隣にやすんでいる看護兵曹を起こそうと、今は徒に涎の流れる口に力を入れ「フィビエタ」(しびれた)と言いました。そして起こされた看護兵曹と看護兵その二人も起きて見れば身体がしびれているのでしたが、
大したことはなく、ヒマシ油を飲ませて、シビレ兵曹を看護したそうです。幸いにも「フィビエタ」頃が峠であったようで、翌朝になると気分がかなり回復したようだが、全身が足のシビレたときのかんじ、頭のうち迄シビレたような気持ちだったそうです。(以下略)

昭和17年9月18日
                           信吉
父上様
母上様
加代様
妙様

……

戦争の真っただ中の軍艦(八海山丸)の中で、こんな暢気な生活をしていたとは、驚きである。














連作「生存について」~アウシュビッツの男~小池光

2019-07-05 18:35:56 | 短歌


小池光の連作に「生存について」がある。

……

①草叢に吐きつつなみだあふれたりなんといふこの生のやさしさ
②ナチズムの生理のごとくほたほたとざくろの花は石の上に落つ
③かの年のアウシュビッツにも春くれば明朗にのぼる雲雀もあるけむ
④夜の淵のわが底知れぬ彼方にてナチ党員にして良き父がゐる
⑤ガス室の仕事の合ひ間公園のスワンを見せにいったであらう
⑥隣室にガス充満のときの間を爪しゃぶりつつ越えたであらう
⑦充満を待つたゆたひにインフルエンザの我が子をすこし思ったであらう
⑧クレゾールで洗ひたる手に誕生日の花束を抱へ帰ったであらう
⑨棒切れにすぎないものを処理しつつ妻の不機嫌を怖れたであらう
⑩夏至の日の夕餉をはりぬ魚の血にほのか汚るる皿をのこして
⑪現世のわれら食ふための灯の下に栄螺のからだ引き出してゆく
⑫沢蟹のたまごにまじり沢がにの足落ちてゐたり朝のひかりに

これは、現代日本の中年男性が、アウシュビッツ収容所のナチ党員のことを思う、という状況を設定して、この両者の共通性に思い至るようにしむけている。
①で、情けなくも酔っぱらって草叢に吐く、情けない中年日本男性の姿を描く。
②では、一転して、「ナチズムの生理」という言葉を出して、読者をびっくりさせる。どういう脈絡なのか?
③では、アウシュビッツでも日本でも春、雲雀が鳴くであろうことを詠う。隣り合わせなのである。
④は、この連作の意味的要約である。ナチ党員であることと、善き父親であることは、容易に共存する。
⑤~⑨は、すべて「あらう」で終わる。④で述べたことの具体的姿である。
⑩~⑫の終結部では、日本の中年男である主人公の生活が、丁寧に描写される。

このように、いかに異常な事態も、日常の何気ない出来事と併行して起こることを詠っている。
短歌集を読んでいると、突然人間に共通する理不尽な状況を目撃させられる。
そうして、自らの立つ地盤の脆さに、思い至るのである。

そう、魚やカニを食べ、子どもを公園に連れていくことと、ユダヤ人をガス室で殺すことは、なにげなく両立するのである。

……

この連作によって、小池光の才能が、弾けるように展開されている。

















「老い」の歌三題~窪田空穂・斎藤茂吉・宮柊二~

2019-07-02 19:29:16 | 短歌


歌人にとって、「老い」と「死」は、人生の最期に残された課題である。
わたしたちは、すぐ前のことを忘れるのに、ずっと以前のことを覚えている、
という不思議な性向をもつものだが、老境に至ると、
その傾向は、さらに顕著となる。
10代のことを直前のように思い出す老人は、多い。

さて、ここでは、窪田空穂・斎藤茂吉・宮柊二の対照的な老いの歌を、
摘記しておきたい。
……

窪田空穂は、長命で、亡くなる寸前まで明瞭な意識をもっていた。

ありうべき最悪の態つと浮かび見つめんとするに消え去りにけり
若き日は病の器とあきらめぬ老ゆればさみし脆き器か
世の常の老ひの疲れかもの憂さの襲ひ来たりて果てしなげなる
いかなる心をもちて死ぬべきとあまた度おもひぬまたも思ふかな
四月七日午後の日広くまぶしかりけりゆれゆく如くゆれ来る如し

斎藤茂吉は、晩年は認知症ぎみではあったが、すぐれた歌を残している。

この体古くなりしばかりに靴穿きゆけばつまづくものを
肉体がやうやくたゆくなりきたり春の逝くらむあわただしさよ
暁の薄明に死をおもふことあり除外例なき死といへるもの
あはれなるこの茂吉かなや人知れず臥所に居りと沈黙をする
朦朧としたる意識を辛うじてたもちながらにわれ暁に臥す
……

このように、2人には老いによる人生の静かなる終末意識がある。
これに対し、宮柊二の歌は、老いと病の混交した姿を思い浮かべさせる。

すたれたる体横たへ枇杷の木の古き落ち葉のごときかなしみ
台風の夜を戻り来て人生を長く生きこし思ひこそ沁め
寝付かれず夜のベッドに口きけぬたった一人のわが黙しゐる
脱ぎし服ぞろりと垂るる衣文掛けわが現状はかくの如きか
腕と足目と歯と咽喉すべてかく不自由に堕つ老人われは
幻覚にしばしば遊ぶ体調に意識乱るるこの二三日
……

宮柊二の場合、病に衰える身体へ客観的な視線が感じられるだろう。

三人の歌を並べてみると、老年をいかに迎えたか、による違いが、はっきりと見て取れるように思われる。



























老いる前に病んでしまった宮柊二の悲劇~ミヤリイノ・シュージノヴィッチ~

2019-07-02 17:35:29 | 短歌


斎藤茂吉や窪田空穂の老境を詠った名歌は多い。
「老い」の文学を形成することができたのだ。
ところが、宮柊二の場合、こうした静謐な老境を詠う、
ことは不可能であった。
あまりにも早く病に見舞われ、訪れた「老い」とともに
歩むことを強いられてしまったのだ。
具体的には糖尿病で、50代にして業病と戦わなければならなかった。
入院中に歌った次のような歌がある。

……

しづかなる生命来にけり夜を起きてしびんに己が音をし聞けば

しびんに当る尿の音。それが夜の病室に響く。わびしい孤独感。しかし晩年はここにしかない。疑えない事実としてのおのれの衰え。自分の発した尿の音。「しづかなる生命来にけり」というなんでもないフレーズが効いてくる。
……

一方、「宮柊二」というブランドはもう出来上がっていて、そのブランドを自嘲するような、また、ユーモアで紛らわすような歌もつくっている。
「コスモス」選者として、著名になってしまったこと、
「朝日新聞歌壇」選者として、風貌と名が知れ渡ったこと。
彼は、病のゆえもあり、鬚をのばしっぱなしにしていた。
次のような歌を残している。

……

採血の済みたる耳を抑へ戻る二十年近く切られの柊二
頭を垂れて孤独に部屋にひとりゐるあの年寄は宮柊二なり
ひげそらぬ我の陰口ミヤリイノ・シュージノヴィッチと呼ぶ友のあり










歌人の体験と歌創り~「山西省」など~

2019-07-02 17:08:13 | 短歌


河原より夜をまぎれ来し敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

……

宮柊二の、戦中体験をもとにした歌集「山西省」からとったものである。
これが、事実をいったものであるかどうかは、いまだに議論が分かれる。
しかし、このような過酷な戦争の中で、
宮柊二の体験が蓄積されたことは疑いがない。
それが、後年の宮柊二の運命と歌に深い影響を与えたことは、
すでに確固たる事実である。
このような体験から、宮柊二は、自らの体験のほか何物をも介在させない作品を生み出した。
戦後、華々しく変わる時代の中で、左にぶれるでもなく、右にかたむくでもなく、「庶民」の感覚を固持して、独自の世界を構築した。
1939年までは北原白秋に師事したが、
日中戦争に出征することで、その軛から離れた。
さらに、戦後は富士製鉄の社員として勤めるかたわら、
歌を詠み続ける、という道を選んだ。

……

はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く座れり夜の雛の前

サラリーマン時代に残したこの歌の延長線上で生きた。
にもかかわらず、「コスモス」という結社の主宰となり、
朝日新聞歌壇の選者となって、
「庶民の短歌」を先導することになってしまう。
しかし、50代にして糖尿病に侵され、老いを迎える前に病者となり、
自らの思いを実現することができなくなった。
具体的には、再度山西省を訪問してゆっくり往時を顧みながら歌を作る、
という願いはとん挫した。

そして、病者としての自分をときに深刻に、ときにユーモラスに詠ってみせた。

このような自分史のなかで、人生の終焉へと向かったが、山西省での体験の深みを消し去ることはできなかった。

























歌人の体験と歌創り~「山西省」など~

2019-07-02 17:08:13 | 短歌


河原より夜をまぎれ来し敵兵の三人までを迎へて刺せり
ひきよせて寄り添うごとく刺ししかば声も立てなくくづをれて伏す

……

宮柊二の、戦中体験をもとにした歌集「山西省」からとったものである。
これが、事実をいったものであるかどうかは、いまだに議論が分かれる。
しかし、このような過酷な戦争の中で、
宮柊二の体験が蓄積されたことは疑いがない。
それが、後年の宮柊二の運命と歌に深い影響を与えたことは、
すでに確固たる事実である。
このような体験から、宮柊二は、自らの体験のほか何物をも介在させない作品を生み出した。
戦後、華々しく変わる時代の中で、左にぶれるでもなく、右にかたむくでもなく、「庶民」の感覚を固持して、独自の世界を構築した。
1939年までは北原白秋に師事したが、
日中戦争に出征することで、その軛から離れた。
さらに、戦後は富士製鉄の社員として勤めるかたわら、
歌を詠み続ける、という道を選んだ。

……

はうらつにたのしく酔へば帰りきて長く座れり夜の雛の前

サラリーマン時代に残したこの歌の延長線上で生きた。
にもかかわらず、「コスモス」という結社の主宰となり、
朝日新聞歌壇の選者となって、
「庶民の短歌」を先導することになってしまう。
しかし、50代にして糖尿病に侵され、老いを迎える前に病者となり、
自らの思いを実現することができなくなった。
具体的には、再度山西省を訪問してゆっくり往時を顧みながら歌を作る、
という願いはとん挫した。

そして、病者としての自分をときに深刻に、ときにユーモラスに詠ってみせた。

このような自分史のなかで、人生の終焉へと向かったが、山西省での体験の深みを消し去ることはできなかった。