大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

嗚呼、洋楽生活40年(その9)

2013-03-31 | 洋楽
今回はあの頃のラジオ事情を少々。

ナショナルのラジカセMAC FFを手にした当初は、もっぱらAM放送に明け暮れていました。日本の洋楽市場での売れ行きをある程度把握するために役に立ったのが、文化放送の深夜放送「セイヤング」今日のベスト10でした。深夜0時30分から毎日約30分間、リクエスト集計で決める日刊ベスト10チャートモノだったのです。

その週間総括版とも言えたのが、土曜深夜3時から放送していた「オールジャパン・ポップ20(以下AJP)」なる番組。これは文化放送をキー局とした全国ラジオチャートとレコード売り上げで集計された(という触れ込み)の洋楽チャート番組でした。司会は文化放送アナウンサー時代のみのもんた氏。毎週眠い目をこすって、日によっては120分テープの片面を使って番組丸ごと録音して、翌日聞いたりしていました。ただ当時はタイマー録音なんてない時代だったので、とにかく3時まで起きていないことには話にならず、聞き逃すこともたびたびでした。

この文化放送系の洋楽チャートで強かったのは、元ビートルズの面々にカーペンターズ、ミッシェル・ポルナレフあたりだったと記憶しています。その後の音楽生活では、当時のAJPで15位以下に初登場してすぐに圏外に消えてしまった曲に意外なほどの愛着心があって、どんな曲があったか今でも少しづつ記憶をたどっては、CDを探してみたりYOUTUBEで懐かしく聞いたりしています。例えばFirstClassの「Beach Baby」をiTunesで見つけた時は歓喜しましたし、ごく最近では、The Heywoodsの「Hartbreak Kids」なんて曲を思い出しYOUTUBEで探しまわって懐かしい再会を喜んだりしています。

そんなAM中心の生活に変化が現れるのは、クラスの友達が手にしていた「FMファン」なる雑誌の存在を知ったことがきっかけでした。この先2週間分のFM放送の番組内で流れる曲目が書かれているという事実はかなり衝撃的でした。当時FM放送はまだ始まったばかりでDJもAM放送に比べると知名度が低い人が多く、番組そのものもまじめ路線でやや面白みに欠ける気がしていたのですが、AMに比べた圧倒的な音の良さとしゃべりがイントロにかぶらないことが多いという特徴には魅力を感じていただけに、「FM放送で事前にオンエア曲が分かり、ラジカセでテープ録音できたらレコード代が浮くぞ」と、これはかなりな強力な発見をした気分だったのです。

さっそく本屋さんで「FMファン」を購入し、録音したい番組を事前チェックしては漁る生活が始まりました。中でも重要度が高かったのは、NHK夕方4時台にあった「軽音楽をあなたに」という番組で、約2時間日替わりでアーティストの特集や新しいアルバムを丸ごと放送していました。その日の放送予定を朝学校に行く前にチェックして、録りたい番組があるときは極力放課後まっすぐ帰って放送に間に合うようにしたりけっこう一生懸命でした。

ただ僕は当時野球部だったので、火曜日、木曜日、土曜日は放課後練習があり、その曜日に聞きたいアーティストの特集がぶつかると大変ショックを受けたものです。でもその補足役的存在として、同じNHK夜7時台の、番組名は忘れましたが、アルバム1枚を毎日丸ごと放送してくれる番組もありました。「軽音楽をあなたに」で録り逃したものの、ここで再度放送されることもけっこうあってこれもかなり重要度の高い番組だったのです。

一方新譜アルバム紹介で当時もっとも情報が早かったのは、NHKのAM放送夜10時台の「若いこだま」という番組でした(名称からして古い)。DJは当時はまだ駆け出しの音楽評論家、渋谷陽一氏。恐らく輸入音源を使っていたのでしょう。上記のFM番組はたいてい新譜が日本発売になった後に放送されるのが常だったのですが、この番組はあちらで発売になるかならないかのタイミングで、新譜から何曲かを紹介していました。AMなので、録音して保存には向かなかったものの、いろいろなアーティストの新譜の出来をチェックするには格好の番組でした。

それと渋谷氏は、ただ音楽を流すだけでなく、いろいろなアーティスト情報や洋楽の基本知識も伝えてくれたので、この番組もまた聞き逃せない存在であったのです。この番組は後にFMに移転して、「ヤングジョッキー」という番組に引き継がれたので、その時代に親しんだ人も多いのではないでしょうか。

この項まだまだ書くことがありますので、次回に続きます。

★本日の関連レコード
<ファースト・クラス>
ビーチ・ベイビー
<ヘイウッズ>
ハートブレイク・キッド

高松宮記念

2013-03-24 | 競馬
春のG1シリーズ第一弾は、電撃の6ハロン戦、高松宮記念。

人気でも、昨秋のG1スプリンターズ・ステークスから三連勝の11ロードカナロアで軸は堅いか。

食指がうごくのは、同じく三連勝で重賞を制した15サクラゴスペル。鞍上の横山典弘は大レースでは要注意で、大金星まであるかとも思うが、大成は今秋か。

ここはこのレース2年連続2着の9サンカルロに期待したい。七歳とはいえ、二走前阪神カップの末脚を見るに衰えは微塵もなく、直接坂の出来た中京コースで、先行馬の脚が鈍ったところを強襲してマサラッキの再現での悲願達成あるか。

単勝9
馬単9→11
ワイド9-11

嗚呼、洋楽生活40年(その8)

2013-03-17 | 洋楽
さて僕が洋楽聴き始めの頃、洋楽界の大物たちはどんな状況であったのか、ひととおりさらっておきたいと思います。

まずはビートルズ。ちょうど、2枚組×2セットの通称赤盤・青盤という初の決定盤的ベスト盤が発売され、彼らの解散後としては最大のビートルズ・ブームが世間をにぎわしていました。でも高かったなぁ。確か2枚組で1セット3500円だったかな。通常の2枚組よりも高かったのを覚えています。2セット買うと7000円って、当時の中坊には高根の花でした。というよりも60年代の音楽は、例えビートルズでも古臭い気がして、さほど欲しいとも思っていなかったと言うのが正直なところです。

当時元ビートルズのメンバー個々人は盛んにソロ活動をしていました。ポールはちょうど「マイ・ラブ」が売れていました。この曲はかったるくてあまり好きじゃなかったな(今でも人が言うほど良い曲とは思っていません)。それを収録した当時の最新アルバム「レッド・ローズ・スピードウェイ」も評判がイマイチだったので、関心はほとんどありませんでした。そうこうするうちに、映画007シリーズの主題歌「死ぬのは奴らだ」がリリースされて、映画と共に大ヒットしました。個人的にはこれもどうでもいいレベルだったと記憶しています。

ジョージ・ハリスンは「ギブ・ミー・ラブ」が売れていました。この曲で、ジョージが元ビートルズだと知り、「あー、あの目立たない風貌のヤツか」と思ったわけです。曲もノラリクラリで、ハードな曲に飢えていた当時の僕には全然ピンときませんでした。リンゴ・スターは写真を見て「あのリーダーか(小学校時代からの勝手な思い込み)」と期待をして聞いた「想い出のフォトグラフ」にぶっ飛びました。何がって、歌の下手さ加減です。「こりゃ、リーダーじゃねーな」と初めて自分の誤りに気付いた瞬間でした。

ただリンゴのアルバム「リンゴ」には少し惹かれるものがありました。大好きな、Tレックスのマーク・ボランがゲストでギターを弾いていると、雑誌「ミュージック・ライフ」掲載の広告に書いてあったからです。それとこのアルバムには、ジョン、ポール、ジョージの他ビートルズたちもゲスト参加していて、先の赤盤・青盤の発売とも相まって「ビートルズ再結成」がまことしやかにラジオでは噂されていたのです。もちろん「リンゴ」は私も友達の誰もが買わなかったので、マークの演奏を聴いたのはそのずーっと後、CDの時代になってからのことです。

そしてジョン・レノン。小学校時代にビートルズの問題児と思い込んでいた彼。上記に少し遅れて、「マインド・ゲームス」をリリースしました。これがかなりいい曲で、「実はこいつ才能あるじゃん」と妙に感心し、「もしかしてこの人がビートルズのキーマン?」と遅ればせながら気がついたことを覚えています。LPのジャケットに“山”に見立てて映った女性の横顔が、日本人妻オノ・ヨーコであることもこの時知りました(メンバーの中に日本人と結婚した人がいるという話は聞いていましたが、詳しくは知らなかったのです)。

この頃の各メンバーの曲を聴いた感想は、「ビートルズも一人ひとりになると普通だな」といったところで、他のアーティストと大きく違う存在であるという認識は全くなかったと思います。だからでしょう、僕がビートルズのメンバーのレコードを買うのは随分経ってからのことです。4人とも特別に好きなアーティストでもなかったので、その2年後ぐらいにポール・マッカートニーの来日騒ぎを契機として急激にポール派として盛り上がったことがその最初だったかもしれません。この辺はまた改めて記します。

一方、ローリング・ストーンズはどうだったかと言えば、ちょうどシングル「悲しみのアンジー」とアルバム「山羊の頭のスープ」がリリースされたところでした。前作から久々のアルバムとの触れ込みで、ラジオでは連日かけまくりの嵐でした(ビートルズの面々も、新譜が出るとそうでしたが)。でも「アンジー」の曲調がロックじゃなかったことが、どうも印象が違ってしまい、やはりハードな音楽に飢えていた中坊には物足りなく感じられたものでした。ただし、曲調から受けたマイナーな暗い印象が、ビートルズと対極に立つ存在なんだということを意識させてもらうのには十分であったようには思います。(続く)

◆本日の関連レコード
<ビートルズ>
「1962~1966」(LP)
「1967~1970」(LP)
<ポール・マッカートニー>
「レッド・ローズ・スピードウェイ」(LP)
「マイ・ラブ」
「死ぬのは奴らだ」
<ジョン・レノン>
「マインド・ゲームス」
<ジョージ・ハリスン>
「リビング・イン・ザ・マテリアル・ワールド」(LP)
「ギブ・ミー・ラブ」
<リンゴ・スター>
「リンゴ」(LP)
「想い出のフォトグラフ」
「ユア・シックスティーン」
「オー・マイ・マイ」
<ローリング・ストーンズ>
「山羊の頭のスープ」(LP)
「悲しみのアンジー」
「ハート・ブレイカー」

嗚呼、洋楽生活40年(その7)

2013-03-10 | 洋楽
中学2年生の僕が「ツェッペリン2」を時代遡りで購入した頃、僕らの仲間内で同じように遡りで聞いておかなくてはいけないと暗黙のうちにされていたアーティストが他にもいました。その筆頭がクリームです。

クリームは、言わずと知れたエリック・クラプトンが在籍した伝説のグループ。ちょうど時を同じくして、その年はクラプトンが麻薬生活から復帰しアルバム「461オーシャン・ブルバード」とシングル「アイ・ショット・ザ・シェリフ」で世間を賑わせていて、クリームへの同級生たちの注目度は嫌が上にも盛り上がっていたのです。

恐らくは「ミュージック・ライフ」誌が言いだしっぺだったのだろうとは思いますが、当時日本では元ヤードバーズの3人のギタリスト、クラプトン、ジェフ・ベック、そしてツェッペリンのジミー・ペイジは“三大ギタリスト”などという呼び名であがめられていました。中でもクラプトンは、歌って弾けるギタリストと言うことで特に人気が高く、この時の復活人気はかなりの盛り上がりであったと記憶しています。

しかしながらオマセな洋楽通同級生の間では、レゲエを取り入れた「アイ・ショット・ザ・シェリフ」はクラプトンの中では異端であり、よって新作の「461オーシャン・ブルバード」をほめるのはダサいとされ(『アルバムはイマイチだけど「レット・イット・グロウ」はいいね』と言うのが通とされていました)、クリームを知らずしてクラプトンを語るな的な俄かクラプトンを諌めるムードがどことなく漂ってもいたのです。

ついでに言えば、ブラインド・フェイスなどほとんど語る者はなく、また今では彼の一の代表作である「いとしのレイラ」などはウケ狙いのロック・ナンバーで、同名のアルバムはスワンプという言葉すら輸入されていなかったその当時は、麻薬漬けで“腑抜け”になったクラプトンの超駄作とされていました(これもまた、『「ベルボトム・ブルース」と「リトル・ウイング」はいいね』というのが通だったような)。そんな訳で、ブルーズを基調としてハード一辺倒のクリームこそクラプトンの真骨頂であるというのが、「ミュージック・ライフ」の受け売りも含め洋楽通同級生たちの一致した見解だったのです。

そして、その当時もっとも名盤として我々洋楽入門世代に愛されていたのが、「ライブ・ボリューム2」でした。このアルバムはクリーム解散後の72年、すなわち「461」の前年にリリースされた“新譜”で、ベスト盤的な選曲のせいもあって同級生の間ではかなりの高評価を得て貸し借りされていました。

この中で、基本中の基本として押さえるべきとされていたのが、「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」と「ホワイト・ルーム」でした。「サンシャイン・オブ・ユア・ラブ」は学内のコピーバンドの定番でしたし、「ホワイト・ルーム」はライブの荒々しさで、インパクトのあるイントロも含めた迫力満点の演奏が、我々中坊の心を鷲掴みにしたのです。

そんな中で僕はどちらかと言うと、ツェッペリンにはけっこう早く追いついたものの、クラプトンにはやや乗り遅れ気味で、結局クラプトンがらみのアルバムを始めて買うのはその2年近く後のライブ盤「EC Was Here」まで待つ形になりました。むしろ、クラプトンに乗り遅れた分を他で取り返そうと思ったのか、「461」の頃に買ったのが同じ“三大ギタリスト”が所属するベック・ボガード&アピスのデビューアルバムでした。

これを買った理由は、シンプルなバンド名をデザインしたジャケットが好きだったのと、何よりベックが“三大ギタリスト”3人の中で一番鋭角的な顔つきでカッコ良かったことかなと思います。加えて、意外なほどに同級生の間では人気が低く、ほとんどレコードを持っているヤツがいなかったことも、どことなく洋楽初心者の自分に優越感を感じさせてくれるアーティストとしてお気に入りになった大きな理由の一つであったというのは、今だからこそわかる部分なのかもしれません。(続く)

◆本日の関連レコード
<エリック・クラプトン>
・「461オーシャン・ブルバード」(LP)
・「EC Was Here」(LP)
・「クリーム・ライブ・ボリューム2」(LP)
・「スーパー・ジャイアンツ/ブラインド・フェイス」(LP)
・「いとしのレイラ」(LP)
<ジェフ・ベック>
・「ベック・ボガード&アピス」(LP)
・「BBAライブ・イン・ジャパン」(LP)

嗚呼、洋楽生活40年(その6)

2013-03-03 | 洋楽
Tレックスと並行して他にはどんなLPを聞いていたのか、というお話を。意外なことにTレックスの次にLPを買ったのは、全くのジャンル違いのアメリカのアーティストである、ブラスロックのシカゴでした。

私は中学入学と同時に野球部に入ったのですが、夏と春に1週間の合宿があって、そこで未知の音楽と出会う機会がありました。というのは、たいてい誰か一人はラジカセ持参(下級生にラジカセ担当とかがいたような気もします)で参加していて、大部屋で雑魚寝状態の運動部の合宿生活では、自由時間は先輩の聞きたい音楽を優先でラジカセでかけるのが暗黙の風習になっていたのです。先輩たちも後輩のラジカセを当て込んで好きな音楽のカセットはけっこう持ってきていて、それを後輩に手渡して「これかけとけ!」って感じだったのです。

シカゴとの出会いは、ちょうど洋楽を聴き始めの中学2年の夏合宿で2学年先輩が持ってきた、あのコカコーラを模したと言う当時としてはかなりイカしたアメリカンなバンドロゴが書かれたカセットテープでした。その場で音楽にとりわけしびれたという記憶はないのですが、Tレックスにはないバンドのロゴマークというヤツがやけに印象的で、カッコいいバンドというイメージがすっかり私の中で定着してしまったのでした。そして合宿から戻るとちょうど折も折、彼らのニューアルバム「シカゴ6~遥かなる亜米利加」がリリースされ、先行シングル「愛の絆」がラジオで盛んにオンエアされていたのです。

この曲には一発ノックダウンという感じで、当時の個人的好みであるヘビーな演奏とピーター・セテラのハイトーン・ボーカルに合宿でのロゴマークの印象と相まって、Tレックスと並ぶお気に入りになってしまい、さっそくこのニューアルバムを日本盤で購入したのでした。米造幣局で印刷されたという特殊な憧れのロゴ入りジャケット(実は日本盤は全然違う仕様だったのですが)も最高に気に入っていました。しかもニューアルバムでしたから、購入後にそこから第二弾シングル「君と二人で」がリリースされたことも、なんか得をしたようで嬉しかったのをよく覚えています。この曲も大好きで、今でも彼らの全楽曲の中で3本指に入る曲です。もちろんアルバムは、この「シカゴ6」が今でも個人的には彼らのベストワンであると思っています。

アルバム購入を始めるようになると新譜を追いかけると同時に、雑誌「ミュージック・ライフ」から仕入れた情報で、過去の“名盤”と言われるものにも関心が高まってきました。たいていは、雑誌で仕入れた情報を元に頭の片隅に聞いてみたい候補アルバムを挙げておいて、ラジオでその中の曲を何曲か聞いて気に入ったら購入を本格検討する。さらにその段階で重要なことは、友達がそのアルバムを持っていないということでした。アルバムは高価な買い物だったので、とにかく友達から借りられるものはテープ録音で済まして、自分が買うものは周囲の友人が持っていないことが最大の重要条件だったのです。

当時はレコード・レンタルすらない時代ですから、友人相互レンタルは音楽ライブラリを充実させる上でとても重要な役割を果たしていたのです。そんな中で次に私が購入したLPは、レッド・ツェッペリンの「2」でした。ツェッペリンは「ミュージック・ライフ」を読む中で、どうもかなり重要なロックバンドであるということが分かってきて、代表作と評されていたこのアルバムの収録曲「胸いっぱいの愛を」と「ハートブレイカー」をラジオで聞き「こりゃいいぞ!」と思ったのでした。そこで仲の良い学友たちと、近々何のアルバムを分担して買うのかを相談する中で、この「レッド・ツェッペリン2」を買う立候補をしてめでたく了承された、そんな記憶が蘇ってきます。周囲の皆も、この名盤とされるアルバムをぜひ聴いてみたいと思っていたようでした。(続く)

★本日の関連レコード
「シカゴ6~遥かなる亜米利加」(LP)
「レッド・ツエッペリン2」(LP)

※アルバム名表記の数字は、文字化け防止の関係ですべてアラビア数字で表記しております。