多国籍軍介入を三日後に控えた九月半ばの灼熱の午後。蜃気楼の揺らぐ砂漠の地平線に現れた一台のジープが、アル・イルハムの本陣までやって来て止まった。
布と黒いリングを頭に乗せた兵士二人に挟まれ、車から降り立ったのは、日本人であった。砂塵に揉まれて薄汚れたよれよれのスーツに、無精ひげ。
織部である。
彼が二人の米国人とダマスカスに降り立ってから、一か月が経っていた。
超能力の研究者集団という偽の肩書で、彼らはアル・イルハムに接触を試みた。イスラム圏の知識人や有力者たちの推薦書も周到に用意した。交渉はぎりぎりのところまでうまくいったかに見えた。しかし、アル・イルハムの幹部との初会合で、いきなり白人二人は捕えられ、織部と引き離された。もともとからアル・イルハムの狙いは日本人の織部一人にあったのだ。織部自身は机と椅子と床敷きのベッドと、鉄格子付きの窓しかない部屋に命令も説明もなく二週間監禁された。拘束された二人の米国人がその後どういう運命を辿ったのかは、織部は知らない。
今、ジープから降り立った彼は、眩しそうに、砂漠と、岩山と、ベドウィンたちのテント村を見渡した。ラクダや羊はほとんどいない。その代わりに見えるのは、周辺にぐるりと置かれた、何台もの軍用車両や分捕り品の戦車。
何とも異様な風景に彼の目には映った。破壊する物などない不毛地帯のど真ん中に、125ミリ砲を備えた戦車が鎮座している。伝統的な服装のベドウィンたちがライフルを担ぎ、山羊の毛で織った黒いテントの脇に、ジープやトラックが横付けされている。目的も時代も異なる物がいっしょくたに集められた観があった。
織部は強烈な日差しに顔を顰めた。
一行を、シャイフ・アブドゥル=ラフマーンが出迎えた。彼が歩けば、小石混じりの砂地までが威厳をもって鳴る。
彼は品定めをするようにじろじろと無精ひげの東洋人を見つめた。
『お前が日本人のオリベか』
兵士が織部の耳元で英語に訳す。織部は頷いた。
『お前はヒロコを昔から知っているのだな』
織部はまた小さく頷いた。
彼を穴のあくほど見つめていたシャイフの顔面に不意に怒気が広がったかと思うと、彼は腰にさした短剣の柄を握り、かちゃり、と、光る刃先を見せた。
『お前はヒロコを取り戻しに来たのではないか』
英訳を聞いて織部は動揺した。彼は汗を浮かべながら首を横に振った。
『構わん。どうせその試みは成功しない。もし、お前が、ヒロコに逃げることをそそのかしたりしようものなら、お前の命はその時までだと思え』
生唾を呑み込み、織部は頷き返した。
『よし。それでは病人に会ってもらう。わかっているだろうが、彼女の心に巣食った悪魔を追い出すことが、今のお前の使命だ』
有無を言わさぬ気迫である。織部は今更ながら、到底なしえない任務を引き受けてしまったのではないかと悔やんだ。しかし同時に、ヒロコに会いたい、一目見たいという衝動はかつてなく高まっていた。現在の自分が死と隣り合わせなら、ヒロコはそのまっただ中にいる、しかもたった十七歳で。
織部は顔を上げ、族長の差し伸べた手の方向へ歩き出した。両脇には、カラシニコフを肩にかけた二人の兵士がしっかり密着してついて行く。
他と比べてひときわ大きく立派な天幕へと織部は案内された。
深呼吸し、中に入る。
すぐに香の煙が鼻を突いた。そこには豪華な調度品に囲まれて、贅沢な装身具を身にまとい、肘枕に半身を沈めて窪んだ目を見開いた高瀬ヒロコがいた。
織部は立ちすくんだ。彼の目に涙が浮かんだ。それくらい彼女の変わりようは激しかった。
落ち窪んだ目のふちとげっそりと痩せた頬。単に痩せたのではなく、精神の異常が顕わである。病的に見開いた虚ろな目。小刻みに震える指先。彼女は生きながらにして廃人と化していた。
(つづく)
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