大関暁夫の“ヒマネタ”日記~70年代大好きオヤジのひとりごと

「日本一“熱い街”熊谷発コンサルタント兼実業家の社長日記」でおなじみ大関暁夫が、ビジネスから離れて趣味や昔話を語ります

昭和問わず語り15 ~ 東映フライヤーズの謎

2011-11-27 | 昭和
昭和ネタは、怪獣ブームを一回お休みして別ネタです。

談志師匠が亡くなられてふと思い出した、後楽園球場で野球を見ている時に師匠からポップコーンをいただいたお話。それをオフィシャルブログに書いていて、そう言えばあの当時の東映フライヤーズ大好きだったなとしみじみ思ったのです(菅野君の入団拒否ネタを書いたのも、その連なりでした)。

そんな訳で、その当時のスターティング・メンバーをなんとか思い出してみます。
1番センター:毒島
2番セカンド:大下
3番ライト:白
4番レフト:張本
5番ファースト:大杉
6番サード:佐野
7番キャッチャー:種茂
8番ショート:大橋
9番ピッチャー:森安
(もしかすると、一部時代の錯綜があるかも・・・。だいたい合っているとは思います)

毒島章一は「ぶすじま」と読みます。群馬県桐生市出身。桐生独特の苗字です。三塁打の日本記録を持っていた(もしかして、今だに記録?)快速選手。駒沢時代の残党で、もう私がファンになった頃は引退間際でした。その後全くその名を聞きません。

大下剛は名手でした。いぶし銀のような選手で、巨人V9時代の土井選手に似たタイプ。ただ気性は荒く、監督・コーチ陣との衝突も多かったようでその後トレードに。広島で古葉監督時代にヘッドコーチとかやっていた記憶があります。けっこう頭脳派でした。

白仁天は韓国から張本が連れてきた選手。当時外人枠2名の時代に他に2選手米国選手がいたので、彼は外人枠ではなかったようです。打率は毎年3割程度コンスタントに打っていて、ベスト10常連でした。この選手もほどなく出されてロッテに。その後は、韓国のプロ野球設立であちらの監督になりましたが、プライベートで浮気がばれて姦通罪とかで奥様に訴えられて拘留されたとか。最後に耳にしたニュースはさびしいものでした。

張本勲は皆さんご存じ、長島無きあと巨人にトレードされ(確か高橋一+富田との交換という超大型トレード)王・張本OH砲とか言われていました。守備が下手でしたね。史上最高シーズン打率とか、史上最高生涯打率とか安打製造機的な記録を沢山持ってました。大選手ですが、指導者として全く声がかからない不思議。大沢親分と出ていたテレビ番組で元オウムウォッチャーの江川女史とケンカして女史を番組降板に追い込んだとか。なるほど、指導者に呼ばれない訳です。

大杉勝男、「月に向かって打て」と飯島コーチから指導され球界一のスラッガーに成長。阪急長池と毎年ホームラン王を争っていました。気が短くて審判をなぐって退場なんてこともしばしば。首脳陣との衝突もあったようでトレードでヤクルトへ。広岡監督の下、初優勝に貢献。セ、パ両リーグで1,000本安打達成という偉業も成し遂げています。引退後あまりに早いその死は、本当に悲しかった。私の東映→日本ハムファンの原点はこの人です。

佐野嘉幸、元々はセカンドのレギュラーだったようですが、大下に守備位置を奪われ当時はサードをやっていたようです。あまり良く覚えていません。地味だったかな?その後トレードで南海へ。最後は広島でそこそこ活躍していたような・・・。

大橋譲、東都大学リーグのホームラン王として亜細亜大学からドラ1で入団。私も大変期待の新人でした。ところがバッティングは全然プロで通用せず、もっぱら守備の名手として知られました。しかし、阪急にトレードで移籍(交換相手は阪本)してから、打撃開眼。3拍子揃った名遊撃手として大成しました。きっと当時の東映の打撃コーチダメだったんですね。みんな好き勝手なバッティングしてましたから、コーチなんて不在も同然だった?

種茂雅之は不動の正捕手で、当時すでにかなりなベテラン。昭和37年に水原監督指揮の下、日本一になった時にエース土橋投手と共にバッテリーでシリーズMVPを同時受賞しました(私がファンになる前のお話)。その後阪急に移籍(交換相手は同じ正捕手の岡村)。阪急でもそこそこ活躍しました。

森安敏明は当時のエース。以前ブログで書きましたが、黒い霧事件で球界を永久追放に。「先輩のお金を預かっただけ」という弁明は受け入れられず、「疑わしきは罰す」でこれからという時に選手生命を断たれました。その後の名誉回復ならぬまま逝去。悲運のエースでした。ちなみに、森安なき後、チームのエースになったのは金田留広。400勝金やんの実弟です。何と彼は最高シーズン勝ち星24勝ですからけっこうな投手でした。兄貴がロッテの監督になったので、「兄と戦うのは嫌」とトレード志願してロッテへ。その後は広島だったかな。でも東映時代ほどの活躍はできませんでした。

ホームラン王に首位打者に20勝投手・・・、こんなにスゴいメンバーがそろっていたのに万年Bクラス。本当に七不思議みたいな話です。しかもご覧の通り、私が応援を始めた頃のレギュラー選手は、すぐに引退した毒島を除いてすべてトレードに出されているという不思議も。まぁそれだけ個性が強くて扱いにくい選手が多かったのでしょう。それがまた魅力で、皆が応援する巨人なんて皆優等生で面白くない訳です。なんか不良の魅力に引き付けられたかなと。後楽園で出あった談志師匠も、好敵手で名人の息子で優等生の古今亭志ん朝に対して言ってみれば不良的存在で、そこが私には魅力でしたから。フライヤーズと同じイメージで捉えていたのだと思います。

余談ですが、評論家の江本孟則氏は意外に知られていませんが、新人の時は東映所属。1年いてすぐに南海にトレードされ、そこでエースになりました。その後阪神で「ベンチがアホやから・・・」発言で引退に追い込まれました。この人最もこの時代の“東映人”だったのかもしれませんね。口うるさくて個性的、だから1年でトレードにも出されている訳で。
おもしろいチームでしょ、当時のフライヤーズ。懐かしい限りです。

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