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時々雑録

ペース落ちてます。ぼちぼちと更新するので、気が向いたらどうぞ。
いちおう、音声学のことが中心のはず。

はじめての「なりたい」

2014年02月04日 | 
娘がまだ1歳になる前のこと、嫁さんと二人で「娘が将来どんな職業に就くか」話したことがあります。真剣に予想したわけではなく、車中の雑談で思い付きを出してみただけ。現実にはたいてい、予想もしてなかったものを選ぶものでしょう。ちなみに父はフォトジャーナリスト、母はヘアデザイナー。

自分の記憶をたどると、聞かれてうれしいものでもなかったので、「大きくなったら何になる?」と聞くことはないのですが、じいちゃん、ばあちゃんなど周囲の大人は聞きたがるもの。といっても答えはたいてい、『プリキュア』など、ファンタジーの世界。ところが一月ほど前、本人から、具体的な希望が出てきました。イルカの飼育員だそうです。

NHKの「ダーウィンが来た!」を欠かさず視聴、土岐川観察館主催の川の生き物探索、「ガサガサ探検隊」も大好き、水族館やプールも大好きな彼女の希望としては、なかなか筋が通ってるかも。そんなわけで、幼稚園で作った凧もその絵。よく見ないとわかりませんが、真ん中の青いのは水槽で、中にイルカ。左は飼育員になった本人でしょう。

このまま本当にその職業に就く、あるいはそれを目指す可能性はとても低いでしょうが、本人から初めて出た具体的・現実的な希望は覚えておきたい。ちなみに、イルカじゃなかったらウマでもいいそうです。



似た顔夫婦

2014年01月01日 | 
教材を探していて、Good Mythical MorningというYouTubeの番組に行き当たりました。ホストのRhett & Linkという2人組は、インターネットを中心に、いろんなメディアで人気者になっているらしい。二人のとぼけた表情や動きを見ると、私にはセサミストリートのアーニーとバートが浮かびます。見つけたのは"Why Couples Look Alike"という回。ともかく面白い(と思う)ので、見ていただければいいんですが、番組が典拠とした論文も見つかりました。ちょっと古いので、その後、異なる主張もされているかと少し調べましたが、有力そうなものは見つけられず。

R.B. Zajonc, et al. (1987). Convergence in physical appearance of spouses. Motivation and Emotion 11(4): 335-346.


いわゆる「ネタバレ」になりますが、問題とされてるのは、「どうして夫婦は似ているのか」ではなく「似てくるのか」。当然ながら私は嫁さんの顔が好きで、夫婦が似てくるらしいことも経験的に気づいていたので、「(あまり好きではない自分の顔には)似ないで欲しい」と思っていましたが、Zajoncたちの結論によると「仲がいいほど似てくる」ということになるので、兄弟のような老夫婦を目指すことにしました。この逆で、弟と私は、両者の嫁さん(!)に「どうしてそんなに違うの」と言われるのですが、これも"Kin resemblance,......, may not be simply a matter of common genes but also a matter of prolonged social contact"というZajoncたちの主張(の裏返し)に当てはまりそう。

このメカニズムについて、2人組の一人Linkは emotional mirroring と表現。相棒のRhettもほめているように、なかなかうまい言い方だと思うのですが、一方、ミラーニューロン発見以前のZajoncたちが empathy という概念を持ち出しているのも、私が知ってる狭い範囲でも、Franz de Wahl が empathy をミラーニューロンの働きと結び付けていることなんかを考えると( The Bonobo and the Atheist)、既にいい所を突いていたように見えます。

ついでに、番組内でRhettが similar を simpler と発音してLinkに指摘される場面があります。この2人組がそういのを特集してる回もあって、ネイティブもけっこう間違って覚えてることが具体的に知れて興味深いのですが、この similar > simpler の場合は、記憶違い等による誤りというより、 Thomson から Thompson が生じるようなタイミング調整のずれに聞こえました。

自主隔離

2013年12月31日 | 
ここ数日、体調がヘン。とくにランニングのあと、体のあちこちが痛くてだるい、悪寒もある。トレーニングによる筋肉痛か、あるいは本格的に寒くなったので走った後冷えるようになったかと思っていたら、だんだん風邪っぽい症状が。この進行パターンはインフルエンザっぽい。ただし、予防接種をしておいたおかげで症状は軽い、熱も一晩ちょっと出ただけ。

昨日から、嫁さん&娘は嫁さんの生家に行ったので、ここからは感染の危険もない(娘は予防接種済み)。一方、弟夫婦がまだ4ヶ月の赤ちゃんを連れて来ているので、本当にインフルエンザかわからないけれど、こちらは感染させたら本当にヤバイ、ということで家庭内ひきこもり。2階に自分を隔離して、食事も極力一人で。遅れがちな仕事もあるし、実はいろいろと好都合だったり。ますます引きこもり度の強まった一年の最後もこんな調子。

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という記事をアップしようと思ったら、嫁さんから大瀧詠一さん死去の報。以前記事にした A Long Vacationなら全曲弾ける。よく聴きました。早いとはいえ、65歳なんですね。感慨深い。

「いもや」再開

2013年12月16日 | 
先月、早稲田での仕事帰り、天ぷらの「いもや」に寄ってみると、店の灯りは落ち、扉も閉じていて

「当分の間、休業します」

という張り紙。以前、ご主人の持病(心臓だそう)の話をうかがったこともあるし、本当の事情はわからないけれど、張り紙の書き方からすると長くなりそう。以前の記事を見返すとお二人とももう70歳代後半。けっきょく再開は断念、ということも考えられそう。でも逆に、(ご病気ということなら無理は禁物でしょうが、)再開への意欲が回復への励みになる、ということもあるのかも。。。 さて先週、何か状況の変化があるかと、前を通りかかってみると、

「5時から開店」

と通常どおりの案内。5時には少し時間がありましたが、喜んで待つことに。

理由はやはり、ご主人のご病気。11月初旬から4週間入院、退院してまだ二週間ほど。「年内は休みなさい」と医者には言われたけれど、ご主人の復帰の意思が固かったとのこと。お孫さんを連れた近所のご夫婦、「心配しましたよ」と入ってきた男性などでさっそくにぎわっていたし、休業中も扉の隙間に、「頑張ってください」等の手紙が挟まれていたりしたそうです。「もう今年は終わり? あと一回くらい来られるの?」と聞いていただいたので、今週も行くことにします。

ノリノリ♪

2013年12月15日 | 
昨日は娘のリクエストでカラオケに行きました。歌える唄が増えてきて、「行きたい」と思ったもよう。まだスクリーンの文字を追うことができないので、歌詞を記憶している曲しか歌えない。でもわれわれが覚えている歌なら、いっしょに歌って彼女に思い出させてあげることができます。

最近大好きな「獣電戦隊キョウリュウジャー」、こんど新体操の発表会で踊る(モーニング娘。の)「ひょっこりひょうたん島」「オフロスキーのかぞえうた」、テキトー英語で Green Day の「Minority」、「ダーウィンが来た!」のエンディングの「スマイルスマイル」あたりを歌ってごきげん。つぎは、おじいちゃんも一緒に行きたいそうです。

破滅の縦線

2013年11月12日 | 
9月末、ホテルで朝食時に読もうとKindleのスイッチを入れたとたん、スクリーンが固まりました(写真左)。縦横に線が走り、文字が読めない。どうやら中身は正常に作動してるようだけど、何度再起動してもスクリーンは復旧せず。解決法をインターネットで探っているうち、ここのブログ記事に行き当たりました。この線をlines of doomと呼んでます。

Amazon.comのカスタマーサービスでインド人っぽい名前の担当者にチャットで質問、指示通りの作業をしてもやっぱりダメ、状況を伝えると「新しいものを(ディスカウント価格で)送ります」。つまり、こうなったらもう死亡、ということらしい。さきほどのブログ記事によると、平均一年半くらいでこの破滅の時がやってくるようです。買ったときの記事を見ると2011年5月。2年強持ったと。カバーもかけず、どこへ行くにも持ち歩いてたので、まあ、寿命ということで。

さて、考えた挙句、買い替え決定。今回も、読書に特化されていて、ランニングコストがかからない、Kindle Paperwhiteに。今日、予約していたものが到着。写真のとおり、2011年版のものより小さい。キーボード、ボタンがないからで、みんなスクリーン上のタッチで操作する。こういう操作のガジェットに慣れていないので、今はミスばかり。まあすぐに慣れるでしょう。娘は「前のより重いね」。実際には、15gほど軽いのですが、小さいせいか、たしかにちょっと重く感じる。

Amazon.comとAmazon.co.jpのアカウントは結合してあったので、これまで買った10冊の本はすぐに取り戻せたのですが、どこまで読んだかという情報や、メモは消えてしまったもよう。仕事のための本はないので諦めはつくけれど、今後、対策は必要です。前のものはアメリカで買ったので、日本語は読めなかった(青空キンドルをちょっと利用してみたりしましたが)のに対して、今度は日本語の本も読める。でも、それに割く時間はちょっとないので、あいかわらず英語の本を読むためだけに使う予定。最近買って読み出したのは、Matthew Liebermanという心理学者のSocialという本。Science Fridayのインタビューが面白かったので。

それにしても、今日が2013年度版の発売日で、今日到着。本を買ってもらうところが商売だから、ということでしょうが、あまりにも速い。国土が広いとはいえ、Free shippingを選ぶと一週間程度かかるのが普通だった米国に対して、日本だと2日くらいで届いちゃうこともある。競争とはいえ、がんばりすぎというか、流通をいじめすぎというか、日本は便利すぎ、日本人も便利に慣れすぎ、という気がします。

「切り札は...」

2013年11月02日 | 
たいへん久しぶりに野球を観ました。日本シリーズ第6戦、楽天vs巨人。知ってる選手がまるでいない。見てみたのは、今年とてつもない活躍をしたらしい田中将大投手が気になったから。見始めて「想像したほどでもないな~」と怪訝に思って見ていると、とたんに点を取られ、さっき確認したら、試合にも負けたもよう。今年最後の登板でついに土がついた、と。

結果だけは追っていたこの日本シリーズ、楽天が王手をかけたあとの第6戦の戦略が気になっていました。それは、「ここで田中投手を使うのか」ということ。野球好きだったころ(調べてみると1991年)、広島vs西武の日本シリーズ、広島が王手をかけて迎えた第6戦の試合中、西武の森カントクが「にやり」とこぼれる笑みを隠せなかった場面がありました。ここまでシリーズ2勝と、西武相手にもっとも通用していた川口投手をリリーフに起用した時のこと。森監督はシリーズ後のインタビューでこのときの心境を尋ねられて「(広島が)勝ちに来てくれたのでうれしかった」というようなことを言ってたはず。実際、2日前も投げ、やや疲れのあった川口は打たれ、広島は敗戦。次の試合も救援に出した川口投手が打たれ、西武がシリーズを制しました。

まだ二戦あって一つ負けられる。なのに、どうしてそこまで最も通用していた川口をもう一日休ませて、第7戦の勝負どころに残しておかないのか。勝ちに行く、ということは、それで負けたら余力を残せない、ということなのに、というところだったと記憶しています。あの時のことが今回にダブりました。絶対の大エースがいる、あと一回勝てばいい、ならあと一日休ませて、より勝つ確率が高い状態で使うべきでは、と。

2009年に亡くなった海老沢泰久さんという作家がいます。亡くなったときに記事(こちら)にしました。じつは海老沢さんのスポーツ評論しか知らないのですが、生前書かれたものの一つに、星野仙一氏に関する記事があり、今回それが思い出されました。やや古い記事でいずれWebから消える可能性もあるので、一部引用します。

...それ以上に懸念しているのは、星野氏は前述のように監督として3度優勝しているが、日本シリーズでは一度も勝っていないことだ。

日本シリーズは短期決戦で、だらだらとつづくペナントレースとはまったくちがった戦い方が要求される。そのため、11勝0敗の川上哲治氏、6勝2敗の森祇晶氏、4勝1敗の三原脩氏を例に出すまでもなく、強い監督と弱い監督に明暗がはっきりと分かれる。0勝3敗の星野氏は、もっとも弱い監督の1人だ。日本シリーズに3度以上出場した監督は全部で15人いるが、1度も勝っていない監督は、星野氏のほかには0勝8敗の西本幸雄氏しかいない...

シリーズの結果はどう出るか分かりませんが、これで最高の投手はもう(少なくとも、その最高のパフォーマンスを出せる状態では)使えない。巨人側は「相手の最高の投手を攻略した!」と意気揚がる。いかにも、海老沢さんの懸念するようなところが当てはまるような気がするのです。西武に負けた広島の監督は、海老沢さんの記事でこれも槍玉に上がっている、山本浩二さんでした。

田中投手の偉大な記録に最後にケチがついたのはなんだか、もったいない。さらには、巨人を倒す寸前まで来ながら、戦略ミスでそれを逃してしまうことになるとすれば、じつに残念。先日、俳優の石田太郎さんが亡くなったそうです。思い出すのは、ルパン三世カリオストロの城の伯爵...だけですが。伯爵も言ってました

「切り札は最後まで取っておくものだ」

【追記】楽天は結局、日本シリーズを制しました。しかも、最後を締めたのは田中投手。上記の危惧は的外れ、ということになりそうですが、やっぱり私にはそれは「結果オーライ」に見えます。最終回3-0じゃなかったら、前の日160球も投げた田中を使えば、逆転の目もあったかも。ブログを愛読している巨人ファンのhoriさんも、「負ける理由が出来た」というような決着。田中を真の意味の「切り札」に残して、「どうやっても勝てなかった」という印象を与えて欲しかった、という思いを巨人嫌いの私は捨てられないのでした。

旅支度

2013年09月27日 | 
昨日から三泊四日の出張。旅支度のときまず私は、持ち物リストを作るのですが、作業のとき一目で分かるよう、写真(右)のように、絵にします。元々絵は苦手だし、自分が分かればいいという程度に適当に描いていたのだけど、家族にウケたので、ときどきディテールまで付け足すように。

今回も「お絵描き」をして旅支度をしていると、これを見ていた娘が「わたしも明日、幼稚園に行く用意の絵を描く」と写真(左)のものを。中央の線の右側が自分、左側がおかあさん、と、区切りを入れるところまで真似。

さて次の朝。一週間くらい、最高気温が30℃ほどと夏のようだったのが、ぐっと寒くなりました。予定表を取り出し、はりきって準備を開始した彼女、しばらくして「どうしよう、袖なしのシャツを描いちゃった」と悩み出しました。絵に描いたとおりにしなければならない、という考えだったもよう。

ランナー生活からの引退

2013年09月13日 | 
日経ビジネスオンラインに40歳過ぎのランニングを否定するかと思われるインタビュー記事がありました(こちらから)。読んでみると実際には、「健康に生きるには、医者に依存し過ぎず自分で考えられる<患者リテラシー>が必要」というハナシで、ランニングはほんの一部。でも、ランニングに関する主張はタイトルから受け取れる通りで、一部引用すると

若い人は精神力をつけるために多少はいいかもしれないけど、40歳過ぎてやるものじゃないです。体が下り坂に向かっている時に自ら痛めつけるというのは愚の骨頂です。
(中略)
走る人は寿命が短いというデータも実際あります。走ったら元気になるんじゃなくて、元気な人が走ってるだけ。元気を浪費してるだけ。

うーむ。。。 18歳、大学受験を終えたその日から続けてきたけれど、家族とできるだけ長く過ごすことのほうが大事。思い切ってランナー生活と縁を切ろう。来年の一月、知人と出る約束の日本昭和村ハーフを最後にしよう。そう決心して、嫁さんにメールで伝えようかと考えて、はたと立ち止まりました。待てよ...

「<走る人は寿命が短い>って、ホントだろうか。この方は医者だから当然研究例に基づいて発言してるんだろうけど、そういう研究例が溜まってきてるんだろうか...」

そこで、「Running and longevity」という検索語でググったところ、やはりいくつかの研究があるようで、新しいものを見てみました。リンクの記事はCBSのもの(ココ)ですが、根拠となっている研究は、European Society of Cardiologyという学会の2012年の国際会議(こちら)における、デンマークの研究チームの"Mortality in male and female joggers"というタイトルの発表。

17,636人の健康な男女に1976年から2003年までの期間に4度調査をした結果、年齢、喫煙、飲酒、教育、収入などの影響を排除した上で、ジョギングをしている人のほうが寿命が男性で7.9歳、女性で7.4歳、長いという結果。炎症・組織破壊の指標であるCRPという数値もジョギングをする人のほうが低いそうです。

この他、二三の記事を見ましたが、同様にランナーのほうが長生きというものや、過度でないならば(あったり前)健康に寄与するというものしか見当たりませんでした。

一定の決着をつけたいならもっと探す必要があるんでしょうが、これでじゅうぶん。少なくとも、ジョギングは体に悪い、という決定的な結論は出ていないらしいということは分かりました。現時点の知見を総合すると「どちらとも言えない」というあたりだというなら、シャープに動けて、よく眠れて、好きなものが食べられて、持っている服が着られる、等々のメリットを考えると、私にはランナー生活を止める理由がありません。引退は撤回することにしました。

上記の記事で「情報収集よりも、大事なのは情報を取捨選択する力です。何が正しいか正しくないかという、見極めの力を持っているかどうか...」という「患者リテラシー」が提唱されています。この記事を見ただけでランナー生活引退を決心しかけたのはそれこそダメで、立ち止まって他の情報も参照して考え直したことこそ、そのリテラシーとやらに合致した行動と褒めていただけるのでは。インタビューには、

自然界で自ら好き好んで走る動物は人間以外いないんです。それは、走るということが有害だからです。

もちろん敵から逃げるとか、獲物を追う時は走りますが、あくまで短時間です。2時間も走っている動物はいない。

という箇所もあるんですが、前にマラソンの動向に関する記事(こちら)でも書いたように、ヒトは、二足歩行になって、遅いけれども長く走れるようになり、長い距離をカバーして屍肉漁りをするという戦略で適応した、という仮説もあることだし、ゆっくり長く走ったっていいじゃない、と思います。

見せてあげる

2013年04月02日 | 
娘はトイレに入り、うんちが出るとたいていのばあい便座に座ったまま、

で~~た~~~~!

と、大きな声をあげます。これは「見に来て」とわれわれを呼んでいるのでして、嫁さんか私のいずれかが見に行くことになります。トイレで用をたせるようになってからわりとすぐ、ちょっと便が出にくかったりすることがあって(その逆でゆるい場合も)、「出たら呼んでね、チェックするから」と言い聞かせて、見に行って「いいウンチだねー」とかなんとかコメントしてた時期があります。ちかごろは呼ばないこともあるし、幼稚園ではふつうに自分で済ませているようですが、今も原則的には、来て見てコメントしてほしいようです。

昨晩も呼ばれて私が見に行き「いいウンチが出たねー」と感想を述べると満足そう。見せてもらってうれしいようなものではないですが、こちらへの愛着がなければしないことでしょうし、いずれ、どんなに頼んでも見せてくれなくなるのは確実。服を着なおすのを手伝いつつ「いつまでこうやってウンチ見せてくれるかな」とつぶやくと、こちらの言うことを常に注意深く聞いている彼女、

死ぬまで見せてあげるよっ

こちらは苦笑。トイレから戻ってすぐ嫁さんに「ということは、俺はわりとすぐに死なないといけないらしい(じきに見せてくれなくなるだろうから、その頃に)」と報告。

傍から見れば妙な光景でしょうが、こういうような場合、英語で話します。「すぐに死ぬ」とか言うと娘が泣き出しかねないから。とはいえ、娘のほうから「死ぬ(まで)」ということばが出たのはここまで記憶になく、どういうことか不明ですが、彼女の中でさらに進行中の何らかの変化を反映しているのかもしれません。

先日、西原理恵子さんの『生きる悪知恵』(2012 文藝春秋)という本を読んだら「お父さんにとっては毎日がカウントダウン」とありました。この「ウンチ見ろ」のカウント・ゼロもそう遠くはないことでしょう。その日まで存分に見せてもらうことにします。