た・たむ!

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秋晴れの日の試論 

2005年10月16日 | essay
孤独。
孤独と一言に言っても、さまざまな形態があると考えられます。

無人島で感じる孤独もあれば、人間社会の真っ只中にいてなおかつ感じる孤独もあります。

人間社会における孤独を二つに分けてみますと、
関係性の中の孤独と無関係性の中の孤独があります。

関係性の中の孤独は、人間関係が非常にはっきりしている場所において感じる孤独感です。職場での孤独、学校での孤独、村社会での孤独、などがそれに該当します。

無関係性の中の孤独は、人間関係がそもそも存在しない場所において感じる孤独感です。
赤の他人同士の寄り集まりにおいて感じる孤独です。都会の孤独がそれに当たるでしょう。

関係性の中の孤独については、さらに細分化されます。

関係性の中で自分ひとり関係性を持たない、という孤独。

関係性の中で積極的に攻撃される被害者としての孤独。

関係性の中で繋がり合いながら、なおかつ本当には繋がってないのだと感じる孤独。

こう考えてみますと
どの人はどれに当たる、と分類できるものではなく、誰しも複数の孤独が微妙に調合された混合液を胃に入れていることに気づきます。

孤独も、シンプルではないのです。

写真のコスモスを見てさみしいと私は感じた。それがなぜだか知りたくてこの試論に及んだのだが、ここからは最初の疑問に対する答えは導き出せそうにない。
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