大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

昭和問わず語り21 ~ 白黒テレビのヒーロー

2012-06-28 | 昭和
ザ・ピーナッツの姉伊藤えみさんが亡くなられたそうです。

ピーナッツは一世を風靡した女性デュオ。「恋のバカンス」「恋のフーガ」等のヒット曲による歌手としての活躍もさることながら、私の一番の思い出はクレージーキャッツとの共演による「シャボン玉ホリデー」での活躍でした。

シーン1
布団で寝込む父(ハナ肇)
「父さんおかゆができたよ」とピーナッツ。ハナが「いつもすまないね」と返答。そこに乱入する場違いな男植木等。で最後は「お呼びでない?お呼びでない?こらまた失礼したしました」で、一同コケるというお決まりのオチ。

シーン2
ガス灯の夜霧にけむる道を、両脇をピーナッツに囲まれて両手に花状態で歩くハナ肇。
番組の毎週のラストシーンで、ハナ肇が締めくくりをしつつ余計な一言を言って、ピーナッツのふたりにひじ打ちを喰らわされるというこれまたお決まりの名場面。

毎週日曜日の夕方欠かさず見てた楽しい番組でした。提供は牛乳石鹸。
ハナさんも植木さんもみんないなくなっちゃった。そしてピーナッツももう2人揃うことはない。世の常であり仕方のないことではありますが、寂しいものです。

スマイリーオハラ指揮で有名だった「ザ・ヒットパレード」にもピーナッツはレギュラーで出ていたように記憶しています。
こちらは主にスパイダースとの掛け合いだったでしょうか。提供はグリコ?アーモンドチョコのパッケージボードをひっくり返すと、その週のベスト10が書いてあったような。ベスト10番組のハシリだったように思います。音楽番組が好きでこちらも欠かさず見ていました。

歌って演技もこなしてコントもできてという女性タレントはその後、研ナオコやらキャンディーズやらが登場するわけですが、ザ・ピーナッツがその草分けだったのではないでしょうか。渡邉プロダクションのタレント育成のなせる技だったのでしょう。ナベプロ全盛時代でもありました。東宝の怪獣映画「モスラ」にインファント島の小人姉妹という役で起用されたことをスタートにして、幅を広げたのでしたね。

とにかく白黒テレビの時代には、テレビに欠かせないお姉さん姉妹だったのです。ゆみさんは享年71歳と言いますから随分お姉さんだったんだなと、改めて思いました。アイドルと言うにはお姉さん過ぎたけど、確実に白黒テレビのヒーローでした。

テレビが娯楽の王様だった時代。本当に楽しい歌や番組をありがとうございました。
心より御冥福をお祈り申し上げます。

宝塚記念

2012-06-24 | 競馬
春のG1シリーズラストは、グランプリ宝塚記念です。

注目は天皇賞惨敗の11オルフェーヴル。力は断然だけに精神面の復活なるかといったところです。しかしながら宝塚記念はイメージ的には残念G1レースであり、2200メートルという中途半端な距離で王道G1レースでは勝てない馬がおこぼれG1ゲットするという印象が強いレースです。

そこで今回は、残念G1レースにふさわしいと春のG1レース前に今年の宝塚記念候補としてあげた2頭を買って初志貫徹で春を締めくくります。

その2頭は、7ルーラーシップと15トゥザグローリー。共に母がG1馬の超良血馬です。
ここはワイド7-15の1点で楽しく観戦しようと思います。

昭和問わず語り20 ~ 枝豆と野球

2012-06-17 | 昭和
昨日居酒屋で食べた枝豆がうまかった。懐かしかったのです。昭和の味。枝にしっかりついていて、歯ごたえのある豆の感触。「あんまり食べると、夕飯入らなくなるぞ!」。昭和の夏の夕暮れ、親父がテレビでナイター中継を見ながらビールのつまみに食べていた枝豆を、少しもらって食べたあの味がした。よくよく考えると、最近の枝豆はほとんどが輸入の冷凍?なんか味気ない。知らないうちに、あの枝豆とはまったく別モノを「枝豆」として食べさせられていたのかな。昭和は遠くなりにけり、です。

枝豆から思い出した昭和の風景。ナイター中継とビールに枝豆とくれば、扇風機、風鈴、うちわ、豚の陶器に入った蚊取り線香…。思いだした、思いだした。蚊取り線香の香る中、風鈴の音を聞きながら親父とよく見た白黒テレビのナイター中継は、バックネットカメラだったですね。当時の白黒テレビのナイター中継は画面が暗かったな。いかにも夜やってますって感じだったよ。

それから数年後、生まれてはじめて連れてってもらった後楽園球場はカクテル光線が眩しくて驚いた。「なんて明るいんだろう。昼間みたい」って思ったよ。だからナイターの連れて行ってもらうのが好きだったな。非日常性を感じる喜びだったのかな。球場に一歩足を踏み入れると本当にワクワクしたんだ。

当時の人気はやっぱり長嶋、王。僕はひねくれてパ・リーグファン。当時強かったのは阪急ブレーブス。僕の大好きな東映フライヤーズの大杉選手といつもホームラン王を争っていた長池選手。福本や加藤はまだ駆け出しでした。山田もまだエースじゃなくて、社会人チームから鳴り物入りで入ったばかり。エースは米田。梶本や足立なんかが活躍していました。一方東映は万年Bクラス。張本とか白とか大下とかいたのにね。

野球はクラスでチームを作ってやったよね。サッカーなんてやるヤツはいなかったんだ。野球天国。たいていクラス対抗で、日曜日とかに試合をしました。ユニフォームをデパートで買ってもらったときは嬉しかったな。最初に付けた背番号は「3」だった。まだ大杉ファンになる前で、なぜか長嶋だったんだね。みんなでユニフォーム着て集まると、僕だけじゃなくてやたらに「3」が多かった。他には「1」「8」「18」あたりがダブっていたかな。

野球が一番うまいクラスメートが、エースでキャプテン。ある時キャプテンが、「背番号のダブりはダメ」って言いだした。番号がダブったらみんなの多数決で一番うまい奴がつけるんだと決めた。けっこう残酷な背番号決めだったな。多数決で負けて泣いて帰った友達もいた。僕はもう「3」は要らないと思っていたから、「3」には立候補しなかった。僕は大杉の「51」を立候補した。当然ダブりなかったよ。「なんだソレ?二軍かよ」。バカにされたけどね。まだ大杉はマイナーなパ・リーグのマイナーな選手だったから、背番号なんか知られていなかったんだ。野手で二桁背番号をつけたのは僕とFくんだけだった。Fくんは「19」。野村です。でもみんな知らなかった。僕は知ってたけどね。

小学校の野球は全くお遊びだったけど、おもしろかったな。一応たまにランニングとかノックとか練習とかもやったけど、ほとんど試合ばかりだった。日曜日はお弁当持って試合に行くんだよ。ダブルヘッダーだとか言って、夕方暗くなるまで試合をしてた。遊びだけど一生懸命。エラーとかするとキャプテンに怒られて、選手交代とかさせられちゃう。試合に出られない控え選手もいた。でも今と違って、親も含めて大人は全く出る幕なし。今の子ども野球はつまらないよ。全部大人の管理下でしょ。あの頃は子供天国の楽しい野球だったんだよ。子供たちが自分たちで企画して自分たちで負けないぞって努力して、楽しくやっていたんだ。今はないよね、そんな風景。昭和ってつくられていない自然な時代だったんだよね。枝豆も野球も。

私の名盤コレクション23~Leon Russellとスワンプ名盤(9-1)「The Concert For Bangla Desh」

2012-06-03 | 洋楽
身辺ゴタゴタしてしまい、このシリーズまたすっかり間があいてしまいました。前回までに3回で英米融合のスワンプ的大名盤「レイラ」を語りつくしたので、とりあえずレオンをとりまくスワンプの流れは一段落ではあるかなとは思っています。

私がなぜここまでスワンプロックにこだわるのか、この機会に少し書きとめておきます。これには明確な理由があります。個人的にはスワンプロックこそが70年代の洋楽シーンを大きく方向づけたと思うからです。音楽シーンを振り返ってみれば、50年代に生まれたロックはチャック・ベリーもリトル・リチャードもアメリカが生んだロックンローラーであり、アメリカが主導した新しい音楽はエルビス・プレスリーの登場によっていよいよ全国制覇を迎えたと言っていいでしょう。チャック・ベリーやリトル・リチャードは、日本史で例えるなら信長、秀吉であり、エルビスの登場は徳川家康の天下統一なのです。

ところが60年代に入ると流れは大きく変わります。イギリスからチャックやリトルの影響を受けながら、全く新しい音楽の流れを導き出し一大センセーションを巻き起こした連中が登場します。それがビートルズでした。そしてまた同時期に登場し60年代以降長きにわたって音楽シーンで多大なる影響力を持つことになるローリング・ストーンズも、チャックやリトルをルーツとした英国勢であったのです。すなわち、60年代はアメリカ覇権からイギリス覇権への移行の時代でした。こちらは日本史に例えるなら明治維新にあたるでしょう。

もちろん、アメリカでも英国勢が旋風を巻き起こす中、次の時代に向けた新たな動きは出始めていました。例えばボブ・ディラン。60年代半ばのアメリカの伝統音楽フォークとロックをミックスした動きは、多くのアメリカ・ミュージシャンに影響を与え、ビートルズやストーンズのマネではないアメリカ勢が世界に胸を張れる音楽の存在を意識させるに十分すぎる動きでありました。ディランは60年代後半にはさらに一歩進んで、アメリカ南部に根差したルーツロック的な展開を世に示しました。ディランの「ベースメント・テープス」はこの段階ではまだ海賊盤「グレート・ホワイト・ワンダー」での流布にとどまっていましたが、ザ・バンドを通じて発表された作品は英国勢に衝撃を与えるに十分でありました。

そして、ビートルズが先導しサイケデリックな流れに至ったあたりで停滞感が生まれつつあった60年代末期の音楽シーンは、急速に英国からアメリカへその主戦場が移っていくのです。この70年代突入を控えた重要な段階で、その役割を大きくしたのがアメリカンルーツに根差したスワンプロックだったのです。解散に向かうビートルズに対して、アメリカ的なものを積極的に取り入れることで70年代に向けた新たなスタイルを見出そうとしたストーンズはディランのバックで活躍していたアル・クーパー、ルーツ探訪者として注目されつつあったライ・クーダー、そしてスワンプをコーディネートしていたレオン・ラッセルらに近づくことで、ビートルズなきあとの70年代のリーダーとしての地位固めをアメリカ傾倒スタイルで果たすわけです。

スワンプロックは、アメリカ内部ではディランの影響力下で育ってきたフォークロックやルーツロックと密接に関連しながら来るべき70年代のイーグルスやドゥービーブラザースの登場につなげ、英国勢に対しては新しい時代の音楽シーンのキーワードとしてストーンズはもとより解散後のFAB4(ビートルズの各メンバー)やエリック・クラプトンらを通じて、英国ミュージシャンの70年代音楽シーンを陰で支配する役割を担った訳なのです。もちろん、スワンプロックが単独で70年代の音楽シーンを動かしたということでは決してありませんし、純度の高いスワンプはこれらの流れとはややかい離してしていることも事実です。

そんな中で上記のような流れを上手に振り分け、スワンプが時代を動かす役割をオフィサー的存在として果たしたのが、レオン・ラッセルであったのです(本人の意識の中で、この役割に関してどれほどのものがあったのかは定かではありませんが)。そんな、レオン・ラッセルがデラニー&ボニーやジョー・コッカーのコンダクター役を経て、その役柄としての最後の晴れ舞台を演じスワンプブームの大団円公演ともなったのが、スワンプに傾倒した元ビートルズ、ジョージ・ハリスンの声かけにより実現した世界初のチャリティーロックイベント「バングラディシュのコンサート」でした。(以下続く)

安田記念

2012-06-02 | 競馬
春のG1シリーズも今週の安田記念で一服です。マイルの春の王座決定戦、香港から強豪2頭が参戦です。

気になるのは明日の天気。雨がどのぐらい降り、どのぐらい馬場に湿り気が残るのか。予報によれば明け方から昼ごろまで、毎時1~2ミリの雨。悪化してもせいぜいやや重程度とは思いますが、パンパンの良馬場は見込み薄かなと。

良馬場ならば昨年2着の4ストロングリターンからと思っていましたが、今の先行有利の馬場に加えて湿り気が加わるとなると、追い込み一手のこの馬にはやや不利かなと。となると昨年秋のマイルG1マイルチャンピオンシップをやや重馬場で征した11エイシンアポロンに食指が動きます。相手筆頭は単騎で逃げればしぶとい13シルポート。過去成績からすれば完全なG2レベル馬ですが、今の馬場と展開で侮れないかなと。

あとはG1レベルの4ストロングリターン、休み明けひと叩きされ得意の距離で走りそうな重馬場得意の隠れたG1レベル馬1ダノンヨーヨー、馬場が悪化しなければ東京得意の矢作厩舎初G1馬3グランプリボス、外国馬では過去8戦すべて連対の14グロリアスデイズ。怖いのは、東京コースなら休み明けはむしろ走る8ペルーサ。ただ今回は鞍上が極度不振のアンカツで見送ります。

人気の7サダムパテックは、鞍上ウイリアムズで怖いですがマイル戦は未勝利戦以降連対なしで消し。昨年の覇者15リアルインパクトは本調子になく消し。2ガルボと8コスモセンサーはG1ことごとく惨敗で不要。牝馬3頭は牡馬混合での実績がないのですべて消します。

11から、13、4、1、3、14へ。ワイド中心でいきます。

今見たら11人気ないですね。このままのオッズなら下手にワイドとかにしないで複勝一本勝負って手もありですね。

昭和問わず語り19 ~ 尾崎紀世彦と昭和歌謡曲の転換点

2012-06-01 | 昭和
歌手の尾崎紀世彦さんが亡くなられたとの報。筋金入りの音楽ファンとしては、日本の歌謡界の流れを変えた人を亡くしたと、実に寂しい限りです。

尾崎さんがすい星のごとく歌謡界に現れたのは、私が小学校の高学年の頃。とにかく、モミアゲがカッコよくて歌い方がそれまでの他の歌手たちとは全然違うと、子供の私にも分かったほどの違いがあってとびきりの新しさを感じさせてくれたものでした。

あの頃売れていた歌手はと言えば。演歌系では森進一、青江美奈。森進一は猪俣公章の弟子だから水原弘との共通項も感じさせる、泥臭い演歌ではなかったです。青江美奈もブルース・シリーズで売って、二人の登場はどちらかといえばやや和洋折衷的な当時の新しい演歌の流れだったかもしれません。戦後20年に以上が過ぎ、占領下の古典的音楽&輸入米国産から、徐々に独自路線が築かれつつあった時代だったようにも思います。歌謡界にも少しだけポップス系の匂いが漂い始めたかなと。でもまだまだ後のポップス路線の大御所となる布施明は完璧な歌謡曲歌手であり、本格ジャパニーズポップスの登場には今しばらく時間が必要、そんな時代だったようにも思います。

そんな状況下で尾崎さんの登場はセンセーショナルでした。ジャズを基本にして、キャバレーを歌い歩いていたという実力派だった訳で。はじめから歌謡曲を歌うために訓練を受けてきた歌手連中とは一味もふた味も違った。個人的には、それは革命的だったなぁとつくづく思います。でも彼が登場する下地は確実にあったのです。ちょうど、ベンチャーズが作曲した日本語の曲なんかがヒットしはじめた時代だったりもして(渚ゆう子「京都の恋」「京都慕情」)、世は新しい何かを待っていたということだったのかなと。上手に欧米風なムードをちりばめながら、日本的な味を残しつつ新しいイメージの歌謡曲を歌うみたいな。だからメロディは歌謡曲なのに、モミアゲと独特のダイナミックな歌い方が新しい何かを感じさせた、彼の登場はまさにそんなイメージでした。

沢田研二がソロで成功したのは、尾崎さんの登場を受けて路線的にはそれをヒントに上手に脱GSはかることができたお陰かなとも思います。尾崎さんの登場の2~3年前にGSブームがあったのですが、彼らは基本的に洋楽のコピーを基本としていた訳で、ブームが去って各グループ解散後のソロとしての活躍路線の絵はどうにも描きにくかった。ブーム沈静化後に沢田研二と萩原健一(ショーケン)が合体したロックバンドPYGはそんな不透明感の象徴でしたし、その後ショーケンが結局俳優と言う新たな道を歩むことになったりオックスの野口ひでとが真木ひでととして演歌歌手として新たな活路を見出したのには、そんな理由があったのでしょう。

尾崎さんの登場なくして、ソロとしてのジュリーの活躍も新御三家(郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎)のブームはなかったかな、などと勝手に私は思っています(野口五郎なんて元々デビューは演歌「博多みれん」だもん)。頂点を極めたのが早かっただけに落下速度も半端なく早かった。でも、彼の登場を忘れる人はまずいないでしょう。「そんな人いたね」ではなく、「すごかったよね、彼」。きっとあの時代を知る誰もが、そういう印象で彼のことを覚えているはずです。それは短期間の栄光でありながら、確実に時代を動かしたということの証であると思います。

尾崎紀世彦、彼は死しても彼の存在は日本のすべての音楽ファンの記憶の中で衝撃的に生き続けることでしょう。心よりご冥福をお祈り申しあげます。