大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

昭和問わず語り19 ~ 尾崎紀世彦と昭和歌謡曲の転換点

2012-06-01 | 昭和
歌手の尾崎紀世彦さんが亡くなられたとの報。筋金入りの音楽ファンとしては、日本の歌謡界の流れを変えた人を亡くしたと、実に寂しい限りです。

尾崎さんがすい星のごとく歌謡界に現れたのは、私が小学校の高学年の頃。とにかく、モミアゲがカッコよくて歌い方がそれまでの他の歌手たちとは全然違うと、子供の私にも分かったほどの違いがあってとびきりの新しさを感じさせてくれたものでした。

あの頃売れていた歌手はと言えば。演歌系では森進一、青江美奈。森進一は猪俣公章の弟子だから水原弘との共通項も感じさせる、泥臭い演歌ではなかったです。青江美奈もブルース・シリーズで売って、二人の登場はどちらかといえばやや和洋折衷的な当時の新しい演歌の流れだったかもしれません。戦後20年に以上が過ぎ、占領下の古典的音楽&輸入米国産から、徐々に独自路線が築かれつつあった時代だったようにも思います。歌謡界にも少しだけポップス系の匂いが漂い始めたかなと。でもまだまだ後のポップス路線の大御所となる布施明は完璧な歌謡曲歌手であり、本格ジャパニーズポップスの登場には今しばらく時間が必要、そんな時代だったようにも思います。

そんな状況下で尾崎さんの登場はセンセーショナルでした。ジャズを基本にして、キャバレーを歌い歩いていたという実力派だった訳で。はじめから歌謡曲を歌うために訓練を受けてきた歌手連中とは一味もふた味も違った。個人的には、それは革命的だったなぁとつくづく思います。でも彼が登場する下地は確実にあったのです。ちょうど、ベンチャーズが作曲した日本語の曲なんかがヒットしはじめた時代だったりもして(渚ゆう子「京都の恋」「京都慕情」)、世は新しい何かを待っていたということだったのかなと。上手に欧米風なムードをちりばめながら、日本的な味を残しつつ新しいイメージの歌謡曲を歌うみたいな。だからメロディは歌謡曲なのに、モミアゲと独特のダイナミックな歌い方が新しい何かを感じさせた、彼の登場はまさにそんなイメージでした。

沢田研二がソロで成功したのは、尾崎さんの登場を受けて路線的にはそれをヒントに上手に脱GSはかることができたお陰かなとも思います。尾崎さんの登場の2~3年前にGSブームがあったのですが、彼らは基本的に洋楽のコピーを基本としていた訳で、ブームが去って各グループ解散後のソロとしての活躍路線の絵はどうにも描きにくかった。ブーム沈静化後に沢田研二と萩原健一(ショーケン)が合体したロックバンドPYGはそんな不透明感の象徴でしたし、その後ショーケンが結局俳優と言う新たな道を歩むことになったりオックスの野口ひでとが真木ひでととして演歌歌手として新たな活路を見出したのには、そんな理由があったのでしょう。

尾崎さんの登場なくして、ソロとしてのジュリーの活躍も新御三家(郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎)のブームはなかったかな、などと勝手に私は思っています(野口五郎なんて元々デビューは演歌「博多みれん」だもん)。頂点を極めたのが早かっただけに落下速度も半端なく早かった。でも、彼の登場を忘れる人はまずいないでしょう。「そんな人いたね」ではなく、「すごかったよね、彼」。きっとあの時代を知る誰もが、そういう印象で彼のことを覚えているはずです。それは短期間の栄光でありながら、確実に時代を動かしたということの証であると思います。

尾崎紀世彦、彼は死しても彼の存在は日本のすべての音楽ファンの記憶の中で衝撃的に生き続けることでしょう。心よりご冥福をお祈り申しあげます。

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