諦めない教育原理

特別支援教育は教育の原点と聞いたことがあります。
その窓からどこまで見えるか…。

72 憲章の初心#2

2020年03月28日 | シリーズ
山小屋の夕食。山小屋は2食で7,500~10,000円が相場。疲れているとその何倍かの価値あり。

 教育に特化しての憲章は、市町村ごとで、あるいは大学などで制定して場合がある。
私学などは、創設者の趣意書がいわば憲章である。

 では、特別支援学校でと考えると、筑波大学附属大塚特別支援学校が学校として憲章を掲げている。
制定したのは現校長の柘植雅義さん。半世紀以上にも及ぶこの学校の歴史で2016年に掲げられた。

教育憲章
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本校は、世界最高水準の知的障害教育を目指します。
そのために、以下の5つに全力で取り組んでいきます。
 ○子供の主体性を大切にします
 ○子供の人権を大切にします
 ○学術研究に基づく確かな指導・支援を行います
 ○成果を国内外に広く発信します
 ○共生社会の実現にむけ貢献します
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筑波大学附属大塚特別支援学校 2016年4月


 一読して、憲章だから散文的で取りつきにくくもあるので、柘植氏の言葉を引用する。

「教育憲章」
→大学の付属病院や大事な組織は様々な目的や目標を掲げながらもさらにその上に「○○憲章」と掲げることが多ので本校も取り入れた。

「本校は、世界最高水準の知的障害教育を目指します。」
→筑波大学の障害科学域には研究者が400人以上もいて、これは世界最高水準にある。実践面でも本校は世界最高水準をを目指すべきだ。現に係る研究者も1校としては贅沢なほどの人数になる。

ここまでは、筑波大学の誇りに圧倒されるが、この次からが興味深い。

「子供の主体性を大切にします」
→日本には1,000校の特別支援学校があるが、約半数の学校が学校目標等に「主体性」を挙げている。これは時代の大きな流れでもある。子供主体でない時代があったとすると時代とともの子供の主体性が明確になってきた。

「子供の人権を大切にします」
→子供の権利とか障害者の権利条約とか、人権を大切にする時代になったきた。これを踏まえないとだめである。

「学術研究に基づく確かな指導・支援を行います」
→どうしてその子にその指導をするのか、というとき、なんとなく、昔からずっとやってます、先輩から聴きました、これらでは不可。
学術研究にもとづいた、エビデンスにもとづいた、確かな効果が期待できる指導支援が必要である。

「成果を国内外に広く発信します」
→そしてその成果を国内外に発信する。

「共生社会の実現にむけ貢献します」
→これらの成果が本校の生徒にだけ還元されるのではなく、この地域…、世界中の豊かな共生社会に還元れるといいなという願いである。

 子ども主体→ 根拠のある指導支援→ 成果 →その発信 というPDCAサイクルと、その中で子ども達(共生社会)に成果が還元される仕組みが内包されているのである。

 憲章というのはそういう活動の流れの原則をつくることかもしれない。


※ 柘植先生の発言は、第52回 知的障害児教育研究協議会 の時のものですが、メモしたもののため必ずしも正確ではありません。


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71 憲章の初心#1

2020年03月21日 | シリーズ
塔ノ岳と丹沢山の間の稜線から。やっぱり富士山を探してしまいます。

 学校のほとんどが木造校舎だったころ、職員室の校長先生が座る席の後ろの壁などに「児童憲章」の額が掲げてあった。
校長先生が話をする時、注目している先生方の視線のさきにこの言葉も見える。
学校のリーダーのねがいは掲げれれた児童憲章のシンプルな前文とだぶって感じられただろう。

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児童憲章

われわれは日本国憲法の精神に従い 児童に対する正しい概念を確立し、すべての児童の幸福を図るためにこの憲章を定める。
児童は人として尊ばれる
児童は社会の一員として尊ばれる
児童はよい環境の中で育てられる

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「児童憲章は、日本国憲法の精神に基づき、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福を図るために定められた児童の権利宣言である。1951年5月5日、広く全国各都道府県にわたり、各界を代表する協議員236名が、児童憲章制定会議に参集して、この3つの基本綱領と12条の本文から成る児童憲章を制定した。」(ウィキペディア)

 戦後間もない時期、大人は子どもを顧みる余裕がなかった。「浮浪児」なんていう言葉もあった。
そういう状況の中で大人たちは本来あるべき当たり前の原則を憲章として定めたのである。

そして、今改めて読み返してみて、けして時代がかった古いものではないことがわかる。大原則として不朽である。
(参考に下に全文を載せました。)

 憲章は、法律ではない。実質的な拘束力をもたない。
だから、良心にもとづき、みんながもっともだと心から思えるものがつくられているともいえる。おのずと普遍性がある。

 憲章というと実際はなじみが少ないが、気持ちを浄化するように読むと初心に帰れる気がする。 
その初心に似た憲章が児童福祉法の制定へとつながっていく。



【参考】

児童憲章(全文)

われらは、日本国憲法の精神にしたがい、児童に対する正しい観念を確立し、すべての児童の幸福をはかるために、この憲章を定める。

児童は、人として尊ばれる。

児童は、社会の一員として重んぜられる。

児童は、よい環境の中で育てられる。

一 すべての児童は、心身ともに健やかにうまれ、育てられ、その生活を保障される。
二 すべての児童は、家庭で、正しい愛情と知識と技術をもつて育てられ、家庭に恵まれない児童には、これにかわる環境が与えられる。
三 すべての児童は、適当な栄養と住居と被服が与えられ、また、疾病と災害からまもられる。
四 すべての児童は、個性と能力に応じて教育され、社会の一員としての責任を自主的に果たすように、みちびかれる。
五 すべての児童は、自然を愛し、科学と芸術を尊ぶように、みちびかれ、また、道徳的心情がつちかわれる。
六 すべての児童は、就学のみちを確保され、また、十分に整つた教育の施設を用意される。
七 すべての児童は、職業指導を受ける機会が与えられる。
八 すべての児童は、その労働において、心身の発育が阻害されず、教育を受ける機会が失われず、また、児童としての生活がさまたげられないように、十分に保護される。
九 すべての児童は、よい遊び場と文化財を用意され、悪い環境からまもられる。
十 すべての児童は、虐待・酷使・放任その他不当な取扱からまもられる。あやまちをおかした児童は、適切に保護指導される。
十一 すべての児童は、身体が不自由な場合、または精神の機能が不充分な場合に、適切な治療と教育と保護が与えられる。
十二 すべての児童は、愛とまことによつて結ばれ、よい国民として人類の平和と文化に貢献するように、みちびかれる。


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70 生体としてのインクルージョン#13 まとめ 後半

2020年03月14日 | インクルージョン
塔ノ岳も古くは修験の山だったらしいです。山小屋も尊仏山荘といいます。

こんな例えが適切だかわからないが、

「よく「氷にのれた」滑りです」

 と解説者が評するフィギュアスケートの選手がある。
ジャンプとか、ターンとか個々の技ではなく、滑りの重心が常に安定している。
全体に落ち着きがあるから、表現に説得力がある。

 似た感じを、身近な人の姿にも感じたりする。
いつも活気のある酒屋のご主人、笑顔がいい。カフェの定員さんはいつもの注文するものを覚えてくれていてリズムがいい。あのころ毎日挨拶してくれた駐在所のお巡りさんは住民思いが表れていた。もちろん、この稿にも書いた町内会長さんは大きさがある。

 どなたも仕事や役割にきちんと向き合って安定していて、力みがない。
自然に仕事が自己表現になっているとでも言うのか…。
いうまでもなく、皆さん自然に人望が集まり、目には見えないが輪ができるような。
 
 仕事を通じて素敵な人になる

こういうことは実際あるなあ、と思う。それは能力や機能とは違ったもののようだ。


 「インクルージョン」について考えてきた。
考えるために始めたこともあり、案の定、手に余り、考えを保留せざる得ない部分も多く残った。
まだ、しばらく時間も必要なようだ。

  しかし、確かなことが1つだけあるとも感じた。
子ども達のかかわり手としての私たちの雰囲気のことである。
子ども達の代弁者である技術者であることより、同伴者として素敵さのような。

 子ども達と日々接してその関わりの中に自分をみつけ、そこに「生きている」人がいること。
その人たちの素敵さと自然な人望こそがインクルーシブ社会へのパスポートのように感じる。


宮城まり子さんは、
「私は彼等と共に泣き、また、共に笑った
   彼等はただ私と共にあり、私は彼等と共にあった」

という。

 いい感じの同伴者が増えてきていると感じる。

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69 生体としてのインクルージョン#12 まとめ 前半

2020年03月07日 | インクルージョン
塔ノ岳山頂 雪の少ない冬の丹沢は登山者が集まります

 糸賀一雄さんは、
「精神薄弱といわれる人たちを世の光たらしめることが(近江)学園の仕事である」
と言った。
「この子(精神薄弱者)らに世の光を」ではなく「この子らを世の光に」という。
続けると、
「精神薄弱な人たち自身の真実な生き方が世の光になるのであって、それを助ける私たち自身や世の中の人々がかえって人間の生命の真実に目ざめ救われていくのだ。」

 古来日本では障害者を神としてして尊ぶ伝統があったという。
「世の光」という言い方は聖書の言葉であると糸賀さん自身も言っているように人間の存在に関わる本質を障害者の中に強く感じたに違いない。彼はそれほどに確信をもった。

 社会的弱者は「世」から光を与えられるべき者
 社会的弱者は「世」に光を与える者

 茂木健一郎さんが、貧困に関って、
「苦しんでいる人が近くにいても自分とは関係がない、と切り捨ててそれに向き合おうとしない人は、自分自身の生命力の一番深いところのエネルギーを引き出せていない気がする」
と言い、さらに、
「困った人は地域の宝物である。一人の課題を解決することは、地域と社会の問題を解決すること。その積み重ねが日本社会全体の解決能力もあげていく」
という。

 貧困を貧困問題という。障害者を障害者問題と昔は言った。
そういう捉えが豊かではないということ?。

 映画「みんなの学校」の青空小学校には、発達障害の子や不登校で転入してきた子が多く在籍している。
木村泰子校長は子どもたちの成長には地域の協力なしでは難しいという。
いろいろなことが起きるがその中で確実に子どもたちは力をつけていく、その出来事が関わる地域の住民にも活躍の場でもある。


 糸賀さんの施設は新しい施設を生み枝分かれしていく。
「そしてそれぞれの施設はひとつひとつ、ちょうど砦のように、そこを基盤として、新しい社会の形成のために、身を粉にしてはたらきつづけたのである。」
 この子らから社会を変えようとしたのである。
 だから施設のことを「コロニー」と呼んだ。

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