大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

昭和問わず語り21 ~ 白黒テレビのヒーロー

2012-06-28 | 昭和
ザ・ピーナッツの姉伊藤えみさんが亡くなられたそうです。

ピーナッツは一世を風靡した女性デュオ。「恋のバカンス」「恋のフーガ」等のヒット曲による歌手としての活躍もさることながら、私の一番の思い出はクレージーキャッツとの共演による「シャボン玉ホリデー」での活躍でした。

シーン1
布団で寝込む父(ハナ肇)
「父さんおかゆができたよ」とピーナッツ。ハナが「いつもすまないね」と返答。そこに乱入する場違いな男植木等。で最後は「お呼びでない?お呼びでない?こらまた失礼したしました」で、一同コケるというお決まりのオチ。

シーン2
ガス灯の夜霧にけむる道を、両脇をピーナッツに囲まれて両手に花状態で歩くハナ肇。
番組の毎週のラストシーンで、ハナ肇が締めくくりをしつつ余計な一言を言って、ピーナッツのふたりにひじ打ちを喰らわされるというこれまたお決まりの名場面。

毎週日曜日の夕方欠かさず見てた楽しい番組でした。提供は牛乳石鹸。
ハナさんも植木さんもみんないなくなっちゃった。そしてピーナッツももう2人揃うことはない。世の常であり仕方のないことではありますが、寂しいものです。

スマイリーオハラ指揮で有名だった「ザ・ヒットパレード」にもピーナッツはレギュラーで出ていたように記憶しています。
こちらは主にスパイダースとの掛け合いだったでしょうか。提供はグリコ?アーモンドチョコのパッケージボードをひっくり返すと、その週のベスト10が書いてあったような。ベスト10番組のハシリだったように思います。音楽番組が好きでこちらも欠かさず見ていました。

歌って演技もこなしてコントもできてという女性タレントはその後、研ナオコやらキャンディーズやらが登場するわけですが、ザ・ピーナッツがその草分けだったのではないでしょうか。渡邉プロダクションのタレント育成のなせる技だったのでしょう。ナベプロ全盛時代でもありました。東宝の怪獣映画「モスラ」にインファント島の小人姉妹という役で起用されたことをスタートにして、幅を広げたのでしたね。

とにかく白黒テレビの時代には、テレビに欠かせないお姉さん姉妹だったのです。ゆみさんは享年71歳と言いますから随分お姉さんだったんだなと、改めて思いました。アイドルと言うにはお姉さん過ぎたけど、確実に白黒テレビのヒーローでした。

テレビが娯楽の王様だった時代。本当に楽しい歌や番組をありがとうございました。
心より御冥福をお祈り申し上げます。

昭和問わず語り20 ~ 枝豆と野球

2012-06-17 | 昭和
昨日居酒屋で食べた枝豆がうまかった。懐かしかったのです。昭和の味。枝にしっかりついていて、歯ごたえのある豆の感触。「あんまり食べると、夕飯入らなくなるぞ!」。昭和の夏の夕暮れ、親父がテレビでナイター中継を見ながらビールのつまみに食べていた枝豆を、少しもらって食べたあの味がした。よくよく考えると、最近の枝豆はほとんどが輸入の冷凍?なんか味気ない。知らないうちに、あの枝豆とはまったく別モノを「枝豆」として食べさせられていたのかな。昭和は遠くなりにけり、です。

枝豆から思い出した昭和の風景。ナイター中継とビールに枝豆とくれば、扇風機、風鈴、うちわ、豚の陶器に入った蚊取り線香…。思いだした、思いだした。蚊取り線香の香る中、風鈴の音を聞きながら親父とよく見た白黒テレビのナイター中継は、バックネットカメラだったですね。当時の白黒テレビのナイター中継は画面が暗かったな。いかにも夜やってますって感じだったよ。

それから数年後、生まれてはじめて連れてってもらった後楽園球場はカクテル光線が眩しくて驚いた。「なんて明るいんだろう。昼間みたい」って思ったよ。だからナイターの連れて行ってもらうのが好きだったな。非日常性を感じる喜びだったのかな。球場に一歩足を踏み入れると本当にワクワクしたんだ。

当時の人気はやっぱり長嶋、王。僕はひねくれてパ・リーグファン。当時強かったのは阪急ブレーブス。僕の大好きな東映フライヤーズの大杉選手といつもホームラン王を争っていた長池選手。福本や加藤はまだ駆け出しでした。山田もまだエースじゃなくて、社会人チームから鳴り物入りで入ったばかり。エースは米田。梶本や足立なんかが活躍していました。一方東映は万年Bクラス。張本とか白とか大下とかいたのにね。

野球はクラスでチームを作ってやったよね。サッカーなんてやるヤツはいなかったんだ。野球天国。たいていクラス対抗で、日曜日とかに試合をしました。ユニフォームをデパートで買ってもらったときは嬉しかったな。最初に付けた背番号は「3」だった。まだ大杉ファンになる前で、なぜか長嶋だったんだね。みんなでユニフォーム着て集まると、僕だけじゃなくてやたらに「3」が多かった。他には「1」「8」「18」あたりがダブっていたかな。

野球が一番うまいクラスメートが、エースでキャプテン。ある時キャプテンが、「背番号のダブりはダメ」って言いだした。番号がダブったらみんなの多数決で一番うまい奴がつけるんだと決めた。けっこう残酷な背番号決めだったな。多数決で負けて泣いて帰った友達もいた。僕はもう「3」は要らないと思っていたから、「3」には立候補しなかった。僕は大杉の「51」を立候補した。当然ダブりなかったよ。「なんだソレ?二軍かよ」。バカにされたけどね。まだ大杉はマイナーなパ・リーグのマイナーな選手だったから、背番号なんか知られていなかったんだ。野手で二桁背番号をつけたのは僕とFくんだけだった。Fくんは「19」。野村です。でもみんな知らなかった。僕は知ってたけどね。

小学校の野球は全くお遊びだったけど、おもしろかったな。一応たまにランニングとかノックとか練習とかもやったけど、ほとんど試合ばかりだった。日曜日はお弁当持って試合に行くんだよ。ダブルヘッダーだとか言って、夕方暗くなるまで試合をしてた。遊びだけど一生懸命。エラーとかするとキャプテンに怒られて、選手交代とかさせられちゃう。試合に出られない控え選手もいた。でも今と違って、親も含めて大人は全く出る幕なし。今の子ども野球はつまらないよ。全部大人の管理下でしょ。あの頃は子供天国の楽しい野球だったんだよ。子供たちが自分たちで企画して自分たちで負けないぞって努力して、楽しくやっていたんだ。今はないよね、そんな風景。昭和ってつくられていない自然な時代だったんだよね。枝豆も野球も。

昭和問わず語り19 ~ 尾崎紀世彦と昭和歌謡曲の転換点

2012-06-01 | 昭和
歌手の尾崎紀世彦さんが亡くなられたとの報。筋金入りの音楽ファンとしては、日本の歌謡界の流れを変えた人を亡くしたと、実に寂しい限りです。

尾崎さんがすい星のごとく歌謡界に現れたのは、私が小学校の高学年の頃。とにかく、モミアゲがカッコよくて歌い方がそれまでの他の歌手たちとは全然違うと、子供の私にも分かったほどの違いがあってとびきりの新しさを感じさせてくれたものでした。

あの頃売れていた歌手はと言えば。演歌系では森進一、青江美奈。森進一は猪俣公章の弟子だから水原弘との共通項も感じさせる、泥臭い演歌ではなかったです。青江美奈もブルース・シリーズで売って、二人の登場はどちらかといえばやや和洋折衷的な当時の新しい演歌の流れだったかもしれません。戦後20年に以上が過ぎ、占領下の古典的音楽&輸入米国産から、徐々に独自路線が築かれつつあった時代だったようにも思います。歌謡界にも少しだけポップス系の匂いが漂い始めたかなと。でもまだまだ後のポップス路線の大御所となる布施明は完璧な歌謡曲歌手であり、本格ジャパニーズポップスの登場には今しばらく時間が必要、そんな時代だったようにも思います。

そんな状況下で尾崎さんの登場はセンセーショナルでした。ジャズを基本にして、キャバレーを歌い歩いていたという実力派だった訳で。はじめから歌謡曲を歌うために訓練を受けてきた歌手連中とは一味もふた味も違った。個人的には、それは革命的だったなぁとつくづく思います。でも彼が登場する下地は確実にあったのです。ちょうど、ベンチャーズが作曲した日本語の曲なんかがヒットしはじめた時代だったりもして(渚ゆう子「京都の恋」「京都慕情」)、世は新しい何かを待っていたということだったのかなと。上手に欧米風なムードをちりばめながら、日本的な味を残しつつ新しいイメージの歌謡曲を歌うみたいな。だからメロディは歌謡曲なのに、モミアゲと独特のダイナミックな歌い方が新しい何かを感じさせた、彼の登場はまさにそんなイメージでした。

沢田研二がソロで成功したのは、尾崎さんの登場を受けて路線的にはそれをヒントに上手に脱GSはかることができたお陰かなとも思います。尾崎さんの登場の2~3年前にGSブームがあったのですが、彼らは基本的に洋楽のコピーを基本としていた訳で、ブームが去って各グループ解散後のソロとしての活躍路線の絵はどうにも描きにくかった。ブーム沈静化後に沢田研二と萩原健一(ショーケン)が合体したロックバンドPYGはそんな不透明感の象徴でしたし、その後ショーケンが結局俳優と言う新たな道を歩むことになったりオックスの野口ひでとが真木ひでととして演歌歌手として新たな活路を見出したのには、そんな理由があったのでしょう。

尾崎さんの登場なくして、ソロとしてのジュリーの活躍も新御三家(郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎)のブームはなかったかな、などと勝手に私は思っています(野口五郎なんて元々デビューは演歌「博多みれん」だもん)。頂点を極めたのが早かっただけに落下速度も半端なく早かった。でも、彼の登場を忘れる人はまずいないでしょう。「そんな人いたね」ではなく、「すごかったよね、彼」。きっとあの時代を知る誰もが、そういう印象で彼のことを覚えているはずです。それは短期間の栄光でありながら、確実に時代を動かしたということの証であると思います。

尾崎紀世彦、彼は死しても彼の存在は日本のすべての音楽ファンの記憶の中で衝撃的に生き続けることでしょう。心よりご冥福をお祈り申しあげます。

昭和問わず語り18 ~ 子供の日に思う私の「紙芝居」体験

2012-05-04 | 昭和
J-CASTさんの連載「営業は難しい~ココを直せばうまくいく!」(http://www.j-cast.com/kaisha/2012/04/26130332.html)で、昭和の紙芝居のおじさんは実は有能なプレゼン師だったというお話を書き、懐かしく私の紙芝居体験を思い出しました。子供の日にちなんで、昭和の思い出話を…。

私は東京の白金小学校という学校に通っていたのですが、家は目黒で家まで距離があったので帰り道はいろいろな道順を試す寄り道し放題の毎日でした。小学校3年生ぐらいの頃のある日、友達に連れられて行った五反田方面の公園でのこと。そこは公園としても広く驚くほど子供たちがたくさん遊んでいて、「なんだみんな学校帰りにこんなところで遊んでいたのか」という新たな発見が本当に嬉しかった、楽しい場所でした。

着いてしばらくは知らない子もまじって「缶蹴り」とか「だるまさんが転んだ」とかで遊んでいたのですが、小一時間もすると誰かの「始まるぞ~!」という声と共に、皆がぞろぞろとある場所に集まり始めます。「なんだろう?」と私も皆が集まっている方向に行ってみると、そこには1台の自転車が。見るとおじさんが荷台をいじって何やら準備をしている風です。「はいはい、お菓子買った人はこの線より前で見ていいよ。買ってない人は後ろ後ろ…」。事情がつかめない私は、菓子を買うでもなく、ひとまず線の後ろにおずおずと下がります。どうやら紙芝居というものが始まるらしい、それは初めての紙芝居体験でした。

気がつけば私の前には黒山の人だかり。30~40人はいたような。高学年のお兄さんお姉さんもけっこういて、皆お菓子を買ってどんどん前に。お菓子を買うか否か悩んだ私はその期を逸し、気がつけば自転車はほとんど見えなくなりました。「なるほど、お菓子を買わないと見えないのか」と納得しながら、おじさんの声を聞きつつ隙間からわずかに覗く自転車荷台上の絵をこっそり眺めました。冒険ものだったと思います。「今日から新しい物語のスタートだよ」と言っていたのを覚えています。出し物が始まると、あたりは水を打ったように静まり返って、さっきまであんなにいろいろな遊びに興じて騒いでいた子供たちがウソのようにおじさんの紙芝居に見入っているのです。

おじさんの話はとにかく面白かった。語り口のじょうずさと、時折聴衆に振る問いかけや同意を求める投げかけが実に絶妙で、お兄さんお姉さんたちの隙間からわずかにのぞく静止画の紙芝居が、おじさんが話すたびに幾通りにも見えてしまう不思議。まるでテレビのマンガのように、否双方のやり取りがある分、テレビなんかよりもよっぽど臨場感があって、すっかり引き込まれてしまったのでした。紙芝居の絵はチラ見状態の私でも本当におもしろかった。今思い出してもスゴイ技だったなと思います。絵を見ていないと音だけでは楽しくないテレビに比べて、絵をちょっと見ただけでもおじさんの語り口で想像が膨らむ紙芝居のおもしろさは、本当に新鮮でした。

紙芝居のその日の分のストーリーが終わると、今度はまた別の遊びをおじさんが提示しました。何か薄くて小さいクラッカーのような素材に数字が打ちこまれていて、その数字だけをきれいに切り取ったら景品のお菓子が貰える。確か全部で10枚程度。1枚でも数字部分が割れちゃったらその時点でゲームオーバー。できなければその数字クラッカーを食べて終わりみたいなゲーム。1回20円ぐらいだっでしょうか。驚くほど多くの子供がこのゲームにも参戦していました。きっと紙芝居の魔術にはまってそのゲームにも引き込まれていたのでしょう。一種の催眠効果かなと、今思い出すとそんな気がします。

私はその日は紙芝居をタダで後ろで見たうしろめたさもあって、おじさんに話しかけにくくその次なるゲームには不参加。気がつけば、大半の子供が数字切り抜きに精を出し、「缶蹴り」や「だるまさん」が成立しなくなっていました。おじさんに切り抜きのコツを教わったり、1個5円~10円のお菓子やジュースを買ったり、すっかり公園はおじさんが支配する世界に変わってしまいました。紙芝居を導入にすっかり子供たちの心をつかんでしまったのです。今思うと、ものすごいプレゼンの達人であったわけです。

それからしばらくして、再び件の公園に再び寄り道しました。もちろん目当ては紙芝居と数字くりぬきゲーム。意を決して今日こそおじさんと話をするぞと、意気込んで行ったのです。ところが公園に着いてみると子供数がグッと減っていて、おじさんも来ていません。パラパラと遊んでいる子供に、「紙芝居来ないの?」って聞いたら、「別の公園に移ったんだってさ」と。なんともさびしいお話。子ども心には理由は分からなかったけど、今思えば、許可なく公園で商売して警察に追い出されたのかなと。子供たちはきっと紙芝居目当てで、あの公園にいたのでしょう。だから紙芝居が来なくなって急に遊ぶ子供の数が減ったのでしょう。

私の紙芝居体験は、おじさんの卓越したプレゼンテーション力との出会いの衝撃と消化不良のその結末さびしさのコントラストが、強烈に記憶に刻まれた思い出です。
皆さんの紙芝居体験はどんなですか?

昭和問わず語り18 ~ 怪獣ブーム4

2012-03-16 | 昭和
怪獣ブームの話が途中になってしまいました。確かウルトラマンまでいっていたかなと。

ウルトラマンとくれば次はウルトラセブンですね。これは怪獣モノというよりも宇宙人モノ。巨大な怪獣が毎回登場して最後の対決シーンが見せ場だったウルトラマンとはやや違う展開でして、基本的には毎回異なる宇宙人が地球侵略を狙ってやってきてセブンと対決するというストーリーが前シリーズとは大きく異なる趣でした。話が難しいというか人間ドラマ(実際には人間と宇宙人の対話ドラマですが)というか、セブンがアパートの一室でちゃぶだいを挟んでメトロン星人と対話をするなんていう“名シーン”もあったりしました。

怪獣モノから宇宙人モノに移行したのには、実は大人の事情があったようです。当時怪獣ブームもピークアウト気味で予算が厳しくなっていたと。怪獣の着ぐるみ作りもそれなりにコストがかかっていたものの、さらなるコストはヒーローと怪獣が対決する町のミニチュア作りです。怪獣が倒されて町が壊れるところも見せ場ではあったのですが、確かにその制作作業たるやモデルとなる街のロケハンにはじまって設計、施工、色付等脚色…。なんでも着ぐるみとセット代で総製作費の大半を占めていたとか。これ毎週じゃたまらんわけですよ。その後のヒーローものである、仮面ライダーやゴレンジャーなどが、皆等身大の悪者を設定し空き地のような場所でばかりロケを敢行したのは、セット製作費の削減目的以外のなにものでもないのです。わずか最後の5分を盛り上げるために映画並みの製作費が投じられるのはいかがなものか、大人の考えは当然そうですよね。

当時子供の僕らは、「ウルトラマン」に比べてどうも消化不良気味でした。セブンがストーリー的に名作であると思えたのは、恐らく何度目かの再々放送で見た高校時代かなと思います。子供の頃は、話は理屈っぽいし、毎回等身大の宇宙人ばかりが登場して大きな怪獣の登場が減っちゃうしで、何気に不満を感じてたのは間違いありませんでした。でも毎週見てました。そんなセブンへの怪獣の登場数は少なかったけど、質は高いかなと思います。少数精鋭ね。セブンシリーズで一番有名な怪獣はエレキングでしょう。あれはウルトラシリーズでも1、2を争う怪獣デザインの名作です。あとは、セブンがピンチの時に助けてくれるカプセル怪獣の存在も魅力的だったな。ミクラス、ウインダム、アギラの3頭だったかな。これが弱いんだな、どれも。最初はイイ線いっていながら、だいたいやられてぐったりしたところで「戻れ!」って戻されるの。カプセルの中で死んじゃうんじゃないかと心配したよ、ホント。デザインでは、闘牛みたいな風貌で猫背のミクラスが可愛かったです。この後のウルトラシリーズの怪獣デザインの体たらくぶりを見るに、セブンが最後の栄光時代であることは間違いありません。

さてセブンの宇宙人モノ的性格ですが、実は円谷プロの宇宙人モノは映画も含めてけっこう歴史は古いんですよね。ただセブンに直結するのは、「ウルトラQ」のケムール人、「ウルトラマン」のメフィラス星人あたりです。超有名なバルタン星人は確かに存在感はあるんだけど、単なる地球征服者でちょっと動機が希薄なので、怪獣と同じ立ち位置と言うところが不満です。ケムール人は科学の力で寿命は延びたけれど肉体は衰えてしまい(あれ体が腐ってるんですよ。子供時分に臭い靴下を手にかぶせて「ケムール人だぁ」とか言ってたのはかなりいいセンスだったと自画自賛です)、人間の肉体を求めて地球に来るんだよね。メフィラス星人は武力によらない地球制服を宣言し、地球人の子供を人質にとって「あなたに地球をあげます」と言えって迫るんだったかな。あのシーンはその人質の子供と同世代の僕には本当に怖くてよく覚えています。「僕の所に来たらどうしょう」「あげますって言っちゃったらどうなっちゃうのかな」ってね。結局少年は絶対に「あげます」と言わずに、メフィラス星人は帰ったんですよ。これこそセブン系ストーリーの元祖ですよね。

そんなわけでウルトラセブンは、ウルトラマンとは見かけはともかく中身は全然違うヒーローものでした。あ、そうそう大切なことを忘れていました。ウルトラセブンと言えばアンヌ隊員。ひし美ゆり子さんね。ウルトラシリーズに登場した初めての“キレイなお姉さん”でした。「ウルトラQ」が終わって「ウルトラマン」が始まったときに、子供だって「え~っ、また桜井浩子(って当時は名前は知らなかったろうけど)」って思ってガッカリしたからね。子供心に紅一点女性隊員って大事だった訳で、アンヌ隊員は番組に別の花を添えてくれた貴重な存在だったのです。我々世代にはいまだにアンヌファンって多いみたいですよ。わかる、わかる。僕らにとって初恋の人みたいな存在なのかもしれません。

昭和問わず語り17 ~ マイ・ソニー・ブランドイメージ

2012-02-10 | 昭和
このところオフィシャルでソニーの話をいろいろ書いております。ちょっとこっちでも個人的な思い出を交えて語っておこうかなと。

僕らが小学生の頃は、「レコードで聞く」から「録音機材で音楽を録り聞く」ことへ移行し始めた時代でした。我が家では時々趣味で物を書いていた親父が、自分の思いつきを録音したいとナショナルの家庭用オープンデッキを買い、「もったいないから使え」という指示の下、僕はもっぱら歌謡曲の録音に精を出しました。当時はライン接続なんてしゃれたモノはなかったので、常にオープンデッキをテレビの前にスタンバイさせて、好きな歌手が登場するとオープンテープに録って聞く、の繰り返し。マイク録音なので、「静かにして!」とか言いながら緊張の沈黙の中録音を敢行し、録り終わると「いいよ」で一同フーッと息を吐いて肩の力を抜くみたいな(なぜか息を止めていたりして)、妙な録音環境でありました。

中学生の時代にはカセットテープが登場し、録音中に声を出しても大丈夫なエアチェックができるラジカセが僕らのあこがれの機器となります。ナショナル、アイワ、東芝、ソニー…各社入り乱れてのラジカセ戦争が勃発していましたが、僕がけっこうこだわったのは機器よりもむしろテープ。TDK(当時は東京電気化学工業と言っていました)、ソニー、日立マクセルの3社がいわゆる3強でしたが、初期は安さと種類の豊富さでTDKを主に使っていたように思います。ソニーは若干価格が高かった。これは家電製品も同じでしたが、一定以上は値引きしないという“ソニーの掟”があって、我々世代のソニーのブランドイメージ形成にこの当時の録音テープからくる印象は、大きく影響しているように思います。ちなみに、初期のマクセルはデザインがイマイチでした。

カセットテープはその後進化して、TYPEと言われるクロームテープが登場。これを機にTDKが一気にシェアを伸ばしたような感覚がありました(確かSAとか言う商品です)。クロームテープは従来のテープに比べてワイドレンジ(録音音域)が広いというのがウリで、特に低音域の厚みが違うとか言われてけっこうクラシックファンなんかの友達は喜んで使っていたような記憶です。ただ僕はクロームテープは高音の抜けが悪いような気がして(根拠レスの勝手な先入観です)、ロックには向かないと決めつけていました。実は、何よりクロームポジション付のラジカセやデッキを持っていなかったことで、悔しまぎれに自分を納得させる言い訳を作っていただけだったりもするのですが…。

そんな折も折、ソニーが画期的な新テープを発売します。その名は「DUAD(デュアド)」。フェリクロームテープという新素材で作られていて、何より僕を喜ばせたのは「ノーマルポジションでも使えます」のうたい文句でした(もちろんソニー製のデッキに新搭載されたフェリクロームポジションで使うのがベスト)。「ざまーみろ!クロームテープ!」と訳の分からない罵声を心の中で叫びながら、秋葉原に買いに走ったのを覚えています。でも高かったなぁ。60分で800円ぐらいしたかな。90分は千円以上したので買えなかった。でもうれしかった。このパッケージデザインがまた当時としてはイカシテいて、高級感あふれていたんですよ。さっそく家に帰ってレコードを録音すると、なんとなく音が良いようで「クロームポジションを使っている奴らは、こんな喜びを感じていやがったのか!でも追いついたぞ!」みたいな達成感を味わったわけです。

このDUA登場で私のソニーのブランドイメージはさらに高まりました。まさしく他社とは一味違う「技術のソニー」「世界のソニー」「信頼のソニー」。高いお金を出してクロームポジション付ラジカセやデッキを買わなくとも、良い音で音楽を楽しませてくれる僕らの味方のすごい企業。しかも名前も(当時個別で愛称的なネーミングが付けられたテープって他になかったと思います。デュアドって響きは、どこかグラムロック的でカッコ良かったです)パッケージデザインもイカシテる!もうベタホメ状態でした。テープの金額が高かったことも、高級感のイメージづくりに一役買ったような気がします。マイ・ソニー・ブランドイメージはこうして出来上がったわけです。

後日談として、この「DUAD」どうも1回録音したモノを消したり上から違うものを録音したりすると元の録音音源の消えが悪いという事実が発覚します。曲間の無録音部分に前の音が残って聞こえたり、これはショック大です。おこずかいの少ない当時の僕ですから、録ったモノに飽きるとまた上から録音して楽しむのが常でしたし、こんな高価なテープは何度も使わなければ元が取れないぐらいに思っていましたから。しかし、一回録りで使わないと本来の性能を活かせないようで。「実は、金持ち向けのテープかも」と少々ガッカリもさせられたりしました。ソニーは僕らの味方じゃなかったかも…と。ただ、それでかえって「ソニーDUAD=金持ち向け商品」というさらなる高級感が、マイ・ソニー・ブランドイメージに付加されたのでした。

昭和問わず語り16 ~ 怪獣ブーム3

2012-01-12 | 昭和
久しぶりの昭和シリーズ。間があきましたが、昭和40年代の怪獣ブームの3です。

いよいよ昭和41年7月、ウルトラマンがスタートします。前シリーズ「ウルトラQ」との決定的に違うのは、勧善懲悪のヒーローモノである点。「実際にありそうなフィクション」だった前者に対して「実際にあり得ない娯楽」の後者は、より子供ターゲットを明確にした番組への改編でもありました。

主人公がピンチになると密かにヒーローに変身するというのは、スーパーマン以来のアメリカ的キャラクターですが、ストーリーはある意味「水戸黄門」とも同じ昭和日本的黄金ルールのVSOP(Very Special One Pattern)です(当時時代劇をよく見ていたうちのオヤジに「時代劇って何がおもしろいの?」と質問したら、「ウルトラマンと一緒だよ」と言われて、当時は何のことかさっぱり分からなかった記憶があります)。この「怪獣登場→人間が対抗→ピンチ到来→ウルトラマン登場→怪獣撃破」という、安心して見られる30分の起承転結のしっかりしたストーリー展開はけっこう重要なポイントなのです。この後の仮面ライダーやゴレンジャーなどのプロトタイプが、ここでしっかり作られました。

私は毎週欠かすことなくとにかくよく見ました。提供はタケダ製薬。同社の本社外観が映って「♪タケダ、タケダ、タケダ~。タケダ、タケ~ダ~」という社名連呼のジングルが終わると、番組テーマ曲が流れます。「♪胸に付けてるマークは流星~」。不気味さを漂わせた前作「ウルトラQ」から明るさ満点のヒーローモノへの衣替えが、このテーマ曲ひとつにも十分現れています。「ミステリー・ゾーン」はじめ海外ドラマに範を得ている「ウルトラQ」のおどろおどろしさはそこには微塵もなく、どこかクレージーキャッツの無責任シリーズとも対をなすような高度成長に浮かれる日本オリジナルの番組作りが確立された、「もはや戦後ではない」的印象が番組全体から漂っていたことも爆発的人気の一要因であったのではないでしょうか。

何と言ってもウルトラシリーズの命は怪獣です。ウルトラマン、ウルトラセブンあたりまでは、同じ円谷プロが作る東宝の怪獣映画とそん色のないカッコいい怪獣が沢山登場しました。映画や前作「ウルトラQ」からの使い回しもけっこうありました。私が好きだったネロンガはバラモンの変形、チャンドラーはペギラの角を増やしたパターン、ジラースに至ってはあのゴジラのクビ周りにエリ巻きを付けてエリ巻き怪獣にしてしまうという荒業も(ジラースはウルトラマンにエリ巻きを取られ、幻の“ウルトラマン対ゴジラ”が思わぬ形で実現するのです)。バルタン星人とかレッドキング、ゴモラなどその後長きにわたって語り継がれ、世代を超えて人気を集めている怪獣も何体かいたりもします。地球上では3分間しか戦えないというキャラづくりも含め、ウルトラマンも怪獣も本当によく練られて作られていたと、今更ながらに感心させられます。

この番組でもうひとつ重要なポイントは、ウルトラマンに話をさせなかったこと(第一話と最終話では、ストーリー上どうしても必要な部分として話をするシーンが登場しますが、あくまで例外です)。それによって番組が過度に幼稚流れることを食い止め、「大人も一緒に見れる子供番組」として成立し、その後も長きにわたって「大人になってからも振り返って見るに耐え得る子供番組」の地位を確立します。このあたりが、ウルトラマンがいまだヒーローモノの代表格として君臨している理由であろうと思います。

平和を祈りつつ黙って黙々と働く常勝の強い存在、ウルトラマンの登場は終戦から20年、敗戦から立ち直り高度成長をひた走っていた再生日本の象徴的存在であったのかもしれません。

昭和問わず語り15 ~ 東映フライヤーズの謎

2011-11-27 | 昭和
昭和ネタは、怪獣ブームを一回お休みして別ネタです。

談志師匠が亡くなられてふと思い出した、後楽園球場で野球を見ている時に師匠からポップコーンをいただいたお話。それをオフィシャルブログに書いていて、そう言えばあの当時の東映フライヤーズ大好きだったなとしみじみ思ったのです(菅野君の入団拒否ネタを書いたのも、その連なりでした)。

そんな訳で、その当時のスターティング・メンバーをなんとか思い出してみます。
1番センター:毒島
2番セカンド:大下
3番ライト:白
4番レフト:張本
5番ファースト:大杉
6番サード:佐野
7番キャッチャー:種茂
8番ショート:大橋
9番ピッチャー:森安
(もしかすると、一部時代の錯綜があるかも・・・。だいたい合っているとは思います)

毒島章一は「ぶすじま」と読みます。群馬県桐生市出身。桐生独特の苗字です。三塁打の日本記録を持っていた(もしかして、今だに記録?)快速選手。駒沢時代の残党で、もう私がファンになった頃は引退間際でした。その後全くその名を聞きません。

大下剛は名手でした。いぶし銀のような選手で、巨人V9時代の土井選手に似たタイプ。ただ気性は荒く、監督・コーチ陣との衝突も多かったようでその後トレードに。広島で古葉監督時代にヘッドコーチとかやっていた記憶があります。けっこう頭脳派でした。

白仁天は韓国から張本が連れてきた選手。当時外人枠2名の時代に他に2選手米国選手がいたので、彼は外人枠ではなかったようです。打率は毎年3割程度コンスタントに打っていて、ベスト10常連でした。この選手もほどなく出されてロッテに。その後は、韓国のプロ野球設立であちらの監督になりましたが、プライベートで浮気がばれて姦通罪とかで奥様に訴えられて拘留されたとか。最後に耳にしたニュースはさびしいものでした。

張本勲は皆さんご存じ、長島無きあと巨人にトレードされ(確か高橋一+富田との交換という超大型トレード)王・張本OH砲とか言われていました。守備が下手でしたね。史上最高シーズン打率とか、史上最高生涯打率とか安打製造機的な記録を沢山持ってました。大選手ですが、指導者として全く声がかからない不思議。大沢親分と出ていたテレビ番組で元オウムウォッチャーの江川女史とケンカして女史を番組降板に追い込んだとか。なるほど、指導者に呼ばれない訳です。

大杉勝男、「月に向かって打て」と飯島コーチから指導され球界一のスラッガーに成長。阪急長池と毎年ホームラン王を争っていました。気が短くて審判をなぐって退場なんてこともしばしば。首脳陣との衝突もあったようでトレードでヤクルトへ。広岡監督の下、初優勝に貢献。セ、パ両リーグで1,000本安打達成という偉業も成し遂げています。引退後あまりに早いその死は、本当に悲しかった。私の東映→日本ハムファンの原点はこの人です。

佐野嘉幸、元々はセカンドのレギュラーだったようですが、大下に守備位置を奪われ当時はサードをやっていたようです。あまり良く覚えていません。地味だったかな?その後トレードで南海へ。最後は広島でそこそこ活躍していたような・・・。

大橋譲、東都大学リーグのホームラン王として亜細亜大学からドラ1で入団。私も大変期待の新人でした。ところがバッティングは全然プロで通用せず、もっぱら守備の名手として知られました。しかし、阪急にトレードで移籍(交換相手は阪本)してから、打撃開眼。3拍子揃った名遊撃手として大成しました。きっと当時の東映の打撃コーチダメだったんですね。みんな好き勝手なバッティングしてましたから、コーチなんて不在も同然だった?

種茂雅之は不動の正捕手で、当時すでにかなりなベテラン。昭和37年に水原監督指揮の下、日本一になった時にエース土橋投手と共にバッテリーでシリーズMVPを同時受賞しました(私がファンになる前のお話)。その後阪急に移籍(交換相手は同じ正捕手の岡村)。阪急でもそこそこ活躍しました。

森安敏明は当時のエース。以前ブログで書きましたが、黒い霧事件で球界を永久追放に。「先輩のお金を預かっただけ」という弁明は受け入れられず、「疑わしきは罰す」でこれからという時に選手生命を断たれました。その後の名誉回復ならぬまま逝去。悲運のエースでした。ちなみに、森安なき後、チームのエースになったのは金田留広。400勝金やんの実弟です。何と彼は最高シーズン勝ち星24勝ですからけっこうな投手でした。兄貴がロッテの監督になったので、「兄と戦うのは嫌」とトレード志願してロッテへ。その後は広島だったかな。でも東映時代ほどの活躍はできませんでした。

ホームラン王に首位打者に20勝投手・・・、こんなにスゴいメンバーがそろっていたのに万年Bクラス。本当に七不思議みたいな話です。しかもご覧の通り、私が応援を始めた頃のレギュラー選手は、すぐに引退した毒島を除いてすべてトレードに出されているという不思議も。まぁそれだけ個性が強くて扱いにくい選手が多かったのでしょう。それがまた魅力で、皆が応援する巨人なんて皆優等生で面白くない訳です。なんか不良の魅力に引き付けられたかなと。後楽園で出あった談志師匠も、好敵手で名人の息子で優等生の古今亭志ん朝に対して言ってみれば不良的存在で、そこが私には魅力でしたから。フライヤーズと同じイメージで捉えていたのだと思います。

余談ですが、評論家の江本孟則氏は意外に知られていませんが、新人の時は東映所属。1年いてすぐに南海にトレードされ、そこでエースになりました。その後阪神で「ベンチがアホやから・・・」発言で引退に追い込まれました。この人最もこの時代の“東映人”だったのかもしれませんね。口うるさくて個性的、だから1年でトレードにも出されている訳で。
おもしろいチームでしょ、当時のフライヤーズ。懐かしい限りです。

昭和問わず語り14 ~ 怪獣ブーム②

2011-11-03 | 昭和
「ウルトラQ」の話の続きです。ちょっと“濃い”かもしれません。

ペギラ、ガラモン以外にも、その後の怪獣のキャラクター作りの基本になったものがいくつか登場しています。その第一がケムール人。怖かったです。技術の進歩で500歳を超えて生きながら、老化を防げない自己の肉体に代わる人間の“若い”肉体を求めて誘拐するという設定。いや、何よりそのグロテスクな風貌は、小学校低学年の子供には十分一人でトイレに行けなくなるほどの恐怖心を与えられたのでした(テリー伊藤氏をはじめてテレビで見た時、「あっケムール人!」と思いました)。宇宙人のフォルムとしては、バルタン星人と並ぶ大傑作であると思います。このケムール人のストーリーは、後の「ウルトラマン」さらには、宇宙人の侵略および共存をテーマとした「ウルトラセブン」に引き継がれていくことになります。
★ケムール人
http://www.youtube.com/watch?v=_sX-kk3lyWo&feature=player_embedded

余談ですが、東宝の怪獣シリーズ映画の“侵略モノ”でも当初の「海底軍艦」や「地球防衛軍」では、その姿こそ見せないものの、宇宙人の納得性の高い理由づけによる侵略が描かれていたのですが、ゴジラシリーズのキンギドラ登場に伴い出てきた宇宙人あたりから、明確な理由なく単に「地球を我がモノのしたい」という流れに変わってしまい、「なんだかなぁ~」と思わされたものです。その他題材に事欠かない怪獣ブームにおけるゴジラシリーズの“功罪”については、改めて書きたいと思いますので、一旦お預けにします。

「ウルトラQ」に戻って、さらに有名な怪獣としてカネごンがいます。この物語も良くできていて、貯金とお金勘定が大好きな少年がある朝起きるとカネごンになっていたというストーリー。子供たちに人の道を諭すかの如き展開は、当時小学校の「道徳」の時間に見たNHK教育テレビのドラマの世界みたいで、実に昭和の匂い満載なのです。しかもこの回の撮影地は今の聖蹟桜ヶ丘。一面切り開かれ土の荒野。そこをブルトーザーが行く様は、今や立錐の余地もないほど建て混んだ高級住宅地となった当地の開発期を、図らずも記録した形ともなり、それを見れるだけでも本当に貴重な映像であります。
★カネゴン
http://www.youtube.com/watch?v=87t2M6zwGnA

このような人間の味方、あるいは仲間的怪獣は、その後のシリーズでもいくつか登場します。代表格はピグモンや怪獣王ブースカ(1年間シリーズで放映されました)です。また円谷プロとは無関係ですが、マンガの「おらぁグズラだど」に登場する主人公のグズラも、同様のコンセプトであったと思います。これらが皆、人間とほぼ同じサイズであるという設定も含めて、この種のキャラクターのプロトタイプはカネゴンであったと言っていいでしょう。

その他記憶に残る「ウルトラQ」の傑作キャラと言えば、海底原人ラゴン。これも怖かった。キャラに対する恐怖心は梅図かずお「半魚人」から受けたモノと一部ダブっているかもしれません。ラゴンは無言で民家に入って来る怖さがあって、「うちに来たらどうしよう」みたいなこれまた一人でトイレに行けなくなる的恐怖に陥れられたのです。この感じ、元祖ホラー映画的と言ってもいいかもしれませんね。ヤツは音楽が好きで、ラジオから音楽が流れると聞き惚れておとなしくなるというのも何とも不気味。確か、漁船に釣り上げられた自身の卵を返して欲しくて陸に上がって来たと言うストーリーでした。風貌といいストーリーといい、後の日活の怪獣映画「ガッパ」の元ネタはこれじゃないですかね。ラゴンは「ウルトラマン」にも再登場します。核実験の放射能汚染の影響という設定で巨大化してしまっていて、「ウルトラQ」登場時の怖さはありませんでした。
★ラゴン
http://www.youtube.com/watch?v=ExQ3e2x2y44


★J-CAST~大関暁夫連載「営業は難しい~ココを直せばうまくいく!」更新しました。
◆「日報」を使った営業管理がなぜかうまくいかないワケ◆
http://www.j-cast.com/kaisha/2011/11/02111950.html
◆INDEX◆
http://www.j-cast.com/kaisha/column/kokonao/index.php

昭和問わず語り13 ~ 怪獣ブーム①

2011-10-29 | 昭和
フェイスブックでガラモンの話をきっかけに怪獣談義が盛り上がってきたので、こちらでも怪獣ブームをしばし懐かしんでみます。まずはブームの背景から。

昭和41年私が7歳の頃、「ウルトラQ」がテレビで放映開始されました。思えばこれがブームの火付け役でした。制作の円谷プロダクションは東宝映画で昭和20年代からゴジラを皮切りとした怪獣映画を何本も制作していましたが、テレビ画面に怪獣が主役として登場するのはこれが初めてであったと記憶しています。

ものの本によれば、もともと海外の「ミステリーゾーン」的番組の日本盤を標榜して制作されたこの「ウルトラQ」でしたが、放映前に全28本を撮り終えて放映順を決めたと言う当時のやり方において、その第一話を何にするかそこにすべてのキーはあったように思います。制作順で言えば、第一作は「マンモスフラワー」だそうで、これは怪獣モノと言うよりはミステリーモノです。ところが円谷プロダクションおよびTBSのスタッフの判断は、番組のイメージをもっと娯楽性の高いものにした方がよいということで、怪獣モノの「ゴメスを倒せ!」が昭和41年1月2日放映の栄えある第一話に選ばれたと言います。

この作品は、伝説的に言い伝えのある古代怪獣ゴメスとその退治役として祀られている怪鳥リトラの闘いを取り上げたものです。パンドラの匣が開けられ復活したゴメスをリトラが身を呈して退治すると言うストーリー。今見ると、30分モノに無理やり押し込んだ苦しさは否めないものの、ヒーローものとは一味違う「東宝=円谷プロ」路線の怪獣ものの基本をしっかり踏襲しているところが秀逸です。ゴメスなどは、あきらかにゴジラの廃棄前の着ぐるみを加工し直して新たな怪獣に仕立て上げた感がありありで、それを安っぽいというよりはむしろ円谷プロらしい“いい仕事”であると思わされもするのです。

この第一話もテレビへの怪獣登場と言う点では十分衝撃的だったのですが、第五話「ペギラが来た!」第十三話「ガラダマ」は登場する怪獣のデザインの素晴らしさ、ストーリーの確かさをもって、怪獣ブームは完全に子供たちの間で一大ムーブメントになります。その2話に登場するのが2体の怪獣、ペギラとガラモン。このシリーズでは第十四話「東京氷河期」第十六話「ガラモンの逆襲」でも再登場し、制作側のこの2体に対する思い入れの深さと怪獣キャラの出来に関する自信のほどがうかがわれます。

★ペギラはこちら
http://www.youtube.com/watch?v=sKQPnWem2bc&feature=related
★ガラモンはこちら
http://www.youtube.com/watch?v=lDItO6PVOzU&feature=related

実際にこの2体などは、東宝映画の怪獣シリーズに登場するゴジラは別格としても、モスラ、ラドン、アンギラス、バルゴン等に比べて全くそん色のない怪獣の出来であり、この後の初期ウルトラマン・シリーズ(ウルトラマン、ウルトラセブンまで)も含めて、決して子供だましではないストーリーと登場怪獣のキャラクターづくりにかけたスタッフの知恵と努力があってはじめてこの怪獣ブームは成立したのだと、リアルタイムでブームを体験した身としては今もつくづく思わされるところであります。

ちなみに、ウルトラセブンに続いた「帰ってきたウルトラマン」からは同じ円谷プロ制作でありながら、神様円谷英二氏の志を継ぐ長男の円谷一が制作から降りたことで設定、ストーリー、怪獣すべてにおいて急激に子供だましレベルになってしまい、私も全く見ていません。同じ意味において、仮面ライダーをウルトラシリーズと同類に語る人もいますが、空き地で全身タイツづくめの悪役と闘う子供だましのヒーローものと、社会派の初期ウルトラシリーズを一緒にして欲しくないというのは、円谷ファン共通の思いであるのです。(つづく)