大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

昭和問わず語り20 ~ 枝豆と野球

2012-06-17 | 昭和
昨日居酒屋で食べた枝豆がうまかった。懐かしかったのです。昭和の味。枝にしっかりついていて、歯ごたえのある豆の感触。「あんまり食べると、夕飯入らなくなるぞ!」。昭和の夏の夕暮れ、親父がテレビでナイター中継を見ながらビールのつまみに食べていた枝豆を、少しもらって食べたあの味がした。よくよく考えると、最近の枝豆はほとんどが輸入の冷凍?なんか味気ない。知らないうちに、あの枝豆とはまったく別モノを「枝豆」として食べさせられていたのかな。昭和は遠くなりにけり、です。

枝豆から思い出した昭和の風景。ナイター中継とビールに枝豆とくれば、扇風機、風鈴、うちわ、豚の陶器に入った蚊取り線香…。思いだした、思いだした。蚊取り線香の香る中、風鈴の音を聞きながら親父とよく見た白黒テレビのナイター中継は、バックネットカメラだったですね。当時の白黒テレビのナイター中継は画面が暗かったな。いかにも夜やってますって感じだったよ。

それから数年後、生まれてはじめて連れてってもらった後楽園球場はカクテル光線が眩しくて驚いた。「なんて明るいんだろう。昼間みたい」って思ったよ。だからナイターの連れて行ってもらうのが好きだったな。非日常性を感じる喜びだったのかな。球場に一歩足を踏み入れると本当にワクワクしたんだ。

当時の人気はやっぱり長嶋、王。僕はひねくれてパ・リーグファン。当時強かったのは阪急ブレーブス。僕の大好きな東映フライヤーズの大杉選手といつもホームラン王を争っていた長池選手。福本や加藤はまだ駆け出しでした。山田もまだエースじゃなくて、社会人チームから鳴り物入りで入ったばかり。エースは米田。梶本や足立なんかが活躍していました。一方東映は万年Bクラス。張本とか白とか大下とかいたのにね。

野球はクラスでチームを作ってやったよね。サッカーなんてやるヤツはいなかったんだ。野球天国。たいていクラス対抗で、日曜日とかに試合をしました。ユニフォームをデパートで買ってもらったときは嬉しかったな。最初に付けた背番号は「3」だった。まだ大杉ファンになる前で、なぜか長嶋だったんだね。みんなでユニフォーム着て集まると、僕だけじゃなくてやたらに「3」が多かった。他には「1」「8」「18」あたりがダブっていたかな。

野球が一番うまいクラスメートが、エースでキャプテン。ある時キャプテンが、「背番号のダブりはダメ」って言いだした。番号がダブったらみんなの多数決で一番うまい奴がつけるんだと決めた。けっこう残酷な背番号決めだったな。多数決で負けて泣いて帰った友達もいた。僕はもう「3」は要らないと思っていたから、「3」には立候補しなかった。僕は大杉の「51」を立候補した。当然ダブりなかったよ。「なんだソレ?二軍かよ」。バカにされたけどね。まだ大杉はマイナーなパ・リーグのマイナーな選手だったから、背番号なんか知られていなかったんだ。野手で二桁背番号をつけたのは僕とFくんだけだった。Fくんは「19」。野村です。でもみんな知らなかった。僕は知ってたけどね。

小学校の野球は全くお遊びだったけど、おもしろかったな。一応たまにランニングとかノックとか練習とかもやったけど、ほとんど試合ばかりだった。日曜日はお弁当持って試合に行くんだよ。ダブルヘッダーだとか言って、夕方暗くなるまで試合をしてた。遊びだけど一生懸命。エラーとかするとキャプテンに怒られて、選手交代とかさせられちゃう。試合に出られない控え選手もいた。でも今と違って、親も含めて大人は全く出る幕なし。今の子ども野球はつまらないよ。全部大人の管理下でしょ。あの頃は子供天国の楽しい野球だったんだよ。子供たちが自分たちで企画して自分たちで負けないぞって努力して、楽しくやっていたんだ。今はないよね、そんな風景。昭和ってつくられていない自然な時代だったんだよね。枝豆も野球も。

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