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時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

子供がいる方が不幸?

2012年07月20日 | 
FreakonomicsのPodcastはつねに楽しみにしていますが、過去、もっとも面白かったものが、The economist’s guide to parenting(経済学者による子育てガイド)です。そこで、Studies show…と断って言われていたことの一つが「その他の条件を同一にしたとき、子供を持っている人のほうが持たない人よりも(平均すると)幸福度が低い」ということ。この間、それを裏付ける学術論文を探し出しました。

Clark, A.E., Diener, E., Georgellis, Y. & Lucas, R.E. (2008). Lags and leads in life satisfaction: A test of the baseline hypothesis. Economic Journal, 118, F222-243.

この論文の存在を教えてくれた、Nattavudh Powdthavee氏の論文(Think having children make you happy? The psychologists, 22-4) によると、他にも数多の研究があるらしい。

Clark他の論文は、ドイツの男女各のべ65000人程度という膨大なデータで、子供の誕生の4年前から5年後までの時系列の(主観的な)幸福感の変化を追っています。誕生前に幸福度は上昇、平均を上回るが、誕生後すぐに落ち、平均以下に、そのまま低い値を維持し、やっと4~5歳ごろ平均に戻る、というものでした。女性・男性ともほぼ同一の変動を示します。

Powdthavee論文は、多くの人は、「子供がいる人生はより幸せ」と思うものだが、その印象と、データが示す「現実」とが食い違う理由は、Focusing Illusionが原因だと説明しています。人は、稀に訪れる、大きな喜びに強く印象付けられるので、意識的に振り返ったときには、子供が立ったとか、話したとか、その他、感動的なシーンを思い出して、幸せだ、と思う。しかし、実際の子育ての日常の大半は単調で辛い行為の繰り返しで、感じている幸福感をリアルタイムで追っていくと、ストレスを感じていたり、疲れていたり……。一人で歩いていて、お子さんを連れたお母さんが、険しい顔でプリプリ怒って歩いているのを見かけることがあって、「どうしてあんなかわいい子と一緒にいるのに、あんなに不機嫌?」と、とても不思議に思うのですが、むしろこれこそが日常の親の姿なのかもしれません。娘と幼稚園から帰るときの私も、どんな顔をしているのか。

じっさい、個人的な経験に照らしても、上記の知見には納得できる点があります。娘が生まれる前は、幸せと希望にほんわかと包まれていました。ところが生まれて2日目、病院から帰らねばならない夜(米国は短い)、突然、強烈な不安に襲われました。これから何の経験もないわれわれ二人が、この小さな、新しい命を守っていけるものだろうか、と。現実がやってきたわけです。

その後は、ある米国人のお母さんに言われたYou suddenly cease to be someone you used to be, and become someone’s parent.という言葉通り。行動が何から何まで子供の存在によって制限を受け、生活が一変しました。たまに嫁さんと、子供が生まれる前、二人の暮らしも楽しかったね~、と、もう決して戻ってこない過去を懐かしく思い返すことがあります。幸いうちの娘は元気で、望んだとおりやさしい子で、申し分ありません。とてつもない幸せを与えてもらっていると、自分たちの子として生まれてきてくれたことに感謝する日々ですが。

このような学術研究の知見の、方法論や前提の範囲内での有効性は確かだろうと思います。でも、子供がいることで幸せになるかどうかには、個人・状況による大きな変動があるでしょうし、まして研究結果からどんな知恵を引き出すかということはまた別の問題。

個人的には、こういう知見が役に立って欲しいと思うのが、「子供を持つ(持たない)」ということに対する社会、個人、両方のレベルでの「こだわり」の緩和です。個人的な印象ですが、子供を持つということについて、立場を異にする人々の間での、意見の強い対立をしばしば目にする気がします。子供は持つべき、持たないものは不幸、あるいは人として不完全、逆に子供を持つものが優遇されすぎ、身勝手になる、等等。

「子供を持つことで、人は幸せになるとは限らない」という知見が行き渡ることが、子のいる人、いない人がそれぞれ、子供を持つ人生と持たない人生に、公平な目を向け、お互いの生き方を尊重することにつながらないものでしょうか。そして、子を持つことも、持たないことも、親となる人たちそれぞれの状況の中で、自発的に、周囲からのプレッシャー等も受けることなく選ばれ、子供は、他の誰が幸せになるためでもなく、自分自身のために、生まれてくる。そんなふうに生まれることが、子供にとっていちばん望ましいと思うのです。

またそれかっ:八日目の蝉 (4)

2012年07月13日 | 
音声学ではここのところずっと第二言語習得にかかわらせた研究が非常に盛んですが、インディアナ大でも教員・学生ともに研究テーマにしている人が多かったので、授業でも第二言語の音声習得に関する話を聞くことが頻繁にありました。

そういうときの話しのマクラとして、「ある領域の音声について、1つの音韻カテゴリーしか持たない言語の話者は、その領域を2つの音韻カテゴリーに分ける言語の音韻対立に対して鈍感で、訓練してもなかなか知覚精度が上がらない」という知見が指摘されることが多く、そのばあいほぼ必ず、たぶん100%近く、日本語話者の、英語のrとlの区別が例に挙がります。論文でも、発表でも、講義でも。

6年もいると、もう何度聞いたか分かりません。後半はイライラしておりました。そりゃあ有名でしょう、日本語のr/lは。典型例でしょう。でも、他にもあるでしょ。毎回、「お前たちはこれ分からないだろ」と言われる身にもなれよ。自分の言語の例を挙げればいいじゃないか。他人を使うな! と。とはいえ、どの人も、たんにスムーズな導入ができれば事足りるわけで、奇をてらってあまり知られていない例を持ち出す理由もない。そしてまた、わが日本語の例を聞かされるわけです。不愉快。

さて、『八日目の蝉』、なかなか面白かった。永作博美さんは今回もまた素晴らしい(見たかった理由の半分は彼女)。映画の薫役の女の子かわいい!(演技もよい) 話しの筋も、文句がある人もいるようですが、私は嫌いじゃない。

ただ、なんでこんなに「母子の絆」のハナシが多い? 作者に文句はありません。作家がそれぞれ自身のテーマを追求するのは当然。そもそも、小説については、必ずしも「母子」がテーマというワケでもないようにも思うし。でも、映画の売り方や、需要のされ方についていえば、やっぱり「母子の絆」になるでしょう。そしてこの話では、またたいていの類似の話でも、出てくる男は、妊娠させて堕胎させる等、無責任・無関心な役割ばっかり。なんだか、男はどうでもいい、苦しむ女を生み出す役割でも与えとけ(実際そんなもんだろ)、と言われてるような気になります。

嫁さんを含め、Bloomingtonで知り合った女性たちが、子供を産むとあっさりと母親になって、がっちり子供を守っているのを見て、すごいなあ、と感心したものでした。「子供を自らのおなかに抱えて過す時期に心の準備ができるから」という説があるそうです。でも、自分の経験からすると、つわりの妻の背中をさすり、子供が蹴り上げる腹をさすりながらだって、心の準備はできる。男だって子供愛してるぞ。子育てがんばり、楽しんでる人はいっぱいいるぞ。それはどうでもいいのか? それじゃ不公平に過ぎないか? と。映画自体は楽しみながらも、頭の片隅でその不満がぬぐえません。ひがみでしょうか。

今読んでいるMother Natureという本で、筆者Sarah Hrdyさんが、「慈愛に満ちた献身的な母」は幻想、ということを丁寧に記述してます。逆にだからこそ、その幻想を強化するようなオハナシの需要が高いのでしょうか。まあそんなことより、このテの大衆文化の消費者が圧倒的に女性だからでしょう。日本語話者のr/lと同じ。目的に合致したお話しが選ばれているだけのこと。男性向けの大衆文化、もっとがんばれ~。

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なお、本当のところ、たとえネガティブな情報であっても、研究者コミュニティーで、常に自分の言語の話題が出されるというのは、悪いことではないでしょう。研究対象としての日本語需要が高いことは、日本語話者である研究者にとって、大きな利益のはずです。

誰と結婚するの?:八日目の蝉 (3)

2012年07月11日 | 
薫が、彼女を誘拐した希和子を本当の母親だと思って、小豆島で暮らしていた三歳半のころ、希和子と以下の会話を交わします。

「きっと薫がもう少しおっきくなって、この人と結婚したいなあと思ったら、それは男の人だよ」
「ほならママは男なん?」
「ママは女の子だって」
「けど薫、ママと結婚したいもん

この手のことを言われたことのある方は少なくないでしょう。私も、ほんの一時期にせよ「パパ(とは呼ばれてませんが)と結婚する」と言ってもらえるかと期待してましたが、うちの娘も結婚したいのは、お母さん。私が、嫁さんと(半分わざと)べたべたしていると、

「かえでが、結婚してるんだから!!」
とか
「かえで、まだ結婚してるんだから!!」(まだ?)
などと、血相を変えて割り込んできます。

もちろん、「結婚する」を大人と同様の意味で理解してるワケはなく、私が、「お父さんは、お母さんが大好きで、結婚したんだよ」等と挑発してるので、おそらく、「いちばん仲良しの、特権的地位」とでも理解してると思われます。そしてそれは、私だと。お父さんは、どけと。私は、いたずらを仕掛けてくるし、大好きなお母さんにちょっかいかける狼藉物で、ちょっと乱暴に叩いたりしても平気で、かつ、お父さんスイッチ連打して、いろいろ遊べる「おもちゃ」(でも、たまに怖い)、という地位から、昇格できそうにありません。

『八日目の蝉』は、うちの娘の今の年齢と重なる、薫3~4歳の頃が、(偽の)母子のもっとも幸せな時期としてわりと丁寧に描写されているせいで、いろいろと自分の身の上に引き移して考えてしまいます。なので、ここ3回、作品のことじゃなくて自分の家庭のことばかり。上の場面もその一つ。

ちなみに、作者にツッコミを入れるわけではありませんが、「(うちの娘が)大きくなって、この人と結婚したいなあと思ったら、それが女の人」という可能性は、無くはないよね、とたまに嫁さんに話します。

誘拐は誰が悪い:八日目の蝉 (2)

2012年07月09日 | 
昨日につづき、『八日目の蝉』から。映画を初めて見た際、反射的で単純な感想もあれこれ持ったのですが、その一つが誘拐のシーン。親は家を留守にするのですね。0歳児を置いて。鍵もかけず、しかも毎日決まった時間に。そりゃあいくらなんでも無用心すぎる、ありえないだろー、と。で、いっしょに見ていた嫁さんに、「産まれてから4年近く経つけど、うちは、誘拐されるかもしれないような無用心なことは一度もしてないね」と言ったのですが、そこで変わる彼女の顔色......

言われるまでもなく思い出しました。娘が0歳のときのこと、Bloomingtonのダウンタウンへ、当時同じアパートにいたおばあちゃん(仏系アメリカ人)、Ninaさんと食事に行きました。足の悪いおばあちゃんを先におろし、嫁さんが支えてレストランへ。私は駐車場に車を停め、後から店に。以下は本当に交わされた会話。

私 「おまたせ~」
嫁 「かえでは?」
私 「あ、車の中!」
嫁 「やだ~(怒気)」

あわてて戻ってみると、車の中、チャイルドシートに縛り付けられたまま、私のほうを見る娘。もちろんカギはかかっていましたが、その間おそらく2~3分。たまたま狙いを付けていた人がいて、ドアをこじ開けられていたら、アメリカのことだから、もう二度と会えなくなっていた可能性が限りなく高い。生きてる可能性も低い。そうなっていたら、わたしゃー今ごろどこでどうしているか、生きているかすら確信が持てません。娘はアメリカ人の子供という扱いをされたでしょうから、それをむざむざ誘拐された監督不行き届きな日本人は、国外退去を命じられていたかも。何も起こらず、ここにこうしていられるのは、ただ運がよかっただけ。

行った店も覚えてます。Applebee's。行った座席すら思い出せる。嫁さんも、決して忘れないと言ってます。結婚以降、ここまでで最大の失態。私には前科がありました。懺悔。。。

『八日目......』に戻ると、お話の都合上、あの子は誘拐されねばならなかったので、うかつな親に登場してもらったと。ちょっとありえないくらい無用心だと思いますが、上記の件のせいで、ちょっと主張しにくくなってしまいました。

先日、娘の幼稚園では、専門家を招いて「連れ去り防止訓練」を催したそうで、その日の帰り、娘が説明してくれました。

「今日ねー、ひなんくんれんがあった」(ん? ああ、連れ去り防止ね)
「くるまにのって、おねえちゃんが、二人来てねー」(おうちまで、乗せていってあげるって言った?)
「お菓子あげるよ、って言ってた」(.........)

果たして彼女は何かを学んだのか、実際にはまんまとお菓子に釣られて誘拐されてしまうのか、確信は持てません。

敵は内にあり

2012年06月01日 | 
6月になり、娘の幼稚園、室内ではサンダル履きになりました。市立なので、市が運営している給食センターからの給食を食べていますが、市がけっこう「食育」に熱心。一日保育参加のときにも職員が来て、説明をするし、園からのお便りにも、家庭への食育メッセージが毎回盛り込まれる。

さて、6月号の特集は、「よく噛みましょう」と並んで、「食中毒に気をつけましょう」。ちょっと前のScientific AmericanのPodcastで、「一般の食中毒への認識は低く、一時(いっとき)苦しんで終わりだと思っているので、医者にもかからない。だから、医療機関にもデータの蓄積がない。しかし最近、食中毒の身体への影響には、非常に長期的、永続的なものもありうることが分かってきた」という怖~いハナシがありました。さらに、ICPhSで2007年、2011年と2回連続、食中毒でダウンしたワタクシ(←バカ)としては、注目せずにはいられません。

幼稚園からの文書によれば、食中毒の危険度が上がるこの季節、家庭で注意してほしい5か条は

1. 消費期限をチェックせよ
2. 冷蔵庫の詰め込みすぎは×
3. 包丁、まな板の衛生管理を
4. 食品にはしっかり加熱
5. 料理を長時間放置するのは×

ぜひ気をつけたいのですが、この実行の障害となる存在が...それは、母。70歳を過ぎても忙しく働く彼女は、娘のためにも衛生・栄養管理に気をつけようとするこちらの努力の足を引っ張る、さまざまな「破壊的行為」をしてくれます。上記5か条に関連したところでは、「食べ物は(余っても)足らなくないように、過度にたくさん買う」さらに、「何が足りないのか確認しないから、食材がダブつく」。こうなると

冷蔵庫がいっぱい(第2条) → 食材の流れの管理が不可能 → 消費期限切れの食材が大量発生(第1条)

さらに

たくさんあるから、たくさん作る → 食べきれないから余る → 冷蔵庫がいっぱいだから、出しっぱなしになる(第5条)

と、悪循環が起こり、上記の違反がいっぱい。次々生み出される危険の芽を摘もうと、嫁さんと私は日々努力していますが、食事をわれわれが完全にコントロールしているわけではないので、時に危機的状況が。先日も、消費期限とっくに過ぎた、ヤバイにおいの鶏肉(嫁さんはこっそり捨てようと考えていた)をなんとか食べようと悪あがきをしていたのを発見。結局、どうやってもダメなことを確認、使うのを断念した挙句、「安いからって買いすぎちゃダメね」と言ってたそうです。が、きっと彼女はそれでも、またやってしまうのです。忙しい、もともとオーガナイズが下手、記憶も体力も落ちてきた、等の理由で、ますます生来の雑さに拍車がかかっていく母、身についてしまった習慣を反省して修正する、ということは非常に困難だと思われます。この「内なる敵」は異常に手ごわい。連れ添って来年で50年という父に、我々夫婦の間で最近尊敬の念が高まっています。

見ました

2012年05月21日 | 
日本時間の今朝、金環日食があったわけですが、わが家も庭に出てみました。金環状態になっていても光は強いので肉眼で見てはいけない、と聞いていましたが、確かに直接見られるようなものではない。その代わり、木漏れ日を観察。話には聞いたことがありますが、たしかに写真のように輪状に。

じっくり直接見ることはできませんでしたが、それでも、陽の光が雲にさえぎられることなく射しているときの感覚からするとなんだか微妙に暗い。調整を完璧に施されたTVの映像を観るのでは感じられないであろう実感はあった気がします。

Science Fridayのゲストとして登場した、アメリカのシンシナティ天文台のDean Regasという方の話によれば、この現象は18年11日6時間周期で見られるけれど、二週間ほど後の、「金星が太陽の前を通過する」ってのは、もっと地味だけれど次に見られるのが2117年で、これは一生に一度、お見逃しなく、とのこと。

エベレストで見られる地球温暖化の影響

2012年03月25日 | 
昨日もScience FridayのPodcastを聞きながら走りました。後半がエベレストについて。二人の科学者とConrad Ankerという登山家がゲスト。このあとすぐ3度目のエベレスト登山に赴き、高地での身体への影響の詳細なデータを採る予定、とのこと。会場のお客さんからの質問を受け付ける、というここのところ続けて放送しているシリーズ。以下のNPRのサイトに音声とトランスクリプトがあります。

Mount Everest Still Holds Mysteries For Scientists

その前半、本題に入る前に、ホストのアイラさんが「Just anecdotally」(厳密な研究結果じゃなくて、個人の体験として、というレベルでいいので、ということでしょうか)と断った上で、「地球温暖化の証拠は見つかるんですか?」と質問、答えは、全く確信に満ちたものでした。以下にその部分を引用します。

Oh, it is tremendous. How do mountains hear? It's with mountaineers. It's a silly little joke. But what we're seeing up there is scary and frightening. Routes that were climbed in the 1970s have melted away. The high-altitude cryosphere, which is the ice that holds these mountains together, is receding at an alarming rate, and we see it as climbers all over the place. And it's something that - it's our duty as climbers to come back and share this knowledge because it's happening for real. And if you play golf and you're in Kansas, it's in an artificial environment. But where we are, high-altitude and high-latitude areas are being affected by climate.

たいへん僭越ながら、和訳したいと思います。重要だと思うので。

ああ、すさまじいものです。「山に耳はあるか? 登山者が耳だ(うまく訳せませんが)」というのはただの冗談ですが、高山で目にするのは恐ろしい光景です。1970年代に登っていたルートは(みんな)融けて消えました。高地の氷雪圏、この氷が、山の地面を(崩落しないよう)保持する働きをしているのですが、これが驚くべき速さで後退しています。登山をすると至る所でこの現象を目にします。そしてこれは... 山から帰って見てきたことを知らせるのが登山者としての義務です。現実に起こっていることなのですから。カンザスあたりでゴルフをしたとしたら、そこは人工的な環境です。しかし、われわれが赴く高地は気候の影響を(もろに)被っています。

最近のPodcastで地球温暖化のことが何度か話題に上りました。米国で「地球温暖化は仮説の一つに過ぎない。それを支持するかしないか、理科の授業で議論させろ」という圧力をかける団体、生徒の親などがいて、理科の授業が非常にやりにくくなっている、というのが話題の焦点でした。自分たちの利益追求を妨げる動きに揺さぶりをかけ、阻止する有効な手段として、科学が標的になっているらしいのですが、Podcastに登場する科学者たちの意見を聞くと、もう地球温暖化は「議論の余地のない現実」というレベルのようです。上記のものも、「Anecdotal」ではあるのですが、他にも高地での変化は報告があるようだし、おびただしく得られる証拠の一つといえそうです。

久々のハーフマラソン

2012年03月20日 | 
たいへん久しぶりに、レースを走りました。岐阜市長良川競技場を基点・終点とする21.0975Km。15年ぶりのハーフマラソン出走ということで、ここ一月半ほど、多少準備して臨みました。昔のようにとはいかないまでも、なんとか1時間30分くらいでいけないかな、と期待してましたが、結果は厳しいものでした。1時間39分台は、ベストタイムの17分落ち。15年でこれだけ落ちていたんだ、と自覚させられました。

レース運びも、終わってみれば前半無理しすぎで、最後は完全に足が終わってしまいました。過去の感覚だと、前半をあの程度のペースで入ったなら、ゴールまで徐々に上げていけるのですが、まさにその感覚のずれこそ、「衰え」のわかりやすい指標なのでしょう。運動に限らず何事もそうなのでしょうが、継続してやっていないと、そういう感覚がなくなってしまうものです。また、走力としては、やはり21キロを走る筋力は身についていない、そこが一番弱いところだった、と感じました。一番強かった頃に戻すのは無理かもしれませんが、もう一度鍛えなおして、ちかぢか再挑戦したいと思います。

朝からお弁当を持って付き合ってくれ、応援もしてくれた嫁さんと娘に感謝。幸せ者です。

着ぐるみ

2012年03月19日 | 
昨日は午後から家族3人で、今いる岐阜県多治見市のすぐ隣り土岐市のアウレットモールへ。われわれは必要があって行ったのですが、ちょうどセールをやっていたのですごい人出。地元のオリジナルキャラの「とっくりとっくん」も登場。来ていたのはもちろん、上のような陶器ではなくて下の写真のような、着ぐるみ(緑色のヤツ。一番左は、多治見市のキャラの「うながっぱ」)。この「とっくん」を製作してその地域の処々に設置している職人のグループ「徳造社中」のサイトはここ。そのサイトの写真にあるとおり、つい最近のNHK「鶴瓶の家族に乾杯」がこのグループの本拠地、土岐市の「下石町」という地区を訪ねてましたが、思えばこのアウトレットのすぐ近く。
 

 

子供たちが群がって、一緒に写真をとったり、頬ずりしたりと大人気。娘も指さして興味深そうな様子に見えたので、「握手してきてごらん」とそばに近づけると、猛ダッシュで逃げ、大泣き。怖いそうです。。。 その後、写真右のあひるだかペンギンだかの着ぐるみもいて、これも興味深そうにしてたので、握手するか聞いてみるとやっぱり近寄るのはだめ。先日、近所の児童センターの節分行事で、ボランティアのおじさんが扮した赤鬼が出てきたときもびびりまくりで、「もう帰る」と泣いたのですが、どうやら、大きいものは可愛く作ってあっても怖いらしいです。きっとディズニーランドに連れて行っても、ミッキーとのツーショットは無理でしょう。

運動すると遺伝情報が変わる?

2012年03月12日 | 
表題のような、興味深いタイトルの記事が、NPRのウェブサイトにありました。

A Workout Can Change Your DNA

というタイトル。iTuneでダウンロードできる、Science FridayというまとめPodcastに収録されていて、昨日もランニングをしながら聞きました。ここから、音声とトランスクリプトがあるページに行けます。

なぜ興味深いかと言えばもちろん、自分がランニング等をするからではなくて、現在のダーウィン的進化論の基本の「適者生存」による進化に反して、「キリンが高いところの木を食べようとがんばるうちにだんだん首が長くなった」のような、ラマルク的進化を一部肯定するとか!? といったことだと思います。

聞いてみるとさにあらず、理解したところでは、DNAに対応するアミノ酸だかなんだかを作る働きを媒介をする物質が、運動によって(一時的に)損なわれ、そのDNAが持つ情報が発現されるのが阻止される(で、別の性質が発現できる)、というようなハナシ。だからやっぱり、DNA情報そのものの書き換えが起こるわけではない。ただ、運動した結果獲得された性質が子孫に伝達されれば、やっぱりある程度ラマルキズム的なわけで、そういうことがあるかどうかは今後の課題とのこと。ともあれ、運動によって筋肉が鍛えられたり、代謝が高まったりする仕組みが、DNA情報の発現具合に即してより分かった、とは言えそう。

ホストのアイラさん「どの程度運動すればいい、という研究はしたんですか?」と質問。共同研究者による実験研究があるそうで、「この研究のような効果を得るには、Maxの80%、ジョギングならパートナーと話しながら走るのは困難な程度の強度の運動を35分」だと。「そりゃー、たいていの人にとってがっかりの結果ですね」とアイラさん。昨日の私のトレーニングメニューは、起伏が多いところを50分だったので、「おお、わたしゃバイオテクノロジー実践中か!」と、エエカゲンな喜び方をしつつ先を聴くと、カフェインの効果についての研究もしたと。

カフェインが、筋肉に「運動をした」と錯覚させる機能がある、という話で、「じゃあ、コーヒーを飲めば(運動しなくても)いい?」という、当然の質問に対して、「いえ、その効果を得るために必要な量は、1日50~100杯くらいなので、飲みすぎによる悪影響のほうが大きいです」。。。 走りながら爆笑してしまいました。

前にも記事にした通り、Science Magazine、Scientific American、BBC ScienceなどのPodcastをダウンロードしては、ランニング中に聞いています。科学者ってなんて面白いことを考え付く人たちだろうと心底感心させられるのですが、この件みたいに、「興味深いけど、どこまで聞いても実践的には役に立たなそう」ということもあるのがまた面白い。他のPodcastにも手を出してはみましたが長続きせず、相変わらず科学系のPodcastばっかりです。