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無計画な死をめぐる冒険 21

2006年04月16日 | 連続物語
 幸い引き戸が少しだけ開いている。実体のない私の体なら容易に滑り入ることができる。これは一応家宅侵入に当たるのだろうか、いやしかし私は痩せても枯れても死んでも この家の当主に違いないはずだが、などと瑣末なことを考えながら私は隙間を通り抜けた。
 いきなり目の前に立ちはだかったのは、大きな男の背中である。 
 細眼鏡に「おやじ」と呼ばれていたのはこの男らしい。戸を隙間風のようにすり抜けて勢い余った私の手が、彼の白い救急隊員服に入り込んだが、彼は当然のように気づかない。やはり私は幽霊ですらないのだ。私は何でもないのだ。希薄未満の存在。うむしかし、我が家に戻った家主を無視するとは、止むを得ないとは言え不遜である。少しはこちらに気づくがよい。見れば無闇やたらと横も縦も大きい野郎である。横に回れば、オットセイのような鼻ひげをぶら下げて間の抜けた顔をしている。昔教授になりたての頃、家族で水族館を訪れたとき、オットセイに酒を飲ませようとして係員に叱られたことを思い出した。オットセイなんて、酒を飲んでも飲まなくても似たような動作しかしない知能の低そうな獣である。白服を着たこのずんどうのオットセイは、家人にしどろもどろに説明をしている。家人とは、泣きはらして立つ美咲である。
 死んで以来初めて妻と対面した。対面と言っても、向こうは私に気づいていないが。
 右手に握り締めるえんじ色のハンカチが、小刻みに震えている。
 実家から戻ったままの服装らしく、肩に真珠のブローチまでつけている。まるで私の死を確認したらまたそのまま出かけそうである。パーマのかかった髪で一筋前髪が落ちているのは、私の死体を見て動転してなったものか。そもそも彼女は悲鳴を上げただろうか。いや上げる必要もない、予定調和なら。ただハンカチを取り出して口を塞ぐくらいはしたか。
 奴はそういう女である。頬が一層瘠せこけて見えるのは、蒼白の顔色のせいか。
 濡れたハンカチの部分が、血糊の色に見える。
 なぜだか私は、彼女だけは、美咲だけは私の霊的存在に感づくのではないかという漠然とした予感を持っていたのだが、何のことはない、会ってみればまったくそのようなことは無かった。希薄な関係の夫婦は死に別れても希薄なのである。
 それにしても上手く泣きはらしたものである。まあ女というものは殺しておいて涙を流すくらいは朝飯前なのだろう。
 美人が泣きはらせば絵になるが、不細工が泣きはらせばより不細工になるだけである。死人に流す涙があれば、生前にもう少し優しくしてもよさそうなものである。
 ここは正直に語ろう。告白しよう。私がどぎまぎしたのも確かである。やはり死んだら誰か一人には泣かれたいものなのだ。一瞬とは言え、彼女の腕に飛び込んで自らの死を嘆きたくなったのは確かなのだ。

(つづく)
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