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時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

人は変わる、世界も変わる

2013年03月05日 | 
ちょっと前(1月4日付け)のSCIENCE誌の「The end of history illusion」という論文の著者インタビューが面白かったので、原論文を読んでみました。4つのサーベイ調査の参加者合計が19000人というかなり大きなデータで、18歳から68歳までに、それぞれ、「今から10年前とどの程度性格が変化したと思うか」「これから10年後どの程度性格が変化すると思うか」を答えてもらったところ、これから10年間の変化のほうがずっと小さいという答えになる。

では、過去の記憶と未来の予測、どっちが正しいのか。それを検討するため、MIDUSという別の大規模データと比較したところ、過去の変化の大きさ(級内相関係数で数値化)が、この論文のデータの過去10年のほうの変化の大きさとほとんどぴったり一致。ここから人には、過去の自分の変化の程度は正確に把握できるけれど、これから10年間については変化を過剰に小さく見積もる傾向がある、と結論。

つまり人は、「過去の紆余曲折を経て今、私はこのような人物として完成した」と考えたがる、いわば「今が自分史の終着点と考えてしまう幻想(論文のタイトル)」を持つ傾向があるのだと。面白いことに、「歳を取るにつれて変化の幅は多少小さくなるが、それでもこの過小評価はなくならない」、若い人も年寄りもそれぞれ、「私は今が到達点」と考える傾向がある。価値観や好みについても同様。

4つ目の、この illusion の現実の行動への影響の調査がまた面白くて、「10年前に好きだったバンドのコンサートに今なら$80程度しか払わないのに、今好きなバンドのコンサートには$130払うと思うと答える」。過去10年で趣味が変わったことを自覚させてもなお、10年後の趣味はあまり変わらないと考えてしまう、という結果。

私のばあいも趣味の変化等いろいろありますが(Jリーグ全く見なくなりました。たぶん性格もいろいろ変わったんでしょう)、本の趣味が変わっていたことも判明。先日、図書館の新着コーナーに以前好きだった評論家の新作を見つけて、借りてみました。2004年くらいまでの著書はほとんど読んだ人でしたが、どうも楽しめない。。。

誰が言ったかもう思い出せませんが、「本という情報はフロー。読んで使ったら捨てろ(or 売れ=ストックするな)。たいてい二度と読まない。万一もういちど読みたくなったら、そのときまた買え」という意見を目にして以来、よほど必要なばあい以外、仕事に必要な本でも図書館で読む、という方針に切り替えました。この論文の知見に照らしても、この考えは正しかったように思われます。この評論家の場合のように、10年経てば好きなじゃなくなる可能性がかなりあるわけだから。本に限らず、趣味グッズでも、車でも、住居でも、10年後はどうなってるかわかんないんだから、所有しないほうが賢明...

と、こういう考えが本当に浸透すれば、本はますます売れなくなるかも。本を書く立場にならんとも限らないのだから、こういう発言は慎んだほうが? ....... いやいや、私が本を書くような人物になるわけが............ と、いうのもまた illusion で、10年後はどう変わっているか分からない、この論文の主旨に基づけば、そうなるのでしょうが、むしろ10年後には、学術出版が今よりさらに苦しくなって、「そんな売れないもんは自前でインターネットにでも公開してよ」という傾向がますます強まるのでは、ともあれ、私の変化なんかより出版業界の変化のほうが大きいだろうという気がします。

ところでこの研究に反応して、Jerome Roosという人が、Roaming.orgに書いた記事も興味深いものでした。この illusion には、もっと重要な現実への影響がある。たとえば冷戦の終了後、「民主主義の勝利が政治体制の終着点」というような説が出回ったけれど、そこにも「現在が到達点」と考えてしまう illusion が働いていないか。じじつ、アラブの春とか、第三世界の台頭とか、あらたな変化の兆候はいくらでもあると。たしかに、この illusion が、目を向けるべき変化(人為による地球温暖化とか)に対処することを拒絶して、現状を肯定する態度の原因になるなら、この論文「面白い研究だね」ではすませるのは適切じゃないかも。この記事冒頭の写真、屋外に寝そべる若者が出しているメッセージがなかなか示唆的。

If you never change your MIND, why have one? (「考えは絶対変えない」というなら、心なんて要らないじゃん)


この研究のたぶん最大の弱点は、インターネットサイトによるサーベイであること。自己申告による年齢が正しいという保証はないのでは。結論の大枠は動かないだろうとは思いますが、要検証。多少の修正はあってもおかしくない。

うちのはみがき優等生

2013年02月26日 | 
先週のScience FridayのPodcastの一つ、Ask A Dentist: Facts To Sink Your Teeth Into は個人的に興味深いものでした。「専門家に質問しよう」というコーナーをやってるらしく、今回のテーマは「歯」。よく耳にする話が多いのですが、まともな学者二人に登場してもらってマジメに質問に答えてもらってるので、信頼性は高いのでは。スクリプトがあるの読んでもらえばいいのですが、興味深かったところだけ要約。

 奥歯まで磨ける器用さが足りない人以外、電動歯ブラシじゃなく、ふつうの歯ブラシでも効果は同じ(それはよかった)。
 歯ブラシは柔らかい毛のものを使い、頻繁に取り替えるのがベスト。硬い毛のものはダメ(!)。
 マウスウォッシュに害はない、がたんなる香水(...)。
 歯磨きペーストは使うべし。フッ素の入ってるもので頻繁に磨くと歯の磨耗を遅らせる効果あり(やってます!)。
 歯周病も適切な対処をして、いい状態をかなりの期間キープすれば、歯肉や歯槽骨が回復する(へー)。
 歯ブラシだけでほとんどのところは磨ける。が、フロス(歯間ブラシ)には歯肉炎予防効果あり(やってないなー)。

といったところ。柔らかい毛の歯ブラシを好む人というと、うちの嫁さん。はみがき優等生は彼女でした。実際、歯医者にも賞賛されるらしい。私も歯磨きの習慣はいいと思いますが、ふつうの硬さが好み。今後、変更するか。娘は「辛いからイヤ」と言って歯磨きペーストを使いたがらないけれど、いずれ、慣れてもらうことにしましょう。

と、ここまでは、二人のドクターによれば研究の蓄積からほぼ確実な知見。一方、後半はまだ研究が進行中で、決着はまだらしい、でもさらに興味深いおはなし。それは歯周病と、口腔以外の身体の状態との関係、たとえば、心臓病とか、認知症とか(!)。まさか、と思ったのですが、そういうデータも見つかっているそうで、どっちが原因なのか(たとえば、むしろ、認知症になりやすい人は歯の手入れが悪くて歯周病になりやすいとか)についてはまだ今後、要検討だけれど、歯周病の患部に見られるバクテリアが脳内にも見つかった、というような研究もあって、歯周病のほうが原因、という可能性も検討の余地があるそうな。そんな理由でしょう、相談役の教授のお一人は「口、とくに歯肉は(身体の状況を知らせる)『炭鉱のカナリア』と言ってもいいかも」と。うむ、うちにも気をつけたほうがいい人が。

このPodcastとは別の話で、よく行く温水プールに掲示されていたポスターによると、妊婦が歯周病を持っていると低体重児が生まれる確率が高くなる、なんて研究結果もあるとのこと。ホントかい? と思ったのですが、どうやら、上と同じリクツ(炎症によって生じる物質がこのばあい胎児に悪さをする)が考えられるようです。

ついでに、メモ代わりに、もうひとつ最近のNPRの記事。古代の人類のほうが歯周病などが少なかったけど、農業を開始したころに悪化、産業革命以降の食変化(砂糖の摂取が多くなったそう)で、さらに悪化、という過程が明らかになったとのこと。この件がテーマになったシンポジウムをまとめた話をScienceのPodcastで聞いたことも思い出したので、これもメモ代わりにリンクを貼り付けておきます。興味のある方はぜひ。

愛が足りない...のか?

2013年02月19日 | 
幼稚園の友人や、お隣のおねえちゃんの影響か、このごろ「気持ちはお姫様」うちの娘。具体的イメージは、たぶんプリキュア(以前の憧れ、まいんちゃんは、今はそうでもないらしい)。絵を描かせれば父親だって髪が背中まで届くほど長いし、ロングスカート、目の中には☆。気が向くと、私を(サービスで)「王子様」と呼んでくれます。先週の木曜のバレンタインデー、そんな娘に「今日は大好きな人にチョコとか、お花とか、プレゼントをする日だよ。お母さんに何かあげよう」と持ちかけると、大賛成。彼女の脳内イメージ的には、目にハート、自分の周りにはお花畑、という喜びよう。ということで二人で嫁さんにチョコレートケーキをプレゼント。

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幾度も紹介したFreakonomics Blogでも、Justin Wolfersという経済学者(この記事の時点でミシガン大学教授)がバレンタインに引っ掛けた記事をポスト。Gallupという有名な米国の世論調査会社の調査で、「Did you experience love for a lot of the day yesterday?」という質問に対する回答を分析したもの。概要は、

- 2006年、世界136か国、各国平均1500人くらいに調査
- 世界平均で約70%が「昨日の私は愛に満ちた日を過ごした」
- 米国は世界26位、80%が愛に...
- 日本は107位、約60%が...

掲載されている散布図は、この「愛指数」と、経済学者がまず検討しそうな一人当たりGDPとの相関。ところが見てのとおり、GDPの予測性は高くない。じっさいたとえば、日本のようにGDPが高いのに「愛指数」が低い国や、ルワンダとか、フィリピンとか貧しくても愛に満ちた国がある。パートナーであるBetty Stevensonさん(事実婚で、お二人の間にお子さんもいる)と共著のBloomberg.comのコラムによると、日本は世界7大経済大国のうち、ずば抜けて愛に乏しい。ちなみに、死別や離婚をした人より、結婚してる人のほうが、さらには事実婚の人のほうが愛指数が高い(つまり、自分たちですか)。また、この指数は30~40代でピークを迎えて、その後は徐々に下がっていく、など、いろいろ面白い。

Freakonomicsの記事の意図は、GDPがダメなら、何かいい予測指標はないか、原データを提供するので、読者諸氏も検討してみて、ということ。さっそく反応があったらしく、その日の午後にもう続編が載ったのですが、Wolfers氏がいちばん面白かったと言うのが、実は同じ散布図。ある読者が、「このグラフ自体がハート型をしてるよ」と指摘したのだそう。面白い... かもしれないけど、それがデータの傾向なのだとすれば、これは統計の教科書で回帰分析などの解説で必ず出てくる「直線の相関ではないケース」の典型(二群に切れ)、というハナシでは?

ところで、この「愛」のデータは大規模な調査の一部で、Gallup社のWebsiteに各部門の分析が公開されています。このうち、幸福感等についてはこのStevenson/Wolfersが詳細な分析を寄稿。のぞいてみたところ、経済的に豊かなのに幸福感の低い日本が問題になってました(46-56ページ)。この論文は、経済学の分野で有名らしい「Easterlinのパラドックス」(経済的に豊かになっても幸福感は上がらない)を反証する目的で書かれているのですが(つまり、経済的豊かさは幸福度を上げる)、日本の低い幸福感は、彼らの主張の手ごわい反証になりうるらしい。著者お二人は、過去のGallupの調査の質問文の変化と幸福度の推移などを詳細に分析した結果、「日本も経済の行き詰まりや失業率と幸福感が連動していて、例外とはいえない」と考えているもよう。

ということで、Gallupデータに限れば、経済的豊かさが上がれば幸福感も上がる傾向はたしかにある、ということになりそう。このテーマについては数多の研究があるでしょうし、実際どっちが正しいかは私にはわかりませんが、日本の「愛」や「幸福感」の低さについてはちょっと気になることがあります。

米国にいたとき質問紙調査を受ける機会も多かったのですが、「米国では満足度調査などでは満点以外だと、と調査側が不安を抱く」と聞いたことがあります。たとえば5段階評定で、日本人が「なかなかよかった」と肯定的につけた「4」を、あちらは「5じゃないとは、何か問題が??...」と不安になる(あるいは社内で問題視される)のだとか。

上に戻ると、経済大国の中で抜きん出て得点の低い日本は、本当に幸福じゃないのでしょうか、愛が足りんのでしょうか。そうなのかもしれません。また、われわれが米国で耳にした日本人の評定傾向のお話も、たんなる誤りかもしれません。だとしても、日本人が「4」と付けたときの幸福感と、米国人の「4」とが等価値だと単純に見なしてよいとは考えにくい。このような世論調査における文化間の差に限らず、言語学でよく行われる容認可能性における評定の個人間の等価性など、主観的評定については、「同一の聞き方をして、同一の答えを得たからといって、それを等価値と見なせるとは限らない」という慎重さが必要なように思えます。ちょっとGoogleで調べてみましたが、そういう問題に関する研究は少なからずあるようでした。

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ハートといえば、最近のうちの「姫」は、手を胸の前でハート型にして、ハートミサイルを飛ばしてくれます。それを受けた私はノックアウト...と毎回付き合うのはちょっと疲れますが、遠からず飽きてやってくれなくなるのは確実なので、ありがたくいただいています。

インディアナ州登場

2013年01月31日 | 
先日の大学入試センター試験の英語の問題をながめてみました。すると、なんだか見慣れた地図。。。 米国インディアナ州ではないですか。この州の時間帯の中途半端さと、サマータイム(DST)導入に関する問題。

サマータイムを採用した2006年、われわれはそこにいましたが、地元の人たちはやっぱり事情がわかってるもので、「NYとかと同じ時間帯のほうが都合がいい人たちもいれば、シカゴと同じほうがいい人たちもいるんだよ」と、まさにこの問題文に関係ある事情を聞かされました。そんな予備知識があれば、この問題を解くのもよりラクになるに違いないけど、米国でもこんなマイナー州にいたとか、行ったことがあるという人はまれでしょう。だから試験問題として成立するのか(有利・不利がほぼ無視できる)?

前にも書いた気がしますが、この州は東海岸時間でいちばん西にあるため、日の出・日の入りがおそくて、冬は8時からの授業があると授業の途中でようやく明るくなってくるほど。DST導入後はこれがさらに極端化して、夏は10時ごろようやく暗くなる。娘がなかなか寝ないので、夕食を食べてからさらに1時間以上、小学校で娘を遊ばせ、そこで疲れてもらって風呂~寝るというパターン。日本の中でも西にある(でも同じ時間帯の)沖縄はこんな感じなのでしょうか。日本(本土)の冬の早すぎる夕暮れが続くと、インディアナのあの長~~い夕方が恋しくなります。

新年の抱負

2013年01月01日 | 
NPRのScience Fridayで、「新年の抱負を実行し続ける」ことについて、John Norcrossという心理学者のインタビューも交えたエピソードを聴きました(NPRのページはここから)。

このテーマの研究論文もある、というNorcross博士の言う成功の秘訣はかなり常識的というか、まあ、そうだろうな、というものが多くて、

- 実行可能な現実的な抱負を設定するとよい
- 家族や友人などに公言して、励ましてもらうとよい
- 記録をつけたり、成果が上がったら自分に報酬を与えたりして、モチベーションを維持せよ
- 一度に2つ以上はダメ、もし2つなら関連があるものを
- 初期に一度失敗して、やり方を見直した人のほうが成功率が高い

など。でも、このようなやり方で立てた抱負なら、成功率(半年後まだ続いているか)は4%から46%ほどへと、大幅に上がるそうです。

このエピソード、朝ランニングをしながら聴いていました。このラジオ番組は、生放送中に聴取者から質問・コメントを受け付ける、というスタイルを取ります。今回、最後の電話が「1978年に「ランニングをする」という抱負をたてて以来、今まで続けている」という人。Norcross博士には「抱負が定着して日常の行為となる大成功の例」と賞賛されたけど、その方の問題は「膝を痛めているのに止められない、決心(Resolution)が強迫観念(Obsession)になってしまっているように思う」というもの。ホストのIraさん「じゃあ、来年の抱負を『走らないで、速歩にする』にしましょう」と提案。

春のハーフマラソン惨敗(この記事)以降、捲土重来を期し、生活やトレーニングプランを見直しました。嫁さんの勤め先の上司がやはりランナーで、「歳をとったら無理しないこと。体を壊す」「昔の記録に再挑戦とか、考えちゃダメ」と言っているそうです。最近は、体が絞れて調子もいいし、ランナー生活にはメリットが多くて止める気はないんですが、だからこそ、走れなくなるような怪我をしないよう、上手くやらないと。

ところで、新年の抱負、立てました(2つ)。上のハナシによれば、たとえばここで公言してしまうのが、達成のためには効果的なのでしょうが... あまりに恥ずかしい抱負で、とても書けません。

口の中が痛い理由

2012年10月25日 | 
数日前から、娘が水を飲むと顔をしかめて「しみる~」と言うようになりました。その日、嫁さんと作ったアップルパイのまだ熱いのをうっかり食べて熱がっていたので、口の中の火傷か、と思っていたのですが、娘が申告する辺りをさぐっても何も発見できず、理由が分からないまま。昨日の朝、まだ痛いと言っていたので、歯医者に行くことに。

診断の結果は........ 口内炎。

場所が右のやや奥のほうの歯の外側の歯肉の部分。隠れて見えなかったもよう。歯医者さんは「こりゃあ痛いよね~」。

思い起こせばここ数日、幼稚園から帰った後、私と一緒に、スナック菓子をおやつにぼりぼり。とくに娘が気に入って二人でたくさん食べたのが、かつて、中部地方ではおなじみの「しるこサンド」。小豆あんをはさんだビスケット(今回食べたのはクラッカー)です。

私は、体調が落ちたとき、あるいは大して落ちていなくても、甘いものを食べ過ぎると、必ずといっていいほど、口内炎になります。甘いものは大好きなのですが、これがあるので、控えるよう留意しています。でも、たまたま家に糖分の高いお菓子が大量に持ち込まれたりして、油断してばかすか食べたりすると..... もう、ほとんど百発百中。口内炎に一週間ほど悩まされます。

気づいてみると、私にも口内炎。それも、ほぼ同じところ。二人そろって、発症の理由は、甘いものの食べすぎに間違いありません。

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先日、娘を含めた年少組の子たちが、幼稚園帰りに公園で遊んでいるとき、別の子のおかあさんと、しつけの仕方の性格への影響の話に。逡巡しつつ「学問的な成果によると、性格とか能力とか、多くのことは、遺伝で決まる部分が非常に大きいそうです。成長した子を見て、『ああやって育てたからこんなふうになったか....』などなど悩んでしまうものだけど、実際には『どのみちこうなったはず』ってことらしいですよ。」と言ったら、驚かれました。

子育て本のような情報を見ていれば、環境の影響が大きいのでは、と思ってしまうのは当然ですが、娘を見ても、既に親の遺伝の兆候が種々見られます。しかも、何の得もない、妙~~な特徴が遺伝してるもので、たとえば、嫁さんににて若干はだが弱い、私に似てそばかすができやすそう。そして今度は口内炎のできやすさとその理由が父譲り。申し訳ないことながら、一生背負ってもらう他なさそう。でもまあ、甘いものを抑制せざるを得ないので、太り過ぎは避けられる、というのをメリットだと思ってもらえば、いいのかもしれません。

記憶の断片

2012年10月10日 | 
日々の記憶がつながりをもち、過去の自分と今の自分とが継続した同一の存在で、周囲の人や物もそうであると認識するようになることを、「物心がつく」と言うとすれば、私はたぶん4歳ごろ。それ以前の記憶は、寒い日に母と銭湯まで歩いたこと、近所の年上の子に乱暴に扱われて泣いたこと、その子が火遊びをして裏山が火事になり、母親に知らせに行ったこと、火傷で入院した弟の看病のため、親戚の家に数日預けられたときの不安な気持ち、など印象的な場面だけがぼんやり、断片的に思い出されるのみ。

やっと朝夕が涼しくなってきた先日の朝食時、娘が飲む牛乳を温めて出すと「これを飲むと、アメリカで、お母さんが作ってくれた甘~い、おいしいお茶がまた飲みたくなる」と言い出しました。

これは、Bloomintonで過ごした最後の一年に住んでいたアパートのご近所だった、スリランカ人家族のお母さんが時々作ってくれていた、ミルクティーのこと。もう一年以上前、3歳になるかかどうか、という頃のことです。4歳になり、だいぶん記憶がつながるようになってきたように見える娘ですが、アメリカのことはあまり覚えていないのか、ほとんど話しません。でも、たまたま、このことは覚えていたらしい。

お父さんが数学科のPh.Dの学生だったこの一家の、当時まだ1歳のガヤ(男の子)は、うちの娘を Kaede-akki (シンハラ語で「かえでお姉ちゃん」)と呼んでなついてくれました。Bloomingtonの長~い夕方、仕事に一区切りつけて娘とガヤ(ご夫妻はpute(息子)と呼ぶ)が遊ぶのに付き合い、嫁さんはお母さんとおしゃべり、ということがよくありました。嫁さん同士は今でもときどきメールを交わしているようです。

このお母さんが入れてくれるのは、インドや近傍の国の人がよくそうするのと違って、シナモンやカルダモンなどのスパイスは入れない、たんなるミルクティ。でも不思議に、われわれには真似のできない味でした。だからでしょう。娘はBloomingtonにいるときも、「また飲みたい」とよく言っていました。温めたミルクの甘さで、おいしい紅茶を飲ませてもらった、(たぶん)幸せな記憶が思い出されたというのは、私たちにもうれしいことです。

受賞おめでとうございます

2012年09月22日 | 
最近のNPRのScience Fridayで、イグ・ノーベル賞の創始者のMarc Abrahamsという方がインタビューを受けています(面白いです)。Marcさんによると、受賞者を決める秘密の会議は毎回白熱して、殴り合いの喧嘩にならんばかりの論争になることもあるとか。

以前、Speech Jammerという面白い(でも、とてもマジメな動機の)技術開発を記事にしたのですが、「音響学賞」を受賞したそうです。たしかに(揶揄ではなく)受賞にふさわしい優れた研究だと思います。記事でも紹介したように海外のメディアでも、You Tubeなどでも紹介があったようで、このニュースを見つけた嫁さんが知らせてくれたときも、驚きませんでした。これをはずみに、ぜひ早期に実用化を...

賞を運営している協会(?)のサイトで、授賞式のビデオが見られるので、様子を見てみました。ステージ上でデモをして、受賞者ご本人には効果があったけれど、ゲストスピーカには効果がなくて開発(受賞者)が当惑するという一幕で、もっとも会場がウケてました。なぜなのかは分かりませんが、お年を召した方で、けっこうにぎやかなステージ上だったこともあるし、装置から出している遅延フィードバックが十分耳に入らなかったのかもしれません。だとすると、私の使いたい目的にも障害があるかも。。。

追記:音響学賞・受賞のもようは、ビデオの1:24:30ごろからです。

そうは聞こえない

2012年08月19日 | 
私は生き物が苦手。小さいころ、虫採りをして遊んだ経験はなし(周りで見てるだけ)。男の子の多くがやるように、生き物をなぶり殺したこともありません。一方娘は、虫大好き。この点で、嫁さんの血を引いたらしい(または、わたしと対照的に、虫が友達、おたまじゃくし等の虐殺も数知れない弟)。ダンゴ虫でも、バッタでも、見つけたら素通り不可能。このあいだは、隣のお兄ちゃんが採ったアブラゼミを「お母さんに見せる」と持ってきました。「ジジジジジ・・・」と苦悶する蝉、尻込みする私。でも、死骸も持ってくるので、お隣のことちゃんといっしょに図鑑で調べて、娘も私も、セミの種類が見分けられるようになってきました。

夏も終わりに近づき、暑い多治見も朝晩は過ごしやすくなってきましたが、この季節、いつも思うことがあります。ミンミンゼミの声は「ミーンミーン」と聞こえるし、ツクツクボーシは「ボーシ」とは聞こえないけど、まあOK。でも、ヒグラシの声は、「カナカナカナ・・・」とは全っ然、聞こえない。そこで、ヒグラシの鳴き声の入った動画をYou Tubeでさがして娘に見てもらい、「このセミの声を真似して」と頼むと、「シシシシシ・・・・」。(わたしは「だろー!」と大喜び)

いわゆる「聴きなし」は音声の忠実な模写を目指したものではないので、鳴き声そのものと多少の距離があってもおかしくはない。ホトトギスの「特許許可局」なんて、そう思って聴けば、そう聞こえなくもない、というぎりぎりの線だけど、意味ある音形を与えることで記憶を助けて、同定に利用しよう、ということでしょうか。でも、ヒグラシの声が [ka・・] ってこたあない。まして [na] に聞こえる部分がどこに? 私の感覚では、摩擦音で写すべき。たとえカ行音を使うにしたって、せいぜい母音が短くて摩擦音性のノイズ成分の多い [ki] だろうと。一番 Sonority の大きい、[a] と組み合わせた [ka] とは・・・ 

この無理のある聴きなしが生まれ、受容され、確立した過程に何があったのか。晩夏の夕方に、趣き深い音色を出すのは確かですが、それを重視したためなのか、現実から遠ざかりすぎてはいないか。なにしろ「カナカナ」では、ヒグラシの声を聴いたことがない人にとって、同定の手がかりになると思えません。鶯が「人来」と鳴くというところから、ハ行音に [p] が存在した時期が遠い過去ではない間接的な証拠を見出したように(亀井孝「春鶯囀」)、将来の言語学者が、ヒグラシの声と「カナカナ」を結びつけて、「カ行は摩擦音だった」なんて結論を出したりして。

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古い曲ですが、山下達郎の「甘く危険な香り」が、カーティス・メイフィールドのTripping Outという曲のパクリだ、というウワサ話があるようです。聴いてみたところ、確かにリズムセクションの各パートのパターンはそっくり。コード進行はぜんぜん違う(最初だけはどちらもFmaj7だけど)。でもそもそも、あの「ダッダッズダッッダッ」(音符にできないのでうまく表せませんが)というリズム、そんなに珍しい? レゲエとか、スカとか、ドドンパとか、ある特定のリズムパターンを使った曲には似たのがいくらでもあることにならないか? それから、Tripping Outが出た1980年以前に、こういうリズムパターンの曲はなかったんでしょうか。山下氏によれば、「甘く~」を作った時点で、Tripping Outは全く知らなかったのだとか。それが真実かどうかとか、まだ穿鑿はできるのかもしれませんが、そこから先は、似たのを探しては「鬼の首を取りたい」、ある種の音楽「通」の趣味の世界だけのハナシじゃないか、という気がします。

以上、似てるようには聞こえない、ちょっとてらい過ぎ、うがち過ぎなのではないの? という件二つでした。

五輪からみる女子マラソンの動向

2012年08月06日 | 
五輪はここまでほとんど見ておらず、状況もほとんど知りませんが、昨晩は遊び倒した娘が早く寝たあと、嫁さんと女子マラソンを見てみました。レースは、雨、テクニカルなコースなどの要因でちょっと紛れて、面白い展開になりました。でも、大きな波乱は起きず、力のある選手の中でのサバイバルレースとなりました。日本選手は、まあ、ほぼ力量どおりという内容・結果でしょうか。

このレースの結果をどう見るか、なんですが、スポーツナビのインタビューに答えて金哲彦さんがおっしゃってる内容にほとんど賛成、というか納得なのですが、驥尾に付して少々。

以前、日本の男子のマラソンの世界における競争力と関連して、箱根駅伝の功罪を考えるエントリーを書いたのですが(ここ)、そこで、こんな発言をしました。

陸上長距離の真の花形競技は5000m、10000m。ケニア、エチオピアの国内の競争のレベルがあまりに上がって、そこからあぶれた人の参入で、マラソンの高速化が始まっていましたが、ついに夏の五輪まで。これはもう二度と日本選手は勝てないんじゃないか。(中略)これは日本だけの問題じゃなくて、世界のどこも東アフリカの高地の国に勝てない、という状況が続くだろう......

これは、男子の話で、女子については、「まだそこまで競争が激化してないわけで、だからチャンスがあった」と書いてます。今回それを裏付けるかもしれないデータを拾ってみました。上のグラフは、1988年、女子マラソンが五輪の種目になってからの、スタートリストに載った選手の数。男子はもっと前から始まってますが、比較のために載せました。

見てのとおり、男子の参加選手は横ばいですが、女子はどんどん伸びて、今大会ではついに男子を超えてしまいました。もちろん、競技レベルは人数だけで決まるものではありませんが、これまでの女子マラソンは、競技の大会への導入~普及の時期であり、かつ参加人数も飽和状態でない時期ということで、男子に比べたら、若干ラクだったのは間違いないと思われます。

また、上記エントリーでは、

北京五輪では女子マラソンにも愕然としました。新たに強い選手が全然参入してきてない。力が落ちたヌデレバがまだ2位。故障するほど無理しないで、選考レースの力をそのままもってきたら、野口さん楽勝だったじゃん、なんてもったいない、と。だからまだ女子にはチャンスがあるかもしれない、男子ほどは競技レベルが上がってきてない

と、書いたのですが、割とアッサリ、その状況は終わりを告げたかもしれません。金哲彦さんは、今回のレース内容を、「女子マラソンの男子化」と評しています。具体的には、「スピード化していて、もともとトラックの選手が多くいます。なので、淡々としたレースではなく、何回も揺さぶりをかけてくる」と。私の解釈では(金さんのおっしゃるとおりなんですけど)、男子について述べたのと同じ、「ケニア、エチオピアの国内の競争のレベルがあまりに上がって、そこからあぶれた人の参入」ということが始まっているのだろうと思います。

上記エントリーでも書いたのですが、陸上長距離の王者は本来5000m、10000mなわけで、力のある選手はこの競技で代表になり、勝ち、英雄になろうとする。とくに、現在競技レベルの卓越したケニア(とかエチオピア)は、レースになると自国の選手で集団を作って、みんなでぶっ飛ばして他を振り落としておいて、それからその中だけで競争して、1~3位独占、とかやっちゃう。国内の競争が熾烈なこれらの国で、層が厚すぎるため代表まで届かない選手を中心に、マラソンへの本格的参入者が増え、5000m、10000mでやってることを、マラソンでもやる。これはたまらん。

たしかに高橋、野口の最盛期からみると日本の競争力も落ちているだろうけど、彼らの力を今、持ってきても、きついだろう、というレベルに、ついに女子も達しようとしていることが明らかになったのが昨日のレースだった、と思われます。この趨勢は今後も続いて、「東アフリカ以外が勝つのは非常に困難」が男子も女子も、という時代になりそうです。

それにしても、なんで東アフリカの人が強いのか。貧しさから来るハングリー精神とか、高地適応による心肺機能【追記:むしろ「循環系の機能」でしょうか】の優秀さとか、聞いたことがあるのですが、いつも思い出すのが、Richard Leakeyの本(The Origin of Humankindだったと思う)に書いてあった「アフリカで生まれた人類は、屍肉漁りのため走り回っていたので、マラソンランナーのようだっただろう」という一節(うろ覚え)。今の東アフリカの人たちが20万年近くも前のまま、ってことはないでしょうが、その適性がいまだに残っていて...と、つい考えたくなってしまいます。