諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

82 音楽の経営術#9 まとめ2

2020年05月30日 | 音楽の経営術
前回から引き続いてます。


斎藤喜博(1958)『学校づくり記』国土社から

「管弦楽の指揮者は、それぞれの人の才能を発見し、それを掘り出さなければならない。
井戸を掘れば、深い浅いはあっても、どこでも水が湧で出てくる。
一度掘れば井戸ポンプからは、いくらでも水が湧き出てくる。
それと同じように、一人一人には必ずそれぞれの才能がある。
それを掘り出すが掘り出さないかで違いができてしまう。
校長は職員のもっていいる、それぞれの才能を掘り出す役である。」

「職員を、意識と目的と、エネルギーをもった集団に組織し、その集団が「子どもをよくする」ということによって、一つの方向に力を合わせるようにするのは、学校全体の実践の中にある、統一された理論であり思想である。」

「芸術その他の創作の場合でも同じだが、教育の実践の場合においても、理論のない思想のない実践は実を結ばないし、周囲に影響を与えることはできない。
よい実践、周囲に影響をあたえている実践をよくみると、必ずそこには理論があり思想がある。
それは、当人がそれを意識しているか、いないかにかかわらない。
校長は学校全体の指揮者として、また演出者として、そういう先生たちの実践の中の意味をくみとり、みんなのものにし、もしくは、みんなの場所へそういう実践を持ち出して、みんなの力でその中にある理論や法則を引き出すようにする役目を持っている。」

「私は管弦楽の指揮者として美しい演奏ができればそれで満足である。」


斎藤・尾高 対談なんてあったさぞかし深まろうが、それは叶わない。

                  
         シリーズ 了

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81 音楽の経営術#8 まとめ

2020年05月24日 | 音楽の経営術
 猪瀬直樹さんの『空気と戦争』ではないが、組織というのはそれぞれがもつ「空気」によって重要な判断を誤ったり、構成員の動きに少なからぬ影響を及ぼすようだ。

 逆に言えば、淀みのない、酸素の多い空気のもとでは、個人としても自然に力を発揮しやすいし、同僚性も発揮しやすく、やりとりの中で機転のきいた工夫も出る。新人の育成もスムースだ。
極論すれば「空気」がその組織の成否を決めるのかもしれない。
 そんな空気について考えるモティーフとして音楽の演奏会を取り上げてみた。名演奏づくりのための空気である。

 ところで、学校は、民間企業のような数値目標を掲げられるような機能的な組織ではない。
まして、特別支援学校は小中学校や高校とも違い、学齢も幅広く、教育課程も極端にいうと一人ひとり違う。
教員は共通の目標をもちにくく、組織全体の目標は抽象的にならざるを得ない。
 だから、余計に「良い空気」の中にあって、それぞれの健全な気持ちの中で生徒の小さな変化に気を配り、創意工夫を生かした教育活動ができることが何より大切である。
「05 健康な学校#1 はじめに」にも書いたようにそのこと自体がヒューマンサービス業の直接的な目的でもある。

 ところが空気は空気なのである。
 空気をよくするなんて意図的に出来るものなのか。一般的な経営論ではないだろう。

 そのことは、長い間大きなテーマとして引っかかっていた。
カンやコツのレベルで時々話題にる程度?、下手をすると教員個人のキャラクターの問題と割り切る人すらある。
もう少し汎化できうる説明はできないかと考えていた。それが可能なら経営術?としてまとめられるのではないか。

 そこでオーケストラの演奏を引き合いに出した訳だが、単なる趣味と重なったということでもない。
かつて斎藤喜博の学校づくりを著した文中に「管弦楽の指揮者」という項があり、この印象が残っていたことも大きい。
 
 さて、もう一度まとめてみます。

第1楽章
  指揮者 尾高は、何もしないで聴いている。ブラームスのすべて、オーケストラのすべてわかったいること、瞬間瞬間の音のありようをイメージできていることに確信をもって立っている。

第2楽章
  指揮台の尾高とオーケストラの間に一定の(空間)が保たれていること。 団員ひとりひとりの表現者としての創造性を発揮できる余地が十分ある。またその創造が好意的に受けとめられている。

第3楽章
  決め所の厳しさ。経営者の景色を短絡的に押し付けないが、曲の要所は尾高の曲解釈にしたがって妥協せずに指導したに違いないこと。

第4楽章
  以上のようなことを背景にして、団員相互、パート相互で連携が生じ、その相乗効果(大小の渦)で演奏に味が出ること。(これが音楽の楽しさなのかもしれない。)
 また、そのことを尾高は期待していて感心しているに違いないこと。

以上が、学生オーケストラが、ベストな演奏に向けて指揮者が演出した空気づくりである(と感じた)。大きな枠はこの4つの楽章。

 それにしても、音楽づくりも、たぶん学校づくりも、説明しにくいイマジネーションの部分が大きいのだと感じる。
まさしく「ブラックボックス」の部分はのこり、これ以上の説明がつかないところをアートと言ったりするのだろう。

 そして、これを学校にあてはめて具体化することはやっぱり難しい。
どうしたって学校や個人の個性があってそれが変数として大きい。
無理をするとすごく陳腐なものになってしまうような…。

 次週はここのところを斎藤喜博はどう表現するのか久々に耳を傾けたいと思います。
                                     
                            (つづく)

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80 音楽の経営術#7 アフターコンサート

2020年05月23日 | 音楽の経営術
 コンサートの余韻を保ちつつ会場の階段を下りていくのは気分がいい。
さっきまでの音楽の響きが体中に残っている感じ。

 その感覚が雑踏の中で薄らいでいくのが惜しい気がして、そこにあるカフェに寄り道して反省会?へ。
(実際は家に持ち帰り仕事が残っているんですが)

 あれ、向こう側のカウンター席にいる人もコンサートに来ていた人だ。同じ気分なのだろう。
小さな丸いテーブルにもらったプログラムにはさんであった他のアマオケ(アマチュアのオーケストラ)のチラシを広げてみる。
見ているうちに、次はうちに来てね、と言われているよう。

 アマオケの情報はアマオケ間のつながりで伝わる面があるようだ。「お互いに」ということなのだろう。
実際にアマオケには連盟組織もあり、情報は集約されネットで検索ができる。ある意味プロ顔負けだ。
中にはチケットをコンビニ決済できる場合もある。

 こんな環境が整ってないころには、知り合いの口こみや、市町の各所のポスターやチラシの配架が主な情宣だったことを思うと隔世の感がある。

 もちろん、コンサート会場が整っていることも大きい。どんなに小さな街にもホールがあり音が良い。もう体育館ではやらない。
ホールだけでなく、自治体の市民課?もアマオケ地域の文化活動の貢献に協力してバックアップしてくれる。
「市役所の○○さんにお世話になって」
なんてコンサート後の乾杯の席で市の職員の方が紹介されたりしている。陰には地道な努力がある。

 そして、プロのオーケストラのように収益を気にしなくていいので、意欲的なプログラムが組める自由度も大きい。
それがまたオケのレベルを上げていくようだ。

 こうした環境下、演奏のレベルも高くなり、レパートリーも広くなっているのでお客さんも増えている。

音楽教育、ネットワーク、インフラ、運営者などいくつかの力がかみ合って、アマチュアの自主的な文化活動を発展させている。

 ベートーベンの7番…定番、ラベルのボレロ…結構チャレンジ、シューベルトの3番!…よさそう、とチラシをめくっていく。
そして、演奏の難しいマーラーを専門にやるアマチュアのオーケストラがあることまでチラシで気づく。ほぼプロ。

 見上げると、カウンターの人も眼鏡に手をやりながら同じチラシを見ている。



 それにしても、さっきの演奏である……。

                           (つづく)
 




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79 音楽の経営術#6 第4楽章

2020年05月16日 | 音楽の経営術
  曲は起・承・転・結の「結」まできた。
最終第4楽章である。

 第3楽章で出番のなかった金管楽器や打楽器奏者も椅子に座りなおしたり、楽器の要所をチェックしたりしている。
これから頂上?を目指す。

 すでに尾高は腕を胸の前に上げ、あのブラームスの表情になって次のはじまりを促している。
「さあ、いくよ」
すっと、視線が集まっている。息を止めて手の動きを待つ学生オーケストラ。
弦楽器の前奏のあとに鳴り響くであろう合奏に全パートがそなえている。

 第4楽章は、オペラやバレエのエンディングのようにすべて”キャスト”が総出演する。
多くの交響曲が終演後の万雷の拍手を期待して、華やかで感激的なエンディングになるように作られているが、ブラームスの場合も華やかであるが、どこか憂いがある。

 それまでバランスに気を配って慎重に叩いていた目の前のティンパニー氏も息を吸って大きく叩き、金管もいくぶん上目に向かって吹いている感じ。フィナーレらしく。

 一方で「でもブラームス」と思わせるのは、要所での表現が細かく指示されていることのようだ。
「そうだ、ここは急速にppだな」とか、「チェロを響かせたんだ」とか。
こういうことは尾高の曲解釈に基づいてリハーサルでしっかり押さえられているところのように感じる。
たぶんこうした指示(具体的には分からないのですが)が曲全体の印象にとっても有効なのだろう。

 しかし、素人には分からないが、本番の演奏は単にリハーサルの再現ではないとも多くの指揮者はいう。

リハーサルの現場を見学した村上春樹さん。(『小澤征爾さんと音楽について話をする』から)

 「小澤(征爾)さんの出す指示のひとつひとつの意味は、僕にもだいたい理解できる。しかし、そのような細かい具体的な指示の集積が、どうやって音楽全体のイメージをかくも鮮やかに立ち上げていくことになるのか、その響きや方向性がオーケストラ全員のコンセンサスとして共有されていくことになるのか、そのへんの繋がりは僕には見えない。そこの部分が一種のブラックボックスみたいになっている。いったいどうしてそんなことが可能なのだろうか?」

一種のブラックボックス!。

 たぶんリハーサルで行われる指示は、音楽の流れの中の”部分”であろう。長くても小節の単位で数えられる範囲が多いだろう。
しかし、その部分部分の指示だけが「オーケストラ全員のコンセンサス」づくりのすべてではないのではないか、と思ってずっと「授業観察」しているが、さすがに難しい。
じゃ、どうやって名演奏は生まれるのか?。


 ただ、この第4楽章についてだけは少し確信がある。
第1楽章、2楽章、3楽章と積み上げてきたものがここにきて結集して相乗的なまとまりみたいものを感じるのだ。
 曲もそのことを期待して、いろいろな各パートの様々な要素が発揮できるようになっているのだが。
それにしても、仮に単独で第4楽章をやっても、登りつめてきた白熱した感じや、心得た感じの要所の表現は難しいだろう。
積み上げてきたあとの第4楽章をやり遂げたいという意志もそうだ。

 そして、それを聞いている教員としては、

学校のいろんなことが結集する大きな行事

をふと連想したりする。

 行事を行うのはパワーが必要だけどそれを経て子ども達は個々としも集団としては成長する。
教員間にも充足感が広がる。保護者も一緒に参加してまとまる。
もちろんそれまでの学習や学校生活全般の積み上げが下地になっている。
第4楽章にそんなイメージが重なった。

 華やかでダイナミック、でも要所で抑制のきいたフィナレーを全員で合奏して学生達のブラームスは終わった。
最後の音の余韻を確認した後、尾高は指揮台を降りる。もうやさしい牧師さんにもどっている。
コンマスに何かを言っている。「ブラームス山、よく登ったね。」と?。
学生は起立して胸を張っている。拍手やブラボーの声もよく響くワインヤード。

ホール全体に満足感が広がっている。
                           (つづく)




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78 音楽の経営術#5 第3楽章

2020年05月09日 | 音楽の経営術
                     NHK交響楽団「フィルハーモニー 2012 12」


  第二楽章の響きの余韻がホールに残る中、尾高はハンカチで汗を押さえている。
「ここまでは、うまくいってるよ」
と目で満足感を示し、次への準備を促している。
オケは、譜面をめくっている。
第三楽章がはじまる。

 この楽章も緩徐楽章といえるのだろうが、よりシンプルである。
弦楽器と木管楽器とホルンの掛け合いのみで、他の金管楽器や打楽器はお休み。

 だから、逆に独奏に近い部分が多く、パートとしての腕の見せどころでもある。

 さっそくオーボエとファゴットの二重奏からはじまる。
奏でてる!感じがスーツの背中のからも分かる。
これに、連動して弦楽器が追いかける。少し室内楽の掛け合いのよう。いい感じのスタート。
                                      

 こういう室内楽のようなところを聞いていると、故 若杉 弘さんが、
「ある時、オーケストラもいい演奏をしたいと思っていることに気づいたんですよ」
と言っていたのを思い出す。指揮者がすべてをコントロールすることが常識だった時代である。

 室内楽には通常指揮者はいない。
だから奏者の創造性が前面に出る。フルオーケストラにはない良さがある。

 指揮者は、一つのコンサートをまとめるため、指揮者の個性を全面に出すことが通常だろうが、同時に演奏者の音楽性を信頼しながら、のびのびとした部分も生かさなければならないかと思われる。
室内楽や独奏の柔軟な感じ。

 この曲ではその箇所はないが、独奏(ソロ)の部分のある管弦楽曲は数多い。
ソロの部分は曲の一つの見せ場であり、実際その部分を楽しみにしているお客さんも多い。
「全体の協働のためのイメージの提示」「パートやパート相互の小さな単位の渦の形成」とならんで「個人技の演出」も演奏全体には重要なファクターだと言える。
圧巻のソロがコンサート全体の印象を決める場合すらある。

 室内楽に近い第三楽章が続いている。
フルート、オーボエ、その後ろのクラリネット、ファゴットが何度も練習したであろう連動性を発揮して躍動している。
結果としてそれぞれ奏者が木管楽器に託してた音が外連味なくホールの空間に広がっている。

 その順調な演奏に乗せられて、
「ブラームスも作曲に難渋した交響曲1番のあと、解放されたように第2番を書き、こんな楽章を設けただろうなぁ」
と考える余裕出てきたころ、5分足らずの第3楽章は静かに終わっていく。

 尾高が2、3度頷いたようの見えた。
そして、さっと指揮の構えに入った。最終楽章である。

                      
                        (つづく)

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