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火炎少女ヒロコ 第三話(草稿) ~17~

2015年10月06日 | 連続物語



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 富士山麓、樹海の闇は濃い。
 木立が揺れ、コウモリが飛び立つ。遠くの梢でフクロウがけたたましく笑う。
 枯れ枝を敷き詰めただけの掘っ立て小屋の前に、女が倒れている。砂にまみれ引き裂かれた異国の衣装。乱れた黒髪。赤く腫れ上がった頬。頬に流れた涙の跡。
 女に意識が戻った。
 重そうに頭をもたげ、彼女は周囲をいぶかしげに眺めた。その表情は次第に、信じられない、という驚きに変わった。
 女は掘っ立て小屋に視線を向けた。入り口の筵はめくられている。中に、胡坐を組む骨と皮ばかりの男。月明かりは小屋の中まで届かなかったが、男の体が仄かに青白く発光している。水面に映る月光のように冷たい光である。
 ヒロコの目が大きく見開かれた。
 『わたし・・・戻ってきたの?』
 相手の心に問いかけた答えは、心へと返された。
 『そうだ。ヒロコよ』
 確かに、予言者であった。二か月ほど前、半狂乱になって森を駆け抜けたときに出会った、あの予言者であった。あのときと全く同じ姿勢で座禅を組んでいる。何もかもが、夜の闇の深さまで、あのときと同じに思えた。
 彼女はひどく混乱した。彼女は半分だけ身を起こした。
 『あなたが戻したの? ここに?』
 『そうだ』
 『どういうこと? わたし・・・わたし、夢を見ていたの?』
 夢にしては長過ぎた。砂漠にかかる灼熱の太陽も、畳みかける爆撃の振動も、数多流れた血も、自分を無理やり抱き寄せ唇を奪ったアラブ人の感触も、燃え盛る炎の熱さも。何もかも、夢というにはあまりに克明過ぎた。だが、夢なら夢であって欲しい。できればあの西の最果てで起きたことすべてが夢であって欲しい。それは藁にもすがる思いであった。
 予言者が微笑んだ(と、ヒロコは感じた)。
 『現実はみな、夢のようなものだ。夢はみな、現実のようなものだ。どちらを終着点とするかの問題だ』
 『質問に答えて』
 『シリアでお前が燃やした数だけの人骨は、すべてあの地に残っている』
 ヒロコの目から涙が溢れた。
 『どうして、どうしてあなたは私をシリアに送ったの』
 返答はない。
 『どうしてそんなことしたの』
 月明かりを浴びた枯葉が一枚、滑るように二人の間に落ちた。
 ヒロコは震える拳を握りしめた。彼女は身がよじれるほど切なかった。猛烈な自己嫌悪に襲われていた。あの砂漠地帯にいるときは────あのときも良心の呵責があったとは言え、それでも、敵を燃やすことで何か自分の存在価値が上がる気さえした。自分を特別な人間のように錯覚した。敵からベドウィンたちを守ることが、自分に課せられた使命のように本気で思い込んだ。しかし日本に戻った途端、夢から覚めたようにあっさりと意識が逆転した。なんて愚かなことをしてしまったのか。人殺しをすれば人に認められるとでも思っていたのか。特別な力? それが何ほどのものなのか。多国籍軍に簡単に防がれたことで明らかではないか。自分なんて、強くも、偉くも、なんともない。自分なんて────出刃包丁を振り回して、やたら人を殺傷したがる狂人と同じじゃないか。
 もう二度と母国には帰れない。帰るべきではないと思っていた。織部警部補の誘いすら断ったではないか。あのとき、自分は覚悟を決めたのだ。最期の覚悟くらい、自分で決めたいと思って決めたのだ。それなのに。
 地面を引っかくように動かした手に、すべすべした小石が触れた。夜気が沁みて冷たい。しかし懐かしい手触りである。そう言えば、シリア砂漠にはこのような丸々とした小石はなかった。皆、ごつごつ、ざらざらとしていた。
 ヒロコは小石を拾い上げ、胸の前で両手に握りしめて温めた。冷え切ったこの小石も、体温で包み込めば、温かくなるに違いない。 
 そうだ。まだ、望みはある。
 『お願いを・・・しても、いいですか』
 『なんだ』
 『今度こそ、ユウスケ君のもとに、送ってください』
 予言者は干からびた唇を引き攣らせて笑った。青白い光が増した。
 『こんな身になっても、それでも、会いたいのか』
 ヒロコは頷いた。
 『どうしても会いたいか』
 『どうしても』
 会ってから死にたい、という気持ちは読み取られたくなかった。
 『よかろう』
 冷え冷えとした夜風が吹き抜ける。落ち葉がざわめく。骨と皮だらけの男の輪郭がぼやけた。体全体から放たれる光はいや増しに増してまばゆく、刺すように強いオーラが彼の全身から発散された。彼は再び、幽体離脱を始めたのだ。
 『準備はできたようだ』
 『準備? 何の準備?』
 半透明の身体がヒロコの前に屈みこみ、片膝を突いた。ヒロコはがくがくと震えた。不意に沸き起こった底知れぬ不安に胸が押し潰されそうであった。ユウスケを、自分は燃やしている。シリアでさらにたくさんの人を燃やしてきた。自分は今、彼のもとに現れて、いったい何をしようとしているのか。自分は彼に許されたとでも思っているのか。
 <寒い>
 彼と再会したとき、本当の意味での「審判」が、自分に下される。
 これ以上、存在してもよいのか、という、審判が。
 <ユウスケ君>
 男の手が肩に触れた。
 <お願い>
 雷鳴に打たれたような衝撃を全身に浴びた。彼女は樹海の森から消えた。
 小さなつむじ風が起こり、彼女の先ほどまでいた場所を掃き清めた。
 森に静寂が戻った。何万年も前から変わらない、夜露と無数の短い命を包み込んだ、じっとりと重い静寂である。
 雲が月を隠した。
 フクロウが一声、低く鳴いた。



(第三話おわり)




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